酷く不幸な夢をみた。君のいない世界で幸せになってく夢だった。



こんな夢を見た。

前世という曖昧な記憶を持って生まれた女が周囲との価値観に馴染めず苦悩し、その果てに実の父親の手によって化け物に変えられてしまう。女の家族は次々と死んでいき、最後に残った甥と、別の甥が忘れ形見として残した少年が成長し、互いを殺してやろうと反目し合う。女はどちらの敵にも味方にも立つことができず、ついにはどちらかが倒れるまで傍観するしかできなかった。何よりの悲劇は、どれほど嘆き悲しんだところで女の顔が一切の感情を喜楽に変換してしまうことだろうか。


『なにを笑っている』
『そんなに悲劇が面白いか』
『この人でなしめ』


果たして女は本当にそうだったのだろうか。


『化け物』


彼女は本当に化け物になってしまったのか。


「……あら?」


安楽椅子の上でシエは目を覚ました。昼食後の読書中にうたた寝をしてしまったらしい。春島の温暖な気候が海風ですら心地よい温度に変えてくれる。緩やかな波の音は最高の子守歌になったらしい。読んでいた本は目の前のテーブルに栞を挟んだ状態で置かれている。シエがやった記憶はない。いつの間にかかけられていたブランケットは誰の仕業だろう。妙に重い瞼を一つ二つ瞬くと、すぐそばから何かが割れる音がこちらまで響いてきた。


「す、すまねえ。起こしちまったか?」


なんだか、聞いたことのある声だった。


「わ、わざとじゃないんだ。ただこのカーペットが俺の足を引っかけたっつーか……そうだ、カーペットのせいなんだ!!」


知っている声なのに、知らない声のようにも感じる。何故なら彼のこんなにも砕けた口調を彼女に向けることはついぞなかったから。それなのに、これはどういうことだ。何故、彼がシエのお気に入りのカップを割って冷や汗をかいているのだろう。

何故、彼が、


「おい、何やってんだよ」


開きかけた口がまた別の声によって閉ざされる。それもまた、ここにいるはずのない彼だ。


「だから俺がやるって言っただろ。コラさんはシエと一緒に座ってろよ」
「おいおい、子供扱いしてくれるなよロー。俺だって叔母上に茶くらい淹れられるさ」
「それで淹れるカップ減らしてちゃ世話ないぜ」
「うっ、うるせぇ!」


生きている。生きてそばにいる。叔母上と、親しみを込めて呼んでくれる。その事実を認識した途端、シエの目に涙が浮かんだ。


「いい大人が駄々を、こねる……なんで泣いてんだ?」
「お、叔母上!? どうしたんだ、突然!!」
「コラさんが割ったカップ、本当に気に入っていたからな。コラさんが割っちまったが」
「そこを強調するな! ……ま、マジでそうなのか!? 悪い、また新しいの買ってくるから!」


普段絶対に滲まないはずの視界が徐々にぼやけて数十年ぶりに頬を熱く濡らす。理性が警笛をいくら流そうとも、すでに枯れ果てたと思っていた涙腺は止まってはくれない。ポタリ、ポタリと涙を受け止める手の甲。荒れた大地のようなしわくちゃの手が弱く握り込まれた。


「いいのよ、ロシー。少しびっくりしてしまっただけなの。やだわ、年を取ると涙もろくて」


そう言った瞬間に、彼女は今まで夢と現実を混同させていたことに気付いた。

シエの手は半世紀以上の年月を感じさせるシワが数え切れないくらいに刻まれている。手どころか顔も体もそこらじゅうにあるはずだ。長かった金髪も今は顎の下で短く切りそろえられているし、輝くプラチナブロンドは今やくすんだ灰色にも見えた。それだけの年を経て、彼女は賑やかな老後を過ごしている。


「フッフッフッ、なんだ、またロシナンテがドジやったのか?」


家族に囲まれた、幸せな老後を過ごしている。


「おかえりなさい、ドフィ。今度はずいぶん早く帰って来たわねえ」
「近場で呼び出しがあってな。おつるさん直々のご指名とあっちゃ、すっぽかすわけにゃいかねえだろ」
「そう、つる殿がいらしてたの。お話できて良かったわねえ、ドフィ」
「おいおい俺ァ七武海の仕事として行ってきたんだぜ? 出かけにちゃんと言っただろ」


ああ、あのドフラミンゴと普通に対話できるなんて。

無意識に頬を持ち上げると残っていた涙が一筋流れる。ドフラミンゴのニヒルな笑みが数瞬で真顔に様変わりした。こうして見ると我が甥ながら精悍な顔をしている、と彼女は秘かに甥バカを発揮した。


「誰だ、俺の大事な家族を泣かせたクソ野郎は」
「コラさん」
「ち、ちげぇよ! あ、いや、違くないのか? あれ!?」
「落ち着いてロシー。大丈夫」


ポタポタとひざ掛けの上に落ちていく涙。もう元に戻ることはない血の為れの果てに、何故、こんなにも懐かしさを覚えるのだろう。俯きかけた顔に顔を覆い尽くさんばかりの大きさの手が現れて、親指が赤く腫れた涙袋を優しく撫でた。知っているはずなのに知らない気もする。ドフラミンゴの手が、純粋に家族を慈しんでいた。


「誰も、悪くないの」


そこに悪はなかった。善ともまた違う、当たり前の不文律。彼は、彼らは真に愛しい家族の一人としてシエの気持ちをおもんぱかっていた。


「ドフィ」
「ああ?」
「ロシー」
「どうした叔母上」
「ロー」
「シエ?」
「私、今とても、しあ……せ……


────波の音がする。



***



夜の帳の向こう。灯台の光が一定の頻度で照らす海から忌々しい潮騒が届く。普段は聞こえないはずのそれが、扉が開いているせいでより鮮明に聞き取れた。


「不用心に過ぎるぞ。いくら二階にあるからといってバルコニーの戸締りを怠るとは。勝手に見知らぬ老人が入ってきても責められないじゃないか」


確かに不用心だった。いくら疲労とは無縁の身体だからといって、気疲れまで無視すれば流石に眠気が出てくる。その考慮を忘れていた。

たった一日で世界情勢が大きく変化したマリンフォードでの決戦。ゴールド・ロジャーの息子だと判明した火拳のエース処刑、加えて大海賊白髭の死まで報じられ、これが黙っていられるかと全世界が上も下もない大騒ぎだった。もちろんドンキホーテ・ドゥルシネーアとしてのマリージョアでの滞在は延び、話の通じない天竜人たちと政府とのパイプ役は骨が折れた。

そうして一週間近く遅れて帰宅し、およそ六年ぶりのうたた寝で夢を見た。夢の中ばかりが幸せで、目覚めた瞬間に根こそぎ温度を奪っていく。そんな悪夢だった。

鼓膜を引っ掻くような波がまた一つ、遠くで飛沫を上げている。


「レイリー。早く閉めて」
「おや、歓迎してくれるのか? 嬉しいお誘いだがすぐにここを出なければならなくてね。立ち話で失礼するよ」
「うるさいから早く閉めろって言っているの」
「まあまあ怒らないでくれお嬢さん。ちょっとしたジジイの冗談じゃないか」
「ババアを揶揄うジジイなんて救いようがないわ」
「ハッハッハッ! 違いない!」


だがな、とレイリーは唇を薄く引き伸ばす。

安楽椅子から見上げた先に、すっかり白くなった髪と髭。鷹揚とした笑みはさすが王と名のつく二つ名を持っているだけのことはある。洒落っ気のある態度も身軽な服装も何もかも昔と比べれば老いを感じるが、服の下から覗く筋肉や女を口車に乗せる色男っぷりはいつまでも変わらずそこにあった。


「ババアになった君も美しい」


こんな風に、また馬鹿を言っている。

見た目なんて初めて会ったあの時から何も変わっていない。長い金髪も真っ白な手も曲がっていない腰も。涙だって緩んだ蛇口のようにふとした弾みで漏れることなんてない。二十そこそこの世間を知らぬ貴族の娘のまま、今いる春島に移り住んでもう三十年近く経っていた。

むかしむかし、街を作っている途中の何もないここに海賊がやってきた。

略奪か、殺戮かと身構えた使用人達が肩透かしを食らうほど気の良い彼らは、シエが住む屋敷に滞在することを条件に何も悪さはしなかった。この時彼女は知らなかったが、ログと言うものを貯めるために何もない島でも滞在することが海賊たちの間では珍しいことではないそうだ。海賊に対して無関心だったためにとても不思議がった記憶がある。

以前受け取ったものの持て余していた贈答品の酒を渡してみれば連日連夜の馬鹿騒ぎ。困惑する使用人たちや街作りの男衆も集まって、あれほどにぎやかな宴をシエは知らなかった。


『世話になるばかりか騒がしくしてしまってスマンな。アンタは飲まないのか? ありゃアンタの酒だろ』
『おかまいなく。お酒は飲めませんので、あなた方に飲んでいただいて無駄にならずに済みます』
『そうかい。俺たちにしちゃあ上等すぎる酒だ。味なんか分からずにバンバカ開けちまってるが気を悪くしないでくれ』
『むしろ余ったら持って行ってくださいな。その方がお酒も喜びましょう』
『……お貴族様っつーのは酒の気持ちまで考えちまうモンなのか?』
『私は貴族ではありませんよ?』
『どうだかな』


コップなど始めからなく、繊細な意匠が施されたラベルのボトルから直接煽る。当時はまだ黒かった髭を通って落ちた酒が磨き抜かれた床に滴った。汚いな、と彼女は思った。嫌悪ではなく新鮮な景色として脳は印象付けた。


『こういうのは船長が言うべきなんだが、アイツはいつまで経ってもクソガキみてーなモンだ。だから副船長の俺から言おう』


彼が口を開くと芳醇な葡萄の香りがこちらまで漂ってくる。眼鏡越しの鋭い視線は、少し細められただけで柔らかな印象へと様変わりした。


『海賊なんざクソ野郎の集まりさ。もっと気楽に話してくれ。その堅ッ苦しい口調、聞いていて耳がかゆくなる』


許されている。

近寄ることを。話しかけることを。求めることを。

奴隷を飼おうと、権力を振りかざそうと、人を殺そうと。許されなかったことなど一度もなかった彼女が初めて感じた、他者からの明確な許し。絶対的な地位により上から抑えつける形で得たものと比べるのも烏滸がましい。純粋に対等な立場から話しかけることを許された。


『なんだ、空気だけでも酔ったのか?』
『い、いいえ! ぁ、ううん、その』
『ちょっと待ってろ。水もらってくる』


体の芯から熱くなった。行かないで、とも、いなくなって、とも思った。この気持ちに明確な名前はない。だというのに、後に彼女は勘違いをした。


『航海の無事を祈っています。……ずっと』
『おいおい、また元に戻ってるぞお嬢さん』
『……いってらっしゃい、レイリー』
『ああ。達者でな、シエ』


二度ほど軽く叩くように頭を撫で、彼は船に乗った。当然だった。彼は海賊。加えて四十を超えた歳の頃であったし、彼女は三十をとっくに過ぎたとはいえ見た目は二十半ばのまま。彼からすれば本当にただの“お嬢さん”でしかなかったのだ。それが少し寂しかった。

恋も愛も知らなかった生娘は、その寂しさを恋と断じた。断じて、それでも声に出して気持ちを伝えることはなかったけれど。

今では言わなくて正解だったと実感している。


「そうやって人の好意を煽って利用するクソジジイが何の用?」
「君の口からクソジジイなんて呼ばれると逆に嬉しくなってしまうな。なに、ちょっとした世間話をしに来ただけさ。……知人と一緒に墓参りに行きたいんだが、いい日取りがないか聞きたくてね」


ほら。またこれだ。

シエはゆっくりと息を吐いた。そして安堵した。昔の自分が彼に想いを告げなくて。恋ではなく、ただ対等に会話ができる相手を逃したくなかった執着心を一途に向けたあの頃。何度か不規則にやって来ては頭を撫でて去って行く彼。最後にここに来たのはいつだったか。そう、ロジャー海賊団が解散してすぐのことだった気がする。

あの日、初めて彼にワガママを言った。『行かないで』の一言を、告げたその日の夜、二人は初めてベッドを共にした。それが最初で最後の男女の秘め事であった。

次の日に見送る際、またいつも通りの“お嬢さん”扱いに戻ったことから、あの一夜はなかったことにされたのだろう。それでもこうして、何とも形容し難い関係は続いている。それを嬉しいと思ってしまうのも不思議だった。

頭の中に浮かんだ情報を素早く精査して最適解を口にする。


「もし私なら……少なくとも再来週までに行くわ。まだ将校の皆さんはたくさん残っているだろうし、警備も厚くて他のどの場所より安全でしょう」
「ありがとう、参考になったよ」


この情報が最初から目的だったのだろう。

捕まりに行くでもなしに、自ら戦場の跡地に赴く無鉄砲さ。船長をクソガキ扱いしていた男もある意味問題児に違いない。


「またシャボンディ諸島に来た時は私のところに寄ってくれ。いい店を紹介する」
「嫌よ。他の女と行った店になんて興味ないわ」
「そりゃ手厳しい」


扉がまた開かれ、バルコニーの向こう側には月を映す大海原。波の音はまだ止まない。不協和音はシエの気持ちを深く沈ませる。

レイリーは一度扉の外に出たものの、忘れ物をさも今思い付いたというようにまた室内へと戻ってくる。どうせいつもの“お嬢さん”扱いだろう。


「いってらっしゃい、レイリー」
「ああ、」


グイッと。突然右手を取られ、安楽椅子に腰掛けていた体が無理やり立たされる。そのまま大きく逞しい腕が腰に回り、シエの顔が厚い胸板に押し付けられた。

低く掠れた声が、耳のすぐ横から聞こえてくる。


「いい夢を、レディ」



気が付くと一人。シエは開けっ放しの扉の前で座り込んでいた。

残っているのは耳の余韻。頬の熱。手の感触。潮と酒の香り。

────波の音。


「クソジジイ」


そんな声を聞いたら、今日はもう眠れないじゃない。


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