君は光の色をして



轟々と燃え盛る炎。肌と肺を焼く煙がいつもより近い夜空へと昇っていく。

ペンシルベニア州フィラデルフィア。アメリカ独立宣言が行われた自由の象徴たる都市のビルが燃えている。

この二ヶ月で集めきったマフィア幹部への複数の交渉材料。薬の売り上げから闇カジノの元締めへ横領した金の帳簿。その金で企業家たちと伝手を作り、さらにその企業家たちから政治家たちへと伝手を作っていた。

当初は闇カジノでの負け分の支払い目的だった薬の横流し。それが思いの外金になると踏んだ男はさらに金になるルートを模索したのだろう。政治家たちにじわじわとコネクションを作り、違法薬物を合法薬物として州法に認めさせ新たなマーケットを立ち上げようとした。

その金が親元のマフィアに行くのならまだしも、政治家への賄賂を除けばすべて男の懐に入るのだからあちらも黙っていないはず。西海岸を縄張りにしている人間がこんな東海岸にほど近い都市までやって来たのがいい証拠だ。西海岸を縄張りにしてる人間からすれば目の届きにくい場所だろうから。

組織らしい黒いコートのドゥルシネーアを伴ってバーボンは交渉の場に臨んだ。

場所は中心部からやや外れた立地の十階建てのビル。外観は小綺麗なもので一般の会社がフロアごとに疎らに入っている。その日は安息日の夜だったために普段より人気がない。二人が入った部屋は六階の不動産関係の会社で、それが相手の隠れ蓑の一つであることは容易に想像できた。

交渉は終始こちら優位に進められた。バーボンが提示する証拠と実質一択の選択肢に一喜一憂する男は本当にあのマフィアで幹部をしていたのかと思わんばかりの幼稚さだ。念入りに脅しをかけ、同じくらいにたっぷりと飴をやる。どうせ親元のマフィアに事態が発覚するのは時間の問題だ。その短い間だけ使えればいいだけのこと。その程度のクオリティならばこちらのスパイに仕立て上げることは容易だった。

これで任務は終わる。やっと日本に帰れる。

気を抜かず、しかし頭の中では目まぐるしく考え巡らせていた。

チラと隣に座るドゥルシネーアを見る。髪よりも色の濃い金色の睫毛の下で紅茶色の瞳が瞬く。日本人離れした顔立ちは、室内の光に照らされて神々しく、相も変わらず宗教染みた嫋やかさを体現していた。

この女が何者であるのか。初対面で持った疑念をもう一度繰り返す。

色彩はどこをどう見ても異国人。名前はスペイン系。所作は上流階級の娘のようでありながら妙なところで庶民染みていて、何より日本にかぶれている。

日本食に詳しいだとか日本人のバーボンに理解があるとか、そういうことだけで判断しているのではない。ただ、彼女の態度や素振りの一つ一つがボロボロとこぼれ落ち、バーボンから……探偵の安室透から、未知の謎への好奇心を引きずり出したのだ。

第一に、彼女の使う日本語が驚くほどに流暢なこと。組織の幹部連中が使うような妙に詩的な表現を取り払ったネイティヴに近い発音と言い回しが、初対面の時は多大なる違和感を与えたものだ。

第二に、軟禁されていたホテルに置いてあったスーツケースの中身。こっそりと検めたところ彼女が持っている服の全てが世界的に有名なブランドしかなかったこと。もちろん複数のブランドが入り混じってはいたが、共通して日本に支店が存在するブランドしか見当たらなかった。

第三に、泣き出した彼女が漏らした独白。『まったく別の世界に連れて来られて』これは婉曲表現で、実際は誘拐のことを言っているのではないだろうか。祖国から外国へ連れ去られ、誘拐犯に閉じ込められていた。その過程で精神的に追い詰め、彼女から笑顔以外の表情を奪った。奴隷と称して人を飼うなどという所業、できるとすればよほどの特権階級か後ろ暗い人間だけだろう。彼女が組織にいる時点で自ずと後者に絞られるわけだが。

第四に、以前に振舞った日本食への反応。別段意識したわけではないが、あの粥には梅肉が入っていた。彼女はそれを見て唾を飲み込んでいなかっただろうか。レモンや梅肉を見て条件反射で唾液が出るのは、以前に食べて酸っぱかったことを脳が記憶しているからだ。まったくの未知であった場合、梅肉を見て条件反射で唾液が出るはずがない。

第五に、第六に。次々と与えられるヒントを元に、バーボンが出した結論。


それは、彼女が日本人であることだった。


純日本人ではないとしても、帰化した外国人か、その子孫か、ハーフか。いずれにせよ長く日本で暮らしていたことから日本国籍であったことは間違いない。国籍を持つ者なら、それは守るべき日本の国民だ。

日本。降谷零が守る愛すべき祖国から、国民が拐かされて犯罪組織に組している。腸が煮えくり返りそうだった。

確かに彼女は犯罪者だ。こんな真っ黒な組織の手足として犯罪の手助けをしている。もしかしたら人殺しにも手を染めているのかもしれない。決して許されない行為を彼女は犯した。

けれど、その下地を築いたのは日本警察の怠慢だ。彼女が誘拐された時すぐにでも救出されていれば、彼女はここまで罪を犯すことはなかっただろう。

犯罪組織に誘拐され精神的に追い詰められた女性にどれだけの抵抗ができるのか。
命を脅かされた状態で強要された犯罪を突っぱねられるか。
断れないまま重ね続けた罪にどこまで善性を持って向き合える。

感覚は麻痺していくものだ。強要されたとはいえ、自分が犯した罪に対して罪悪感を持ち続けろなど、守れなかった分際でどの口が言えるというのか。

罪は償われなければならない。

だが、情状酌量の余地があるのなら加味するべきだ。

償うべきは彼女一人だけではない。彼女を連れ去った人間、その背後の組織、全てを引きずり出す。

まずは一度この件を日本に持ち帰り、未解決の誘拐事件からドゥルシネーアの身元を洗う。そして程よい時期を見て彼女を組織から連れ出す。たとえ何年かかったとしても構わない。少なくとも組織が崩壊し彼女がただの犯罪者として処罰される前に身柄を公安が確保する。

降谷零は決して性善説や性悪説の持ち主ではなかった。むしろ公安に入った時から今に至るまで人間は一様に善悪で測れるものではないという考えが根付いてしまっている。それでも善良であったものが悪逆に染まる非道は絶対に許してなるものかという決意があった。

それほどドゥルシネーアに絆されたのか、と聞かれれば否と答えるだろう。これは沽券の問題だ。公安として、警察官として、降谷零としてのプライド。しかと立つ正義の二文字を遂行するために、バーボンの皮の下の男は目をギラつかせる。


その最中の出来事。


再度気を引き締めたバーボンがソファから立ち上がろうとした瞬間。ホテル全体を揺らすような轟音が部屋の人間に襲い掛かった。

溜まらずソファに逆戻りしたバーボン。隣で背もたれに掴まったドゥルシネーアは無言で視線を固定する。目の前の交渉相手の男が見目に似合わなぬ情けない悲鳴を上げた。

すぐにソファから立ち上がったドゥルシネーアがバーボンの手を取って走り出す。部屋の外まで出て扉を閉めてから、倒れるようにカーペットに身を伏せた。窓ガラスが割れる音。悲鳴。椅子を蹴倒す音。静寂。壁越しにも分かる惨劇が赤く想像できる。

襲撃だ。狙撃手がいる。どこの組織の、どれほどの規模で、どんな意図で、こちらに害はあるのか。体を起こそうとしたところでドゥルシネーアの手がバーボンの背を抑えるように触れた。


「火事よ」
「は?」
「さっきの揺れは二階で爆弾が爆発したから。二次被害で引火したみたいね。もうすぐ煙が上がって来る」


それはまずい。

まだ煙は上がってきていないが、できるだけ匍匐前進のような低姿勢で廊下の向こうにまで進む。向かうのはエレベーターを素通りし階段へ。周囲の遮蔽物の有無を確認しながら一気に階上へ駆け上がった。

確かこのビルには隣のビルに繋がる非常階段があったはずだ。それをドゥルシネーアも分かっているのだろう。先導するために繋がれた手が思いの外強い力で握り込まれる。階段を四階分上って辿り着いた屋上。妙に見通しの良い場所で、目当ての非常階段は屋上出入り口から向かって左側。給水タンクの影に隠れるようにあった。

バーボンはすぐにでも駆け出そうとして、先導したドゥルシネーアが足を止めたことでたたらを踏んだ。


「ドゥルシネーア、何を、」
「静かに」


ドゥルシネーアが壁に身を張り付けて目を閉じる。より遠くを見通そうと集中している時の姿だった。


「六時の方向、420ヤード先にスナイパーがいる」


六時の方向からはちょうど出入り口でこちらが死角になる方角だ。逆に言えばこの死角から出れば給水タンクまでの数メートルの間に必ず狙撃される。どうするべきかと策を練っている間に下からは火事の煙が上ってきた。残された時間はほとんどない。

瞬時に別の脱出経路を弾き出そうとした頭脳は、ドゥルシネーアの次の言葉で思考停止した。


「四発撃たれたら、すぐに給水タンクの影まで走って」
「……は?」
「スナイパーは一人。スポッターはいない。素人よ。二人同時に狙撃はできない。必ず最初に飛び出した人間にかかりきりになるでしょう」
「待ってください、何を言って、」
「大丈夫。相手もこの火事のことは聞かされていなかったみたいで動揺している。全弾吐き出させて逃げきることは難しくないわ」
「ッ、話を聞け!」
「聞くのはあなたの方よ」


閉じていた目が開いてバーボンを捕らえる。紅茶色の瞳は変わらず凪いで、涙袋がぷっくりと愛らしい微笑みを引き立てている。いつもと変わらず、いつもと同じ。けれど未だ握られたままの手は僅かに震えていた。

ドゥルシネーアが、恐怖している。


「もう、決まったことなの」


思考停止から解かれた頭脳が、知りたくもなかった結論に到達する。いつもの掴み所のない微笑みが諦めたように見えたのは、きっと答えを知ってしまった弊害だ。

彼女がここで死ねと命じられたことを察してしまった。

微笑みに覆われた真実を、無残にも暴き出してしまった不幸。


「なんだよ、それ……」


今この場で聞くべきはバーボンが知らされていなかった彼女と上との任務内容のことだろうに。真っ白に染め上げられた意識が彼女の笑みをより鮮やかに際立たせる。

ドゥルシネーアはいつも美しく笑う。

他人から強要されて染みついてしまった忌まわしき産物。癒えないまま残った凄惨の痕。何も、何も変わらない。彼女はずっと誰かのためではなく自分の安全のために微笑んでいる。笑えと言われた過去の自分を抱えたまま、今でもずっと笑っている。生存本能が追い詰められた彼女に笑みを強いているのだ。

死ぬことが決まった今もなお、生きるために彼女は笑っている。

もはや吹き出す激情も臨界点に突破して、頭がおかしくなりそうだった。怒りが大きすぎて脳が感情を麻痺させている。バーボンとしての表情がスーッと消えて、口からは唇だけで完結したような音が漏れた。


「こんな時くらい、笑うなよ」


忌々しい。


「ごめんなさい」
「だから、」
「ごめんなさい」
「僕は謝ってほしいんじゃない」
「それでも、“ごめんなさい”よ」


また大きな音を立ててビルが揺れた。ガスに引火したか、はたまた別の爆弾か。早くしなければ非常階段が崩れる可能性がある。

ドゥルシネーアがバーボンの手を離す。バーボンはドゥルシネーアの手を離さない。


「あなた、やっぱり不幸になったわねぇ」


言われた意味が、分からなかった。

小さな子供をあやす老女のような口ぶりだった。ひたすら柔く脆くかけられたのは、こちらの不幸を憐れむ言葉。いつか、泣き顔を見た時に浴びせられた呪い。

するりとバーボンの、安室透の、降谷零の手からすり抜ける。逃げていく。伸ばした手は届かない。この感覚を覚えている。スコッチが死んだ直後のあの喪失感。ザッと血の気が引いていく。彼女はこの死角から出ようとしている。壁のギリギリ端まで歩いて、くるりと振り返って、より濃く笑う。先ほどの年不相応に老成した雰囲気とは真逆にいとけない。いや、そもそもバーボンはドゥルシネーアの年など知らない。彼女の全てを、本当は何も知らないのだ。僅かな時間の中で推測し、推理し、推考するしかできない。

その時間も、もうなくなろうとしている。


「待て、まだ突破口があるはずだ。時間があれば、何か、」
「ねえ、バーボン」
「頼む、待ってくれドゥルシネーア。僕は、」
「私、本当はドゥルシネーアじゃないの」
「は、」

「さよなら、バーボン」


背中が遠ざかって、赤く染まる。

スローモーションのようにゆっくりと感じた時間。呆然としつつもどこかで冷静なままだった頭が四発目の銃声を確認した。

走り出す。給水タンクまで三秒もかからず到達する。置き去りになった自我が体に追いつく。ドゥルシネーアはどうなったと頭が警鐘を鳴らす。結果は分かりきっていたというのに、目で見て確認しろと誰かが押す。たった三秒走っただけで上がるはずもない息を何度も繰り返し、何秒、何十秒。そして、


振り向いた先に、彼女はいなかった。



***



死体は八つ。

取引相手の男と護衛二人組。ビル内で爆発に巻き込まれた一般人四人。そして、ビルの下で潰れた女が一人。十階から飛び降りれば顔の判別もつかないほど損傷するのも道理だろう。犯人はすぐに捕まった。彼らのボスは部下の悪事を把握していたらしい。怪しい現場を確認させ、始末するように殺し屋を差し向けた。その現場がバーボンたちの取引だったわけだ。


「こちらとしてはどっちでも良かったのよ。ただこの方が手っ取り早くていいってだけで」


今回の件で捕まった殺し屋は素人に毛が生えた程度の馬鹿だった。依頼料をケチったのか、はたまた何かの行き違いか。簡単に警察に掴まって簡単に依頼人の名を出した。そして州警察はFBIまで話を通し本格的な炙り出しを始めるだろう。弱体化は免れない。そしてここに来て同盟組織の人員に手を出したとして組織からの報復がある。少なくとも今までのようにふんぞり返って西海岸の裏側を歩けるような力は削がれるはずだ。

組織の人員。ベルモットの子飼い、ドゥルシネーアという目を潰したとして。徹底的な制裁を加えた後、組織は悠々と西海岸で動けるという寸法だ。

バーボンたちの任務の成功など、最初から関係なかったのだ。


「ドゥルシネーアは……僕と一緒にいた彼女は誰だったんですか」
「身代わりよ。ドゥルシネーア本人は別の仕事をしていたわ」
「ですが、彼女の千里眼は本物でした」
「あなたらしくないわね、バーボン。まだ気付いていないの?」


豊かな金髪の美女が細い煙草を一口。煙を吐き出す唇は紫のルージュで艶やかに色づいている。


「あんなの、ドゥルシネーアがあらかじめ伝えておけばどうとでもなるわ。ほとんどの任務で端末とインカムを持たせていたでしょう? それで全て事足りたのよ」


そうだ、彼女はいつも盗聴を気にしていた。指紋を残したり毒の確認などはおざなりなくせにその点に関しては驚くほどに執拗だった。それは本物のドゥルシネーアとの会話を誰にも聞かれるわけにはいかなかったから。彼女が身代わりだと気付かれてはいけなかったからだ。

バーボンが知っているドゥルシネーアはドゥルシネーアではなかった。

何から何まで、バーボンは彼女のことを何も知らなかったのだ。


「もしかしてあの子に本気で惚れてたの、バーボン?」


その口ぶりは、バーボンの行いがすべて本物のドゥルシネーアを通してベルモットに筒抜けだったということだ。まさに薄氷を踏むような賭けをしていた。その賭けに勝ち負けはなかった。


『やっぱり不幸になったわねぇ』


今になると、あの忌々しい微笑みが愛おしくなる。

光のように薄く淡く彩度を落とし、白いばかりの輝きのまま、降谷零の記憶の底でわだかまり続けるだろう。今は亡き友たちのように、きっと忘れることはない存在として。

バーボンの仮面は眉を寄せる。心外だ、と言わんばかりに軽く肩を竦め、意地の悪い顔でこちらを伺う魔女に鼻を鳴らして見せた。


『坊やと遊ぶ趣味はないの』

「残念ながら、年下と遊ぶ趣味はないんです」


いつか聞いたセリフをなぞると、虚しさの奥から底知れない執念が彼の内から湧き上がった。それもまた、降谷零が前に進む原動力として昏い光を与え続けるのだろう。


「(ああ、遊びじゃないさ)」


今度こそ、本気で正体を暴いてやる。


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