肺呼吸の不得手な君へ



穂波シエに戻る前のドゥルシネーアは他者との会話に飢えていた。

生まれ変わった世界でドゥルシネーアは絶対的な地位にいて、そのために気軽に声をかける人間など無に等しかった。いたとしてもそれは仕事上の事務的な連絡であったり、彼女個人に思うところがあってちょっかいをかける輩だったり、まったく碌な相手がいない。むしろその碌でもない相手ですら楽しいお茶会でも始める気分で会話を続けると、だんだん相手が気味悪がって切り上げる。剥がれ落ちない笑顔のポーカーフェイスは胡散臭さを強調し、彼女の飢えを完璧なまでに相手に漏らさない。不老不死の身を手に入れ時間の感覚が狂ってしまったドゥルシネーア。友と呼べるごく少数の人間と、たまの会話を楽しむ寂しい“人生”。彼女は日々を無為に過ごしてきた。

だが、今はどうだろう。

天竜人という言葉の意味が通じない場所で、偽物でも日本人の顔を手に入れ、学舎の一学生として当たり前に溶け込めている。これが彼女にとってどれほど好都合なことだろう。普通に埋没できるこのポジションはまさに夢のような現実。マスクを付けてもしぶとく残る微笑みのまま、穂波シエは学生生活を満喫していた。それが少々羽目を外す結果になったのかもしれない。

日本に戻ってきたシエはそれはもう浮かれていた。目に映るビルも車も電話も人も動物も。自分の遠い記憶を蘇らせるために見て触れて感じて。そして人との会話によって様々なことを思い出そうとした。

時間と好奇心が許す限り、手当たり次第、無差別に人との交友関係を広げて行き、日本で暮らして三年目。無事二年に進級した現在。彼女が普通のことなのだろうと納得していたことが、普通じゃなかったことに少しずつ気付き始めていた。


「ちょっとでも時間ができたら会いに行きたい人ってどんな人だと思います?」


閑散とした午後の喫茶店。お昼もおやつの時間もとうに過ぎ、夕食にも早すぎる時間。バイトも暇を持て余すこの時間によく来る客を見つけ、シエは疑問を口にした。


「そうね、恋人とか、滅多に会えない友達とか、かしら?」
「んんー、やっぱりそんなところですよね」
「ところでどうしてこんな質問を?」
「ちょっと最近おかしいのかもなあと思うことがありまして」


ブレンドコーヒーのおかわりを注ぎながら頭を唸らす。


「私はお友達だと思っているし、向こうもそうだとは思うんですけど、なんか『コレ、友達なら普通なのかな?』っていうことが出てきてですね」
「例えば?」
「マンションのワンフロアをプレゼントされました」
「え?」


ポカンと。相手が驚いたような顔をするので、シエはやっぱりおかしいのかと再確認する。


「『外で君と会うのも楽しいけれど、落ち着いて話ができる場所も必要だね』って。その時はなんとなーく頷いちゃったんですけど、やっぱりもう住む場所がある人に家を贈るのっておかしいですよね」
「そ、そういう問題じゃなくて」
「あ、そういえばあのマンション、階段で上の階にも繋がってるヤツだからツーフロアかな?」
「メゾネット……ちなみに階数は?」
「えーと……45階?」
「…………」
「え、なんで黙っちゃったんですか?」


シエとしては一緒に頷いてくれると思っての返答であったが、相手にとってはキャパシティの限界を超えたらしい。


「れ、怜奈さーん?」


堪らず、シエは相手の名前を呼ぶ。最近売れ始めたテレビのアナウンサーである水無怜奈は、それは秀麗な顔を曇らせてシエを見上げてきた。


「シエちゃん、お金に困ってるの?」
「おかね?」
「騙されてるんだわ、それって援助交際よ」
「援助交際ってなんですか?」
「えっ」


純粋な疑問のつもりだったのに、怜奈は複雑そうな面持ちで口をまごつかせている。まだ日本での生活に慣れきっていないせいか、シエは細かい言葉や造語に疎い部分があった。そんなに言いにくいことなのかと。軽い気持ちで首をかしげ、次の言葉に肝を潰した。


「……お金を対価に自分の体を差し出すお付き合いのことよ」


お金を対価に体を差し出す。金銭で体の自由を奪う。その表現に近い存在を彼女は知っていた。最も唾棄すべきことであり、現代にそんなものはないと信じ込んでいたもの。思い出しただけで嫌な記憶が蘇り、背筋が急に涼しくなった。


「それって……奴隷ってことですか!?」
「奴隷? ま、まあ、それに近いかしら」
「違います違います! そんな非道なことあるわけないじゃないですか! ただのお友達ですよ!?」
「そ、そう? なら良いんだけど」
「はい、お友達です!」


勢いよく否定するシエに押され、とりあえず怜奈は頷く。だがまだ完全には納得していないようで、唇に人差し指を当てながら思案すること数瞬。パッと思いついた方法はシエの思考外の方へと飛んでいった。


「彼氏を作りましょう」
「彼氏、ですか?」
「こっちにその気がなくともあちらにその気があったら大変よ。誰かに彼氏役をお願いして会わせてみたら分かるんじゃないかしら」
「でもあの人六十過ぎだし、奥さんも子供もいるし、その心配はないんじゃないかなあ」
「いいえ、世の中にはいくつになっても若い子が大好きな男性が一定数いるのよ。浮気だって珍しくないわ。とりあえずハッキリさせておきましょう」
「といっても、彼氏……恋人……」
「お願い、私も心配なの」


と、そこで時計を確認した怜奈が慌ててコーヒーを飲み干す。どうやら仕事の時間が迫っていたらしい。代金を支払いながら再度念押しし、彼女はお店を後にした。残ったのは依然として笑顔で困った感情を隠しもしないシエ。店内には客が一人しか残っておらず、ゆっくりと彼女の飲んだカップを片付け始めた。


「すいません」
「あ、はーい」


ちょうどテーブルを拭き終わったところでその客から声がかかる。


「突然のことで恐縮なのだが」
「はい、コーヒーのおかわりですか?」
「いや…………連絡先を、教えて欲しい」
「はい?」


シエはまじまじと相手を見つめた。短くサッパリとした黒髪に黒縁メガネ。長身で体格のいい若い男性が、緊張して喉を鳴らした。


「以前から君のことが気になっていて、良ければ友人から始めてもらえないだろうか」


意を決した言葉。握りこまれて白い拳。妙に発色の良い顔は、こういうことに慣れていない証拠だろう。視線がチラチラとシエと店内のどこかに向いて逸らしてを繰り返している。十中八九誰が見ても恋愛に奥手な男性が勇気を振り絞って声をかけた、という風体だ。

ナイスタイミングだ。とても偶然とは思えないほど、絶好の。シエは両手を合わせ、普段よりも溌溂とした笑顔で頷いた。


「じゃあ、お試しで付き合いませんか?」
「い、いいのか!?」
「はい、今ちょうど彼氏が欲しかったところなので。お試しでもよければ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく頼む」
「私、穂波シエです。お客様のお名前は?」


緊張と安堵、そして警戒。恋慕なんて甘い感情はどこにも見当たらない男は、先ほどと打って変わって堂々とシエの顔を見つめた。


「風見裕也だ」

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