不揃う



油断していなかった、と言えば嘘になる。時間が足りなかった。急いでいるながらに最善の作戦を練ったつもりだ。それでも不測の事態は予期せぬ形で忍び寄ってくるものだ。まったく知覚できない影からそっと手を伸ばし、足元を軽々とすくっていく悪魔。ダークホースが動き出していた。諸星大の仮面を剥ぎ取った赤井は唇を噛んだ。

ボスに近づく一歩。幹部の中でも要となるジンとの接触。細心の注意と万全の体制で挑んだその夜。本当ならもう少し計画を練って一月、いや、三月後に決行するべき作戦。それを早めたのはライの活動中に奇妙な噂を耳にしたからだ。

組織が優秀な覗き屋を飼い始めた、と。

まことしやかに囁かれ始めた噂。その根拠として組織の裏取引の成功率が格段に上昇したことが最たる例だと言われている。今までだってそう多い数の不履行取引があったわけではない。それでも巨大組織なだけあって恨みは十二分に買っているものだ。他組織による騙し討ち、警察機関へのリーク、NOCの炙り出し。他にもいろいろと細かいものから大雑把なものまで、組織に対する反逆、攻撃行為と見なされるものが少しずつ目に見える数字で減っていっている。その時期と、とある幹部が大事に囲っているお気に入りの存在が登場した時期が被っている。それは奇しくも赤井が参加した例の殲滅戦の時期ともギリギリ被っていた。

ヤツだ。あの得体の知れない存在が動き出した。

約一年の沈黙を破って姿を現した化け物。けれど実際は未知数なままの伏兵。噂を聞くにまだ完全に表には出てきていない。ボスか、それに準ずる幹部からの信頼が完璧に得られていない証拠だ。ならばヤツの動きが活発化する前にこちらの最重要任務を遂行しなければならない。あの不気味な、得体の知れない能力でこちらを見通されれば今までの努力が水泡に帰すのだから。

まだ大丈夫。まだチャンスはある。後から思えばそれは赤井の楽観視でしかなかった。待ち合わせの現場にいた老人。キャメルが声をかけた瞬間に立ち上がり、嫌な笑みを浮かべて去って行った。そしてジンが来ないまま時は過ぎる。結果は言わずもがな、だ。任務後にキャメルは自身を責めたが、彼は「おい」としか言っていない。それだけで諸星大を裏切り者と断じる要素があるだろうか。老人は帽子を被っていて耳元がよく見えなかった。あれは通信機から誰かの指示を受けて動き出したところだったのではないか。そう、例えば。遠くからどうやってかこちらの動向が丸見えだった第三者によって。あの恐れていた覗き屋によって。

そうして諸星大の仮面は無用の産物となり、組織への糸口はどこか知らない場所へと隠されてしまった。偽装で付き合った恋人は、あの無愛想な妹のそばで厳しい監視の目に晒されながらの生活を強いられるのだろう。

そして、彼女を慕っていた友人は……


「諸星さん?」


不思議そうな顔で赤井を見る穂波シエは相変わらずだった。

例の大学の門前で待ち伏せするのも久しい。以前は明美の出待ちをしていたが、たまに彼女の方が先に出てきて痛くもない腹の探り合いをしたものだ。いや、彼女は赤井が探りを入れていたことすら気付いていないかもしれない。おかしなところはたくさんあったが、裏切り者の諸星大を前にして普通にしているあたり、少なくとも組織の関係者という線はゼロになった。代わりにもう一つの線が少しばかり濃厚になったわけだが。

この時、赤井は彼女の正体について粗方の見当を付けていた。


「久しぶりだな」
「はい、お久しぶりです」


日本人らしい黒髪にこげ茶の虹彩。平凡で凡庸な顔立ち。変わらず柔和な笑みを浮かべる穂波シエが一月もの短い時間接触していた相手。それで大方の予想がついてしまった。

穂波シエは恐らく公安警察の関係者だ。

確証は少ない。実際に表向き公安のデータベースには彼女の名は乗っていなかった。だが、偽名ならばその限りではない。その道の者ならば怪しいと食いつく餌を組織の関係者のそばに置き、相手が引っ掛かるのを待つ。一種の警報装置のような役割だったのだろう。それにまんまと赤井は引っ掛かりかけたというわけだ。

可能性の話。実際はそんな事実はコンマ数パーセントも存在せず、彼女がただの一般人である可能性の方が比べようもなく高い。だが、その僅かな可能性すら視野に入れていなければ足元をすくわれるのは赤井の方だ。また、あの組織の覗き屋のように一杯食わされるのなんて御免だ。


「諸星さん、明美さんのこと何か知りません? 連絡取れなくなっちゃったんですよね」


突然降ってきた核心。無邪気と言い切れる態度でこちらを伺う女。どこにでもいるような雰囲気で、どこにでもいるような当たり前さで明美を心配している。彼女の正体の糸口が見えたところで、これが彼女の演技だとはどうしても思えなかった。赤井と同じく、任務の途中で明美に絆されたのか、それとも最初から本当に友人として接していたのか。平凡なくせに赤井の洞察力をもってしても読めない女。変な女に対して思い浮かべる感情は、やはり一つだ。


「諸星さん?」
「……すまない、俺もそのことでここに来たんだ。君が知らないとなると本格的にお手上げだな」
「そうですか……諸星さんにも教えないなんて、明美さん、どこに行っちゃったんでしょうね」


いつも緩やかに弧を描いている口元が、少しだけ真一文字に近い形になる。それが彼女の不安を表しているのかもしれない。赤井は分からないなりに口を開く。任務のためとはいえ、赤井が利用し失敗したことにより引きはがされてしまった友人たち。嘘をつくことには慣れきっている赤井が久しぶりに感じた、それは罪悪感という鈍い痛みだった。


「すまない」


君の大切な友人を奪ってしまって。

最後にもう一度形ばかりの謝罪を贈って、赤井は踵を返す。恐らく穂波シエとはもう二度と会わないだろう。その確信に、少しだけ安堵を覚えた。



「謝る相手、間違えてますよ」


“彼女”の小さな呟きにも気付かずに。

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