静寂に従い終わりゆく



“明美さん、卒業おめでとうございます!”
“ありがと!”


卒業式の華やいだ場に艶姿で佇む明美はとても綺麗だった。たくさんの人間に囲まれ祝われて、今日卒業する友人をシエは心から祝福した。大学内で明美の姿を見れなくなることは寂しいが、それが叶わなくても携帯にはお互いの連絡先が入っている。電話をして予定を立てれば確実に会える。それだけで彼女にはとてもすごいことだった。あの広大な海に覆われた世界では一度の別れが永遠の別れになる可能性を孕んでいた。確実なんてことは何もない世界からすれば現代日本は平和そのもので、シエにとって魅力的すぎる場所だった。

穂波シエとして大学に入学してから二年。限られた楽しい時間も、もう折り返し地点に差し掛かる。それを惜しく思う気持ちが半分、残りの時間をより楽しもうという気持ちが半分。前向きに見据えた先の終着点は未だ見当たらない。いつまで生きるのか、いつか終わりが来るのか。誰も何も知らない。シエも、ドゥルシネーアですら分からない。それが当たり前の毎日をいつまでも生きていく。

何十年と変わりない生活を送ってきた彼女には、日々変わり行く今が新鮮でかけがえのないものだと。しみじみ思ったのが二ヶ月前のこと。


『ごめんなさい、ドゥルシネーア』
「いいの、手間ではないから」


何度目かも分からない謝罪。しおらしさの伺える声音がベルモットの本心から来たものか、ドゥルシネーアとて電話越しでは流石に分からない。本心だろうと信じることにして緩く首を振る。事実、これからの任務は手間ではない。正しく言えば、移動時間がかかるだけで彼女は座っていれば良い仕事だった。

名も知らぬ誰かが運転する車の後部座席で通話を切る。名乗らない、ということは知る必要はないということだと勝手に判断して、どこに向かっているのか分からない車窓を眺める。そうして見えてきたのは人気のない埠頭。また海。瞼と一緒に機嫌も自然と落ちていく。こんな任務を押し付けてくるジンを憎く思うほど、ドゥルシネーアの笑みは濃くなっていった。

あの日銃口を構えたジンは、結局ドゥルシネーアを撃たなかった。

大きな舌打ちを一つ。乱雑に取り払われた目隠しの先に鋭い眼光の男を見た。現代では珍しい銀髪に少しだけ目を丸めたのを覚えている。紅茶色の瞳を間近で見たジンと言えば、忌々しげに銜えたままだったタバコを彼方に投げただけ。一応はドゥルシネーアを認めたらしい。こちらが内心気を抜いたところで彼の警戒はいつまでも解かれない。外れない視線を流しながら、既に塞がりきった傷を庇って振り返る。もう帰って良いだろうと勝手に判断して、駆け寄ったベルモットに支えられながらバイクで彼女の泊まるホテルに移動した。


“馬鹿ッ!”


ベルモットはドゥルシネーアの頬を張った。赤くなるほどの力でぶたれ、熱が痛みに変わる前に腫れは引いていく。馬鹿。馬鹿。二度三度と罵るベルモットを笑顔で受け止めるドゥルシネーア。それが化物なりの真面目な顔だと知りつつも、ベルモットは乱暴に服を脱がせ始める。血を吸って重くなったコート。変色したタートルネック。滑らかな白い肩があらわになると苛立たしげにベルモットの柳眉が歪んだ。


“シャワー、浴びてきなさい”


絞り出したセリフはそれだけで、ドゥルシネーアも頷くのみに留める。ベルモットとて分かっていたのだろう。あの時、ジンの信用を形だけでも得るには奇を衒った強硬策に出るしかない。不老不死の身体を知られるくらいなら、たとえベルモットとの約束を破ることになろうと仕方ない。だからこそベルモットは理由を求めないし、ドゥルシネーアも謝罪をしなかった。重苦しい沈黙。一晩ともたない冷戦。面と向かって気持ちをぶつけ合うには二人は理性が出来上がりすぎている。すべてを知って利用するベルモットと見た目不相応に老成したドゥルシネーア。秘密としがらみを持つ二人の間に普通の友情が成立するかどうかは、実際問題怪しすぎる話だった。

ドゥルシネーアとしての仕事が激増したのはそれからすぐのことだ。なんとか仲間として認めさせたところで、悪印象を抱かせたジンの機嫌は直らなかったらしい。以前は半年に一回あるかないかの呼び出しが、現在では月に数度にまで増加した。それも当日に突然連絡が入るものだから大学の講義を休まざるを得なくなる。ベルモットの抗議も意に介さず、少なくともドゥルシネーアが成果を上げるまではこの不規則な生活が続くのだろう。ジンの命令に振り回される形で穂波シエとしての生活は徐々に侵蝕されつつあった。

車が停まる。閉じていた目を開けると、夜の向こう側に潮の香りが広がっている。運転席の男から渡されたノートパソコンを操作し、インカムを耳に装着してしばらく。底冷えするような声が鼓膜に飛び込んできた。


『今から送るメールの男がそこの倉庫に来る』
「お望みは?」
『まず人数を探れ』
「分かったわ」


短いやり取りですぐに切れる通信。間もなくジンから送られてきたメールには件名と画像が一枚。たったそれだけ。それだけで十分に仕事は完遂できる。慣れたように目を瞑って集中するポーズを取ると、見聞色の覇気で唯一人気のある倉庫の中を探り出した。

理解してしまった失望と、大きな納得を胸の底に沈めながら。


「倉庫内に男が十人。外に男が三人」


運転席の男が僅かに反応を示す。それは予定にないことだったのだろうか。外にたった一人出てきた老人のことも告げると、早急にどこかへと電話し始めた。相手は言わずもがな、さっきまでドゥルシネーアと会話していたあの男だろう。移動に時間をかけたわりにもう仕事が終わってしまった。背もたれに預けた身体を少しだけ和らげて目を開ける。

振り返るまでもなく、確かに今回も手間ではない仕事だった。けれどそれはドゥルシネーアに限っての感想だ。今この時まったく関係ないはずの穂波シエにとって、今夜の仕事は最悪なものになってしまった。もう一度目を閉じて、開けて。暗闇で煌々と光る画面を再度見下ろす。そんなことをしなくても忘れるはずもない男の画像。今日まで知るはずのなかった呼び名を使って、たった今突きつけられた事実を分かりやすく言い直す。


「ライは裏切り者よ」


諸星大がそこに立っている事実から見出してしまった意味。彼が組織の人間であったこと。どうしてか組織に対する裏切り行為を働いていたこと。そして、自身の大事な人の悲しむ顔。ドゥルシネーアの口からもたらされた確定的な未来に、穂波シエは静かに笑った。泣くように、怒るように、口元を歪めて声を殺す。それが彼女なりの諦めであり、絶望にも似た現実逃避だった。


「うらぎりもの」


再度口にした瞬間、ドゥルシネーアは昔の自分に戻ったような感覚を覚える。例えば奴隷を虐げる家族を初めて見た時。例えば理不尽な理由で金品を搾取する同族を無視した時。例えば目の前で転んだ子供が横から撃ち殺された時。例えば、例えば…………

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