けてほしかった。
それだけなのに、どこで間違えたのだろう。そう思っても、きっと最初からだ。

頬をひんやりとした風が撫でて、マフラーを口元が隠れるくらいにまであげる。そう高くないとはいえ、それでも街を彩る屋根の数々を一望する事が可能な丘は寒さのせいか他に人はいない。
芝生のような短い草の上にこじんまりとしたシートを敷いて、そこへ腰掛けて手を擦り合わせる。坂道をひいひい言いながら自転車を漕いだおかげで温まっていた身体は、もうとうの昔に熱は失せてしまっていた。鞄から水筒を取り出し熱いお茶を注いで一口、ほっとしながらも未だ流れる事のない星に深く息を吐く。流星群が観られる時間と方角であっても、澄明な天に星々が煌めいていても、そう簡単には観測できない事は知っているとはいえ待つという時間は思った以上に長い。
まだかな。幾度目かも分からない四文字をこころの内で呟いた時、不意になにかが聞こえた気がした。
気のせいかなと、左右を眺めて、だけど、どこか空気を切り裂くような、大きな鳥の鳴き聲にも似た甲高い音が今度ははっきりと鼓膜を揺らしたと思った時には―――ガシャン!

「きゃっ」

少し離れた場所を黒い影が過ぎって、そのまま酷い音を立てて地面へぶつかった。咄嗟に閉じた瞼を開いた先にはやっぱり大きな黒いかたまり。生き物だろうかと思って、だけどさっきの音はまるで固いものが、自転車とか車とかがぶつかった音のようだった。立ち上がってそっと近づいてみれば、かろうじて街灯の光源の範囲のなか、姿の分かるそれは飛行機のようだった。
翼のように左右へ広がるかたちは鳥のようにも思える。人が乗れるほどのサイズだけど、それっぽいスペースとか窓とかは存在しないので無人なのだろう。よく飛行機墜落事故の映像とかだと大破して燃え盛っているイメージがあるなかで、原型を綺麗にとどめたままだからとても頑丈なのかもしれない。むしろ爆発してたら距離的にわたしも巻き込まれて、最悪死んでいた可能性を思ってぞっとした。形状的にはドローンのような雰囲気もあるけど、でもそれにしたって大きい。これがなんなのかさっぱり見当がつかないでいると、ガタガタと急に動いたせいで「ひ」小さく悲鳴をあげてしまう。
だけどまた静かになって、少しの間の後壊れてしまったのかなと肩の力を抜く。
周囲をぐるっと一回りしてみれば、なにかにぶつかったのか大きなへこみがある事に気づいた。墜落した時についた傷には見えなくて、もしかしたらこれが原因で落ちてきて、動かなくなってしまったのかもしれない。

「でも、どうしようこれ……」

これだけのサイズだ。絶対重いだろうから、持ち主じゃない人に見つかって盗まれる可能性はたぶん少ない。人力だと人数がいるだろうし、機械を使わないと持ち上げられない気がする。持ち主が探しにくる可能性を思ってとりあえずちょっと待つ事にした。それでこなかったら補導されると困るから匿名で警察に連絡しておこう。まだ流星群も観られていないし、それまでは。万が一まだこれから爆発とかしたら怖いので、シートはちょっと離しておいた。
とはいえそれは杞憂のまま謎の飛行物体は沈黙を保ち続け、静寂が耳に心地いいまま星が流れるのを待つ。だけど、もしかしてさっきの間に流れてしまったかなと思うくらいには光の軌跡は夜天に描かれなかった。
視線を動かさないまま、ぽつりと「お迎え、こないね」そう声をかけても、視界の隅にある物言わぬ暗い色から返ってくるのは静寂。さっきみたいに突然動かれてもびっくりするだけだからいいんだけど。そろそろ帰らないといけないし、もう後ちょっとだけ待ってみて、それで誰もこなかったら諦めて家へ帰ろう。
そっと嘆息したところで、なにか音が聞こえた気がした。デジャヴ。それってさっきも、同じ。さっきは左右を確認したけど、違う事はもう分かっているから天を注視すれば、かろうじてなにか夜の色とは異なるものが見えた気がしてそれは音と風とともに頭上を通り過ぎ―――ガシャン!
やっぱり既視感。けれども、今度は悲鳴をあげなかった。あげられなかったと言った方が正しい気がした。何故なら数メートル離れたそこに、ロボットが立っていたからだ。現実逃避のように今度の音はこのロボットが着地した音だったのかなと思う間に、人間より遥かに大きなロボットの顔―――顔といっていいんだろうか、平らな画面がこちらを向く。

「……っ」

見ている、と思った。睛だって存在しないのに確かにわたしを見ていると分かる。ガシャ、音と共にこちらへ向かって歩んでくるロボットにどうすればいいのかなんて思い浮かばない。ただ馬鹿みたいに突っ立ったまま見上げていれば少し離れたところ、あの飛行機の傍らで止まり、その胸部から太いケーブルが二本伸びてびくりとする。
ケーブルは飛行機へと向かい、先端のアームのようなもので掴むといとも軽々持ち上げて回収していった。
目前まで持ってきたそれを眺めてから、その胸元へまるでパズルのピースのようにぴったりとおさめる。そうして確認するように自身の機体へ向いていたおもてが、再度こちらへ向く。

「…………」

沈黙。無言。ヘビに睨まれたカエルならぬ、ロボットに見つめられた人間。
街灯に照らし出されたその機体は、夜のような暗い色で。だけど、ところどころ青く発光するラインがアクセントになっていて、単純に綺麗だと思ってしまった。
なにか言った方がいいのか、言葉は通じるのか、そもそもこのロボットはなんなのか。今更混乱を極める頭から出てきたのは。

「……あなたの、だったの?」

間の抜けた問いだった。なにも分からない、理解の追いつかない現状で、唯一判明しているのが、一応のわたしの待ち人が、あの飛行機の持ち主がこのロボットだったという事だけだったせいだった。
問いかけに返ってくるのは無言。人がなかに入っているのかいないのかとか、喋る機能とかなかったかなとか、言葉やっぱり通じてないかなとか、後悔しはじめた頃に、頭部が上下した。
クエスチョンマークを飛ばしそうになってから、はたと気づく。もしかして、今、頷いた?

「え、えっと……それ突然落ちてきて、動かなくなっちゃって、さわったりとかはしてない、から……」

通じていると分かった途端に口からは言い訳のような言葉が溢れて、飛行機へなにも悪さはしていませんと弁明はちょっと必死だった。
わたしの言葉にロボットは変わらずその考えの全く読めない画面の顔を向けていて、だけど不意にくるりと反転すると。

「あ」

瞬きの間に四肢があり二足歩行だったロボットは、不思議なかたちの飛行機へ変形してそのまま飛び去った。風圧に思わず腕で顔を覆ってしまったせいで、次に見た時にはもう夜闇に紛れるほど遠く小さな点となっていた。
それが見えなくなるまでぼんやり眺めてしまってから「え?」結局なんだったのかさっぱり過ぎてクエスチョンマークをいっぱい浮かべる事になってしまった。

こっそり帰宅して、寝なきゃと思いながらも自室のパソコンを立ち上げてカチカチ、マウスをどれだけクリックしてもロボットの情報はなにもなかった。当たり前かと思う。あまりに非現実過ぎて、家族に話す事すら憚られるような出来事だ。夢でも見たんじゃないと笑われるのがオチだと分かりきっているような夢物語だ。
しかたがないので、次に変形後のあの見慣れない飛行機の姿。あれはどういったものなんだろうと、なにか近しい画像が出てこないかと思って検索してみれば無人偵察機に似ていて。まさか米軍の極秘ロボットだったのかなと思ったところで、さすがにベッドへ入る。明日は学校あるから早起きなのに、これじゃ朝に起きるのがつらいと後悔しながら眠りについた。

学校へ行っても、親しい友人達にもロボットの事は話す気になれないままなんの変哲もない日常を過ごして。授業中ふと窓の外を、丘のある方をつい見てしまってもきっと次に行った時にまた会うとかそういう事はないんだろうなと思った。
今までだってあの場所へ何度も訪れていてはじめての大事件だったのだから、ロボットだってたぶん本来なら用事がないだろうし。だけど気づけばノートの隅に、あの暗く細身の機体を記憶にあるままらくがきしてしまっていた。記憶を辿ろうとしてもあまりに驚きが勝っていたからかちゃんと観察できなかったせいで、なんとなくこんな感じだった気がするという曖昧さにもっとちゃんと見ておけばと後悔してぐちゃぐちゃに線で塗りつぶした。
画面みたいな頭に、細身の身体は腕が平く長かった気がする。ケーブルも暗い機体の色に蛍光色のコントラストが綺麗だった。不思議なバランスは、だけどうつくしい均整だと思った。
学校帰りに自転車を漕いで、つい自宅までの道のりを途中でそれてしまう。家の間を抜けて、やがて坂道を立ち漕ぎで登っていく。そこまでキツい傾斜じゃないからなんとかなるけど、ペダルは重くて丘の上に辿りついた頃には上着が暑いくらいだった。街並みを見下ろしていれば、日の暮れかけた時刻はジョギングの人や、犬の散歩をする人がぽつぽつと通り過ぎていく。自転車から降りて押して歩いた先、目的地は下草がまだ倒れたままで。広範囲のそれに昨日のは夢じゃなかったんだと思う。他の人が見てもなにか分からない痕跡も、わたしにとっては大きな飛行機とそれよりも巨大なロボットとの邂逅の跡なのだからなんだかおかしかった。
とはいえ植物は逞しいのでこの痕跡も数日経てば分からなくなるのだろう。

思ったとおり、すっかり立ち上がった草によって痕跡が消えた頃。今夜は別に流星群とかじゃないけど、あの丘の上には嫌な気分の時とかにも訪れてしまって、今日はそういうタイミング。夜天も雲が多くて、星はちらちらとしか見れないなか、ただぼんやり座って眺めてた。
なにも考えたくない時にもピッタリだから、ただ風で下草が揺れる音や眼下の町から聞こえる営みの音へ耳を傾ける。そうしてどれだけ経った頃か、うっすらと聞き慣れない、だけど最近聞いた事があるような音がした気がしてぼやけていた焦点を合わせる。

「……うそだあ」

思わず呟く間にも夜の色に紛れて、それでも次第に大きく鮮明になったシルエットが、地面へぶつかる直前に手品みたいな鮮やかさで変わって、着地の音と同時に頬を撫でた風。
少し離れたところに、この間のロボットがいた。てっきりもう出会う事はないだろうと思っていたので、どうしたんだろうと思う。この辺りに用事が出来たのかもしれない。だけどロボットはわたしの方へ向かってきて、長い腕を伸ばされたら届きそうな距離で立ち止まる。立ち止まって、無言。

「…………」

やっぱり無言だ。喋れないのはもう確定でいい気がする。じゃなくって、わたしに用事なんだろうか。

「……えっと、こんばんは?」

無難に挨拶をしてもじっと見下ろされているだけで反応はない。
そこでふと、検索結果を思い出す。米軍の無人偵察機に似た飛行機の時の形状。軍の機密の可能性。一般人が知ったらいけない情報の可能性。つまり口封じの可能性。咄嗟に弾き出された答えに自分で焦る。

「あ、その、あなたの事は誰にも話してないから……っ。すごく格好良くて綺麗だって思ったし、言いたい気持ちはあったけど、信じてもらえるとは思えなくて……」

焦って言わなくていい事まで長々喋ってしまった気がする。というかこういうのって喋るほどドツボにハマるっていうか、信用がなくなるんじゃ。言い訳感が酷い。
挙動不審なわたしとは正反対に、ロボットは置物みたいに佇んでいるのが余計いたたまれない。せめてこないだのように頷くくらいしてほしい。反応がないのはちょっと怖い。

「わたしは、ナマエって言うんだけど、あなたは名前ってあるの……?」

苦し紛れに名乗ってしまってから、自分から個人情報渡してどうするんだろうと後悔する。沈黙に、やっぱり喋れないっぽいしだめだよねと思いかけた頃。

「“サウンドウェーブ”」
「ひっ」

どこかおどろおどろしい、低く怖い印象の声で突然言われてびくっとする。なにを言われたんだろうと情報処理に時間がかかってから「さ……さうんど、うぇーぶって言うの……?」間抜けな声で復唱すれば今度はこっくり頷かれた。
サウンド、ウェーブ、サウンドウェーブ、不思議な名前だ。それよりも喋れるの?とそちらの方が衝撃だった。今まであれだけ無言を貫いていたのはなんだったのか。あと思っていた声と違うというか、だいぶ高圧的なその声は似合わない気がした。
その理由は直ぐに判明したのだけど。話すようになったサウンドウェーブと名乗ったロボットは、声の種類が幾つかあった。
名乗った時の低く威圧感のある声、甲高くて口調のはやい声、ゆったりと落ちついてだけどなんだかナルシストっぽい声。それらをまるで継ぎ接ぎのように組み合わせるから、ロボットって変わってるんだなって思った。それでも喋るよりも、頭部を上下左右へ振る事のほうが圧倒的に多かったので、どうにかコミュニケーションが可能になっても、基本喋るのはわたしばかりだった。

「サウンドウェーブって、なかに誰か入ってたり米軍の機密ロボットだったりする?」

訊いてもいいかな、駄目かな、と思いつつもつい好奇心に負けた質問には横へ振られた。違うんだ。でももし本当だったとしても縦には振らないかと勝手に納得した。

「その画面みたいな顔って、ちゃんとはっきり見えてるの?」

じっと見つめていれば、今度は縦に振られた後、パッと画面へスマイリーなマークが映って「わ」びっくりする。

「すごいね、そういう事もできるんだ」

言いながら、まじまじとさっきまでより気持ちに余裕があるのでつい観察してしまう。画面の頭部から、左右へ肩から腕にかけてのパーツは平べったくて、指は骨のように細く膝下までとやっぱり長い。よく見たら肩の辺りにマークがついているけどなにかは分からない。暗い色の機体の、その奥はもっと暗くて、青色のラインが光って浮き出て見えるのはどこか幻想的だった。太陽の下で見たらまた違う印象なんだろうなと思ったところで、その胸元で視線が止まる。

「その、胴体のとこの、そのこ直ったの?」

問いに首肯されてちょっとほっとする。壊れてしまったかと思ったけど無事に修理されたらしい。

「“レーザービークを放て”」
「え?ええっと、もしかして、そのこの名前?」

これにも首肯。レーザービークも変形したり喋られるのかという問いには横へ振られた。その後も一方的に話しかけるうちに、くしゃみをしてしまいそこでようやくそれなりに時間が経ってた事に気づく。もう帰らなきゃ。伝えてから、また会えるだろうかと思う。でも会うとしたら夜闇に紛れるこの時間や場所くらいだろうし、わたしだって毎日訪れるわけじゃないし、そもそもまた会ってくれるかも分からない。
だけどそっと「また会ってくれる?」問いかければ静かに、けれど確かに頷いてくれたので嬉しくなった。

「連絡とかできればいいんだけど……うーん、メールとかって、できる?」

携帯電話を取り出して、カチカチ。メールアドレスを表示させた画面を頭上へ掲げてみれば、僅か無言ののちに電子音。そこには一通のメール。開いてみれば『できます』という文字とさっき睛にしたスマイルマークがあって、サウンドウェーブと見比べてしまった。

「え、このメール、サウンドウェーブから?すごいね!」

どうやったのかはサッパリだけど、でもこれで連絡手段は手に入れたので。じゃあ連絡するね、と言って別れた。
帰り道、下り坂を自転車で勢いのまま漕がずに風を受けて走る。普通に会話をしてしまったけど、別れた後ではまるで夢のようだった。でも、現実なんだ。こんなの小説や映画、物語に出てくるような秘密の友達だ。友達って言っていいのかは分からないけど、でも、少なくともわたしはそう思いたかった。

それから丘へ行く時にはメッセージを送って、サウンドウェーブからの返事はオッケーだったり駄目だったり、その時によってまちまちだったけどそれでも機会は多かった。
誰にも言えない、言わない、秘密の友達の存在に浮かれきってわたしはサウンドウェーブにいろんな事を喋った。その日学校であった些細な事から、難しい授業の内容、見上げる星の話まで様々に。どうしても解けなかった数式を彼が一瞬で解いてしまった時には、サウンドウェーブってすごく頭いいんだねと褒めちぎってしまった。こうやって誰かに聞いてもらえるのは随分ひさしぶりな気がして、たったそれだけの事がわたしにはとても大事だったんだと、ちょっとだけ鼻の奥がツンとしたけど知らないフリをした。

「サウンドウェーブ、いつも聞いてもらってばっかだけどつまらなくない?」

首が痛いほどの遠い頭上をうかがっても、ゆるりと横に振られる頭部。本当?と訊きそうになってやめた。代わりにありがとうって伝えた。サウンドウェーブの事は詮索したらいけないかなと思って、あまり知らないままで。家族とかそういうのはいないみたいだけど、でも他にもロボットの仲間はいるらしいのは知っていて、よかったと思った。ひとりぼっちのロボットじゃないんだと安心した。
サウンドウェーブと過ごす時間が大切になってきた頃、もう後少しで次の流星群の日だと楽しみにしていたわたしは、その日を正反対の気分で迎えた。
夜の丘で、ただただじっと星々を見つめるその傍らに暗い色の機体はいない。会いたいけど会いたくなかったから、今日ここへくる事はメールしなかった。
ただ無心でいたいのに、気づけば脳はごちゃごちゃとうるさくて、夜天を見ているようで見れていない。それでもたった一条、流れる星の軌跡を待った。もう無意味だって理解していても。冷える身体を温める気にもなれなくて、帽子を忘れてしまったから耳が痛いくらいだったけどそれでもいい気がした。
それなのに、キイン、と空気を裂く音が聞こえるものだから。真っ直ぐにわたしの方へ飛んできたその機体が、最初の頃よりも静かにその足で着地するのをどこかぼんやり眺めていた。変形する様はやっぱり格好いいなって思ったし、夜闇にまぎれてなお青い光が浮かび上がるのは綺麗だって思った。

「……メール送ってないのに」
「“我に隠し事か?”“あなたの事なんてお見通しですよ”」

思わずつぶやいたら二種類の声で返ってきて、ちょっと笑ってしまった。そうして、いつもの距離まで歩んでくると、立ち上がったわたしを見下ろす。

「今日は流星群なんだけど、サウンドウェーブは観れた?」

問いかけには首肯される。天を自由にいけるし、画面の顔とはいえきっとわたしの睛よりも高性能なんだろうと思いながら「わたしは、まだなんだ」そう返す。

「まだ、なんだけど……もういっかなって」

続けながら視線を星空へ移しても、タイミングよく流星が観られるなんて事はない。

「わたしの家、前からお父さんもお母さんも不倫してて。離婚まで秒読みって感じだったんだけど、今日とうとう離婚するって言われて」

どうでもいい話。もしかしたら家族という概念がないかもしれないサウンドウェーブにとっては、理解し難い話。
でも、それでよかった。わたしは都合のいい話し相手を、彼に求めていたんだと今頃気づいて嫌になった。家に帰っても誰も聞いてくれる人のいない、わたしの話を、サウンドウェーブだけが聞いてくれた。たったそれだけで勝手にちょっと救われてたのだ。

「昔ね、家族みんなでここへ流星群を観にきた事があったから。もしかしたら、また前みたいに戻れないかなって、ずっとそれを流れ星にお願いしにきてただけなの」

結局叶わなかったけどね。笑おうとして、うまく笑えているかは分からなかった。冷たくなった頬が、ピリ、と痛んだだけだった。

「お母さんに引き取られる事になったから。この町ともお別れだし……サウンドウェーブとも会えなくなっちゃうかな」

サウンドウェーブは飛行機だから、もしかしたら引っ越し先にも飛んで会いにきてくれるかもしれないけど、なんとなくここ以外で会うイメージは浮かばなかった。

「……やだな。いつかこうなるって分かってたし、わたしも別にもうちっちゃい子どもじゃないから、離婚なんてよくある事だし、ふたりの選択も仕方ないって思うけど……」

手間のかからない娘として、仕方ないよねと理解を示しておいて、それでも嫌だと叫びたくなってしまった。だけどそんな感傷ももうここへ一緒に置いていかないといけない。新しい町で、新しい学校で、新しい“お父さん”達の邪魔をしないように生きないといけない。思っても、星空は滲んで冷えた頬を熱いものが濡らした。
勝手に自分語りして、勝手に泣いて、さすがのサウンドウェーブもめんどうだと思ったかもしれない。星すら見れなくなって俯くわたしは、無言もだけどもうどうでもよかった。なのに不意に涙で不明瞭な視界に、細く長いものが映り込んでくる。サウンドウェーブの指が、手を伸ばせば触れられる距離にあった。だから、なにを思う前にそっと手を伸ばした。

「……つめたい」

はじめて触れた、ぎゅっと一回りできる金属の指は手袋越しでも酷く冷たくて、だけどそれに慰められる心地だった。
そのままわたしの嗚咽だけが夜の冴えた空気に溶けていった時、急に明るくなった。暗さに慣れていた睛には眩し過ぎて思わず瞑ってしまう。トラックでも通りかかってライトに照らされたんだろうかと思うくらいのそれは、ずっと明るいままで、やがておずおずと瞼を開いて瞠った。

「……え?」

サウンドウェーブの向こうに、大きな緑色の光があった。彼の巨大な機体すらすっぽりのみこんでしまうほどの、まあるい突如出現した光に理解が追いつかない。だけど泣く事も忘れてただぼうっと見ているわたしの手が微かに引かれた。握ったままの指が、まるで光の方へいざなうように動くものだから、見上げたら画面の顔はじっとわたしを見下ろしていた。
なにを考えているんだろう。残念ながら未だに考えている事は分からない。分からないのに、何故だか誘われているような気がした。
光の向こうへ。未知へ。ここではないどこかへ、望まない現実から、現在から逃げ出したいと思う、こどもの駄々を見透かされているような気がした。
気がして、だけど、足が動く。サウンドウェーブも歩幅を合わせてくれるから、ぎゅっと繋いだまま。光のなかへ靴の爪先が入って、地面とは思えないのに、光を踏み締める。そのまま夜闇とは真逆の世界を歩んでいくその背で、ふっと光は消え去り、丘の上には暗い静寂だけが残って、その頭上で星が流れたのをわたしはもう知る事はなかった。

「…………」

光のなかを歩いていた筈だったのに、気づけば暗い室内にいて驚く。ワープ?したんだろうか。びっくりの技術だ。そんなのSF映画の世界だけだとばかり思っていたのに実在するなんて。でも、どこだろう。見渡す限り薄暗い、広く大きな金属でできた通路のようで明らかに人間の規格じゃなかった。ここがどこか知っているであろう機体へ問いかけようとしたら「わっ」いつの間にか伸びてきていたケーブルがぐるりとわたしの胴体へ周り、締めつけられた時には浮遊感。

「え、ひっ、サウンドウェーブ……ッ?」

ぐわっと床が遠くなって、恐怖でかたまる身体はそのまま持ち上げられていき、お尻にかたい感覚があったところでサウンドウェーブの肩へ座らされたのだと気づく。咄嗟に横を向けば、直ぐ睛の前に画面があってわたしの姿が暗いそこへ反射していた。初めての距離に思わずじっと見つめてしまうわたしを余所に、サウンドウェーブは顔を前へ戻すと歩き出す。

「わっ」

振動に、心許ない手が思わず頭部を支えにする。ケーブルはお腹の辺りに巻きついたままだから、それでだいぶ安定感はあったけど高さ的に怖いものは怖い。床は遥か下で落ちたら打ちどころが悪ければ死ぬ高さだろうし、逆にさっきまで遠かった天井が近い不思議。
ガシャン、ガシャン、一定のリズムでの歩みはどこかゆったりしている。遅過ぎず速過ぎず、悠然と通路を歩むサウンドウェーブから伝わる揺れにも少し慣れてきた頃、先の方にある角から二体のロボットが曲がってきた。
はじめて見るサウンドウェーブ以外のロボットは、こちらを認識した瞬間足を止めていた。画面ではないけどバケツをひっくり返したみたいなかたちのなか、赤く光る線が一筋引かれた頭部に、ロボットってやっぱりみんな顔がないのかなと感想をいだく。そっくりなロボットは通路の端へ寄って、譲られた道をサウンドウェーブは全く意に返さないまま通り過ぎた。
振り返ってみれば、ロボット達はまだ立ち止まってこちらを見ている。その様子はどうにも驚いて固まっているように思えた。

「サウンドウェーブ、あのロボット達は?」
「“ビーコン!さっさと仕事しやがれ”」

甲高い叱責にビクリとするわたし同様、ロボット達、たぶんビーコン達もビクッと震えると「申し訳ありません」言って慌てたように足早に去っていった。
その様子にサウンドウェーブの方が偉いのかなと思う。その後もちらほら見かけたビーコンは全員同じ外見で、量産型というものなのかもしれないと結論づける。サウンドウェーブと同じ作りのものは見ないから、そういう意味でも彼の方が上なんだろう。
やがてひとつの扉の前へやってきて、開いた先、室内も広くなにやら機械やモニターがあるそこにビーコンとは異なる大きな鈍い銀色のロボットがいた。だけど、ロボットが振り返った瞬間わたしは驚きと同時に恐ろしさを覚えた。
爛々と耀く真っ赤な睛で射抜かれたからだ。

「サウンドウェーブ、なんだそれは」

ぎらりと牙の覗く口元から発せられた声は、低くおどろおどろしい。聞き慣れた録音のものよりもずっと生々しく、背筋がぞっと冷えるようだった。

「…………」
「まあよい。お前の忠信の前にはペットの一匹や二匹どうという事はない」

全てを見下しているみたいに高圧的で嘲笑を隠そうともしない声音も、その風貌にも臆してしまう。やっと顔のある、表情の分かるロボットと出会えたというのに、これではサウンドウェーブやビーコンの方が余程ましだった。

「オートボットどもへの人質として使おうがどうしようが構わん。お前の好きにするがいい」

サウンドウェーブは無言で踵を返し、銀色のロボットももう興味はないと言わんばかりにそれ以上はなかった。
背後で扉の閉まる音と風圧を感じている間に、再度歩き出す。そこでやっとわたしは、自分の心臓がドクドクとうるさい事に気づいた。手にも汗をかいていて、服で拭ったところでどっと疲弊感に襲われる。酷く緊張していたんだと理解して、片手で胸元をおさえる。頭のなかではぐるぐると、ペット、オートボット、人質。分かるようで分からない、分かりたくない単語が渦巻いて気分が悪くなりそうだった。とてもじゃないけど、友好的とは言い難い、まるで醜悪な虫ケラでも見るような蔑みに満ちた赤を思い出して肌が粟立った。
訊きたい事はいっぱいあるのに、なにを訊けばいいのか分からないうちに、歩みが止まった。また違う扉が開いて、さっきより狭い室内は物がなく殺風景で、だけどその一角に睛を瞠る。その前まで歩んだサウンドウェーブのケーブルによって、ゆっくり床へ下ろされる。久しぶりに足が地面についた安心感を思うよりも、眼前に広がる光景から視線がそらせなかった。
ベッドに机に椅子に、タンスまである。よく分からない金属の大きな箱もあるけど、これは、明らかに見慣れた人間サイズだった。自意識過剰とかじゃなくて、わたしのために用意されたものだと理解できる。理解して、その異常さに知らず後ずさった背が固いものに触れる。サウンドウェーブの足へぶつかったのだ。見上げれば、じっと暗い画面のおもてが、見下ろしていた。
サウンドウェーブは、ここへわたしを連れてくるつもりだったのだ。いつからかは分からないけど、この準備された状況が雄弁に物語っている。今日わたしがのこのこついて来なくても、もしかしたら無理にでも連れて来るつもりだったのかもしれない、その可能性を考えただけで親しみを覚えていたその姿が酷く恐ろしく理解し難いもののように思えてならなかった。
ああ、だって、わたしがペットだとするのならば、これは飼育環境だ。
サウンドウェーブは、わたしという人間を飼うためにここに連れてきたのだ。
ドクドクと、心臓が、耳の奥がうるさい。自分の選択肢の末にあったものがこんなものだなんて信じたくなかった。友達だとばかり思っていたのはわたしだけで、彼にとってはなんら対等な相手ではなかったのだ。わたしが気づかなかっただけで、本当はその画面の下でさっきのロボットみたいにずっとわたしを見下していたんだろうか。そんな風であった事は一度もないのに、疑心が酷い。

「……サウンドウェーブにとって、わたしってペットだったの……?」

訊きたくないけど、訊かないといけない。意を決して紡いだ問いには、けれど首を横に振られた。ペットじゃない。なら、それなら。

「それなら、なに?どうして、こんな、これ……」

答えがほしかったのに、今度はなにもなかった。無言に、無反応。言いたくないのか、言う必要がないのか、なににせよこういう時のサウンドウェーブが決してその姿勢を崩さないのはもう知っていた。

「……家に帰してくれる気は、ある?」

頷いてほしかったのに、無情にも横へ振られて、ペットではなくともここで過ごさせるのは確定事項のようだった。
嫌だと反射で思っても、彼の手を自らとった浅はかさで首を絞められるようで。だけど、まさかこんな事態が待ち受けているなんて、予想できる訳がない。光をくぐる前の高揚は見る影もなく、暗く重くわたしの身を凍てつかせた。




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