正常に生きてみせろ



「ドゥルシネーア様は何故結婚しないえ?」


またその質問か。ドゥルシネーアと呼ばれた女は歪まぬ微笑みの下で嘆息していた。

息苦しい。面倒くさい。体を覆う幾重もの着物も、金魚鉢のようなシャボンのマスクも。顔を隠すためのベールやサングラスでさえ窮屈で仕方なかった。一部だけ結い上げた髪が妙に重く感じるのは気のせいじゃない。それにつられて気分すら重い。それもこれも、隣で呑気に鼻水垂らしながらアイスを貪る男のせいである。

女が久しぶりに聖地マリージョアへ足を伸ばしたのは海軍の招集に応じたからだった。正確には招集というよりは嘆願に近いものであったが、彼女からしてみれば招集に違いはない。火拳のエース処刑という大事件のために世界中から海軍将校や王下七武海がマリンフォードに集結する。時代の節目たる事件を目前に控えたこの時期に、悪戯に海軍を困らせるのも忍びない。隠居していたある春島の屋敷から船を出し、女は長く空けていた己の屋敷まで戻ってきたのだ。

そうして何故か、マリージョアだけに留まらずシャボンディ諸島にまで来てしまった。その目的とは、言うなればただの人付き合いだった。

人付き合い。ただの、天竜人付き合いである。


「ドゥルシネーア様は長く独り身だと聞いたえ。なんならわちしがもらってもいいえ!」
「まあ、口がお上手だこと」


地面を踏みしめる力が強まる。それが女の気持ちを代弁していた。若い男の奴隷を乗り物代わりに使い、犬の散歩のように見目麗しい女の鎖を引く。護衛の男一人を背後に控えさせたその天竜人の隣で、同じく護衛を二人引き連れた女は口元に手を当てながら返事をした。


「こんな年増をもらっても仕方ないでしょう、チャルロス」


誰がお前と結婚するものか。

微笑みながら内心で毒づくのも慣れたものだ。だって彼女の顔は自然と笑みを浮かべるようにできているのだ。どれだけ苦しくとも、どれだけ悲しくとも、どれだけ腹立たしくとも。元来の穏やかな顔が負の感情に歪むことはなかった。それは今もまた同じだ。苛立ちでムカつく心が誰にも知られぬままに奥底に沈められる。


「まーだ信じられないえ。お父上様とドゥルシネーア様が同い年だなんて」


何十年と変わらぬ美貌。それを横目に一舐めしようとしたアイスが、揺れのせいで手元が狂い、口の横につく。自らが乗っていた奴隷が息も絶え絶えなことなど見て分かるだろうに、チャルロスはヒールのある靴で男の後頭部を蹴りつけた。何度も、何度も。


「チャルロス、」
「おい! お前らちょっと待てェ!」


ああ、これだから馬鹿の相手は嫌なのだ。通りかかった急患の担架に向かって歩いていく男を見送る。

そもそも、今回シャボンディ諸島に足を運んだのはロズワードのお誘いだった。立場上、天竜人とのコミュニティから外れるわけにはいかないために、こんなどうでも良い付き合いで買い物に付き合いわされている。それも馬鹿と名高いチャルロスのお守りで、だ。この忙しい時期に呼び出して奴隷を買おうと言ってくるあたり、天竜人にとって世界の均衡など新聞の向こうの話でしかないのだろう。瀕死の重傷患者に足を振り上げ、他人の婚約者を平気で奪う癇癪持ちを眺めながら肩を落とした。

こんなことだから天竜人はゴミだなんだと言われるのだ。同じ人間のくせに下々民だなんだと蔑む彼らも、いくら助けても変わらないのだと諦めて見捨てる女も。

新しい妻に興味津々なチャルロスを尻目に、未だ四つん這いの男の汗にハンカチを当てる。これでさえ奴隷たちの目には偽善にしか映らないのだろう。僅かに視線を向けてきた男の顔も見ず、ゆっくりと辺りを観察する。膝をつく市民たちに混じって堅気ではない者たちが咄嗟に視線を逸らす様子を面白おかしく思った。やはり、見られていたのかと。

一際、視線を感じた方へ視線を向ければ長い金髪の男がこちらを見ていた。隣の部下が慌てふためき土下座しても、男の表情は変わらない。のっぺりと、能面のような無表情を晒して建物の影から女を注視していた。肝が据わった海賊もいるものだ。感心したところで耳障りな銃声が響き渡る。女にとって遠い昔に見た覚えのある男がチャルロスに向かって刀を抜こうとしたところだった。



***



「お兄ちゃーん! どうして死んでしまったのー!!」


咄嗟にロロノア・ゾロを突き飛ばし下手なひと芝居を打ったジュエリー・ボニーは早くこの時間が過ぎろと念じていた。まさか天竜人に斬りかかるアホがいるとは、流石に思いもしなかったのだ。ガラにもなく敵に塩を送る形になってしまったが、とばっちりが来るよりはずっとマシだった。

早くどっかいけ。バカみたいな泣き真似をあげていると、何故か背後から足音が聞こえてくる。ふわりと何かの花の匂いが鼻腔をくすぐる。最悪だ。泣き真似をしたままボニーは舌打ちをしたい気分になった。

男の腹筋に埋めた顔を少しだけ上げると、近づいてきたものの正体が分かった。天竜人だ。あの銃をぶっぱなした男とは別に、終始ニコニコとその暴挙を眺めていた女だ。紫色のベールと色濃いサングラスで顔を隠した妙齢の女。その手袋越しのしなやかな指が男の顔に伸ばされ、躊躇いもなくその額を撫でる。トマトジュースで血濡れに見える頭。指を這わせたせいでジュースが拭われ、傷のない滑らかな額があらわになってしまった。


「あら?」


その穏やかな声にボニーは凍りついた。バレている。完全に、嘘が暴かれてしまった。


「て、天竜人さま……!?」


まずいまずいまずいまずい。冷や汗が大量にボニーの額に浮かぶ。ここで女が声を上げればこのひと芝居もパアになる。それどころかこの場にいる人間全員の命に関わる。ボニーが触れただけでへし折れるであろう腕。それが一ミリでも動いただけで心臓に触れられているような怖気が走った。

どうする。どうすればいい。次の作戦を頭に巡らせている中、女の顔がゾロの耳元まで近づいていく。そうしてベールの衣擦れで消えてしまいそうなほど小さな声で、そっと呟いたのだ。


「あなたが死ぬのはここではない。もう少しお利口になりましょうね、海賊狩り」


額に触れていた指がゾロの頬をひと撫でして、ついでにボニーの頭を撫でてから身を起こした。その顔は口元だけがにこやかで、サングラスに覆われた目がどんな色をしているのか分からなかった。


「ドゥルシネーア様ァ?」
「……行きましょう、チャルロス。ロズワードもシャルリアも待たせてしまっているわ」


朗らかに振り返った女が男に声をかける。すると聞き分けのいい子供のように男は頷いて奴隷の背に乗った。それだけ従順な態度を取れる男だとは。それほど女が近しいものなのか、その地位が高いということか。いずれにせよさっきの声を聞いた限りでは馬鹿というわけではないらしい。馬鹿が権力を持つほど厄介なものはないが、頭がいいヤツが権力を持つのも恐ろしいものがある。それも曲者であればあるほど。少なくとも、ボニーにはその女がただの優しい女には見えなかった。

奴隷に合わせた遅い歩み。時間をかけて去っていく後ろ姿から終始目を離さなかったバジル・ホーキンスが目を丸めている。土下座から立ち上がった部下だけがその違いを見抜いた。無表情の能面顔に見えたそれが、普段とは違う驚愕に満ち溢れた顔だということを。


「あの女の死相が、見えない」

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