掴まり立ちで春を踏む



最初の失敗は風見の焦りから来たものだった。

彼が警視庁公安部に配属されて初めて担当することになった案件。それはとある政財界の大物と反国家組織との繋がりに関する真偽の裏付けだった。裏付けとはいうものの、ほぼ白と断定できるような案件だ。それでも慎重を期して調査するのは、昨年起こった反国家組織同士の抗争の際に不正に資金を横流ししていた政治家の件がまだ尾を引いていたためだ。それだけ動いた額が大きかった。資金提供元が一つだけというのは可能性として低いだろう。公安警察はその可能性の有無を確かめるために捜査の手を伸ばす。そしてヒットしたのが件の男というわけだ。

彼は昨年の例の抗争から一ヶ月ほど後に都内の高級マンションを購入。そのまま今年まで書類上誰も住まわせることなく放置しているという。引越す気配もなく、投資のためにしても誰にも貸し出さないのもおかしい。家具の設置や水道ガス電気等の生活環境は整っているが、本人も家族も誰も使っている様子はいない。

タイミングが怪しすぎる、というのが先輩方の意見だった。例の組織も壊滅はしたが残党狩りはまだ続いている。書類上は無人のそこに何か疚しいものでも隠しているのでは、と。可能性は極めて薄くとも、皆無でないのならば調べなくてはならない。

そうして調査を進めていき、行き着いたのがとある女。穂波シエという名の女子大生だった。

件の男は忙しい時間の合間を縫って彼女と落ち合っているようだった。ある時は彼女のバイト先の喫茶店。ある時はレストランでのディナー。またある時はのんきに公園で散歩をしていることもあった。何より彼女は良くも悪くも普通だった。容姿も財力も知性も飛び抜けているわけでもない、ごく普通の女子大生。唯一、彼女の何が怪しいといえばその経歴くらいだろう。二年もの失踪。公安の力をもってしてもその間どこにいたのか掴めない。そして幻が実体を持ったかのようにどこからともなく現れた。失踪中にどこぞの組織との関わりを持ったという線も捨てきれない。若い女を洗脳して手駒にすることなど裏の世界の人間なら朝飯前のことだろう。

風見たちの意識は自然と穂波シエへと移っていった。件の男の周りが厳重過ぎるほどに固められ、最後の糸口がそこしかなかったのだ。まず手始めに彼女の周囲を監視し、必要とあれば接触。そこから捜査の手を進めていけば良い。幸いと言うべきか彼女の交友関係は多種多様だ。年嵩の男であろうと接触は容易にできる。何より、その中には一般人とは言い難い大物が何人か紛れていたことも彼女の怪しさを引き立てていた。触れれば触れるほど深まる疑念を睨みつつ、風見は彼女の監視のためにバイト先の喫茶店に足を運び始める。


『彼氏を作りましょう』


そこでたまたま聞こえてきた会話が、そもそもの失敗の始まりだった。話の内容からして、あのマンションは彼女のために購入したものだという。真偽は定かではないが親しいとはいえ他人のためにそんな高額な買い物をするだろうか。その疑問の答えは風見の目の前にあった。

件の政治家と接触するには手っ取り早く彼女と恋人関係になれば早いのでは、という考えが風見の頭の中で瞬時に弾き出される。そしてそのまま下手な告白で見事彼女の隣に収まってしまったのだ。問題は、風見が好きでも何でもない女に愛を囁けるほど器用な人間ではなかったこと。そして犯罪者の可能性はあるものの、見た目はまるっきり一般人のような彼女の心を弄ぶという苦悩。報告をした風見に対して先輩方からの叱責が飛んだのは仕方ないことだろう。

突発的なことだったために本名を名乗ってしまったのも大きな失敗だった。これで風見は少なくとも彼女の周辺での潜入捜査は行えなくなった。それ以前に向いていないのだから裏方に回るしかないことも分かっている。

初仕事。初任務。上司や先輩方からの叱責。頼るものが少ない緊迫した毎日の中、風見を癒したのは騙しているはずの彼女だった。


『風見さん、次はミステリーコースター行きましょう!』


握られたままの手を引かれて列に並ぶ。たまに力がはいるそれは女性特有の優しい柔らかさを持っている。異性の手を握るのは久しぶりの感覚で風見の胸は意図せず弾む。公安というエリート集団に食い込むために血の滲む努力を続けてきた。思えば少し荒んだ日々を送ってきたのかもしれない。屈託のない笑顔は眼鏡越しで見ても眩しく、守るべき日本国民の姿を想起させる。こんな女性を疑っているのかと、罪悪感が湧いてくるほどに。

手を繋ぐだけの拙いデートを、何度も繰り返した。その度に張り付いた捜査官たちが、何より風見自身が彼女に探りを入れ続けた。携帯や手帳を覗いたことも数え切れない。後を着けて家を特定し、何日か張り込みもした。すべてに彼女が気付いた様子はなく、何も知らない彼女の笑みが風見の良心を締め付ける。

付き合い始めてまだ一ヶ月。友人のような付き合いをしてきた仮の恋人に、風見はすっかり心を許しかけていた。まったくの白だったというだけではない。それだけ穂波シエは優しく、穏やかに、彼の心の隙間にするりと入り込んでしまったのだ。恋人というより友人のような、むしろ妹という位置づけの方が強い。そんな彼女に淡い想いを抱くのも時間の問題だろうか。


『来週、会ってほしい人がいるんです』


潮時が目に見えて近付いていた。


「君がシエちゃんの恋人か。思ったよりも実直そうな男じゃないか」


桝山憲三。国内屈指の自動車メーカー会長を務める政財界の大物。穏やかな微笑みの好々爺が柔らかい視線を風見に寄越した。

連れてこられたのは例の高級マンション。欧州の有名家具ブランドで統一された広々空間に穂波シエと風見、そして桝山の三人のみ。まるで実家への挨拶か何かのようだが、空気は不思議と落ち着いたものだった。彼女と桝山の会話といえば、敬語が抜けていないものの風見と話すより明らかに気安さが目立つ。友人関係というのは掛け値なしの真実だったのだろう。会話の内容から、このマンションは穂波シエだけでなく他の友人のための溜まり場として用意したものらしく、いつ仲間内に打ち明けるか悩んでいたらしい。なんてややこしい。金持ちの道楽は庶民には分からないものだが、このために一ヶ月を費やしたのかと頭が痛くなる。

目立たない程度に周囲に目を走らせ、不審な点はないか探りを入れる。どこからどう見てもただのマンションの一室だった。ポケットに忍ばせた機器の異常も見当たらない。会話の内容からしてこちらも白であることが確定し、この一ヶ月張り詰めていた気が緩み出す。

その緩みが最後の失敗だったと、風見は後悔する。


「君は本当にシエちゃんのことが好きなのかね?」


穂波シエがお手洗いに席を立ったタイミングで桝山の態度が硬化する。即座に肯定した風見を、恐らく彼は信用していない。空気が正しくそう語っていた。これは友人に悪い虫が付く嫌悪の態度と取っていいのだろうか。


「どういうところに惹かれたのかのォ?」
「か、彼女との会話が、私には心地よく、ずっと一緒にいたいと思うように……」
「会話が心地よい? ……なるほど、本当に分かっていないのだね」
「失礼ですが、分かっていない、とは?」
「そのままの意味じゃよ。まあ、年寄りの世迷言だと思って忘れてくれ」


おもむろに取り出したタバコを咥え、マッチで火をつける。一連の動作を見入っていた風見は、もう話す気もない老人にどう切り返していいか迷った。そうこうしている内に彼女は帰ってきて、すぐにその場を辞することになる。桝山が何を言おうとして、どうして止めたのか。疑問はふわふわと風見の頭に停滞している。


「あ、風見さん」
「なんだ?」


それでも体は変わらず。いつもの慣れで彼女を最寄り駅まで送って、手を振ってさようなら。そう締めくくるはずの時。穂波シエは風見の袖口を引っ張った。柔和な笑み。安心感を与える表情のまま、リップで色づいた唇が予想外の言葉を告げる。


『“我々”は普通じゃない彼女に惹かれたのだよ』


もし、もしも。先ほど桝山が本当に言いかけた言葉を聞いていたのなら、風見はその顔に恐怖を抱いただろう。だからこそ、あの男は黙して語らなかったのだと言えるのだが。そんな裏を知る由もない風見は、ただ、その女が持つ底のない雰囲気に飲まれていった。


「キス、しましょう?」

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