似た者ごっこ



「かわいそうに」


ドゥルシネーアの唇は、確かにバーボンへの哀れみを浮かべていた。

薄い肩を震わせて、我先にこぼれようとする涙を必死に瞳の内に閉じ込めている。その紅茶色は潤み始めてまだ数秒しか経っていないのだろうか。彼女の目元はまったく腫れておらず、そのせいで揺れる眼球だけが生きた女の悲哀をダイレクトに訴えかけてくる。か弱い女性を脅しているような罪悪感を擽られ、バーボンの中の降谷零が眉を顰めた。

この女のどこに罪を感じろというのだ。己を叱咤するようにバーボンが歯噛みする。と同時に、何故こんな状況になったのかと安室透が冷静に自問自答を始めた。

夕食代わりにバーで軽く食事を取り、喧騒に紛れる形で組織とのパイプ役と情報を交換して帰ってきたところだった。移動時間も兼ねて二時間程度。コテージに戻り、リビングに入ったところでドゥルシネーアの背が見える。いつもならバーボンの気配などお見通しで、すぐに振り返ってあの微笑みを見せるはずなのに。

不審に思ったバーボンはすぐ、彼女が二時間前と同じ場所に同じポーズのまま立ち尽くしていることに気付いた。

それは異様だった。

試しに留守にしていた時間を一時間多く告げても不思議に思わない。頑なにバーボンを見ようとしないことから無理やり振り向かせようとすれば微々たる抵抗をして見せる。数日前に恥辱を味わった相手だ。意趣返しの気持ちがまったくなかったかと言えば嘘になる。余計に躍起になって無理やり抱き寄せて顔を見た。そして、今の状況に陥っている。

誰が想像できようか。あの不気味な女が涙を浮かべるような殊勝さを持っているなどと。彼女の泣き顔が恐ろしいほどに脆く、儚く、ただ男の庇護欲を擽るばかりのものになるなんて。ゾッとしない感情が、バーボンの厚い皮をすり抜けて降谷零の柔い内膜まで到達する。動揺が、相手の肩に添えた手に震えとなって顕現した。

決して、彼が女の涙に弱いというわけではない。バーボンにさんざん不信感と不気味さを与え続けたドゥルシネーアという女が、突然そこらの一般女性のように泣き出した。その凄まじい落差に振り回されて、ただただ混乱したのだ。


「あなたのせいよ、バーボン」


これ以上はダメだ。
これ以上は、呑まれる。


「何故、笑っている」


何故、僕は口を閉じないんだ。

熱に浮かされたように。それでもしっかりと、バーボンはドゥルシネーアの顔に釘付けになった。最初の一滴以外、もう涙は落ちない。潤みも赤らんだ頬も治まってきた顔は、実は最初からずっと笑っていた。それが悲痛な泣き顔だと感じた先ほども、平素と変わらない今の顔も、彼女はずっと微笑んでいた。もはや生まれつきそういう病気なのだと言われた方がしっくりくるほどに、彼女はただ微笑み続けていた。


「そう、躾けられたからよ」


だからその返答は、バーボンの心情を読み取った上でのものかと邪推した。いや、今までの彼女の功績から鑑みればそれも当然の推測だ。けれど彼は、それがとても無粋なことのように胸が痛んだ。相手がいけ好かない女だとか、犯罪者だとか。そういう建前が一気に吹き飛ぶような異常事態に、彼の正気はほとんど風前の灯火といったところであったから。


「しつけ?」


引いては押し寄せる波のように、緩急をつけて繰り出される言葉の氾流を。バーボンは真正面から受けてしまったのだ。


「まったくの別世界に攫われてまったくの別人としての人生を用意されていて、ただ何をするでもなく自分たち以外の人間は犬猫以下の奴隷だと覚え込まされるの。毎日毎日。私が泣いていると憤慨して近くの奴隷を甚振り始めて……本当に、それが私のためになると思って、何度も、何度も、」


いったい、何の話をしているんだ。別世界? 攫われた? 奴隷? 耳から聞こえてくる単語がすべて、パズルのピースのようにバラバラに散乱して頭の中に溶け込んでいく。普段なら簡単に一枚の絵を築き上げられるはずの脳が、ミルクパズルを前にしたかのように挙動が遅れる。

鬼が出るか蛇が出るか。そのブラックボックスから解き放たれたのは苦しいほどに切ない心情。およそ聞いてすぐに理解できるわけがないそれらの情報が、ドゥルシネーアではなくシエの本心からの弱音であったことなど。バーボンは知る由もない。


「そうして気が済んだら私の頭を撫でて言うの。『もう大丈夫だ。もう泣かなくていい』って。そうすれば私が笑うと信じ込んでて、また泣くと今度こそ、その奴隷は殺されてしまう」


謀らずとも、降谷零が言うところの“か弱い一般女性”の悲哀だったということなんて、まったく。


「じゃあ、私がすることなんて一つでしょう?」


涙の余韻が引き、下がっていた眉も赤らんだ頬も何もいつもの様相に戻り、柔らかな唇は形を変えずに弧を描いたまま。嫌というほど見慣れてしまった笑み。それは檀上で世界平和を唱える慈善活動家にも庭で美しく咲いた薔薇を愛でる貴婦人にも見えた。この世の悪も穢れも醜さも知らない、無垢なる生き物のベールを身に纏ってそこに立っている聖人。そんなものはどこにも存在しないというのに。

ドゥルシネーアという女が分からない。

言っている内容も、今ここに存在している現実も、分からない。分からないことだらけであるはずのその事実が、しかし、畏怖や嫌悪以外の意味を持ってバーボンの脳髄に刷り込まれていく。


「その奴隷のようになるから? だから、僕が不幸だと?」
「ええ、ええ」
「本当に? この僕が、あなた如きの涙で人生を終えると?」
「そう、そうに違いないのよ」


そんなわけがあるか。
そんなわけが、あるものか。


「あなた、意外と馬鹿だったんですね」


そっと、涙の痕跡もない頬に片手を添えて、唇に唇を寄せる。前のように中を暴くこともせず、性急さも欲望もない。ただ唇を押し付けて、相手の笑みを崩すための手段でしかない口づけ。一瞬胸を押しのけようとしたドゥルシネーアに抵抗して、バーボンは腰に空いている方の腕を回した。さらに密着した男女の身体。互いに感じる震えと、触れ合っていることへの怯え。長く口づければ口づけるほど呼吸が乱れ移った体温が唇の熱をより鮮明に彩る。児戯にも等しい行為は、以前に触れあった深い貪り合いよりも重く、バーボンの腹の底の獣に極上の餌をやる結果となった。

鼻で息をするのも忘れていたのか。息苦しさを思い出してバーボンは一度唇を離した。唇に移ったローズピンクのルージュを舐めとって、人工的な薔薇の香りにうっそりと微笑む。何故こうも前と違う表情が勝手に出ていくのだろう。答えは簡単だ。バーボンが、ドゥルシネーアのことを以前より知っているからだ。知っている愉悦が、麻薬となって今の彼の脳を麻痺させているからだ。


「バーボン、あなた、私のことが好きだったの?」


突然に、ドゥルシネーアがそのようなことを尋ねた。見れば微笑みのポーカーフェイスは瞬く間に戻っていたが、紅茶色の目だけは注視すると僅かに丸く見開かれている。こうしていればその美しさの中にも愛嬌の二文字を簡単に見出せるものだ。


「前に言ったでしょう?」


バーボンは内心、床に笑い転げたい気分になった。


「……“ずっと、あなたに触れたかった”と」


この女は、無抵抗で体をまさぐられた以前はバーボンのアプローチを信じていなかったくせに、たった一度の重ねるだけのキスでバーボンが自分に懸想していると勘違いしたのだ。それはなんて、小娘のように素直で、呆れるほどに愚かなことなのだろう。

蕩けた顔のまま、バーボンは再びドゥルシネーアに口づける。ファーストキスもまだの生娘を扱うように、優しく、柔く。押し付けるだけのキスが自身にどんな感情を植え付けているのか。ドゥルシネーアの問いかけが、それを敏感に感じ取ったがゆえの心配だったことを。

バーボンはまだ、気付いてはいない。


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