簡易なホテルの一室のように、生活に必要なものは一通り揃った空間で、ドールハウスの人形にでもなった気分だった。
思ったより不便はないし、何気なくこぼした欲求はどこから入手したのか叶えられてしまう。
分かったのは、ここがネメシスと呼ばれている事くらいで、わたしの他に人間は存在しない。オートボットがなにかは分からないままだ。サウンドウェーブがわたしに不必要だと判断した情報は決して与えられなかった。
携帯は鞄ともども没収されてどこにあるのかすら謎だから、外部との連絡手段もない。外がどうなっているのか、わたしの事はどうなっているのか、学校から連絡はいってるだろうから居なくなった事には気づいているとは思うし、離婚の事は一旦置いて探していてくれているって信じたかった。信じたいのに、浮かぶのはどちらもあまり家にいなくひとりでご飯を食べるテーブルの光景。

「…………あ……美味しいよ」

止まっていた手をじっと見つめられていると、思考から戻されて冷えた食べ物を口に運ぶ。ペットだろうとなかろうと、ここから脱出するには従順でいた方がいいという判断でおとなしく過ごすわたしに、サウンドウェーブは細々と世話を焼いた。
痛い事もされず、酷い事も言われない。ただ静かに、影のように、わたしの傍らへあった。この部屋に殆ど監禁されているようなものだけど、仕事場というのか、モニターや機器の並ぶ部屋へ一緒に連れて行かれる事も多い。そこでなにをしているのかさっぱりな作業を眺めるのも退屈で、だけどサウンドウェーブはわたしが傍にあること、それだけで満足のようだった。
移動時は肩へ乗せられるばかりで、作業中も高い台の上に乗せられてとてもひとりでは降りられないから、逃げられるようなタイミングはない。どうすればいいんだろう。考えた結果、ある日わたしはサウンドウェーブへひとつの提案をした。人間には運動が必要だから、作業の間室内をランニングしてもいいかというもので。僅かな間の後了承された。
サウンドウェーブは忙しいらしく、基本ずっとモニターへ向かって集中した様子だ。わたしはぐるぐるその足元から扉のある壁までを走ったり休憩したり、タイミングを待った。
そうしてようやく訪れたそのタイミング。やってきた誰かによって扉が開いた瞬間、通路へ駆け出した。右も左も分からないまま足を止めず走るその後ろで扉の閉まる音は聞こえたけど、足音は聞こえなかった事に安心する。走って、走って、途中ビーコンに出会しても一応サウンドウェーブのペットとして認識されているのか、あまり気に留められないのは幸いだった。
だけど、どこもかしこも似たような通路ばかりが続いて、どこが出口なのかも全然分からない。きた時は光を通ったから余計。
でも幸運な事に、幾度目かの角を曲がった先で遠くに明るい光があるのが見えた。直ぐに消えたけど、奥にあるその扉が外界へ繋がっているのは確かで、はやる気持ちのまま長い通路を走りきって、睛の前で反応した扉が開く。
明るい陽の光に、ぶわっと風と同時にひさしぶりに嗅ぐ外気のにおい。そこは確かに外だった。外だったけど、思い描いていた外ではなかった。
平らな床が広がって、刺々しい壁の切れ目の向こうには天井ではなく空が広がってる。びゅうびゅうと強い風が寒いくらいのそこは、映画でみたような巨大な船のデッキに雰囲気が近い。未だこの謎の建造物から出られていない事実に焦ってきょろきょろと、本当の外へ通じる出口はないものかと見回して、固まった。
黄色い光がこちらを射抜いていた。ぐるぐると獣の唸りにも似た低い音が空気を震わせる。距離があっても大きいと分かるそれは言うならばドラゴンだった。金属でできた。
床へ伏せったままとはいえ威嚇されているような気しかしなくて、でも動いた瞬間襲ってこられたらどうしようという恐怖心で足の裏が縫い付けられていれば。

「ああ?なんだってこんなとこに人間が……そーいや、サウンドウェーブのヤツがペット飼いはじめたって聞いたなァ?」

もう一体この空間へいたロボットがわたしに気づいて近寄ってくる。これも聞き慣れた声。甲高くて、人を小馬鹿にしたような口調の持ち主は彼だったのだ。直に聞く声はやっぱりわたしを、人間といういきものを見下しているというのが存分に伝わってきて今度は一歩後ずさる。

「おいおい、そんな怯えなくたっていーだろ?うっかり潰したくなっちまうじゃねーか」

大仰な手振りで細い腕を動かしながら、わざとらしい口調で言われて先日の銀色のロボットとは異なる恐怖をいだく。赤い睛はまるで獲物を狙う肉食獣みたいに舌舐めずりする嗜虐心に満ちているようで、そこでここにいる人型のロボットはみんな赤いと現実逃避のように思う。もしかしたらサウンドウェーブの画面の下へ顔があったら同じように赤いのかもしれない。ぞわ、と背筋が震えてどうにか床を踏み締める足に力を込める。どうやらこのロボットのおかげでドラゴンはわたしから興味をなくしたらしく、もうこちらを見てはいない事に安堵した。

「……あなたは、誰?サウンドウェーブのお友達?」
「ハア?気色悪い事言うんじゃねえよ。このスタースクリーム様とあの陰険野郎がオトモダチな訳あるかっ!」

眉のようなパーツが上下したり、感情豊かな様子になんだかひさしぶりに誰かとちゃんと会話していると気づいた。

「でも、仲間なんでしょ?ロボット同士」
「ロボットだあ?トランスフォーマーだっつうの。……ああ、そうか、ペットちゃんはなァんにも教えられてねーんだな?」

打てば響く反応にちょっと警戒心が薄れそうになったタイミングで、不意に嫌な猫撫で声で言われて口を閉じてしまう。

「ハハッ!かわいそうによォ。あんな根暗野郎に執着されて、同情するぜ?どうせお前逃げて来たんだろ」
「……散歩だよ」
「散歩ねえ……そういう事にしといてやってもいいぜ。なにせここは宇宙船で、人間どもの大好きな地上は遥か下なんだからよ」
「……え?」

宇宙船?地上が遥か下って、それはつまり飛んでいるって事?言われてみれば雲が近い気がするし、この寒さも上空だからだという事なのかもしれない。そうして、なかに人のいないロボットである彼らはエイリアン?そうであれば人間という物言いの多さにも納得はいく。けど、あまりに非現実過ぎた。
だって、そうであればわたしがここから外へ逃げ出せない事が確定してしまう。

「イイ顔になったじゃねーか!哀れなペットちゃんよォ、いっそ俺様が一思いに始末してやろうか?」

酷く愉しげに他者の不幸を嘲笑うスタースクリームに、会ってまだほんの僅かだというのに、その申し出が善意ではなくサウンドウェーブへ嫌がらせをしたいだけだって理解できてしまった。
上げられた足がぐわっと頭上から影となって迫ってくるのに、未だ脱出不可能というショックから抜け出せないでいたわたしは反応が遅れる。簡単に、トマトでも潰すみたいにぺちゃんこになるのだろうと思って、ならなかった。

「ぅぐっ……?!」

急に腹部へ酷い負荷がかかって、視界がめまぐるしく変わると同時に浮遊感。思わず閉じた瞼を開けたら、足をついたスタースクリームがこちらを驚いたように見つめていて、視界の隅にはわたしの身体へ巻きつく見慣れたケーブルの色。ガシャン、嫌に足音が大きく響いた気がして溶けかけた緊張感が全身を伝う。

「さ、サウンドウェーブ……お前ペットの面倒くらいちゃんと見とけよな!ちょろちょろしやがって踏むとこだったじゃねーかっ!」

スタースクリームが嘘八百を口早にわたしの背後へ投げつける。侮っているようなのにいい訳しないといけない間柄らしい。それに対して、わたしを間一髪ケーブルで救出したサウンドウェーブは無言で踵を返す。ガシャンガシャン、歩く度にその胴体の前で宙に揺れるわたしの身体。扉を抜けて、また暗い通路へ戻ってきてしまった事への絶望より、終始無言のサウンドウェーブの方が恐ろしいので、スタースクリームの気持ちも分からなくはなかった。
ゆらゆら。お腹が苦しいけどそれを言える空気ではなくて。そのまま連れられたのは、わたしの飼育環境の整った部屋の方だった。
背後で扉の閉まる音が嫌になる。この部屋の扉もわたしでは開かないようになっているから。ゆるやかに下ろされて、しゅるりとケーブルが解ける。サウンドウェーブはわたしの後ろに立ったまま動く気配はない。逃げ出した事を責められる様子のなさが逆に怖かった。怖かったけど、もう限界だった。

「……帰して」

ぎゅう、と手をキツく握りしめて絞り出す。

「帰してよ、お願いだから」

意を決して吐き出した言葉へ、だけど返ってくるものはなにもなくて。とうとう振り向いてしまう。

「家に、帰して……っ」

濁った声と一緒に涙が溢れた。訴えを慟哭を、サウンドウェーブがどう受け取っているのかなんてどうせ画面を見たって分からないから、顔を上げないでいればケーブルが伸びてきて頬にそっと押し当てられる。それがまるで涙を拭おうという所作に思えて「やめてっ……!」思わず手で叩いても自分の方が痛いだけだった。どうしようもなく腹が立って、顔を上げてしまう。

「家に帰してくれないならっ……死ぬから!」

無機質な画面を真っ直ぐ見上げて言い放つ。サウンドウェーブはわたしをわざわざ生かしている。さっきだって助けてくれた。それなら、生きていないと意味がない筈だ。わたしの命はきっと交渉の材料になり得る。そう思ったのに、無言ののち、不意にパッと画面へ現れた映像に凍りつく。
それはテレビのニュースのようだった。行方不明の少女。その少女を探す両親がカメラへ向けて悲しげに訴えかけている。音はなくとも容易に理解できた。一通り流されたそれが、両親の映像のところを再度映し出して止まる。
その意味を理解して、ゆるりと握っていた手から力が抜けていった。

「……わたしへの、人質って事……?」

咽喉から絞り出したみたいな掠れた声に、サウンドウェーブはいつもと同じように、ゆるやかに首肯した。その無機質さ、無情さに、他のロボット同様サウンドウェーブにとっても人間の命はあまりに軽く、どうでもいいものなんだって思い知らされる。
それに、どうにか詰めていた息を吐き出す。足元がぐらつくのをたえる。冗談でも嘘でもないのだろうと理解できる信頼が嫌になる。彼はきっとなにも思わず、人間が蠅でも殺すくらいの感覚で実行する。さっきスタースクリームがわたしを踏み潰そうとしたように容易く家族を殺し、わたしの帰る場所を、逃げ場を絶って、そうして失意と絶望に打ちひしがれるわたしをただただ見下ろすのだ。

「…………んで……なんで……わたし、なのお……」

もう涙を止めようとも思わないし、頬を丁寧に撫でるケーブルを退かす気にもなれなかった。そんな虫ケラみたいに簡単に殺せる生命であって、なのになんでわたしを殺さないのか意味が分からなかった。
嘆きに返ってくるものは、やっぱりなにもなかった。

ガシャン、ガシャン。早くも遅くもない一定のテンポの足音を聞きながら、僅かな揺れは眠気を誘う。サウンドウェーブの持つ円柱の入れ物のなかでぼんやり今日も薄暗い廊下を眺めた。
あれ以降、移動の際にはわたしがすっぽり入るこの容器で運ばれるのが主になっていた。最初は真っ暗で外もなにも見えなかったけど、閉鎖空間と暗闇への恐怖でせめて外が見えるようにしてほしいと言ったらガラス張り、のようで違う。内側から外は見れるけど、外からなかの様子は分からない、所謂マジックミラーとでもいうようなつくりになったそれはより、サウンドウェーブがわたしを部屋の外へ出す回数が減ったのも伴いまるで誰の睛にも触れない事を望んでいるみたいに思えた。ビーコンや稀にやってくるそれ以外のロボット、赤い睛のトランスフォーマー達に話しかけようとするともれなく容器へしまわれるからあながち間違ってはいないのかもしれない。
口数が少なくなっても、笑う事が少なくなっても、それを指摘される事もない。いつだってその可視化されない眼差しに絡めとられる感覚を味合わされるだけ。ひとりで食べてた時よりも味気ない食事を終えて「サウンドウェーブ」声をかける。

「外が見たいよ」

何気なくふっとした思いつきだった。ずっとこの薄暗い彼らの船のなかは息が詰まるようだったから、外気が吸いたいとただそれだけの欲求だった。
応えの代わりにケーブルが衣類をまとめてある方へ伸びると、コートやマフラーを掴んで戻ってきた。それを着込めば持ち上げられて、珍しく宙に浮いた身体はそのままサウンドウェーブの肩へ乗せられる。容器を使われないのはひさしぶりで、やっぱり高さが怖いから頭部を支えにしてしまう。部屋を出て向かった先は、以前逃げ出した時に辿りついた開けた空間。こないだと違って夜だから暗いし、あのドラゴンはいないようで無人のそこは風の音だけがした。下ろされて、天井のないところまで出てみて驚く。頭上には満天の星空が広がっていた。

「……すごい」

夜天にはこんなに星があったのかと思うほどで、あの丘で見るものとは段違いだった。それだけ空気の澄んだ高い場所にいるのだろう。寒い、というよりも氷に触れた時のように凍てついた風が肌に痛い。マフラーから出てる頬や耳があっという間に冷たい風で体温を奪われていくのが分かっても、散りばめられた星々から視線がそらせないでいた。

「……サウンドウェーブ達がエイリアンなら、あのどれかがあなた達の星だったりするの?」

星を見上げたまま問えば、視界の隅で横へ振られるのが分かった。見えないほど遠いのか、もうないのか、どちらかは分からなかったけど、きっとずっと遠い場所から来たのだろうと思うものだった。
その時、ふっと一条の光が流れて、あ、とこぼれる。刹那に消え去った流れ星へ、少し遅れてから願い事とかもうそんな祈りをいだく事すら忘れてしまっていたと気づいて虚しい気持ちになった。野暮な事だったんだろう。願いは自分で叶えないといけないものなのに。
サウンドウェーブは星に願いをなんて、そんなあやふやなものに縋る事はしないんだろうなと思って視線を下げる。近くに細い指が垂れているのを見て、不意に触れてみた硬質な金属で出来たその表面は、氷の冷たさでわたしの指を痛みに凍てつかせた。前は手袋越しだったけど、素手で触れるのははじめてだと今更思いながら赤みを増した指先から視線をあげれば、暗い画面がこちらを見下ろしていた。
静かにじっと佇むその様は、まるで冬の亡骸のようだと思う。同時に、蝉の抜け殻の空虚さがその機体のうろにある気がする錯覚を、視線をそらす事で振り払った。

外へ出られたのはその一度きりで、それ以降はどうやら高度が生身の人間には耐えられないくらいの場所へ船がある事が多いらしく叶わなかった。
窓とかないから外の様子は一切分からないけど、もしかしたら宇宙にいる可能性だってあるのだろう。相変わらず非現実的だし、そんなとこに宇宙飛行士でもない自分がいる事がなんだかおかしかった。地上では行方不明として扱われている少女が、まさかエイリアンに囚われているなんて、きっと誰も思わない。わたしだってまだ寝たら覚める夢なんじゃって、瞼を閉じる度に思う。
どれだけの日数が経ったか分からない頃、その日はブリッジと呼ばれている場所で作業するサウンドウェーブの傍らにあった。
後ろの方でビーコン達も作業しているのをぼんやり見ていたら、音もなく伸びてきたケーブルで視界を塞がれる。見るのも駄目なんだ。じわじわ課される縛りが、束縛が日毎多く強くなってきているのをそっと見ないフリをしてその足に腰掛ける。床を眺めてたら、振動が伝ってきた。同時に遠くから騒がしい音が近づいてきて、思わず顔だけで振り返る。なんだろう。はじめての事態に注視してたら「あっ、」巻きついたケーブルで持ち上げられて、通路の方へ振り返ったサウンドウェーブの足の後ろに下ろされた。大きくなった音にそっと顔を覗かせれば、通路の方から見慣れない三体のロボットが駆けてくるところで。銃だろうか、ビームのような閃光がビーコンに当たって倒れていく。

「ブリッジを制圧しろ!」

先頭の青いロボットが叫んで、モニターの前にいたビーコンも撃たれる。急にはじまったエイリアン同士の戦いに、ただ悲鳴も上げられずガシャンガシャン響く大きな音に怯えて、身体が震えてしまうのに彼らはわたしの、サウンドウェーブの方へ向かってくるから思わず足に触れる手へ力がこもる。ただ恐ろしくて、動けないでいると、ぶわっと緑色の光で視界が覆われた。
床へ出現したそれは落とし穴のようにロボット達をのみこんで、音もなく消え去った後には静けさだけ。きっと今のはサウンドウェーブがやったんだろう。簡単にビーコンを倒したロボット達を、容易く指一本使わず排除した冷静さと手腕はあまりにも鮮やかだった。

「すごい……って、あ、サウンドウェーブ……っ」

余韻から抜け出せないでいると再度ケーブルに巻きつかれて、今度は近くに置いてあった容器のなかへ入れられる。解けて戻っていく暗い色とビビットな蛍光色を見上げる間に蓋をされてしまった。空調は整っているし、もう慣れたものだけど、狭い空間はいつまで経っても好きじゃない。
危険だと判断して一応の安全圏へ避難させられたのだろうか。さっきみたいにまた他のロボットがやってくるのだろうか。サウンドウェーブ達と敵対している様子のロボット達、とそこで今更思い出す。もしかしてあの青い睛のロボット達がオートボットなのだろうか。わたしが人質として使えるという事は人間に危害を加える気がないという事で、つまり彼らに助けを求めればよかったのかもしれない。その答えに辿りついた瞬間、愕然とする。避難じゃない、閉じ込められたんだ。

「あっ……開けて!サウンドウェーブ!」

ガラスをガンガンと手が痛むほど叩くのに、たぶん声は届いていなくとも普段ならこうすれば振動を察して開けてくれるのに、サウンドウェーブはこちらを一瞥すらしないでモニターへ向かうと作業を再開しはじめた。それに確信する。わたしがオートボット達と接触しないようにしているんだと。さっきの戦闘時、サウンドウェーブの足の後ろに隠れるようにいたわたしの存在はたぶん気づかれていない。
この容器に入れられてしまったが最後、開けるまでなかに人間が、わたしが閉じ込められている事なんて分かりっこない。サウンドウェーブが倒されて、やっと解放される可能性がある。だけどさっきみたいに戦闘にすらなっていない様子を見ると、期待していいのかが分からない。期待したいのに、助けてほしいのに、自分からなにかする手段を封じられてしまっているせいで信じて待つしかない役立たずさが嫌になる。
サウンドウェーブはわたしが気づいてる事を察してるから絶対開けてくれないだろう。周到に逃げ道を塞がれてばかりだ。悔しくて、情けなくて、涙が出そうになるのを無理矢理拭って止めていれば、わたし達のいる位置とは対角線上にあるモニターの方へ緑の光が発生して瞠る。サウンドウェーブ?と思ったけどどうにも違う雰囲気で、そこにいたビーコン達が銃を構えて見つめる先へ現れたのは、ロボットじゃなかった。
人間の男の子だった。
なんで、こんなところに、どうして、危ない。
思う間に、その後ろから今度はロボット、のようだけどちょっと違う気がする。女の子が乗ってる?飛び出してきた勢いのまま、ビーコン達を薙ぎ倒す。最後の一体はこちらへ吹っ飛ばされてきて「ひ」頭上を勢いよく巨大な影が通り過ぎる恐怖で立ちすくんでしまう。酷い音を立ててすぐ後ろにぶつかって、床へ叩きつけられる振動が伝わってきた。
向かってくる女の子の乗ったロボットに向けてサウンドウェーブが左手をかざした瞬間、緑の光が生じる。またどこかへワープさせてしまうつもりなんだ。女の子も知っているのか後ずさるけど、サウンドウェーブは淡々と足を進ませる。あの光がある限りサウンドウェーブに攻撃は不可能といってもいい、こんな相手どうやって倒せばいいんだろう、絶望に思考が支配されかけているとサウンドウェーブの背後にも光が出現した。
え、と思う。サウンドウェーブも驚いているようだった。自分の出したものと、そうでないふたつの光に挟まれて、なにかの引力が働いているのか両手を広げ耐えるような体勢になるサウンドウェーブの、はじめて見る姿を呆然と見ていたら勢いよくケーブルが伸びてきてわたしの入った容器を掴んだ。

「きゃあ……っ」

配慮もなにもないスピードで引き寄せられて、ガラスに思いきり身体を叩きつけられた。咄嗟に強く瞑った瞼が閉じる寸前見たのは、眩ゆいほどの緑色の光に掻き消される画面のおもてだった。

「…………っ、う」

光が消えて、痛みに呻きながら身を起こせば、床に転がっていて容器の蓋が開いている事に気づき慌ててどうにか出る。その頭上ではサウンドウェーブが女の子の乗ったロボットとその手の上にいる少年へ向けて殴りかかるところで、悲鳴をあげる間もないそれは、だけど当たらなかった。すり抜けた。右手を理解できないように動かすサウンドウェーブへ「シャドウゾーン楽しんでね」女の子の声がかけられる。

「行こう、ミコ」

少年の声にハッとして「待って……っ」痛む身体を叱咤して叫ぶ。

「お願い、助けて!」

叫んだのに、手を伸ばしたのに、指先はまるでさっきのサウンドウェーブみたいにすり抜けた。絶対聞こえている距離なのに、まるで聞こえてないみたいにそのまま二人は走り去っていって、残されたのはサウンドウェーブとわたしだけ。

「…………え……?」

なんで。なんでなんでなんで。どうして。どうして、わたしを無視するの?どうして触れられなかったの?
意味が分からなくて、追いかけようとしようとした足が、だけどぺたんと崩れ落ちてしまう。ガシャン、ガシャン。近づいてきた足音に反応もできない。細い指がそっと頭に触れて、さらりと髪の毛をすいていって、なにを思う前に手を伸ばした。熱をもたない金属の感触が、てのひらから伝わる。
触れられる。サウンドウェーブには、触れる事ができる。

「…………な、に?なんで、これ、なにが……?」

失意のまま見上げた先にあったのは、サウンドウェーブのなにも変わらない静けさだけだった。



ここはどこ?と問えばシャドウゾーンと、女の子の声が答える。
出られないの?と問えば暗い画面のおもてが静かに首肯した。
よく理解できなかったけど、落ちついて訊いてみればここは別の空間、異次元だという事らしかった。見えているのに、確かにそこにいるのに誰の睛にも映らず、誰にも声の届かない。たった唯一、サウンドウェーブを除いて。まるで元いた世界からフィルターが一枚ずれた世界に、わたし達は閉じ込められたのだ。
サウンドウェーブが出られないのであれば、わたしに出られるはずがない。でも、彼がじっと閉じ込められたままだとは思い難い。その時がくるのかは分からないけど、そのためには彼と一緒にいなければならなかった。
この世界にたったひとりきりで取り残されたら―――考えるだけで心臓がぎゅうと苦しむようで、きっとそうなったらわたしの精神というものは狂ってしまうのではないかと思うような事だった。
ここでは時間の概念がないのか、餓えもなにもなかった。爪も伸びず、この世界に閉じ込められた瞬間のまま停止した刻は、永遠とはこれを指す言葉だったのだとわたしに突きつけた。心臓は動いているのに生命活動は行われていない。世界は変わらずそこにあるのに、命あるものには決して触れられず、誰にも気づかれない。地面には靴の裏が触れても、まるで幽霊にでもなった気分はしかし少しずつ、けれど確実にわたしの正気を削っていった。

どれだけ経った頃か。サウンドウェーブに連れられいろんな出来事を見たけど、見ただけ。わたしにはなにも干渉できない世界の事にたいして、動く心はあまりなかった。本当に宇宙だったんだとか、彼らの星だろうそれらを見てもなにも思えなかった。
そうして、地球へ戻ってきても、あれだけ望んだ大地を踏みしめても虚しいだけ。なんの脈絡もなくふっとした瞬間に視界が滲む時が増えた。訳もなく泣き出したくなるというのをはじめて身をもって経験してけれど、それはどこまでも空虚だった。
頬を伝う涙を伸びてきたケーブルがそっと拭う。その所作は今まででいっとうやさしくて、それが恐ろしくて堪らなかった。
されるがままのわたしの身体へ巻きついて浮き上がる。どこかへ移動するのだろうか、ぼんやり思っていれば画面の前まで持ち上げられただけで、不思議さに見つめていたらもう一本のケーブルが顔へ近づいてきた。

「サウンドウェ……ん、ぐっ」

もう随分慣れてしまっていたから、なにも身構えていなかったそこに先端部分が押しつけられ、どうしたのかと名を呼ぼうとして開いていた口内へにゅるにゅると蠢いている細い端子が侵入してきて睛を瞠る。

「ンッ、んむ……んうぅーー……っ」

咄嗟に両手で外そうとしてもアームのようなものでがっちり顔を固定されていて、離せない。引っ張ろうとしてもびくともしないうちに、四本の細い端子はまるで金属の蚯蚓のようにうねうねとわたしの口のなかで動いて、その気持ちの悪さに眦から余計涙がこぼれる。思わず噛んでしまうのに、ガチガチと音と一緒に歯が痛むだけで、怯む気配すらない。
なんで、どうして、なにが。混乱するわたしをよそに、二本が舌へ絡みつく。少し締めつけられたり、巻きついたまま擦られたり、残ったものは歯列や上顎をなぞったり好き勝手に蠢くせいで、閉じられない口端から唾液が溢れてしまう。噛んでも無意味で、にゅるにゅるうねうねと隅々まで触れられるようだった。

「んむっ、ン、ぅ、ふ……うぅ」

いつしか上手く呼吸ができてないせいでくらくらと頭に熱がのぼって、ケーブルを掴む手にももう全然力が入ってない。溜まった唾液ごとぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、水音ばかりが嫌に大きく聞こえる。気づけば薄暗い画面には、熱に浮かされたような表情が映っていて。サウンドウェーブはいつもと同じようにただ、じっと、画面の向こうからわたしを見ていた。
解放された頃には、はあはあと整わない呼吸を繰り返すだけの力ない人形と化して。執拗に丁寧に、散々嬲られた舌先と端子を繋いでいた透明な糸が宙で途切れるのを滲む視界で眺めた。

「ナマエ」

記憶にある誰のでもない、はじめて聞く声に名を呼ばれ、それがサウンドウェーブ自身のものなのだと気づくのが遅れた。他に誰もいない、一体とひとりきりの世界だから、もう秘匿する必要はないと判断したのかもしれない。呆然と見上げる先で、電子音じみた響きが続ける。

「アイシテイル」

アイシテイル、あいしている、愛している。
鏡のようにわたしの姿を反射する画面の下でどんな感情が渦巻いているにしても、それは決してわたしのいだく愛の言葉の意味とは異なるのだろうという予感はきっと正しくて。
理解したくないのに、頭のおかしくなりそうなこの世界で、サウンドウェーブだけがよすがとなってしまう未来がその暗いおもてに映り、わたしを呑み込むようだった。

20231031

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