暗い海に飲みこまれる前に



人間が何か辛い局面に立たされた時、それを乗り越えようとする勇気は素晴らしいことだろう。

いざその時になると選択肢は必ずしも前向きなものだけではない。逃げる、諦める、といった後ろ向きな思考も当たり前にあって、その中であえて立ち向かうという苦難を選ぶことに意味があるのだ。どんな話でも主人公が自ら茨の道を歩んで目的を成していくからこそ、読み手は深く感動させられるのだろう。

けれど、まあ。
現実では逃避することもまた大事なのだと、現実に生きるハメになったシエは思うのだ。


「お前を、泣かせた、ヤツなんて、いらないッ」


肉と革がぶつかる音を聞いたのは初めてのことだった。

理由はなんだったか。どんな些細なことだったか。高く高く耳障りな泣き声を響かせる彼女にそれを求めるのは酷なことだった。何故ならこの時の彼女は生まれて二月ばかりの赤子で、赤子は泣くことが仕事のようなものだ。ふとした拍子に声を上げるし、意思表示はすべて泣くことでしかできない。加えて這い這いのできない赤子の運動は泣くことなのでやめさせる方が無理な話だ。

けれどシエの、正確に言うならばドゥルシネーアの父親は娘を泣かせた者を決して許さなかった。人間相手に平気で鞭を振るい、血反吐を吐いても暴力をやめない。恐る恐る苦言を呈した乳母にさえ手を上げる始末。その度に彼女は泣いた。こんなにもあからさまな暴力を彼女は知らなかった。やめて、やめてと主張する声は意味のない騒音となって部屋を引っ掻き回す。感情はすべて悲哀として父に届き、さらに折檻の手は激しさを増していった。悪循環。負のスパイラル。赤子が泣き腫らして眠りにつくその瞬間までそれは続く。肉体的に痛めつけられているのは他人のはずなのに、精神的に痛めつけられるのはいつだって彼女の方だった。

何度も、何度も。娘のためと称して繰り返される暴虐をすぐそばで目の当たりにしてきた。その行為をやめさせることなど簡単だ。シエが泣かなければいい。ドゥルシネーアが笑っていればいい。簡単だ。とても容易な逃避だ。シエもドゥルシネーアも自分の顔を歪ませるだけで父は簡単に機嫌を直すから。彼女は滅多に泣かない子どもになった。泣くのを恐れる子供になった。

微笑み以外の表情が出てこない、この代償はあの時逃避した過ちと釣り合っていたのだろうか。シエは振り返って回帰する。


どうしてこんなことになったのか、シエは分からない。ただいつものように目を瞑り、眠りから目を覚ました現実は見たことのない世界だった。

淡い、優しい色合いばかりが広がる、豊かで清廉とした街。巨大な屋敷と広大な庭とが惜しげもなく続く景色。聖地の名を冠するに相応しい街のとある御家でシエは新しい生を受けた。ドゥルシネーアという名前の子供として、見知らぬ家族の一員に組み込まれていたのだ。

人間ではない何かの種族、人間よりも上の支配階級の生き物なのだと。赤子から幼児に成長する過程で自分なりの解釈が成り立ったのは必然だ。何故ならそこには当たり前のように人間の奴隷制度が生きていたからだ。

シエが生まれついた時から屋敷にはいつもたくさんの人間が配備されており、まるで家具かペットのように従順な姿勢を取る。息をするように頭を垂れ、尊厳を捨て、ひたすらに使われる。毎日毎日、その姿を見ていれば次第に自身が生まれた種族についての仮説が立つ。ただの平凡な一般人であった彼女は自然と財産の一部に組み込まれている彼らを見て、“見た目が同じだけの異種族”という認識を持つのは意外に早かった。前の自分と同じ人間を物扱いするという行為は、それだけ彼女にとっては受け入れがたく、素直に飲み込めず、眉唾なことで。違う種族だから。違う存在だから。だから仕方ないのだと。免罪符で視界を覆い、見るべき現実から目を背ける。そうしてシエはドゥルシネーアの殻の中で正しく壊れていった。

不可侵の楽園の中心で、誰にも傷つけられることなく傷だらけの心を抱えて笑う。不可思議なほど宙に浮いた存在として、シエは生きていた。

ちゃんと、生きていたのに。


それが間違いであることを知ったのは、彼女の義理の兄が溢した嘆き混じりの一言からだ。


『どうして奴隷だからとあそこまで非情になれるのだろう』


私たちも同じ人間なのに。

よく晴れた日のテラスの一角。何気ない一日。年の離れた身重の姉は無知に微笑み、温厚な義兄はゆったりとした話口で彼女の首を締め付ける。彼らとて現実を真に見つめる目は持っていない。けれど彼女よりはよっぽど無知ではなかった。なにせ彼女は全くの無知だった。十年以上生きてきたくせに思考停止を繰り返してきたのだから。無知は罪だというのなら彼女は恐ろしい程に罪深い。その事実に嗚咽して口元を押さえ、震撼する。酷い罪悪感が今までの比ではない勢いで心臓を押え付けてくる。落とした紅茶のカップが温く膝を濡らしても、背後でもうすぐ二歳になる甥が奴隷相手に癇癪を起こしていても、その震えが止まることはなかった。それが彼女の二度目の人生における最初の転機だった。

そうして彼女は姉と義兄の屋敷に度々足を運ぶようになった。逃げたと言い換えてもいい。義兄の家にも奴隷はいる。現実は何も変わらない。ただ他の家と比べれば断然にマシな扱いだった。同じ人間を奴隷として虐げていた事実を知った途端に父も母も今までと同じ目では見れない。美しく豊かな屋敷が狂った世界に変貌する。そうして彼女がどれだけ世界に染まっていたのか思い知るのだ。


『叔母上、何故ソイツを庇うえ! ソイツは叔母上の食事を汚したんだえ! 死んで当然だえ!』


誤って給仕中に咳き込んだ奴隷を罵倒する子供。順調に天竜人らしく成長する甥は家に似合わぬ傲岸不遜さを晒して奴隷を虐げる。それを意味も分からずに見ているのは大人しい下の甥。幼少期の姉に似ている下の子を見ていると、上の子がその家でいっとう浮いた存在に見えた。まだ子供。されど子供。齢一桁にして傲慢な子供を見ているといっそ哀れにすら思える。狂った世界に生まれれば狂うこと自体が正常なことなのだ。

ああ、狂ってる。


『私たちの代わりに我が家を頼んだよ』


姉と義兄の家族が天竜人をやめた時。彼女はドンキホーテ家の養子に入った。義兄の希望だった。彼らが資格を捨てた後に御家の名が潰えることが偲びなかったのか。唯一ただの人間になることに反対しなかった彼女を彼らは深く信じていた。上の甥は最後まで不満げに、下の甥は理解できないまま、彼らは聖地を去っていった。

姉が死んだことを知ったのは半年後のことだ。半ば押し付けられたドンキホーテ家の当主という称号に見合うよう、学ぶことの多い毎日。そんな中、けたたましい音とともに黒づくめの男たちが屋敷の門を潜った。父の使いだった。

父は厳格な人だった。プライドも人一倍高い。その高さは御伽噺に出てくる空に浮かぶ島にまで届くかもしれない。兎に角父は生まれながらの地位にこだわっていて、自身がこだわっているものを簡単に捨てた義兄を蔑んだ。蔑むだけでなく、見事に義兄の思想に賛同してついて行った姉を憎悪した。厄介なことに、いくら反対しても義兄の思想に賛同し続けた姉を父は勘当してしまったのだ。あんなにも親愛か執着かも分からない感情を抱いていたくせに、便宜上姉を家族ではないと見放した。姉と義兄からの連絡の一切を完全に遮断した。それから一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。日を追うごとにいない姉の姿を求める父は少しずつおかしくなっていく。そして半年。姉の死を知った父は完全に狂ってしまったのだ。

促されるまま、屋敷に帰還した彼女を待っていたのは泣き崩れた父の姿。そんなに泣くのならば無理やりにでも引き止めれば良かったものを、今さら泣いたところで姉は帰ってこない。彼女は半狂乱の父によって部屋に無理やり閉じ込められ、二年もの間をそこで無為に過ごす。そして再び外に出された日が、彼女にとって二回目の転機だった。


『お前は、お前だけは死なせないえ』


鉄の、青みがかった首輪と、そこから伸びた鎖。爆弾が埋め込まれたそれは、人以下の証し。彼女が嫌いな奴隷の証し。我が家の所有財産に組み込まれた男がこちらに突き飛ばされ、昏く濁った眼差しが姉とよく似た彼女の顔を滑った。

ああ、狂ってる。


『る……"ROOM"』


それが、彼女が人間じゃなくなった瞬間。

彼女が永遠の時を手に入れた瞬間だった。


彼女は無知だった。権力を捨て人間になった姉の家族が残酷な仕打ちを受けたこと。救いを求め何度もかけられた電伝虫が父の手によって妨害されていたこと。軟禁されている間に義兄の首を持った甥が聖地までやってきたこと。父が連れてきた人間が悪魔の実の能力で彼女を不老不死の化物にしたこと。すべて、知らないまま、彼女は海軍本部で目を覚ます。

無知は罪。知らぬが仏。どちらの言葉が彼女に当てはまるのか、分からない人生の幕引きだった。

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