よごれたきのうをみすごしなさい



よく晴れた日のことだった。

魚屋の店主は仕入れたばかりの魚を店頭に並べ、いつも通りの時間に店を開けた。春島の恵まれた気候に釣られて、住民の性格はおおらかで明るい者が多い。店主もまた例外ではなく、愛想よく通り過ぎる顔見知りや今日の夕食を買いに来た客に挨拶をしながら店を切り盛りしていた。おーいと声を掛ける友人に手を振り、客の世間話に相槌を打ち、笑顔で去っていく背中に笑顔を贈る。この島のメインストリートというべき場所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられており、辺りは活気と明るさに満ち満ちていた。

何も特別じゃなく、何も不思議じゃない。そんな当たり前の日常の中、


「こんにちは」


魚屋の店先に、一人の女が訪ねて来た。


「ああ、らっしゃい!」


店主はいつも通りに応対しようとして、すぐにその容姿に目を丸くした。

金を薄く伸ばして日に透かしたような淡色の髪。上等なティーカップに注がれていそうな紅茶色の瞳。優しさと穏やかさを人の皮で包んだような美しく嫋やかな女。それが何の変哲もない魚屋の入り口でこの世の者とは思えぬ笑みを浮かべている。店主は惚けたままその姿をしげしげと見つめ、なんとか気を取り戻した頃には数秒の間が空いていた。


「もし? どうかなさいましたか?」
「あ、ああ、悪いね。お客さんが見ない顔だったものだから、つい」
「ふふ、それは仕方ありませんね。知らないのも当然ですわ、だって本当に遠くから来たんですもの」
「へえ、どこからだい?」
「聖地マリージョアから、」


よく晴れた、それはそれは良い一日。


家族を探しに・・・・・・


その島の最後は、こうして始まった。



***



『もう一度、今度は分かりやすく言って差し上げましょうか。愚かにもあの下々民たちは天竜人に恨みがあるという理由のみで身に覚えのない罪を我が義兄と姉と甥二人に被せ、死に追いやり、そればかりかこの世界の基盤たる世界政府を作り上げた偉大な父祖の子、つまりはわたくしドンキホーテ・ドゥルシネーアに血を流させました。罪に手を染めた当人のみならず、その血縁者にまで軍を通さぬ私刑が許されるなら、もちろん当人に対する私刑も許されるものでしょう? 罵声を浴びせ石を投げ磔にし弓を引いた当人たちにまったく同じことをしたって構わないでしょう? 親が憎ければ子も憎い、子を殺したなら次は孫だとやってのけたあの野蛮人たちの命だけで許して差し上げたのです。我が事ながらとても理性的な報復だと自負できますわ。ええ、褒められこそすれ責められる謂れはありません。きっとそうに違いないのです。なのに、ねえ、あなたはそれを否定なさるのですか? あの下々民の皮を被った卑しい獣を擁護してわたくしを否定すると? 何故? あなたがこんなにも素敵な電伝虫を貸してくださって、わたくしとっても感謝していましたのに。快く是と仰られたその口で今度は否とそっぽ向かれるのですか? それはあんまりではなくて? 海軍本部の元帥ともあろう御方が、』


ガチャ!!

センゴクは苦虫を噛んだような顔で何か言いかけた女の声をかき消した。正確にはそれは数十年も昔に録音された記録で、決して目の前の女がたった今言ったことではない。それでもきっと、この長い抗議を言って聞かせた数十年前の女もまた、今と同じ表情で当時の海軍元帥を追い詰めていたのだろう。

こんなはずではなかった。この記録を持ち出したのは目の前の女に対する意趣返しのつもりだった。その昔、たった四人の家族を失っただけの女が報復として島中の人間を皆殺しにした。それも個人の手によるものではなく、海軍本部の将校複数名を駆り出した徹底的な殲滅戦。海軍の元帥か大将に委任されなければ一介の女には到底手にすることのできない戦力。それを天竜人という権力を笠に着てほとんど力ずくでもぎ取った。

金色に輝く電伝虫から発せられるバスターコールを、目の前の女はただの一般人に向けて使用したのだ。


「もう……私をいじめるために呼んだのですか?」


困ったように笑うシエ。その呼び名を強要する彼女の本当の名は、ドンキホーテ・ドゥルシネーアと言った。


「結果的に嘘を吐いた形になってしまって、少しは反省しているのですよ?」


そうだ。彼女はその時点で全ての家族がいなくなったのだと勘違いしていた。子供二人だけで生きて行けるほどこの世界は甘くはない。父母を失って路頭に迷った彼らが生き永らえたことは奇跡に等しいことだ。

だが、彼女が虐殺を決行した数年後にセンゴクはロシナンテを連れて来た。死んでおらず、生きたまま立派に成長した彼女の甥。そして彼女もまた、その少し前にもう一人の甥が海賊として悪名を轟かせ始めたことを知っていたのだろう。もっと早くセンゴクが彼女にロシナンテを会わせていたのなら、あるいは、もっと早くドフラミンゴがその悪名を知らしめていたなら。彼女はあの大虐殺を行わなかったのかもしれない。それとも、義兄と実姉が元に戻らない時点で避けられようもない事象だったか。そんな"もしも"に頭を巡らせたところで起こってしまった過去は変えられようもない。


「私はあなたに嘆願しているのです」


何もかもが遅かった。そう後悔するしかないところまでセンゴクは来てしまったのだ。


「今回のシャボンディ諸島での一件。彼の伝説が関わったのはご存知でしょう」
「伝説? 抽象的なことを言われても困りますわ。物を知らない私にも分かるように言ってくださらないと」
「……シルバーズ・レイリー、と言えばよろしいですか」
「シルバーズ……確か、ゴールド・ロジャーの船に乗っていらした方、かしら」


白々しい態度。たった今思い出したと言わんばかりの表情で最低限の情報を付け足す。彼の伝説がロジャーの船の副船長であったことすら知らないと言わんばかりの興味のなさだ。

だが、センゴクは知っている。

ロジャーが処刑される遥か昔、駆け出しの海賊であった頃の若い時分に、彼女とレイリーがただならぬ関係であったことを。あの虐殺を行った島に我が物顔で屋敷を立て、町を起こし、栄え始めた頃に立ち寄ったレイリーと短い逢瀬を重ねたことを。

数十年前に浅からぬ関係であった男のことを、彼女は厚顔無恥にも知らないと宣ったのだ。

思うに、今回の事件は随分とできすぎている・・・・・・・

天竜人殺害未遂の首謀者一味の一人が彼女が一時期保護していた男。偶然その場に居合わせた彼女と関わりのある冥王。現場となったヒューマンオークションの元締めは彼女の甥。加えて被害者は彼女が快く思っていないロズワード一家とくれば、センゴクが睨んでいる疑惑もまた浮かんでくるものだ。白ひげ海賊団二番隊隊長、火拳のエース処刑に向けて忙しいこの時に海軍大将を派遣させる大事件を起こす。これほどセンゴクに対して効果的な嫌がらせはないだろう。彼女の大切な甥を危険な任務に就かせ、ついには海賊として殉職させた憎い男への嫌がらせだ。

そして、考えられるもう一つの可能性は、


「今回のあなたの行動は目に余ります。ドフラミンゴに続いて、今度はあのルーキーにも手を貸すおつもりですか」


ハートの海賊団船長。“死の外科医”トラファルガー・ロー。懸賞金2億ベリーの首であったが、今回の一件で上がる額は少なくとも1億は降らないはず。新世界へと進み行く海賊として、さぞ箔が付いたことだろう。彼の悪名を轟かせるために不愉快な天竜人を危険に晒し、さらには冥王という保険までつける。センゴクへの意趣返しと養い子への餞別を海軍最大戦力を巻き込んで同時にやってのけた。

復讐のために使われたバスターコールと、今回の一件。

ドンキホーテ・ドゥルシネーアは……シエという女は。海軍をなんだと思っているのだ。


「後生ですから、これ以上海軍を引っ掻き回すのはやめていただきたい」


センゴクの心からの嘆願を笑みで受け止めながら、彼女はゆったりと首を傾げる。海軍本部の元帥の部屋。人払いをされ二人きりのこの空間で、勧められた椅子に浅く腰掛け、膝に置かれていた手を口元に当てながら。


「どうして今、ドンキホーテ・ドフラミンゴとトラファルガー・ローの名が出るのか不思議ですが……家族の手助けをすることの、何がおかしいのでしょうか?」


微笑む天竜人はさらに目を細める。センゴクは愕然とその顔を凝視した。


「家族? 手助け?」
「甥が家族に、と引き入れた子です。ならば私の家族も同然ですわ」


あの、一海賊団の船長でしかない男を、この女は家族だと言った。世界で最も尊く貴い畏怖すべき血族と地続きの存在だと。臆面もなく言ってのけた相手はセンゴクがいくら睨み付けようと動じることはない。小娘の皮を被り続けたところで結局彼女はセンゴクとそう変わらない年代の老女だ。数多の権力と闇を観劇してきた海千山千の化け物でしかない。


「私、センゴク殿には感謝していますの。ロシナンテを保護して私に会わせてくださったんですもの。私にできることがあれば何でも言ってくださいな」


この女は、外身も中身もただの化け物でしかないのだ。


「……有難いお言葉、痛み入ります。シエ様におかれましては、ただ健やかにお過ごしくだされば私どもも幸いでございます。此度はどうぞ、ただ座して静かにお待ちください」
「まあ! センゴク殿はやはり謙虚でいらっしゃいますね」
「いいえ、とんでもない」


とんでもない、化け物め。

そのセリフを、センゴクはなんとか喉の奥に仕舞い込んだ。



***



センゴクは何を勘違いしているのだろう、とは彼女の疑問だった。

海軍の招集に応じてやって来たマリンフォードで、大昔の黒歴史と先日のシャボンディ諸島の一件に触れられた。何故それら二つを並べて語られるのかシエは分からない。前者のことはともかく、後者は明らかに私も巻き込まれた側なのに、と。

シエは、現在も住んでいる例の春島の惨劇を黒歴史として遠く記憶の彼方に置いていた。若さゆえの過ち。憎悪のままに権力を振るい、言葉巧みに島民たちに天竜人たる自身を害させ、無理矢理に大罪を被せた。そのこと自体はまったく反省はしておらず、ただ激しく後悔したのは彼女が嘘を吐いてしまった一点のみ。生きていた甥たちを死んだものと扱ってしまった、ただそれだけ。その前科だけで今回のシャボンディ諸島での一件の裏に彼女が潜んでいるのでは、と疑われる理由としては有り余ることを、彼女は度外視している。

奴隷を飼うことを嫌い、人間であることを望む彼女であったが、家族を害したものに人権を与える優しさは持ち合わせていない。前世の価値観を否定され続けた約四半世紀と、化け物の体を得て過ごしたたったの数年。積み重なった年月が彼女自身の倫理や道徳といった人道を欠けさせてしまった。

それゆえに他者から化け物と呼ばれることを、彼女はまったく理解できていない。


「あんたがここに来るなんて珍しいじゃねェか」


一定の間隔で高いヒールの音が海軍本部の廊下を叩く。背後に護衛を二人引き連れて歩いていたシエは、前方に立ち塞がった巨体を見つけて足を止めた。


「そういうあなたも、招集に応じるのは珍しいことよね?」


長い金髪を揺らして、頬紅を差した顔を緩ませる。喜びを滲ませるそれが好意と嫌悪、どちらから来るものか、相手は考えるよりも先にその名を呼んだ。


「ドゥルシネーア」


コツン。一際高い音が廊下に響く。

ドゥルシネーア。それが生まれ持った彼女の名前。そうして、彼女にとっては偽りの名前。彼女はこの名前を好いてはいなかった。何故なら頭の中に刻まれている名はそんな長ったらしいものではないからだ。シエという短い音の組み合わせこそが彼女に相応しいはずで、その美貌には全く相応しくない。だからこそシエはシエという名を好んで使った。海軍本部という正義の本山で本名とは別の名を名乗り、皆にそう呼ばせる。十分に不信感を抱かせるその行為が許されるのは、その身分が誰よりも天に近い場所にあるからだった。

それでも、目の前の相手に呼ばれると、自分がただのシエではいられないことを否が応でも自覚させられる。


「その名前は呼ばないでって、何度も言っているでしょう?」


シエは突然呼び止めた男に対して冷静に声をかけた。本心では別のところに意識が向かっていたが、姿かたちの変わらぬまま過ごしたこの何十年の経験が動揺を打ち消した。約三十年。世を儚むばかりの小娘が腹に一物を抱える大人になるには十分な年月だろう。

誰にも屈さず、誰にも靡かない。天竜人につく膝など、持ち合わせてすらいない。生まれついての傲慢さを纏う男。ドンキホーテ・ドフラミンゴを見上げて、ドンキホーテ・ドゥルシネーアの体を持つシエは満面の笑みを浮かべた。


「固いことを言うな、おれとお前の仲だろう?」
「その仲を認めていないのはあなたの方でしょう?」
「フッフッフッ! なんだ、よく分かってるじゃねェか」


薄い唇から漏れる空気が本当に笑っているのか。サングラスで覆われた目を見ても、シエには分かる自信がなかった。それだけ彼女とドフラミンゴがともに過ごした時は短く、遥か昔のことだった。シエが彼に向ける感情が果たして本当なのか、逆にドフラミンゴが彼女に向けている感情が考えている通りのものなのか。それこそ推し量れるわけがないのだ。


「あんたの言うとおりにするのは構わねえが」


3mの位置から顔を覗き込むようにシエに顔を近付ける。そのつり上がった口元も、構えられた右手も。何もかもを受け入れる覚悟で彼女は立ち尽くす。護衛の男たちもそれを分かっていてその背後で黙って腕を組んで立っていた。それが面白いのか、再度特徴的な笑い声が海軍本部の廊下にこだます。


「じゃあよ、シエって女はいったいどこにいるんだ? おれにはまったく見えねえなァ」
「安心なさい。もう、あなたの前から消えてあげるから」


間髪入れずに応えたシエは、話は終わったと言わんばかりにドフラミンゴの横を通って去っていく。これ以上いれば我慢していた何かが溢れ出しそうだったからだ。一緒に住みたい。家族として会いたい。そんな子供のようなワガママを面と向かって言えるような時期はとっくのとうに過ぎ去ってしまった。

そんな彼女の諦めに気付くはずもなく。瞬く間に表情を削げ落としたドフラミンゴを見た者は背後に立つ護衛だけ。

それが何度も繰り返された小さな不幸であった。

シエは失念していた。彼女は自分が化け物の体になってしまったから、他者の気持ちに疎くなったのだと思い込んでいる。人と人が分かり合うことがどれほど言葉を尽くしても大変なことを、化け物になった彼女はすっかり忘れてしまった。

父が狂い出す予兆を、ロシナンテの誤解と葛藤を、ローの別れ際の失望を、センゴクの畏怖を、ドフラミンゴの分かりにくい愛憎を。

数えきれないほどたくさんのシグナルを見過ごしながら、シエは戦争の地に背を向けたのだった。

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