春の雨3
春が風邪を引いてしまったときも、神主である彼はとても親身になってくれた。
神社にいけず、家で咳をしていた時のことだ。とんとん、とドアがノックされたような気がして、ふらつきながら玄関を開けた春の目に飛び込んできたのは、足元に置かれた紙袋だった。
風邪薬が一箱と、それから保冷材がめいっぱい入っている。保冷材を掻き分けてみると、そこにあったのはバニラ味のアイスクリームだ。
保冷材とアイスクリームの冷気でしおしおになってしまったメモには
――蛇神様の意思だからね、きちんと食べること。
とだけ書かれている。
「どうせ、またお賽銭をくすねて買ったんだろうなぁ……ミコトさん」
くすくすと笑い声が漏れる。ありがたくアイスを食べて、薬を飲んで床につくことにした。
「この間はありがとうございました」
「何、いいんだよ、全て蛇神様の意思なのだから」
するりとお礼をかわすミコトは、いつだって蛇神様の意思だという。蛇嫌いの春に少しでも蛇を好きになって欲しいのか、それとも神様の名を借りて起こした行動なのだからお礼はいらないというつもりなのか。
最近では彼の蛇顔も見慣れて来て、最初ほど驚きや遠巻きにしたい気持ちはわかなくなっていた。親切な人である。それにどこか年齢を感じさせない無邪気さのようなものがある。一緒にいると安心してしまう。
アルバイトを終える時間を向かえ、社務所の椅子から立ち上がる。
春はふと違和感を覚えた。
辺りを見回す。窓口をよく見てみる。そして自分の体をまさぐる。
ない。
「……あ! 鍵が!」
どうやら社務所の鍵をなくしてしまったようだった。
急いで神社を探し回ったが、どこにも見当たらない。さては草むらの影にでも落としたか。それとも鳥居に至る階段を転げ落ちていったか。
弱った様子で春が額を押さえる。
賽銭箱の中に間違えて入っていたのだとしたらどうしよう。建物の縁の下に滑り込んでいたのだとしたらどうしよう。
大きな失敗に泣きそうになっていた、その時だ。
ちゃら、という音が聞こえて、次に軽い衝撃が春の頭を襲ったのは。
「いたっ!」
春の頭に弾かれて境内にちゃりんと落ちたのは、間違いなく社務所の鍵だった。
「え? え?」
上を見る。何もない。引っかかるような突起もなければ鳥も飛んでいない。ではこの鍵はどこから落ちてきたというのだろう。
目を白黒させる春を見つけたかのように、神主姿の男性がゆっくりと此方に歩いてくるのが見えた。
「どうしたんだい?」
ミコトは穏やかな笑顔で、鍵を拾い上げた春に問いかける。春は困ったような表情をして、ミコトに今あったことを正直に伝えた。
「実は、社務所の鍵をなくしてしまって」
「持ってるじゃないか?」
「探していたら、空から落ちてきたんです……」
「……それは、不思議だねえ?」
「そうでしょう?」
ミコトの表情は穏やかなままである。不思議だと口にはするものの、何も不思議がっていないようにも見えた。
ミコトが空を見上げる。つられて春も空を見た。ミコトの口元が弧を描く。それに気づいた春に、彼は静かに、そして笑い出しそうな声で言った。
「きっと、蛇神様が必死で探し当てたんだろうねぇ」
春まで笑いそうになった。
蛇神様の意思、蛇神様の意思とは聞くが、そこまでも蛇神が介入するのか。
「なら、お礼をしないとですね」
両手を合わせて祈った春に、いい心がけだね、と嬉しそうな声が返った。
春は未だに蛇が苦手だ。だが、この神社と神主のミコトのことは、不気味だとも苦手だとも思わなくなっていた。
「あ、そういえば」
社務所の鍵を閉めながら春が言う。
不思議そうな口ぶりだった。
「あの雨の日、お客さんが少なかったのは仕方ないとして、どうしてミコトさんまでいなかったんですか?」
ミコトの笑顔がぴしりと固まったような気がする。鍵を返却して、春は首をかしげたままミコトを見ていた。
「あの?」
「し、仕方がなかったんだよ! 急な用事が入ってしまってね!」
いつも穏やかで飄々としているミコトが慌てるなんて珍しい。ぱちくりと瞬きを繰り返した春が思わず呆気に取られる。
ミコトはかいてもいない汗を拭う仕草をし、春に向かって優しく言った。
「もう遅いから、帰ったほうがいい。お疲れ様、ありがとうね、春ちゃん」
「あ、はい……」
なんだか強引である。
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