優しい子どもになりたかった



穂波シエの人生は輝いていた。

生まれ育った日本で、自分が経験できなかった大学生活を満喫できている。高校までしか行った記憶がない、それも遥か昔の出来事として曖昧になっていた現実に生きている。生きていると錯覚できる。いや、事実、穂波シエはそこに生きていた。

決して、人間の尊厳を踏みにじる支配者ではない。
決して、不思議な力によって作られた不老不死の化物ではない。

平凡な、当たり前の日常を謳歌する、一人の女として。彼女は生きている。

けれど今日はそうも言ってられない仕事の日だった。


『ハロー、シエ』
「ハロー、クリス」
『車をやったわ。そろそろ着くんじゃないかしら』
「うん、待ってる」
『Are you ready?』
「OK.」


嘘。まだオーケーではない。

首までしっかりと隠れるハイネックとコルセットで締められたくびれ。足首までの長いスカートと、同じ長さの黒いコート。それを平凡な顔のシエが着ると何かのコスプレのように似合わない。喪服にしてはカジュアルで、普段着にしては怪しすぎる。

シエは鏡の中の自分をジッと見つめた。黒髪黒目の日本人がこちらを見返す。本物のはずの自分が自分を静かに責めているようだ。「お前の方が偽物のはずなのに、なんでお前が“本当”なんだ」と。それを一番感じているのは彼女自身の方なのに。

安っぽいチャイムの音が玄関から聞こえてきて、憂鬱さを存分に乗せたため息を吐き出す。そうして勢いよく自分の顔のマスクに繊細な指をかけたのだ。


『仕事よ、ドゥルシネーア』


繋がったままの携帯。聞き慣れた呼び名。カチリ。どこかでスイッチが入る。


「分かったわ、ベルモット」


現れた金髪の女は、うっそりと甘く微笑んだ。


この世界に舞い降りてしまったドゥルシネーアを匿ったのは、怪しい組織の女幹部として名を馳せるベルモットだった。偶然の連続で二人は出会い、最終的にイーブンな取引を互いが納得する形で成立させた。ベルモットの仕事を手伝う代わりにそれ相応の願いを叶える。ドゥルシネーアが望んだのは日本の平凡な大学生としての生活だった。日本人として送れなかった生活の続きを偽りでもいいから送りたい。その願いは同じ名前の少女の戸籍と共に是で返ってきた。

きっとこれが自分の前世の顔で、名字で、記憶だったのだろう。すでに自分の名前しか思い出せない彼女はそう思うことにした。自分の掠れた記憶と同じ年頃で行方不明になった少女。生まれ変わった世界では六十年以上も生きたが、こちらではまだ二年も経っていないという。それさえもファンタジーを生きてきた彼女には許容できる違和感だった。

約一年の間。ドゥルシネーアは穂波シエに戻るためにベルモットから様々な手ほどきを受けた。シエの顔のマスクを作る術。別の声音を作る方法。辻褄合わせのために記憶喪失を装うこと。それと並行してベルモットの仕事に関わるいくつかの技能。すべてを詰め込んで、意を決して日本まで密行してきたのだ。

ベルモットが何故ここまでドゥルシネーアに目をかけるのか。なんとなくの検討は付いているものの、深くは考えないようにした。それはベルモットの内面の問題でありシエもドゥルシネーアも簡単に触れていいものではない。彼女はドゥルシネーアの願いを叶えてくれた。それでいい。それだけで十分だ。

その時点でこの世界に自分以上に大切な存在はなかった。ドゥルシネーアの身一つだけだというのなら何も構うことはない。


「あなたがカルバドス?」


深く帽子を被った男が首肯するのを確認してから携帯を渡す。彼はベルモットが寄越してきた今回のドゥルシネーアのお守役でパートナーであった。電話で二三言葉少なに会話した後、彼が乗ってきた車に案内されて移動する。彼は一言だって話さなかったために、ドゥルシネーアはずっと繋がりっぱなしの電話を耳に当ててベルモットからの説明を聞くことになった。

とはいえ、内容と言えばドゥルシネーアの役割のみで、それが何に繋がるのかはまったく分からない。ただ行けば分かるということだけ。


『ごめんなさいね、こちらの仕事は極力あなたのお願いを叶えてからにしたかったのだけれど』
「いいのよ、助けられているのはいつも私だから」
『そう言ってもらえるとこちらも頼みやすいわ』
「ふふ、いつでも頼ってくださいな」


ドゥルシネーアの姿だと口調は勝手に何十年も使い続けた丁寧なものに様変わりしてしまう。シエの姿だと自分の思い描いた昔の自分に戻れるというのに、おかしな話だ。見た目も中身もお嬢様然とした貴族の女が黒塗りの車に乗って人気のない工事現場に辿り着く。カルバドスは相変わらず何も言わないが、彼女の歩みを考慮してかそれなりにゆっくりと歩いてくれた。もしくはベルモットに言い聞かせられていたのかもしれない。

無骨な階段を登って屋上に着くとカルバドスは二つあるカバンの内の一つを渡してくる。中身を確認すればヘッドセットに簡易の通信機器、そして遠くに煌々と輝くホテルの見取り図。触ったのは初めてではないそれをいじっている間にも、彼は我関せずと言った風に素早くスナイパーライフルの準備を始める。数分もしない内に終わったそれを確認して、ドゥルシネーアは通信を入れた。


「Now,let me begin.」

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