ハロンタウンの牧歌的な空気の中、くあと欠伸が出てしまってペンを置く。これはそろそろ集中力が切れたなと、休憩がてら何時の間にか空になっていたカップを持ってお茶を淹れにキッチンに向かっていると「ただいま…」玄関のドアの開く音とともになんだかテンションの低い声がと思ったら、くたくたなホップが姿を現したのでおかえりと声をかける。

「お疲れだねホップ、お茶飲む?」
「うん…頼む。欲しいんだぞ」

返答に食器棚からホップのカップを取り出して準備する。お手軽なやる気のない作り方でできたミルクティーを両手に、リビングに向かったら机に広げたままのノートをホップが眺めていた。

「はい、ミルクティー」
「さんきゅ。ナマエも勉強中だったんだな、お疲れさまなんだぞ」

カップを受けとって、一口飲んでふうと息をつくホップは、色々あったものの今はソニアちゃんのところで助手として、ポケモン博士になるべく勉強中で。ホップがナマエもと言ったとおりに、わたしも勉強中だった。とはいえホップとは違って、わたしの場合はアーマーガアタクシーの運転手になるための、免許をとったりとかそういうのの勉強だ。年齢がまだ足りてないけど、達したら直ぐに試験を受けられるようにという準備なのでホップよりはまだ気が楽とはいえ、どちらかというと文系の身には難しいせいで、地味に難航している。
昔から特になりたいものとか夢とかはなんにも決めていなかったわたしはけれど、先日吐いた苦し紛れの嘘もよくよく考えれば折角アーマーガアに手持ちになってもらったのだし、悪くないかもしれないなと思いその道を進むのを決めたのだった。鍛えられた肢体のアーマーガアは、目的を達してしまったいま、バトルをしないわたしには正直宝の持ち腐れなくらいだったから、このこを活かしたいという想いからでもある。ガラルの空の王者を飛ばせないでいるのはちょっと耐えられなかったのもあった。
アーマーガアは嬉しい事に、結局わたしの手持ちをやめる気はないみたいで、この事を伝えても快く同意してくれた。本当にわたしにはもったいないこだ。

「そういや、アニキは?帰ってるんだろ?」
「おにいちゃ……ダンデさんもすごいお疲れみたいで、上で爆睡してるよ…」

昼過ぎに突然連絡もなく、シュートシティに借りてある部屋ではなくハロンタウンの実家に帰省してきた兄(未だに慣れなくて意識しないとそう呼んでしまう)もといダンデさんは「ただいま!」声とともにバターン!とわたしの部屋のドアを勢いよく開け放って、その唐突な帰宅に、オーナー服もいつみても格好いい!じゃなくて!とびっくりしているわたしが、おかえりを言う前にぎゅうううううっと抱き締めてきたのは記憶に新しい。
何時もはギリギリされる加減の失せたしめつける攻撃に、潰れたメッソンみたいな声が出たし、なんなら酷い圧迫に内臓も出るかと思った。ゴリランダーはしめつけるは覚えないよ?ばかぢからの方だった?どっちにしてもやめて?
薄れそうになる意識のまま現実逃避をしている場合ではなかったので、全力で背中をタップして命からがら抜け出したら、えらくハイテンションなにこにこ笑顔の目元の隈がやばい事に気づいたので、皺になったらいけないととりあえず臙脂の上着だけ脱がせてそのままわたしのベッドにどうにか寝かしつけたのだった。その際何故かわたしまで一緒にベッドの中へ引き摺り込まれそうになったけど、下の階からかけられた母のちょっと手伝って〜という声に救われてなんとか脱出できた。ありがとうお母さん。

「ああ…うん、アニキが一番お疲れさまだもんな…」
「ほんとにね…何徹したんだろってくらい隈がやばかったよ…」

わたしの言葉に、うわ、と引くホップと同じ気分でしみじみとしてしまう。
わたしの知っている物語のとおりに、ダンデさんはユウリちゃんに敗れ、チャンピオンの座は次代に継がれた。病室に置いてあるテレビの前でそれをみたわたしがどうだったのかは、言うのは憚られるくらいの有様だったので割愛しておく。
王者のマントを脱ぎ去って、けれどバトルタワーのオーナーにリーグ委員長にと、種類が違うとはいえ肩書きの重さは変わっていないんじゃという感じで、引継ぎやら新体制やらなにやらでチャンピオンの頃より多忙を極めている様子だった。なのでわたしの事はまだ身内しか知らない。ダンデさんは直ぐにでも世間一般に公表をという勢いだったけど、余計大変にしてどうするんだろうと過労死しそうな気配に、落ち着いてからでとなんとか説得した結果だ。

ただ、その時に「じゃあまずは婚約指輪だな!」と左の薬指に、測られた記憶なんてないのに、それはそれはあまりにもぴったりなサイズの指輪をはめられて喜ぶ云々より先に、ひえ、となったのは仕方ないと思う。訊いて後悔したお値段的にもつける勇気がないのと、なくしたら嫌だから普段はチェーンを通して首に下げ服の中にしまっている。
一般的には婚約指輪は男性が女性に贈るもので、女性だけが持つ指輪らしいけれど、自分だけというのがなんだかもやもやしたので、貰ったものより数倍値段が下がるのは本当仕方ないので早々に諦めて、アーマーガアの育成中に拾ったものを売ったりして貯めていたお小遣いで買える中で、一番素敵だなと思った指輪を贈っておいた。
差し出されたごつごつとした褐色の指にはめたら、とてもとても嬉しそうに笑って「オレも、ナマエのものって感じがしていいな」そう言うものだから、羞恥やらなにやらで微妙な顔になってしまった。だってダンデさん、事前に普通にわたしに薬指へ細長い紙を巻きつけられサイズ測られたのだから分かりきってただろうに、それなのにそんな幸せそうな顔をするのはずるい。無言でにこにこ、とてもいい笑顔でおとなしく測られていたからわたしもなにも言わなかったとはいえ。
しかし指輪、まだ公表しないためきっとわたし同様に普段はつけられる事がないだろうし、たまに一緒にいられる時にお互い指にしておきたいなくらいの軽い気持ちだった。
だのに後日、テレビに映る兄の薬指に堂々と煌めいているのをみて卒倒しかけた。隠す気が!ない!いや、あくまで恋人ができたというだけを公表したみたいだったとしてもだ。
あと今更だけど婚約指輪って、結婚を前提にしたお付き合いだったの?初耳だったよ?そう、指輪を贈られた時につっこむのを忘れてしまったおかげでそこに触れるタイミングをもう見失ってしまった気がした。
でもダンデさんも、わたしの将来の夢を笑顔で応援してくれて、たまに勉強をみてくれるのはすごく嬉しくて。ただ「何れオレ専用で雇うぜ!」と本気なのか冗談なのか分からない事を宣っていたけど、たぶん本気と書いてマジと読むやつだなこれと思っている。

ホップはわたしが実は血の繋がらない兄妹だった事も、ダンデさんとそういう、恋人同士の関係になった事にも、盛大に驚いて、それでもやっぱり最後には笑顔で祝福してくれたから、ちょっと涙が出そうになったけど「ん…?あれ?じゃあ、ナマエは義姉さんになるのか…?」そう混乱していて笑った。
双子として生きてきたので、わたしの誕生日はホップと同じだったものの、実際はホップよりちょっとはやい生まれだったらしいからそれは間違ってなかったとはいえ、わたしは今までどおりホップの双子の妹だよと伝えて、その関係性は変わらないままだ。
怪我に関しても、母にもホップにもいっぱい怒られて心配してもらって、でも最後には笑顔で無事でよかったと言ってもらえて、わたしは本当にいい家族に恵まれたなと思った。

そういえば、前にダンデさんに会いに行った時にたまたまキバナさんと顔を合わせたら、ニパーっとした人懐こいヌメラスマイルで声をかけてきたため油断したわたしに、一瞬で眦を吊り上げると「オレさま、無茶はするんじゃねえって言ったよな?」かみなりが落とされたのもまだ記憶に新しい。竜のげきりんだったかもしれない。どちらにせよあれは怖かった。若干涙目になるくらい怖かったけど、それをみたダンデさんが「キバナ、ナマエを泣かせていいのはオレだけだぞ」真顔で口を挟んできたのは忘れたい思い出だ。
えええ?と思うわたし同様に、キバナさんもちょっと引いていた。正常で真っ当な反応にキバナさんにたいする安心と信頼度が上がったのは言うまでもない。ダンデさんにたいするあれは、うん、もう諦めの境地なので。


ホップと他愛ない会話をしているうちに、母が買い物から帰ってきたので今日の勉強が休憩のまま終了になっちゃったなと思いつつ、テーブルを片付けて夕食の準備を手伝う。
帰ってきた兄のために急遽変更になった夕食のメニュー。男の人がひとり増えるだけで量がだいぶ変わってしまうのがすごい。大体の料理が出来上がってきた頃、もうだいぶ経つのに全然起きてくる気配のない兄を起こすため自室に向かうと、ドアを開けた先では変わらずベッドの上に布団に包まれた大きな塊があって僅かに菫色の髪だけが覗いている。
それにそっと近づいて、肩とか背中であろう部分に手をかけ揺する。

「ダンデさん、ごはんだよ」

起きてと声をかけても「ん……、」ぼんやりとした声とも呼べない音しか返ってこない。ダンデさんも普段は寝起きは悪くないのでこれは相当だなと思いながら、とりあえず布団を剥ぐ方向にチェンジする。

「起きてだーんーでーさーんー、ごーはーんー」

頭まですっぽりな布団はしかし強固な力で閉ざされていて全然捲れる様子がない。困った。こうなったら逆に足元の方から布団を剥ぐかなと、そちらへ向かおうとしたら突如がしっと腕を掴まれる感覚も一瞬。

「ひゃわ…っ!?」

すごい力に視界が反転し、訪れるであろう衝撃につい目を瞑ってしまったのに、身体は安定感のあるぬくもりに抱きとめられる。
開いた視界には菫色が広がっていて、現状をまだ上手く把握できないわたしの腹部にくふくふとくぐもった笑いが伝わって、その擽ったさにやっと理解する。

「お兄ちゃん…!」

叫んでから、咄嗟の時にはついまだこう呼んでしまうなと冷静な部分で思って、だけどそれどころではない。さっきはどうにか回避したのに!心中で嘆きながらも、掴んだ布団。今度はいとも容易く剥げた布団の下には、横向きに寝転がった体勢の、わたしの腹部に顔を埋めて肩を震わせているダンデさんの姿があった。両腕もわたしにがっしりと絡みついていて、だから今度は簡単に布団が捲れたんだなと思う。この体勢では抜け出すのは困難を極めるというか無理ゲー過ぎる。それが間違ってないだろうから避けたかったのに。

「起きてるんなら下降りようよ?ごはんだよ?」
「ん…まだ起きてないぜ」

嘘だ!眠そうな声で言っても騙されないんだからね!ついさっきまでめちゃくちゃ笑ってたくせに!思っても、抱き締められたままお腹の辺りにぐりぐりと頭を擦り寄せられ、擽ったさに「ちょ、やめ…ひゃ、くすぐった…っ」まともに抗議ができない。しかもなんか、すーはーとすごい吸われている気がする。なんだろう、たまにポケッターでウールーとか毛のもふもふしたこを吸ったら癒されるみたいなのが流れてくるけど、それなんだろうか?よく分からない。真意を確かめたい気もするけど、聞きたくない方が勝ってしまった。世の中知らないでいい事っていっぱいあると思うんだ。

「………はあ…、ン……ナマエ…ナマエ…」

服越しに熱い呼吸が伝わってくるし、その合間に呼ばれる名前にじわじわ恥ずかしくなってくる。この体勢が既に羞恥心を大いに刺激するのをどうにか誤魔化していたのに。
でも背中に回された手はそっと撫でるだけだし、そこに邪なものが込められていないのは分かって、なんだかだんだんただ甘えられているだけのような気持ちになってくる。癒しを、求められているんだろうか。分からない。分からないけど。

「………お疲れさま、ダンデさん…」

労りの気持ちをいっぱい込めて、リザードンに乗って飛ばしてきたのに加え寝たおかげで余計髪がぼさぼさの頭をそっと両手でよしよしする。なんだろう、昔にもこんな事をした記憶があるような。ぼんやり思って腕の中のぬくもりを撫でていたら盛大に、はーーーーー…っと息を吐き出すのが伝わって。ごそごそと身動ぐ気配にそっと手を離したら、青みがかった紫の隙間から黄金色が現れて。

「やっぱり、お前のそういうとこが大好きなんだぜ」

その蜜を煮詰めたみたいに甘い、甘い輝きで、酷く幸せそうに微笑むので。

「わたしも大好きだよ」

結局それ以外言える言葉がなくなってしまうのだった。
その後、ミイラ取りがミイラになったわたしの事を知らずにホップが呼びにくるも、二人でひとつのベッドにいる実の兄と血の繋がらない双子の妹の姿に「邪魔したんだぞ…っ!」顔を真っ赤にしてバタンっと勢いよくドアを閉め去っていってしまったので慌てて、違うよホップ邪魔じゃないから!そう叫ぶわたしを尻目に、ダンデさんは楽しそうに笑っていた。




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