そうやってすべて見失ってくんだね



その行動に大それた理由なんてなかった。


「ごめん、なさい……」


強いて挙げるなら、“その女が金髪だったから”が一番近いかも知れない。だからと言って甥たちや姉の面影を見たわけでもない。上の甥は彼女が守る必要もないほどの強さを持っているし、下の甥と姉は既に他界している。彼女が守ってやろうとする必要は全くの皆無だった。

けれど身体は、心情は、簡単にソレを強いる。

深い黒を落とした夜。見たことのない街並み。不気味さを漂わせる裏路地を一人歩く女と、200ヤード向こうから女を狙う男。暗視スコープを覗き込み、今か今かと機を伺っている。そしてついに女の命を散らそうと指に力を入れた瞬間、彼女は男の視線と女の間に身を滑り込ませたのだ。


「服を汚してしまったわね……もう少し、待ってくださいな……」


ああ、やっぱり似ていない。青い瞳が揺れる様をジッと見つめる。

美しい女が驚愕の表情を浮かべている間に、コンクリートに高い音が落ちる。ひしゃげた弾頭と金色の弾丸。彼女の眉間に撃ち込まれ、後頭部の厚い頭蓋を貫くことはなかった凶弾。そこにまとわりつく血が磁石に引き寄せられる砂鉄のように彼女の元に戻っていく。それどころか彼女の頭を伝うおびただしい量の出血も、女の服に飛び散った血痕すらあるべき場所へと還っていったのだ。

彼女の頭に開いた風穴は、もう跡形もない。


「あなた、なに? 人間?」


女がやっとのことで口にした言葉は、らしくもない直球の問いで。彼女は少しだけ眉を上げる。それでも変わらず、表情は綺麗な微笑みのままだったけれど。


「人間……と言ったら信じてくださる?」


人間ではない化物になっても、変わらず人間の気持ちで有り続けたい。それは掛け値なしの彼女の本音だった。



***



閉じていた目を開けて、深呼吸。頭の奥か、それとも目に見えないどこかの空間に展開されていた人の波が静かに引いていく。大人数が動き回っている中を見聞色の覇気で探るのは少し骨が折れた。

今回のドゥルシネーアの仕事は窓際までやってきた人間と外に出た人間の位置を伝えること。そして死亡確認。たったそれだけ。ただし仲間まで狙撃するわけにはいかないので、どうしても外に出なければいけない人間にはベルモットから簡単な合言葉を伝えてある。それを強く思い浮かべればドゥルシネーアが読み取って除外するという参段だ。ただ、彼女もあまり詳しい精神感応はしたくないし、合言葉の意味を訝しんで無視した者もいたかもしれない。それも彼女には関係のないことだ。信用しなかった人間が悪い。“見殺し”にすることに慣れてしまった彼女は、他人の生き死にを簡単に結論づけた。

付けっぱなしだったヘッドセットに通信が入る。


『Finishよ、ドゥルシネーア』
「Over.」


ベルモットの声を復唱して彼女以外からの通信を切る。今回の仕事の終わりと軽口を二三話し、ドゥルシネーアはヘッドセットを外した。解放された耳元を夜風が程よく冷やす。


「帰りましょう、カルバドス……カルバドス?」


顔を上げた先のカルバドスは無言だった。来た時とは違う無言。絶句していると例えた方がより正確だった。深く被った帽子の奥から、およそ人間に向けるものには程遠い視線を浴びせてくる。そしてその腕には未だ握られたままのスナイパーライフルが僅かに揺れる。

そう、そうよね。ドゥルシネーアはさらに唇を緩める。今日浮かべた中で最も感情を乗せた、それは美しい笑みだった。


「撃ってもいいけれど、彼女に怒られるのはあなたの方よ?」


その花に蜜はない。その花に実はならない。ただ見る者の視線を縫いとめて、魂を抜き息の根を止める徒花。銃もナイフも扱ったことのない手のひらがカルバドスに伸ばされると、男の身体は逃れようと後退った。触れられれば命を吸い取られる。幻惑を見せられるほどにドゥルシネーアの微笑みは恐ろしく映った。


「帰りましょう、カルバドス」


伸ばされた手のひらは途中で握りこまれ、すらりとした人差し指が出口を指す。カルバドスは弾かれたように意識を取り戻した。行きと同じ道のりを同じ足取りでまた戻る。決してドゥルシネーアの前を歩こうとはしなかったけれど。


「(怯えさせる気はなかったのに)」


来る時よりもスピードの早い車の中。曇り一つない微笑の下で困り果てる。少しの冷やかしが相手にどれほどの負担になってしまったのか、ドゥルシネーアは分からない。心は変わらず人間で有り続けたという自負は、この現代に戻ってきてからひどく脆いものになってしまった。それだけあちらの価値観に染まってしまったのか。もしくは自分はすでに人間の気持ちさえ理解できない化物になっていたのか。ベルモットの仲間を怖がらせてしまった申し訳なさに、彼女は深い溜息をつきたい気分だった。

ドゥルシネーアとしての仕事は憂鬱な気分で始まり、静かに幕を下ろしていく。穂波シエの日常に戻るために。

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