白骨化したゆめの痕



ドゥルシネーアの身体がただの人間だった頃。四半世紀ほどの短い間に触れ合った姉は良くも悪くも貴族らしい女性だった。嫋かで淑やか、なにより無垢な思想。父親の悪逆も自らの血筋の罪深さも知らず、世界中の人間から搾取された金の上で生きるお嬢様。理想論者の夫の言を素直に信じ、守られていたはずの地位を自ら捨て、そして世界の憎しみに殺された。迫害を受けながらも逃げ付いたゴミ溜めの中、病に冒され息を引き取った彼女。夫と子供に多大なる絶望を与えたその死を、ドゥルシネーアが知ったのは不死の身体を手に入れた後だった。ドゥルシネーアの家族はすべて彼女の元を去り、悲しみも憤りも痛みとなって化物の身に突き刺さる。傷一つ、生まれてこの方つけられたことがないというのに、心の傷は笑顔という仮面の下でずっと疼き続ける。家族が死ぬたびに、心が化物に近付くたびに。泣けない顔に笑みを浮かべた。嬉しい時も、悲しい時も。彼女の顔は笑みを浮かべる。そういう呪いを身に受けたのだ。

たくさんの死と別離を繰り返すたびに強固になる呪い。それを解ける人間が現れないことを、ドゥルシネーアは願い続けた。

その涙を見た人間は不幸になる。姉のように、父のように、義兄のように、甥のように。この世から去る運命に位置づけられるのだと、少なくともドゥルシネーアは信じていた。

だからだろうか。ドゥルシネーアではないはずの穂波シエは、確かに宮野明美に執着していた。明美に姉の面影を見たのか、もしくは姉の死すら気付かなかった愚かな自分の贖罪か。よく笑うこと以外は姉とまったく似ていない明美と、義兄とは別の方向で彼女を唆す諸星大という男。少なからず感じる既視感がシエの心を騒がせていた。

何も知らないまま全てが終わっていた、なんて。そんなことは、もう耐えられない。



***



「シエ、彼氏ができたって本当?」
「あ、昨日別れました」


早すぎる話題の幕引きであった。

シエがあまりにもあっけらかんと言うものだから、明美は間の抜けた顔をしばらく晒すことになった。一方のシエもすぐに押し黙ってしまった明美を不思議に思って首を傾げる。事実、彼女は挨拶を返すノリで言っただけだったのに、明美にとってはそう軽い事ではなかったらしい。酷い質問を酷いタイミングでしてしまったと後悔する彼女に、シエは呑気な声を出した。


「どうしました?」
「あの、ごめんなさい」
「え、なんで謝るんですか?」
「本当にごめんなさい」
「謝らないでくださいよ、円満離婚ですってー」
「…………破局したのに円満なの?」


真剣な謝罪に無神経なほど明るく返すシエ。そこまで深刻なことではないのかもしれないと、明美は安堵で力を抜いた。それを気にすることもなくシエは軽く続ける。


「お互い好きの種類が違かったんですよ」
「お友達として好きだったってこと?」
「だって彼、付き合って一ヶ月でキスのひとつもないんですよ? 子供だってもっとマシな恋しますよー」


などと茶化したものの、元々キスする気がなかったのはシエの方だ。

あの日、風見をマンションに連れて行った時。彼の目的が桝山との接触だと確信した瞬間、シエはこの関係の終わりを悟った。気を利かせて“行く必要のない”トイレまで移動して、この一ヶ月のことを思い出す。友人との散歩とそう変わりなかったな、というのが彼女の結論だった。結局、彼に男女のお付き合いというものは教われなかったが、異性と手を繋いで歩く体験は実は貴重なものだ。例え友達同士が戯れるような関係だったとしても、それだけでとりあえずは満足した。一人納得して、この関係にピリオドを打つための準備に取り掛かったのに。


『キス、しましょう?』


帰り際、これが最後になるだろうと投下した最大級の揶揄。彼の性格では好きでもない相手にキスできないことを見越しての提案だった。むしろキスすることによってマスクの存在に気付かれてしまうかもしれないのに。風見裕也という男はキスできないという絶対の自信の元で、どんな風に彼は慌ててくれるだろうと。高みの見物でシエは風見の動向を見守ったのだ。


『すまない』


けれど返ってきたのは謝罪の言葉。赤面も焦燥も見えない、真顔。深い眉間のシワが彼の言葉に苦い真剣さを纏わせる。シエのテンションが一気に地の底まで落ちた。そうしてしばらく、咀嚼して飲み込んだこの事態を胸に、その体に身を寄せたのだ。


『すまない、すまない』


同じ言葉を繰り返す風見を、優しく抱き締める。身長的には彼の胸に抱きつく体勢にはなったが、気持ちだけはその体を包み込むような抱擁を意識した。尚も『すまない』と繰り返す風見に、抱いた感情は哀憐だった。可哀想なことをしたという罪悪感。イーブンな関係だと割り切っていたのはシエだけで、彼は彼女を騙している自責の念にずっと苛まれていたのだと。彼の性格を思えばそうなることなんて予測できただろうに、シエは自分が楽しむことばかりを考えていた。それでも彼女は自己中心的に思う。最後の最後にそのことに気付けて本当に良かったと。


『ありがとう、楽しかったよ』


謝らない。何も聞かない。責めない。最初からこちらも本気じゃなかった、だから気に病むことはない。人間らしい感情を精一杯慮った、それがシエなりの別れの言葉だった。


「確かに、一ヶ月でそれはないわね」


つい昨日噛んだばかりの苦虫を一晩で消化し切ったシエ。当たり前に見慣れた微笑みに、事情を理解できていない明美が苦笑をこぼす。


「で、諸星さんとは何日でキスしたんですか?」
「そうね、確か……って、やだもう!」
「えー、教えてくださいよー。諸星さんがどう口説くのかなんて想像の範囲外すぎる」
「普通よ、普通!」
「普通な諸星さん!? もっと想像できない!」
「もう、大くんに失礼よ!」


窘めつつも笑いが抑えられない明美。彼女の笑顔に安らぎを覚えるシエ。どこにでもある普通な関係。普通な友達同士。


『ハロー、ドゥルシネーア』


楽しい楽しい毎日は、一本の電話で脆く崩れていく。ただ唯一の幸いは、崩壊の要が彼女自身であったこと。何も知らないまま終わっていたあの頃とは違い、知っている状態で起こっていくすべて。ドゥルシネーアであり穂波シエである彼女の些細な挙動で、日常は簡単に失われていくのだ。


『ジンがあなたに会いたがってる』

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