眠れぬ悪い子は私です



神様なんていないと、本当に思っていた。


『グッナイ、ベルモット』
「グッナイ、ドゥルシネーア」


リップ音を響かせて電話を切ると同時に、無骨な鉄の感触が後頭部に押し付けられる。


「電話の相手は誰だ」
「私の可愛い仔羊ちゃんよ」


本当はどちらの方が仔羊なのか。

慌てず騒がず。バスタオル一枚で振り返ったベルモットのふざけた返事に男は鼻を鳴らした。まっすぐ黒いコートに添うように伸びる銀髪。鼻下までかかる前髪の隙間から冷酷無比の眼光が刺さる。怖い人。向けられたままの銃口を気にもせず、黒いコートの胸元に艶かしい身体を寄せた。


「ネズミじゃねえだろうな」
「そんなわけないじゃない」
「確証は」
「ジン、あなた気が立ってるのよ。つい最近あぶりだしたばかりでしょう。そんなことより、」


毒々しい赤で彩られた爪がジンの頬を引っ掻く。そのまま抱えるように胸元に頭を引き寄せて、耳元でひっそりと男を誘う。ただの女が一匹。


「久しぶりにマティーニでも作らない?」


むせ返るアルコールの夜に溺れて。ベルモットは思い出していた。

目の前で自分の代わりに撃たれた彼女。庇うために押し倒されて彼女の熱い血潮を顔に浴びた。あのお綺麗な顔に穴が空いて、すぐに埋められていく様子を間近で見ていたから。ベルモットはそれが嘘でないことを見抜いた。タネも仕掛けもない魔法。恐れていた研究が完成して、その結果を見せびらかされたのだと。最初は勘違いしていた。

けれどボスからの電話は一向になく、これはもっと別の問題なのではないかと思い至る。気が動転していて忘れていたスナイパーは、幸運なことに自分の居場所を知られたからか逃げてしまった。一度尻尾を見せた獲物を狩るのは容易い。敵対者の処分を部下に命じ、ベルモットはなりふり構わず彼女をホテルのクローゼットに監禁したのだ。

彼女は危険だ。ボスにも、誰にも知られるわけにはいかない。例の薬の完成が程遠いからと気を抜いていた。不死身の体を明け渡せば、未だ理想にかすりもしない研究に夜明けの光を見せてしまうかもしれない。そうなれば全てが終わり。

一週間。水も食料も与えず、体の自由を奪ったのは、自らの手で殺すのが怖かったから。殺したそばから目の前で生き返られたらベルモットの方が絶望で気が狂ってしまう。だから間接的に殺そうにも結局彼女は死ななかった。ならば次は精神を壊そうと適当な仕掛けを施す。水滴の音だけを聞かせた状態で目隠しをし、刃物を手首に当てて放置すれば人間の脳は手首から出血をしている錯覚を起こして勝手に死ぬ。刃物を当てていなくとも責め立てられているプレッシャーを感じて落ち着いてはいられない。そう考えてさらに一週間放置した。

一週間後に見た彼女は笑っていた。初めて会った時から変わらず、笑ったままだった。柔らかく、優しく、清く、空々しく。ベルモットの仕打ちを子供の悪戯程度にしか感じていない。しょうがない子だと、呆れながらも許す母親の姿に似ていた。そこには説明のしようがない感情が根源にあった。確かに、愛だった。

神などいないとこの世を呪い続けていたベルモットに、聖書の中にだけ存在する無償の愛を与えようとしている。神は遍在し、愛は顕在するのだと。不死身の身体を抜きにして、微笑み一つでベルモットに畏怖を抱かせた。この女は、まさか、


『かみさま?』


簡単にルージュの上を滑っていったそれに、彼女はやっぱり呆れている。その仕草でさえベルモットにはこの世のものとは思えなかった。

今でも何故彼女がドゥルシネーアという名前の女を神だと感じたのかひどく曖昧だ。その不死身と恐るべき察知能力を除けば彼女はただの女だ。年齢は聞いていないが、見た目通りの中身ではないだろう。人の機微に敏いベルモットですら彼女の考えが分からないことがある。ただの無垢な少女の仕草で、まったく人間らしくない思考を披露する時があった。そんな時にふと、無意識にその名を口ずさんでしまう。『My God.』『My Love.』なんて白々しい。


「(祈る言葉もないくせに……)」


自嘲が苦く心の中に落ちる。

今でもボスに彼女のことを知られてはいけないと思っている。かと言ってずっと監禁しておいてもいつかは組織に怪しまれてバレてしまうのは必至。ならば隠すしかない。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人ごみの中。彼女には平凡な女子大生の穂波シエとして大学を卒業するまで過ごさせ、それから組織の一員としてそこそこの地位にいてもらわなければならない。いつか現れる銀の弾丸が組織の心臓を射抜くその時まで。ベルモットの目の届く場所にいてくれれば、それでいい。

ベルモットだけの親愛なる神様として。


「(Love you,My God.)」


愛しい男の腕の中、女は神に愛を囁く。

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