無慈悲な閃光



騎士道物語に影響を受け我こそが騎士であると錯覚した男がいた。彼は自らをドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗り、己の騎士道に準ずる旅に出る。農民サンチョを従士とし、駄馬ロシナンテに跨って方々で暴れ回る厄介者を描いた物語は、当時の社会への痛烈な風刺として人々の胸に突き刺さった。

物語の中で、ドン・キホーテは騎士には守るべき姫君の存在が必要不可欠だと信じていた。高貴な姫君を想い守ってこそ騎士は高潔たりうるのだ。そこで登場するのがアルドンサ・ロレンソという百姓娘である。毎日を畑で過ごす泥臭く醜悪な村娘。お世辞にも決して美しいとは言えない娘を、妄想に囚われたドン・キホーテは唯一の姫君として崇拝し、彼女の美しさを世に広めんと奮闘する。どんなにアルドンサが醜く性悪であろうと、ドン・キホーテの目には美しく嫋やかな貴婦人にしか見えなかった。そして彼は架空の姫君に向けて架空の名を呼び続けるのだ。

彼の姫君の名はドゥルシネーア。ドゥルシネーア・デル・トボーソと言った。


バーボンは助手席に座る女を伺う。

ドゥルシネーアという名の酒をバーボンは知らない。安室透も降谷零も知らない。唯一引っかかったのはスペインの有名なメタフィクションに登場する架空の人物だった。これは偽名か、どういう意味を持っているのか、その美しい皮の下には醜い村娘でもいるというのか。今の段階では何も把握できない。けれど彼女が、最近噂になっていたとある幹部の直臣に近しい何かだということは確かだった。

ヤツが見ている、とは誰が初めに言い出したのか。最近の慎重派な連中がたまに口ずさむ妄言。ヤツがいるかもしれない間は、たとえ疚しいことがなくても大人しくしていなければならない。でないとすぐに組織の死神が粛清しにやって来る。

疚しいヤツは身を改めろ。
裏切り者はお祈りを済ませておけ。
ヤツの前では嘘は通じない。
ヤツの目から逃れられるものなどいない。

バカバカしい。薬のやりすぎで頭がおかしくなったのか。バーボンとて噂は噂だとしか思っていなかった。だが、噂とは噂になる前段階の根っこが必ず存在する。そして今回はその根っこがこちらの足を引っかけようと伸びる厄介なものだったのだ。

ボスに近しい大幹部に新しい部下ができた。ヤツはたった一年でジンに気に入られ重宝されている。裏切り者の炙り出しに余念がなく、近年の粛清の七割がヤツによる仕業だ。ライがFBIの回し者として排斥されたのもヤツの仕業だと、高い信憑性を持ってバーボンの元へと情報が回ってきた。

ライ……赤井秀一。

名前を思い浮かべるだけでハンドルを持つ手に力が入る。


「どうかしましたか?」
「、どう、とは?」
「いえ、なんとなく」


憤怒と憎悪と後悔と。

言葉に言い表せない感情が一瞬で霧散する。ざわめいた気持ちをなかったことにして、お得意の愛想笑いを綺麗に浮かべた。


「そういうあなたは大丈夫ですか? 今から行くのは敵のテリトリーですよ」
「お気遣い痛み入ります。もう慣れた仕事ですから」
「それはそれは、上も容赦ありませんね。あなたのようなか弱い女性にまでこんな汚れ仕事をさせるなんて」
「汚れ仕事だなんて……あなたの方がよっぽど大変な役割を与えられているではありませんか」
「はは、組織の無茶ぶりにはもう慣れっこですよ」
「まあまあ」


こちらの気持ちも知らないで、ドゥルシネーアと名乗った女はおっとり微笑む。

ラスベガスの夜の街は煌びやかで騒がしい。高級カジノが立ち並ぶ中心地から少し離れても人気は減らず、車内には人工的な光が何度も差し込んでは消えていく。何度も何度も目に痛いネオンを浴び続ける間、バーボンの脳裏にはまだ先ほどの光景が焼き付いて離れない。

指定のホテルの指定の部屋で待機している人間と任務に当たれと。上からの命令通りに行ってみれば主寝室の豪奢なベッドのど真ん中に女が寝ていたのだ。丁寧に手足を縛られ、アイマスクで完全に視界を奪った状態で寝かされていた。しかも装飾用のリボンを人間の拘束に使っているという悪趣味なオマケ付きでだ。適格に人間の関節を抑え動けないように計算された拘束だった。組織はとうとう人身売買にまで手を出したのかと、混乱で明らかに外国人の女に日本語で話しかけた。けれど返ってきたのは流暢な日本語で、拘束されていたわりには落ち着きすぎた態度で受け答えして見せる。そして当たり前のようにバーボンの目を見てこう尋ねた。


『それで、今回のお仕事は?』


その瞬間に、バーボンは今回のパートナーが彼女であることを確信した。


「では、手筈通りに」
「はい、いってらっしゃいませ」


車内で手を振る女に応えながらバーボンは建物の影へ静かに駆けた。

今回の任務は西海岸で幅を利かせる某マフィア幹部の弱味を握ってこいという曖昧なものだった。そのマフィアは組織と表向き不戦協定を結んでいるものの裏ではいつ噛みつこうかと牙をチラつかせる、組織にとって邪魔な存在だった。それがこの度ロスで本格的に動かなければならない情勢になり、組織は必要に駆られて粗探しに乗り出したわけだ。

例の幹部は闇カジノでの負けの払い分が滞り、組織の薬を不正に横流ししている。その取引データを盗んで来いと、探り屋バーボンは上から突然の海外出張を命じられた。しかもサポートとして例の覗き屋を連れていけとまで厳命されたのだ。なにがしかの裏が嫌でも感じ取れる任務だった。それでも完璧に遂行しなければバーボンは上からの信頼を得られない。得られなければ、今までの犠牲どころかバーボンも安室透も降谷零ですらすべてなかったことにされるのだろう。

こんなところで終わってたまるか。

カジノ街の光も遠くに見える廃墟群。そこから少し離れた駐車場に車を停め、影の中を泳ぐように目的の廃墟へと急ぐ。もともとは何かの工場であったそこはすでに親会社が潰れ人の手から離れて久しい。人気もなく売地のまま放置された工場は隠れ家にはそこそこうってつけの物件であろう。あらかじめ作っておいた鍵で裏口の扉を開け中に侵入。ここまでは確実に来れるルート。


『Go straight.』


インカムから静かに聞こえてきたのは端的な英語。今まで日本語での会話だったが、英語もネイティヴと遜色ない発音だ。やはり見た目通り主用言語は英語なのだろう。典型的なコーカソイドの女性から滑らかな日本語が出てくるよりはよっぽど自然だと思った。

暗く電気も付いていない通路。錆びついていて辛うじて使われているという風情の建物内をインカムの情報を頼りに歩き回る。暗視スコープ越しに通ってきた道筋を記憶しているものの、心臓はいつまでも早く拍動する。

探り屋バーボンの力をもってしても相手方の管理体制は分からなかった。いつ、何人、どういうルートで見張りが徘徊するのかも把握できていない。隠れながら侵入するにしては工場内は迷路のように狭い通路が入り組んでおり、ぶっつけ本番で行くとなると任務成功率は多く見積もっても一割を切る。そこで彼女の覗き屋としての能力を使うことになったのだ。超常的で非現実的で甚だ信じられない、目を瞑ってどこまでも見通せるという女の千里眼を。

バーボンの命は今、インカムの向こうにいるあの女にかかっている。握られていると言い換えてもいい。もし、あの女の能力が偽物であったなら。あの女が判断を間違えれば。あの女が裏切ったら。敵地のどことも知れない通路で囲まれて窮地に立たされる。十中八九、死を覚悟することになるだろう。


『Stop.』


初めて女から制止の指示が出る。と、同時にどこか遠くから規則的な音がバーボンの耳に届いた。足音だ。


『Left room.』


は。とっさに出かけた声を抑えられたのは僥倖だった。

音を立てずに左の部屋に滑り込み、扉の横の壁に身を寄せる。息を潜め、飲み込みかけた唾をそのままに、ただの一滴の汗もかけないまま、足音が遠ざかるのを待つ。待って待って、足音は止まる。ちょうどバーボンのいる部屋の、扉の前で。


『Stay.』


バーボンはこの時、本気で謀られたのだと疑った。

とっさに入った部屋は閑散とした物置部屋で、いくつかの段ボールが乱雑に置かれている。身を隠せそうなところも別の部屋への逃げ道すらない。これがあの女に仕組まれたことならばずいぶんと簡単に引っ掛かってしまったものだ。まさに袋のネズミというわけだ。

追い詰められたネズミなりに猫に噛みつくくらいの気概は見せてやろう。右手で懐から獲物を取り出し、セーフティを外し、サイレンサーを装着しながらも意識はずっと外の気配から外さない。ドアノブが回る。ノブが回り切り、内開きのドアが開いて相手からバーボンを隠す。室内に細い光の筋が差し、今度こそ冷や汗がこめかみを伝った。右手に力が入る。やるしかない。いつ、どのタイミングでやるか。サイレンサーは完全には音を消しきれない。少なくとも扉を閉めてから使う方が得策だ。だが、そんな暇を相手が与えるだろうか。


『Stay.』


念押しに再度同じ言葉が繰り返される。それも耳元で拍動する心音が邪魔で聞き取りづらい。いつまでも遠くでぬくぬくと指示を出す女の言うことを、果たしてどこまで信じるべきか。

獲物の銃口を構え、引き金に人差し指をかけたままドアから相手の姿が見えるまで待ち続けて、そして……

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