真珠の孤独



海だ。海が見える。

赤い夕陽がゆっくりと水平線の向こうへ姿を消していく。感嘆と寂寥を感じさせるその光景を見て、ドゥルシネーアの顔が固まった。

カルフォルニア州サンディエゴ。ロサンゼルスから西海岸沿いに約200キロほど南下したところにある観光客向けのコテージ。人種の坩堝と名高いアメリカの中でも特に人種が入り混じりアジアンも珍しくはない街。観光地と名高いだけに安いコテージですら美しい海がよく見えた。


「ホテル・デル・コロナドじゃなくてすみませんね。まあ、このコテージだって幽霊は出そうですけど」


その様子から高級ホテルじゃないことが不満なのだと思われたらしい。あの裏がありまくりの未遂事件から次第に茶目っ気なのか棘なのか分からない冗談が増したバーボン。普段なら軽く笑って受け流すドゥルシネーアであったが、今はその余裕もなく曖昧に答えるしかできなかった。


「明日はここから東に向かって飛行機で移動です。スイートは無理ですが、そこそこのホテルには泊まれるでしょう。だから今日くらい我慢してください」


荷ほどきをしているバーボンを尻目にドゥルシネーアはキッチンへと足を動かした。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してこぼれるのも構わず一気に煽る。普段ならば絶対にしない無駄なことだ。空気を入れ替えるために開けた窓から無遠慮に押し入ってくる潮風。自分でしたことのはずなのに、ペットボトルから口を離したその顔はいつまでも固まったまま。それは彼女の不快感を如実に示していた。


「夕食はどうしますか? 僕は外に食べに行きますが」
「どうぞ、お気になさらず」
「そうですか」


口元を拭って戻ったドゥルシネーアに荷ほどきを終えたバーボンが尋ねる。今まで一度も誘いに乗らなかった相手に欠かさず声をかける律儀さ。それでも以前より格段に冷めた物言いが今は有り難かった。

あれは、ハニートラップというやつだったのだろうか。

深く考えずにバーボンのを受け止めたドゥルシネーア。驚くほどあっさり唇を許したのは別に、バーボンのような綺麗な男と遊びたい……なんて願望があったわけではない。彼がドゥルシネーアという不審な人間を手っ取り早く懐柔するために行動に移したということは容易に想像できた。問題はその行動がどの立場から来たものなのか、ということだった。組織の人間としてドゥルシネーアを手元に置いておきたいのか、それとも外部からのスパイでドゥルシネーアを利用して何かしらの作戦を遂行するためか。分からない内はこちらも行動に移せない。絶妙な力加減の愛撫を受けながらドゥルシネーアは虎視眈々と相手の出方を伺っていたのだ。

しかし、そう呑気でいられない事態に陥ったのは深い口づけを交わしたすぐ後のことだった。


『口の中、切ってますよ。ココ』


左頬を撫でられた瞬間、ドゥルシネーアはどれだけ自分が平和ボケしていたのかを思い知った。

ドゥルシネーアの身体はどんなに傷を負ってもすべて元通りに修正されてしまう。が、もともと負っていた傷はその限りではない。まだ人間の身体の頃、不老不死になるほんの数日前に誤って噛んでしまった頬の裏。僅かに薄い皮膚の感触はこの数十年の間に当たり前の違和感になってしまった。傷つくことはないが治ることもない。唯一無二の一生の傷を指摘され、ドゥルシネーアは久々に焦りを感じた。

この類の傷は通常どの程度の期間で治癒するのか、彼女にはもはやおおよその検討すらつかない。次にキスをされた時、傷を指摘されればドゥルシネーアの秘密を知られてしまうかもしれない。それは紛れもない恐怖だった。

今まで体の関係を持った男はドゥルシネーアの身体の事情を知っていた。だからこそ何度性交渉をしたところで身体は処女のまま変わりがないことも承知の上だ。だがバーボンはその事情を知らない。ベルモットとの契約を抜きにしても彼女は誰かにそのことを話そうとは思わなかった。肉体はともかく精神的に甥や養い子よりも年若い男に手を出すことは憚られたし、この現実社会で生きる人間に化け物の身体を受け入れさせるのは不可能だからだ。ベルモットだけが例外であり唯一だとドゥルシネーアは確信している。せいぜい見聞色の覇気に超能力という皮を被らせて押し通すくらいが限度だ。今後この身体のことを他の誰にだって話すことはないだろうと、秘かに心の内で決めつけていた。

それがバーボンにバレかけた。ドゥルシネーアにしてみれば数年ぶりに肝を冷やした事件だった。


「…………はあ」


バーボンが外に出ていくのを見計らってドゥルシネーアは窓を閉めた。薄いカーテンの隙間からは夜になりつつある海が覗いている。赤く弱く顔を照らしたそれは、果たして真に彼女を照らせているのだろうか。

潮の香りがプランクトンの死骸の臭いなら、母なる海とはなんとも笑える呼称だろう。産みの母から常に死臭が漂ってくるなんて、とても不気味で、とても馬鹿らしい。それとも偉大なる母は死をも飲み込んで泰然と存在している、とでも言うのか。久しく感じていなかった苛立ちが彼女の胸の中でグルグルと暴れまわっていた。

ドゥルシネーアは海が嫌いだ。シエは海が嫌いだ。

悪魔の実と呼ばれる不可思議な果実を作り出した悪魔は、自身を嫌う海の神をどう思っただろう。普通なら嫌われている相手に対して良い感情は抱かない。嫌われた分だけ嫌っていたか、神という呼称を畏怖したか、はたまた我関せずを貫いたか。少なくともオペオペの実を作り出した悪魔は神を嫌っていたはずだ。何故ならその能力で化け物に変えられた彼女は、海に並々ならぬ悪感情を背負わされたのだから。

気絶して目を覚ましたその時、彼女は海が厭わしかった。憎らしかったし、恐ろしくも思った。海の青は目に毒だった。海の香りが鼻を突いた。海の音に耳鳴りがした。海の水は酸のように触れがたかった。今まで感じたこともない感情を刷り込まれ促されるままに怯えて、海の向こうへ家族を探しに行けない自分の弱さを見せつけられている気分になる。だから彼女は海が嫌いだ。自分が自分でいられなくなる感覚を与えてくる海が、憎くて恐ろしくて大嫌いだ。

こんな気持ちは久しぶりだった。こんなにも海を感じられるのは、恐らくは日本にいるという安心感が不安を相殺していたのだろう。よりあの世界の海を思い出させるビーチを眺めただけでコレだ。帰郷の喜びに浮かれ切った身には劇薬に等しい。今までどれだけぬるま湯の中に浸かっていたのか明確にしてしまう落差。いつまで経っても海は非情に彼女を責める。

脆い。

何十年も生きてきたくせに、一人になった途端に目の奥がじわりと疼く。海を見るといつもこうだ。まるで十代の生娘にでも戻ったかのように何もかもが不安定になる。

その表情が笑み以外を作らないとはいえ涙腺はその限りではない。悲しい時や驚いた時、生理的な涙は普通に滲む。それが完璧に抑え込まれていたのはひとえに彼女の不屈の努力に他ならない。誰かが自分の涙のせいで不幸になるくらいなら、自分が我慢をするしかない。誰かの視線がある時だけ泣かなければいい。どうしても泣きたければ誰もいない時に勝手にすればいい。それもいつかは枯れ切って、涙の流し方も忘れるだろう。壊れきって狂い切った感性の中、僅かに生き残ってしまった柔い心は彼女を苦しませる。皮肉にも、ドゥルシネーアの中に残った本来のシエは苦しみの中でしか見出せないのだ。

バーボンにバレかけた焦燥。海で乱された不安定な精神も相まって、誰もいないのをいいことに彼女の涙袋が熱を持った。

それが、そもそもの過ち。


「ずっとそうしていたんですか?」


不審さを隠しもしない声。背後から突然現れた気配にドゥルシネーアは体を強張らせた。


「……おかえりなさい、早かったわね」
「あれから三時間は経っていますよ」
「あら、もうそんなに、」


これは彼女の落ち度だ。彼は突然現れたのではなくドゥルシネーアが気を抜きすぎていたのだ。一番緊張させていなければいけない時に警戒を怠った。既におぼつかない視界に舌打ちしたい気分になりながら、いつも通りの声色で応対して見せる。赤い太陽がすっかり身を潜め白い月がユラユラ揺れる、忌々しい海を睨みつけながら。


「気分が優れないので、今日はもう寝るわね」
「……何か、悩み事でも?」
「いいえ、ただの貧血よ」
「嘘ですね、貧血の人が三時間も突っ立っていられるわけがない」


ツカツカと大股で近づいて来て後ろに手を取られる。少し傾いた体勢を立て直しながら、顔だけは絶対に見られないように背け続けた。


「ご自身の指先をよく見てください。チアノーゼの余韻もない、綺麗なピンク色ですよ」
「離してくださらない?」
「いいですよ、あなたの考えていることを教えてくれるのなら」
「離して」
「嫌です」
「離しなさい」


力任せに振った腕を逆に引っ張られ、今度こそドゥルシネーアは体勢を崩した。傾く体。すぐにぶつかる胸板。少し前に感じた覚えのあるぬくもり。とっさに上向けた顔とから、重力に引き付けられた涙がポロリ、薄紅色の頬を滑り落ちていった。

もう、だめ。


「な、なんで、泣くんだ」


薄い色の瞳が至近距離で揺れ動く。一瞬クリアになった視界でバーボンの動揺を観察して、ドゥルシネーアは諦めにも似た無力感を味わった。


「かわいそうに」


それは、涙と同じくらい簡単に薔薇色の唇から吐き出される。脳裏に過ったのは、もう二度と会うことができない甥の顔だった。


「私の涙を見た人間は皆、不幸になるのよ」


白くなるほど握り込まれた拳を解いて、化け物は男に手を伸ばした。美しく造形の整った顔に指紋を残すように。手を這わせた頬が引き攣り目は際限なく見開かれる。驚愕を分かりやすいほど張り付けた人間を前に、唇は柔らかさを失うことなく呪詛を吐き続けた。


「あなたのせいよ、バーボン」


かわいそうに。

もう一度繰り返された哀れみは、果たしてどちらがお似合いなのか。

← back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -