狼の花は今日も散る | ナノ

の花は今日も散る

一室にて

 価値がない。捨てた。必要ない。



 それは感情のこと。

 だって、どうせ愛されない。


 価値がない。捨てた。必要ない。



 それは私のこと。

 だって、どうせ愛されない。

 それなのに、どうして

「どうして、私と一緒にいられると“嬉しい”のですか」
「どうして、私と一緒にいられると“楽しい”のですか」

 京介は、冴凪に後ろから抱き締められた状態でそこにいた。まるでぬいぐるみのように、ただ抱き締められて。
「どうして──」
「どうしてそんなこと聞くの?」
 冴凪の返しに京介の質問はかき消された。
 部屋の音が、テレビから流れるタレント達の声だけになる。
「……ごめんなさい」
「怒ってるんじゃないよ」
 冴凪は笑って言った。京介には後ろにいる冴凪の表情が見えていなかったが、いつものように笑みを浮かべている気がした。
「私は“嬉しい”とか、“楽しい”が、よく分からないので……」
 単調な喋りで理由を述べた京介に、冴凪は小さく唸った。
 優しい吐息が首にかかる。京介の襟足は長いため、髪が首筋を少し撫でてきた。
 前にあるテレビではバラエティー番組のスタッフロールが流れ始め、京介はそれを何も考えずに黙って見ていた。 彼の家に遊びに行くと、この時間帯はテレビを見ながら彼と話をすることが多いが、出演者なんて覚える気がない。
「そうだなぁ」
 冴凪の声がした。
「君のことが好きだから……かな」
 その言葉を聞いた瞬間、京介は何故か自分の時間が静止したように思えた。
「……好き、だと……“嬉しかったり、楽しかったりする”……ということですか」
「そう。好きな人と過ごす時間は、嬉しいし楽しいんだよ」
「……」
 整理したつもりが、さらによく分からないことになったと京介は思った。
 好きだと嬉しい、だからこうして一緒にいる状態が嬉しい。でもその“嬉しい”が自分にはよく分からない。いつからか、分からなくなった。
「冴凪さん、……“嬉しい”とは、どういうことですか」
 再び投げかけられた疑問に、冴凪は「えっ?」と語を発した。そして近くにあった自分の携帯を取り、“嬉しい”と打つ。
「……『喜びを感じたり、喜ばしいこと』じゃないかな」
 画面に出た意味を伝えると、京介はフラットながらも納得のいかないような言い方をする。
「喜びを……感じる……喜ぶ……」
「因みに“喜ぶ”は『好ましい出来事に満足し、“うれしく”思うこと』らしいよ。……これじゃあ永遠に終わらないな」
 携帯を後ろのソファに置いて、手を京介を抱き締める形へと戻す。
「君はいつも難しく考えすぎなんだ。君みたいな子は、言葉で説明されるよりも……経験した方が理解しやすいと思うよ」
 冴凪は京介の耳元でいつもより少し低い声を出した。
「最近嬉しかった……いや、何だろうな、心が動かされた……感情が高ぶった……」
「……」
 冴凪が言い回しに苦戦している中で、京介は口を開いた。
「私に、心や感情はありません」
 それは出会った頃からよく聞いている、京介の口癖だった。
「……」
 その口癖は、半分本当で半分嘘。京介が“自身を守るため”に使っている暗示なのだと冴凪は気付いていた。
「……京介、少しずつでいいからさ」
「やっぱり私には、“嬉しい”も“楽しい”も分からないです」
 冴凪の言葉を遮って、京介は首を横に振った。
「分からないから……他のも、捨てたいです……全部」
 京介は正直に、そしてどこか苦しそうに言った。
 未熟な隊員としての希望なのか、一人の人間としての希望なのか。それはまた今度の話題として取って置こう。そう冴凪は思った。
「……それなら、たくさん訓練を積まないとね。うちの部隊の任務に付いてくるといいよ」
「任務……ですか」
「今度行う危険区域捜査のメンバーに、君の名前も入れてあげるよ。高等部の奴らを何人か連れていく話が出ているんだが……君なら大丈夫だろう」
「……ありがとうございます」
 感情を殺す経験を、訓練を。そういうことなのだろうか。
「……」
「……どうしたの?」
 ほんの少し頭が傾いただけなのに、冴凪は心配そうな声を出した。
「……いいえ、何でもありません」
 京介は、自分の考えが読まれてしまう気がして、単音でそれを隠す。

 ……“嬉しい”も“楽しい”もよく分からなくなってしまったのに、全部捨てたと言っているのに、何故まだ自分の中にはこんなものがあるのか。
 どうでもいいことばかりに動かされる。
 こんなものいらないのに。
 無くなってしまえばいいのに。

 そんなことを胸に収めていると、冴凪の腕が、京介の身体を先程よりきつく抑えた。
 服の上からでも、相手の体温が十分に伝わってくる。
「……っ、冴凪さん……?」
「…………」
「愛してるよ……京介」

 自分にかけられたその言葉が、まるでカカオ菓子のように胸の中に溶け込んだような気がして。

 京介は、自分を捕まえる腕にゆっくりと触れた。

 感情なんて、心なんて、いらないのに今さら

 どうして……


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