夢寐の果てにて



覚醒の瞬間は現実と虚構の差を曖昧にする。その感覚を久しぶりに思い出した。

シーツの感触が頬を撫で、清々しいほど無感動な洗剤の香りが漂う朝。睡眠が無意味な彼女は普段なら読書なりパソコンなり音楽鑑賞なり、とにかくいろいろな娯楽で時間を潰して夜を過ごすのだが、今回は何故無理やり眠っていたのだろうか。数瞬だけ鈍い思考を循環させ、思い当たる前に隣の存在に気が付いた。


「ん……早いですね、まだ寝ていていいんですよ」


辛うじてダブルサイズのベッド。のびのびと横たわる女の隣に、無理やり体を収めた男が目を開ける。

アジア人にしては褐色みの強い肌。細身なれど鍛え抜かれた肢体を、ラフなTシャツとスウェットで隠した若い男。肌に対して薄い色の髪と、生理的な涙が浮かぶ瞳。長い睫毛が揺れるたび、灰色にも青にも見える不思議な瞳が愛しい女でも見るような柔らかさと温度を持って光り輝く。

ドゥルシネーアの背筋に嫌な汗が伝って、何もなかったように元の汗腺に戻っていった。いわゆる一夜の過ちがあったかどうか、という心配ももちろんあったが、それよりもバーボンの視線がいただけない。


「どうしてここに?」
「あなたが眠れないと言ったので、寝かしつけていたら僕も眠ってしまって……すいません。コーヒーでも淹れますね」
「え、ええ」


バーボンがおかしい。

見た目同様の甘い顔をさらに蕩かせてキッチンに向かったバーボン。その表情こそ意識的に作ったものではあったが、彼の中にはどこまでもドゥルシネーアへの情動が湧いて出てくる。

今までの警戒や疑念がすべて消えたわけではない。むしろ、それらと同時に情愛にも似た何かを持ち合わせている歪さが恐ろしい。人間の悪意に眉を顰めることはあれど、嫌悪から愛情への目まぐるしい変化にすら畏怖を抱くなんて、長く生きてきた中でも珍しい体験だった。いや、あの狂った世界から抜け出した先のこの現代社会でこそその恐ろしさは浮き彫りになるのかもしれない。

思い返すまでもなく、ドゥルシネーアは純粋に愛された記憶がない。愛した記憶はあっても愛された覚えが薄い。性交渉をした相手はすべて一夜の火遊びか友愛の発展した何かだ。決して恋人や夫婦などと言った堅実な関係を築いたことはないし、築こうという発想すらあの世界では持たなかった。それはこの世界に持ち越され、今でも奥底にこびり付いて離れない。

風見裕也の件は好奇心。相手がこちらに転ばないことを前提とした火遊びの範囲内に収まる。だが、今回はそれだけでは済まないだろう。こちらも相手も引っ張りあって、もつれにもつれた泥沼の中に沈んでいくのではないか、という明確なヴィジョン。その兆候をバーボンに見た瞬間、ドゥルシネーアも自分がどうなるか分からない不安を少なからず持った。

相手は年若い男だ。まだドゥルシネーアの半分も生きていない。だが、自身がただのシエだった頃よりは年が上の男だ。女子高生が憧れるような年上のカッコいい男性。彼女がシエの感覚を取り戻せば十分に異性として惹かれていたに違いない。

久方ぶりの悶々とした思考のまま、戻ってきたバーボンの手から熱いコーヒーを受け取る。飲む必要もない、それどころか後で吐き出さなければならない嗜好品。黒い液面に己の微笑みを見つけ、八つ当たり気味に息を吹きかけた。



***



死なない身体に睡眠も食事も要らない。
恐らく呼吸も、激しい運動をしない限りは要らない。
生命を持たない彼女に人間の生命維持のための諸々が要らない。

言い換えれば、人間の生命維持のための諸々が彼女にしてみればただの嗜好でしかないということだ。


「ぶっ、ぁ……ぅっ、」


サンディエゴから飛行機を乗り継いで訪れたテキサス州ヒューストン。

西海岸の陽気で奔放な雰囲気と打って変わり、ビジネス色の強い高層建築が建ち並ぶ街。観光客よりはビジネスマンが多く、そういう意味では多人種が入り混じっている。ホテルはホテルでビジネスホテル的な面の設備や趣きが多く、スウィートルームも他と比べてどことなく機能的な印象を受けた。

エントランスを抜けると見える広々としたリビング。扉を隔てて廊下があり、一番手前の扉がダイニングとキッチン、廊下の奥にはトイレとバスルーム付きのベッドルームが二つ。うち一つはドゥルシネーアの部屋として割り当てられている。

時刻は昼過ぎ。

自室のトイレでドゥルシネーアは嘔吐していた。

喉の奥に指を突っ込んで無理やり胃の中身を便器にぶちまける。とはいえ彼女が口にしたのは今朝のコーヒーくらいなので、便器には黒い液体が流れるのみ。いったんは胃袋に入ったものの、胃液とは綺麗に分離して体外に出てきたのだろう。自分の体内の事情など想像の域を出ないが。

不老不死とは不便なものだ。何も分解せず吸収もしない胃袋に食べ物を入れておけばそのまま腐る。ので、食べたそばから吐き出さなければいけない。噛み砕かれただけで栄養にもならない食べ物は、ただ味がするという嗜好のために無駄になる。だから彼女は誰かと一緒の時以外は何も口にしないようにしていた。最低限度の人間らしい関わりの時以外は。

便器のすぐ隣にある洗面台で口をすすぎ、ついでに顔を洗ってタオルで拭く。途中まで青褪めていた顔は気が付けば健康的な肌色に戻っていた。

コンコン、と。少し前に察知していた気配がノックする。今日は情報収集がてらカフェでランチでも、とバーボンに誘われていた。これも“最低限度の人間らしい関わり”の一貫だ。待たせるのも悪いからと、バスルームのすぐ近くにある扉を開けに行き、ものの三分でドゥルシネーアは後悔した。


「具合が悪いんですか?」


下から覗き込むように伺われ、それでもドゥルシネーアは冷静に見つめ返す。


「いいえ?」
「嘘ですね」
「何故? いきなり疑うなんて酷いわ」
「トイレットペーパーですよ」


開けっ放しのバスルームの扉。ドゥルシネーア越しでも脇のトイレットペーパーが見えたらしい。いつもより抑揚のある、ありていに言えば得意げに腕を組んでバーボンは以下の推理を披露した。


「昨日、盗聴器のチェックでここも見ましたが、その時とトイレットペーパーの量がまったく変わっていません。ということはまだ一度も使っていないのでしょう? なのに便器には水を流した後の水滴が残っている。ついさっき、とは言わずとも流してからまだ五分も経っていないはず。ここまでくればトイレに何かを流したということは明確です。加えて、あなたは今、髪を一つにまとめていますね。普段から身だしなみに気を遣っているあなたにしてはずいぶんと乱雑な結び方だ。察するに、嘔吐する際に邪魔だったから簡単にまとめたのでしょう?」


なるほど。確かにチェックインした際のトイレットペーパーは新品で、今も綺麗なままそこにある。排泄をするわけもないので当然だ。髪は今日は下ろす予定だったため、癖が残らないよう緩くまとめていた。

少し強引ではあるが、たったそれだけの要素で嘔吐していたと言い当てられてしまうとは。頭が良いのか想像力が逞しいのかもはや分からない。思わず呆れを通り越して感心してしまった。女性が隠したがることを言い当てるのはデリカシーが足りないと思うが。

これ見よがしにアメニティのゴムを引き抜いて長い金髪をサッと手櫛で整える。化粧だけでは出せない血色の良い頬を持ち上げて、まだ言い足りなさそうな色男に無言で続きを促した。

ややムッとした雰囲気を滲ませたバーボンは、すぐに気を取り直してドゥルシネーアの左頬に右手を伸ばす。親指が、滑らかな表皮の下のそのまた向こうを確かめるように、ゆっくりと撫でた。その場所は、


「決定的だったのはここ。慢性的な拒食症や過食症の方は、食べ物を吐き出す際に指を使って口蓋垂を刺激します。そのため口内や指に痣やひっかき傷ができやすいんです。もしかして、ここの傷はその際に引っ掻いてしまったものでは?」


そこも考慮した上での結論だったらしい。

確かに、トイレットペーパーや髪型だけでは強引だった推理が、真実としてのまとまりを持ったように感じる。本当は引っ掻き傷ではなく、遥か昔に噛んでしまった古傷だけれど。まだ再生している途中で永遠に再生されなくなった生傷だけれど。

都合よく勘違いしてもらえて助かった。素直にドゥルシネーアは安堵した。


「あなた、僕の前ではあまり食事をしませんよね。それは拒食症を隠していたから?」


安堵したそばからまた別の問題に直面するとは思わなかった。


「いいえ、もともと少食なの。それにほら、ちあのーぜ? なんて微塵もないのでしょう?」
「チアノーゼは血液中の酸素が不足して手足の先が青くなることです。今のあなたには関係ないですよ」
「まあ、バーボンは物知りね。そのお話もお食事しながら聞きたいわ」
「話を逸らさないでください。空っぽの胃にいきなり固形物を入れたら体に悪い」


ああ言えばこう言う。頭の回転が速い証拠で、反抗期の子供のように遠慮がない。

結局部屋で待機を命じられたドゥルシネーアは、一時間後に帰宅したバーボンによってダイニングまで引っ張り出され、目の前のソレを無言で見下ろした。


「これは、」
「お粥です」
「オカユ……」
「ああ、日本食には馴染みがありませんか」
「いえ、知っているけれど」
「ほう、物知りですね」


嫌味だ……。
さっきのお返しだ……。

ベルモットのスウィートに軟禁発言といい、この組織の人間はきっちりお返ししないと気が済まないのか。

俯いたまま、微笑んだまま、どう処理すればよいのかしばらく固まった。


「仕事帰りに日本食品専門の輸入ショップを見つけまして。あなたの食べ馴染みがあるものなんて分かりませんし、僕も久しぶりに米が食べたくなったので買ってみたんです。どうせなら日本食に馴染んでもらおうかな、と」


消化に良いですよ、お粥。奇妙なほどニッコリ笑うバーボン。

知ってる。とは言えなかったドゥルシネーア。

高級ホテルのスウィートとはいえ、初めて来た場所で、備え付けのキッチンで、最低限置かれた鍋と食器を使って、ここまで完璧に日本食を作れる人間がいるのか。今度は呆れる間もなく素直に感心した。それでも食欲は湧かなかったが。


「ほら、早く食べないと冷めますよ」
「バーボン、私、」
「それとも、僕が食べさしてあげましょうか?」
「えっ」


バーボンの手がボウルに添えられていたスプーンを奪っていく。幼いような凛々しいような絶妙な塩梅の顔は、すくったお粥にふぅふぅ息を吹きかける時は幼さに偏った。


「はい、あーん」
「えっ」


突き出されたスプーンには白に混じって梅肉が見える。空腹でもないのにゴクリと溢れ出した唾液を飲み込んで、それでもどうすべきか躊躇った。

だって、恥ずかしい。こんな十、二十どころでなく年下の青年に食べさせられるなど、幼子扱いされているというよりは介護老人扱いを受けている気分になる。そういう意味での居心地の悪さが羞恥という形でドゥルシネーアの顔を赤らめさせた。

それに面食らったのはバーボンで。まさかそんな、少女のような反応を『あーん』如きで引き出せるなど微塵も想定していなかったのだ。

溜まらず持っているスプーンを引っ込めかけた時にはもう遅かった。ドゥルシネーアが意を決したように顔を近づけたからだ。こぼれ落ちそうになる髪を抑え、目を伏せ、小さな口でスプーンを招き入れる。目測を誤ったのか、唇についてしまった米を行儀悪く舌で舐めとる、そこまでの動作ワンセットで今度はバーボンの方が顔を赤らめる番だった。


「あ、あまり、年上を揶揄わないでくださいな」


幸か不幸か、ドゥルシネーアの方も混乱していた。

お粥は美味しかった。食べたのは恐らく前世ぶりで、この身体は日本人ですらないが、お米と梅の組み合わせは日本人として意識に組み込まれた懐かしさを乱暴なほどに引きずり出す。正直また泣いてしまいそうではあったけれど。

それ以上に、こんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだった。きっと不意打ちで矢を射られたあの時の方がずっと冷静さを保てていただろう。たった『あーん』如きで、半世紀以上生きてきた経験が役に立たなくなった。

それがどれだけ異常で、彼女が人とのコミュニケーションに飢えていたか。後に思い知らされることになる。

ドゥルシネーアも、バーボンも。


「年上って……僕はこう見えて今年で28なんですけどね」
「にじゅ、」


この青年はまだ私を揶揄うのか。

という顔を赤らめたまましていたらしい。分かりやすいまでに浮かんだ責める視線に、今度はバーボンの方が同じ視線をドゥルシネーアに向けた。


「Twenty...right?」


ちなみに本気で二十歳前後だと思っていた。

恐る恐る、それもこれまで一度も見たことがない慎重さで一音一音発するドゥルシネーアにバーボンの顔から赤みが引っ込んだ。満面の笑みだった。


「No.Twenty-eight.」
「T,twelve...?」
「本気で怒りますよ」


もう怒っているでしょう。と言わない賢明さを、ドゥルシネーアは持っていた。









それでも。この旅が、この瞬間が、彼女にとって嗜好品でしかない夢寐むびであることを、彼女はまた忘れている。

何十年生きてもなお、まだ学び続けている。出会いは簡単で、別れは唐突で、再会は程遠く、むしろ二度と会えないことなどざらにあって、苦楽も悲喜も同じだけ存在する。そんなことはこの世界にも当たり前にあることを。忘れて、知らないで、学ぶばかりの人生を。

彼女は人間らしく、歩んでいた。



『ハロー、ドゥルシネーア』


目覚めるのは一瞬で、


『そろそろ終わりにしましょう』


夢を忘れるのも、一瞬だ。

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