眠くなりそうなうららかな昼下がり。片方に軽いものだけが入った袋を持ち、もう片方はお母さんと手を繋いで帰ってきた家は、買い物に出かけた時より静かで。荷物を台所に置いて、手洗いうがいを済ませたわたしはリビングを覗いて無人を確認するとぱたぱた音を立てて二階に上がる。わたしとホップの部屋も人の気配はなくて、兄の部屋のドアをそっと開けたら床に座る菫色の髪の後ろ姿をみつけたから、ただいまおにいちゃん!とその背に抱きつく。振り返ったそのかんばせが、まだ幼さの残るもので、髭もない兄の様相にふっと夢だと気づく。これは夢で、いつかあった過去だ。気づいてしまえば髪の毛だってまだそんなに長くない。

「おかえり、ナマエ。でも、しーっだぞ」

ニッと笑って唇に人差し指を当てる兄に、覗き込んだら兄のベッドでホップがすやすやと眠っていた。ホップは確か久しぶりに帰ってきた兄に構ってもらっていたはずだったのに。兄の好物を作るため母と材料を買いに行く前の事を思い出しながら「ねちゃったの?」そっと訊けば「遊び疲れたみたいだ」兄はやさしい顔でホップの頭を撫でる。
ホップ楽しみにしてたもんね、お兄ちゃんと会うの。わたしもだけど。思いながらその横顔をみつめていたら、あれ、と抱く小さな違和感みたいなの。そこから生じたものに素直に従って、兄の帽子を被っていない頭をやんわりと抱き締める。

「…ん?どうしたんだ、ナマエ」
「おにいちゃんもね、いつもちゃんぴおんするのおつかれさまだからね、よしよししてるの」

兄の表情はとても穏やかだったのに、なんだか元気がないように映ったのだ。お母さんがよくそうしてくれるように。ホップやわたしにしているとこはみるけど、兄にしてあげているところはあんまりみないなと思って。兄はもう大きいからだろうか。でも、わたしもホップもお母さんによしよしされるのが大好きだから、兄にはわたしがしてあげようと思ったのだ。
今思えばすごい短絡的な思考も、まだ幼い、そうだこの頃はまだ前世の記憶がなかった頃だと思い出して、当然かと納得する。
兄はただ静かに紅葉みたいに小さな手に撫でられて、髪の毛をくしゃくしゃにされていたけどふいに「オレは、チャンピオンを“している”のか?」独り言みたいな不思議そうな声に、わたしも首を傾げる。

「うん、だって、ちゃんぴおんって、おしごとでしょ?」
「仕事……ああ、そうか、ナマエはそう思っているのか」
「……?ちがうの…?」
「いや、違わなくもないが……じゃあ、ナマエにとっては、今ここにいるオレはチャンピオンじゃないんだな」
「おにいちゃんは、おにいちゃんだよ…?」

兄がどうしてそんな事を言うのか、理解できなくてぽんぽんとクエスチョンマークしか浮かばない。当時のわたしにとって兄は、チャンピオンというお仕事をしているひとで、それが忙しくて、それをするには家からじゃ遠くて、だから家にいないのだと思っていた。テレビのドラマでみた“たんしんふにん”のお父さんみたいなものだと認識していた。
わたしにとっては、兄はチャンピオンだけどチャンピオンではなかったのだ。

「ふふ、そうか、そうだな……じゃあ今日はナマエに甘えるぜ!」

ひとりで楽しそうに笑って、がばっとわたしを抱き締め返す兄に「きゃー!」とわたしも楽しい気持ちになってきゃらきゃらと笑ったあと、ハッとしてホップをみて、全然起きる気配のないままぐっすり眠ってる姿に兄と目を合わせてこっそり笑い合う。
ひとしきり戯れた頃には、わたしは兄の股座の間にすっぽりおさまっていた。兄の熱い体温が背中に伝わってわたしまで眠たくなりそうだと思っていたら、静かにわたしの髪を梳いていた兄がぽつりと口を開く。

「―――なあ、ナマエ」
「ふぁ……なあに、おにいちゃん」
「もし、オレがチャンピオンでも、ナマエのお兄ちゃんでもなかったら、ナマエはオレが好きじゃないか?」

落とされた問いかけに、それを頭の中で理解した途端に、微睡みそうになってた頭が一瞬で冴える。

「なんでそーゆーこというの!?」
「わっ、」

ぐるっと振り返ると同時に放たれた、わたしの突然の大きな声に兄のパッチリとした双眸がよりいっそう見開かれる。

「ナマエ、ホップが起き、」
「おにいちゃんが!ちゃんぴおんじゃなくっても…おにいちゃんじゃなくっても…!だいすきだもん!」
「………っ、」

慌てたように言われても、瞬間血の上っていた脳に聞く余裕なんてなくて、遮って叫ぶ。何故だか分からなかったけど、とても酷い事を言われた気持ちになってしまったせいだ。チャンピオンじゃないのは分かっても、お兄ちゃんじゃないの、その意味が分からないのもあって。ただそれでも、兄がなんだかどこか遠くに行ってしまうような、そんな感覚に寂しくなったせいだ。
そのせいで、自分でも分からないうちに鼻の奥がツンと痛んで、兄の顔が滲んでしまう。

「わたしずっとすきだもん…っ!」

ほとんど涙声になったまま、ふええと、あとはもう言葉にならなかった。寂しくて、悲しくて、どうしてそう思うのか分からないのに、涙が止まらなくて。

「…………っ、あ、すまないナマエ!泣かないでくれ!」

兄は大きく目を瞠ったままみつめていたけど、直ぐにハッとした様子で言ってわたしの頭を撫でたり、涙を拭ったりしてあやそうと頑張っていると「ん………ナマエ…?」横から眠そうな声が聞こえる。喧騒に目を覚ましてでも、ほわんとまだ半分閉じてとろけていた蜂蜜の色が、ぽろぽろと涙を零し続けるわたしと合った瞬間バチっと見開かれて。

「あにきでもっ、ナマエをなかせたらゆるさないんだぞ…!」

寝起きのいいホップは現状をそう判断したらしくバッと勢いよくベッドから飛び降りて、兄に体当たりをかますとそのままぽこぽこ抗議のちっちゃな拳が兄を襲う。

「うわ、ま、違…、違わないけど待ってくれホップ!」
「おにいちゃ、の、ばかああ〜…!すき、だもん…ッ、だいすきだもん〜…っ」
「オレも大好きだぜ!だから、ナマエもっ、オレが悪かったから…!」
「おれだってあにきもナマエもだいすきなんだぞ…!っ、う、ナマエがないたらっ、おれまでかなしいんだぞ…っ」

まだ幼いホップはわたしにつられて、元気だった眉が下がりだんだん声に水分が混じってしまう。最終的にぴえんぴえんと泣き声は二重になり、なのに好きの応酬で満ちたあまりにも混沌と化した空間で、どうにかふたりの幼子を泣き止ませようと四苦八苦する兄を、騒ぎを聞きつけやってきたお母さんがあらあらと微笑ましげにみていた。



白い視界に、ぼんやりとなんだかとても懐かしい夢をみた気がするなと思う。ふわふわと全身が微睡みのなか、しあわせな気持ちに浸っているようで心地がいい。そのまま、また目蓋を閉じかけたのに、真っ白な世界の隅の方に色が、みたい色があったような気がして、反対に開いていく。目元に違和感があるから、擦るのに上げようとした手が、上がらなくて、あれ?と思う。ぴくりと動いた指先から感覚が戻ってくるようで、なにか熱いものに手が包まれているみたいだと認識する。そのせいで動かせなかったのかと、まだ全然覚めていない思考で思って、そちらをみようとしたら、黄金色と合った。
零れ落ちてしまいそうなくらい大きく見開かれたそれを、ただ綺麗だなと思う。わたしとは違う、わたしの持たないその色は何時だってうつくしい。微動だにしない輝きをついそのままみつめていたら、不意にぐしゃりと歪んでしまって、今度はこちらが目を瞠る。

「お兄ちゃ、」

知らず紡ごうとしたのに、出てきたのは掠れた音で、咽喉の違和感にこほこほと咳き込んでいたら「っ、大丈夫か」ガタっと椅子から立つ音がして、同時に手からするりと熱が失せていく。どうしてだかそれを惜しいと、追い縋りたくなるわたしの背にそっと腕を回し、緩く上体を起こすのを手伝ってくれたあと、直ぐ横にあったお水を手渡されたからありがたく咽喉を潤す。ちょっとずつ嚥下して、そこでようやく目が覚めた心地だった。
ちゃんと覚醒した頭でみれば、どうやらここが病院の一室のようだと気づく。白い天井に白い壁に白い布団、わたしの着ている寝巻きも白だ。開け放たれた窓にも白いカーテンが緩く揺れていて、その先に芝生が広がっていたので一階だと認識する。どうりで起きた時真っ白だったわけだと納得するなかで、病院、病室、そこまででようよう思考が疑問を叩き出す。わたしなんでこんなとこにいるんだろう、と。だけど真っ白な空間のなかで、こんな病室が似合わない唯一異質な色を、兄をみて思い出した。

「お兄ちゃん…怪我はっ、」

ハッとしてつい訊ねれば、兄は真顔のあとににっこりと笑う。ひえ、と瞬間本能的な危険を察知したのは、細められた目が全然笑っていなかったのと、前髪の隙間から額に青筋が浮かぶのをみてしまったからで、つい前のめりになっていた身が後ろに反る。

「ナマエ、それは、お前にだけは、訊かれたくない質問だぜ」

静かにゆっくりと区切るような低い声は地を這うようで、みえない汗がだらだらと流れる気分に逃げ出したかったけど、無理だという事は分かりきっている。つい先日も兄の怒った姿はみた気がしたもののそれ以上に恐ろしい。って、あれ?先日って今日は何日なんだろう?ふと気づくと同時に兄の身に纏っているものがユニフォームだと認識する。

「あの…えっと…その…チャンピオンマッチは…?」
「明日だな。付け加えるなら、お前が意識を失ってからまる二日経っているし、現状をまだ上手く把握できていないようだから言っておくが、お前の怪我は全身の打身と打撲、頭も打っていたが精密検査の結果異常はないという事だ」

さっきとは真逆のつらつらと流れるようなノンブレスに、どちらであっても怖い以外の感想が出てこない。チャンピオンマッチまでの日程は変わっていないのかと思うなか、言われてみれば全身が地味に痛む気がする。頭は結構強く打ったような衝撃だったけど大丈夫だったんだ、よかった。謎の特性石頭のおかげだろうか。安堵にほっと息をついていると、それを鋭くみとめた兄の黄金に剣呑な炎が宿る。

「なにを勝手に安心している?」
「え……?」

兄も無事で、わたしの怪我もそう酷くないらしい。たぶんあのあとは原作通りにユウリちゃんがムゲンダイナを捕まえてブラックナイトは終わったのだと思うけど、他に心配ごとあったっけと、そこまででハッとする。

「あ…!アーマーガア!アーマーガアはお兄ちゃん…!?」

わたしの大切なこ。こんなわたしの酷いお願いをきいてくれて、兄を守ってくれたやさしいこ。無事だとは思っているけど、ボールも見当たらないし姿がみえない。焦っていると、兄は何故か笑顔のまま眉間に皺を寄せ、青筋をぴくりと動かしたあと、ひとつ溜息を吐くと「無事だぜ」短い言葉にほっとする。

「無事だが、食事を摂ってくれなくてな。なあ、アーマーガア」

兄が僅かに後ろを振り返って話しかけるみたいに言えば、小さい鳴き声とともに開けられた窓からニュッと現れた黒い鋼の色の中で紅と真っ直ぐ合う。

「アーマーガア…っ、」

怪我の回復した姿が嬉しくて、でも見過ごせない兄の言葉に心配が勝ってベッドから下り駆け寄ろうと思ったら兄に手で制される。安静にしていろの意だ。

「…ごはん、食べてないって、どうして?ごめんねアーマーガア、謝って済む事じゃないって分かってるけど…本当に、ごめんね」

アーマーガアの双眸に、憎悪や嫌悪といったおよそわたしが求めるような色がない事に泣きたくなる。そんな静かな瞳をされてしまえば、許されたいわけじゃないけど、謝る以外の事はできない。下げた頭を元に戻しても、アーマーガアは何時もと同じようにただわたしをみつめていて。
でも不意に、フンッと言わんばかりに首が横を向いてしまう。拒絶にショックを受けるも当然かと思い直して、小さく唇を噛んだら。

「違うぜ、ナマエ」

無言でわたしとアーマーガアのやりとりをみていた兄が口を開いて、その言葉に、え…?と聞き返してしまう。

「アーマーガアが怒っているのは“そこ”じゃない」
「違うって……でも、他にアーマーガアが怒る事って…」
「……困ったおやだな、アーマーガア。お前がナマエの手持ちになってくれて感謝するぜ」

わたしの疑問には答えないで、後ろのアーマーガアに投げかける兄と、そんな兄をちらりとみるアーマーガアに余計クエスチョンマークしか浮かばない。一向に正解に辿りつかないわたしをみかねたのだろう、兄は視線をこちらに戻すと「アーマーガアは、お前によく似てるって事だ」呆れたような、どこかやさしい声音で言う。

「分からないのか、ナマエ。アーマーガアは、お前を守れなかった事を、自分にたいして怒ってるんだぞ」
「………っ、」

そんな、そんな事は。みつめる先でアーマーガアは否定も肯定もしない。感情の分かりづらい紅は、わたしに向けられないまま。それでも、人よりもポケモンの想いに聡い兄の言葉はきっと本当なのだろう。

「アーマーガアは悪くないよ…!仕方ない事っていうか、その、わたしもあの時は焦ってて、ああなるとは思ってなかったけど…ちゃんと考えてなかったわたしが悪いんだし…」

必死で言いながらも自分で違うと思った。アーマーガアが抱いてくれている想いは、きっと、たぶん、わたしが抱く可能性のあったものと同じだから。

「……ごめんね、アーマーガア…わたし、自分の事を蔑ろにしたね…。わたしがアーマーガアが怪我したらつらいのと同じ事を、アーマーガアも想ってくれたんだよね…ごめん。でも、わたしの大切な人を守ってくれて、ありがとう」

そっと、それでも真摯に紡いだ声は届いたのだろうか、分からなかったけどひとつ静かに瞬きをしたと思ったら「おっと、」兄の横からずいっとアーマーガアの頭部が室内に入ってきて。流石に身体は入らないものの、ぐぐっとギリギリまで伸ばされた首によって、嘴の先が手の届くところにくる。だから、手を伸ばして、触れる。二日ぶりなのに、なんだかもっと久しぶりに触れるような硬質の冷たさとぬくもりが、嬉しくて泣きたくて、それを我慢したままやさしく撫でると、アーマーガアは心地良さそうに目を細めた。

「ふふ、仲直りは済んだようだな……アーマーガア、オレもナマエに大事な話があるんだが、いいか?」

わたしがアーマーガアを撫でている間に、気づけば席を立っていた兄が戻ってくる。微笑ましいものをみる瞳の兄の言葉に、アーマーガアはゆっくり頭を窓の外に戻していく。それに笑みを深めた兄はその手に持ったフーズの入った器を窓の外に置いたようで、アーマーガアの頭部も窓の下に消えていった。

「ゆっくり食べるんだぞ」

やさしい声と眼差しに、兄は本当にポケモンが好きなのだなとあらためて思う。他者のポケモンであっても垣根が低く、ポケモンからも信頼を得るのが酷く上手い。こういうのをたらしって言うのかなと、兄じゃないけどその様子を微笑ましくみていたら何故か兄は窓を閉め、更にカーテンまで引いて「……さて、それじゃあ、ナマエ」振り返ったその双眸に凍りついた。
絶対零度の眼差しだった。一瞬前の春の穏やかな陽だまりみたいな雰囲気が今や全てを凍てつかせる極寒と化していて、理解が追いつかないわたしを尻目に、ベッド脇の椅子に再度兄が腰掛ける。ただのパイプ椅子なのにそこに鎮座まします貫禄のおかげでまるで王座だ。

「続きといこう」

そこでやっと遅れてわたしは気づいた。アーマーガアとのハートフルな雰囲気ですっかり忘れていたけど、兄の怒りが未だおさまっていない事に。むしろさっきより悪化してない?なんで?どこに悪化する要素あったの?戦々恐々する身は裁きを待つ罪人だ。

「そうだな、順序立てていこうと思ったがやめだぜ。他の証言、ああ、キバナ達には既に話は聞いてあるから大体の部分は把握しているが―――何故、お前はあの時あの場に来た?」

真っ直ぐにわたしを射抜く双眸は、凍てついてなお黄金の奥では炎の揺らめきが焼き尽くそうと牙を向いていて息を飲む。

「……ぉ、お兄ちゃん達が…心配で…、」
「なるほど、嘘は言っていないが本当の事も言っていないな。オレにそれで通じると思っているのか?いっそ愚かな程可愛らしいが、ナマエ、オレをみくびるな」
「……っ、」

辛うじて紡いだ言葉が容赦も慈悲も一切なく、いとも容易く両断され身が竦む。こんな風に怒られるのは初めての事で、心臓が嫌に苦しい気がしてしまう。

「さっきお前はアーマーガアに言ったな、守ってくれてありがとう、と。確かにオレは守られたぜ。アーマーガアがオレの前に姿を現さなければ、今そこにいたのはオレだっただろう。……だがな、ナマエ、それでお前が傷ついてオレが喜ぶとでも思ったのか?いや、賢いお前の事だ、自分でも理解しているようだしな、そこは承知の上なんだろうどうせ。オレが希まないと理解していて、そうしたんだろう?お前は」

ぐうの音も出ない兄の推測の正しさに沈黙を返す以外ができない。知らずぎゅっと布団を握ってしまっていると気づいても、痛い程強張った指では上手く力が抜けられない。

「そもそもとして、アーマーガアにも疑問が尽きないんだぜ。お前がポケモンを持ったところで不思議ではないが、トレーナーを目指すわけでもバトルをしたいとも思っていないお前が、何故あそこまでアーマーガアを育てた。あれではまるでバトルを想定した個体だが?」

ひゅっ、と咽喉が締まった気分だった。兄の考察と観察眼が恐ろしい。確かにトレーナーを目指さないのに何故と問われる事は想定していたけど、用意していた答えが夢散してしまうくらいの鋭さに言葉に詰まる。

「そ……れは、その……あ、アーマーガア…タクシーのドライバーに、えっと…なりたいなって…」

どうしようと思っている脳にふと思い浮かんだ事をどうにか口に出せば、兄からは無言が返ってくる。喋っていても黙っていても怖じ恐れてしまう。

「………成る程な、アーマーガアタクシーならば様々な環境での飛行や、空を飛ぶ野生のポケモンに無用なちょっかいをかけられないようある程度のレベルと強さが求められる…理由としては真っ当で、これ以上の追求は難しいか」

思案をそのまま独り言みたいに紡ぐ姿に、なんとか、たぶん納得はしてないんだろうけどそこを深掘りされる事はないらしいと分かって、ほんの少しだけ安堵する。追求されたところでその一点張りをするしかなかっただろうから、無駄だと判断されたのだろう。

「だがな、ナマエ」

でも次の瞬間、その微かな緩みを過敏に感じとったのか、ギラリと不穏な色が増すのが見て取れて心臓が嫌な鼓動を立てる。

「なによりお前は自身が傷ついた事を、仕方ない事だと容認したな?お前のそれをオレは決して納得も許容もしないぜ」
「………ッ」

あまりにも鋭く切り捨てられて、けれどその言葉に頑なに噤んでいた口唇から僅かに歯が浮いてしまう。

「……どうした、言いたい事があるような顔をしているな」

それを見過ごすような観察眼を持ち得ていない兄によって案の定指摘され、閉じたままでいればいいのに、口は開いてしまう。

「……お、にいちゃんだって…っ、お兄ちゃんにはっ、言われたくない…!」

兄の目をみれないまま言ったって、負け犬の遠吠えや虚勢でしかないにも関わらず一度勢いを得てしまった言葉は止められない。

「お兄ちゃんだって…!ホップとユウリちゃんをリザードンに守らせて、自分の事蔑ろにしようとしたのに…っ」
「当たり前だろう、危地で彼らを守るのは大人であるオレの役割だ。ムゲンダイナを捕獲できなかった失態の責任をとるのはチャンピオンとしての責務だ」
「それ、が……それが嫌なの…ッ!!」

あまりにも理路整然と、静かにただ事実を淡々と突きつけてくる兄は確かに大人で、泣きそうな声を荒げみっともなく駄々っ子みたいな事しか言えないわたしはこどもだった。
本当の事を、それでも兄の口から聞きたくなかったせいもある。
ああ、視界が熱い。咽喉の奥が苦しい。

「嫌い…っ、チャンピオンなんて大っ嫌い!チャンピオンを求める人達も、チャンピオンであろうとするお兄ちゃんも大嫌い…!わたしはっ…無敵のチャンピオンなら大丈夫だって、なんとかしてくれるって…無責任に頼る人達と一緒になりたくなかったんだもん…!なんでみんな頼れるの…?わたしは、わたしは…あんなに不安だったのに…っ、お兄ちゃんはチャンピオンだけど、でもお兄ちゃんだってひとりの人なのに…ッ」

言わなくていい事も、言いたくなかった事も、それを堰き止める堤防は既に決壊してしまっていた。言った瞬間から後悔するのに、零れて、溢れて、涙と一緒に。嫌で、嫌で、自分が一番嫌で、顔を覆う。兄の言葉ももう聞きたくなかった。
嫌いだと言ったくせに、嫌われる事が怖くて恐くて仕方ないなんて滑稽が過ぎる。

「……っ、ぅ…う」
「―――オレはオレだぜ、ナマエ。ただのハロンタウンのダンデも、お前の兄も、チャンピオンも、全てがオレだ。それで、それなのにお前は、大嫌いな“チャンピオン・ダンデ”を守ったのか?」

兄の言葉に目を瞠る。言葉の意味だけが脳を支配して、思うよりもはやく顔を上げてしまう。だから、その声音が微かに和らいでいた事に気づかなかった。

「……だって!そうだよ…っ、お兄ちゃんは幾らわたしがただの、ひとりの人であってほしいって思っても、チャンピオンなんだもん…ッ、それがダンデっていう人なんだもん!嫌いだけどっ、それ以上に好きだから…っ、だから…ッ」

わたしの言葉に兄は無言のあと、はあ…と息をつく。呆れられたのだろう。こどもの我儘な理由で馬鹿をしたのだと。自分でも分かっていて、それでも心臓がぎゅってなったみたいに苦しくて、苦しくて、視界が滲んでやまない。泣いたら余計こどもみたいで嫌なのに。めんどうなやつだと思われたくないのに。ぼろぼろと零れてやまないしずくに、せめて嗚咽だけはとぐっとキツく唇を噛み締めたら、伸ばされた兄の指先がそっと撫でる。

「そんなに強く噛んだら血が出てしまうぜ……ああ、やっと言いたい事を全て言ったな。まったく、ナマエ、お前は本当に…。そういうところが、オレは大好きなんだ」

つい一瞬前までの凍てついた怜悧さも、焼き尽くす業火も、なにも存在しない、ただただどこまでもやさしい声に理解が追いつかない。言葉の意味もうまく咀嚼できない。涙を流しながら呆けているわたしの唇を静かに撫でて、頬を伝うしずくを拭う指先では綺麗に短く整えられた爪が涙の色をまとう。

「お前は昔、オレがチャンピオンでも兄でなくとも、オレの事が大好きだと言ってくれたが、今のお前はオレの全てを愛してくれているんだな。ふふ、可愛いな、それでこんなに苦しんで…可愛いオレのナマエ」

うっとりと蕩けた黄金色と声音が、どろりと身に纏わりつくようで。あの時、幼いわたしを泣き止ませようとしたのと同じように、でも全然違うそれをたたえた指先は涙よりも熱い。

「お前が、オレを想って流す涙が好きで堪らないんだぜ。ナマエには悪いが、そうやってお前の心が乱されている原因がオレだと思うだけで、酷く満たされて幸福な気持ちになるんだ」

全く悪いと思っていない声音のせいでいっそ白々しい台詞なのに、冗談でもなんでもなく本当にそう思って言っているのだと理解できてしまってなにも言の葉が出てこない。兄がなにを言っていて、自分がなにを言われているのかが分からない。脳が拒否しているのかもしれない。茫然とみつめてしまう黄金は今でさえうつくしくて、畏ろしいものであっても人を魅了するのだと知る。嫌われても、見限られてもいないのだと安堵する以上に困惑してやまないわたしに、まるで愛おしいものをみるみたいにとろりと細められて息を飲む。

「なあ、ナマエ。こんなオレは嫌いか?」
「…………、」

問いかけは、内容とは正反対の笑みをふんだんに孕んだもので、言葉を失ったものの、口内に溜まっていた唾液をなるべく音を立てないよう嚥下したあと。

「……理解はできなくても、嫌いには…なれないよ…」

とめどなかった落涙の勢いは衰えてけれど、目尻に溜まっていたそれが震える睫毛にまたひとつぽろりと零れて兄の指を濡らした。理解できない思考回路の多い兄を、それでも常人とは自分とは違うのだと思って諦めるのはしたくなかったから、決して本当の意味で分かる事はできなくてもそう努めようとは思っている。今までも、これからも。
それは同時に理解できないからといって拒絶や排他的になる理由にもならなく、人としてどうなんだろうと思いはすれど嫌う理由にもならなかった。

「ふふ、本当にお前は可愛いな。オレを好きで嫌いなのは苦しみを伴うんだろう?オレには到底理解できないが、それでも、嫌悪し憎悪する方が容易いのは分かるのに、それを頑なにしないお前がオレは可愛くて仕方がないんだ」

気づいてしまえばしずくに触れる兄の指に込められていたものが、泣き止ませようと慰めるものではなく、ただただ純粋にそれを愛でていただけなのだと理解できてしまって、思考が正常に働いている気がしない。

「白状すると正直、オレとしてはお前が妹のままでも構わないんだが、世の中の求める倫理と世間体的には褒められたものでないようだからな。さて、ナマエ……待てはもう聞けないし、イイコに待ったぶんの褒美がないとは言わせないぞ」

兄というばけのかわの下にあったものを、もう隠す気のさらさらない様子に、情報過多に加えさっきからSAN値チェックがえげつない事になっている気分なのに、もう待ってが使えない。というかご褒美って、何時の間にそんなものが加算されていたのか初耳過ぎて指摘したいのに、そんな事ができる雰囲気は微塵もなくて。いっそ穏やかなのが恐ろしくて、怖ろしくて、今更だけど自分の手に負えないいきものなのだと認識する。たぶんきっと下手な凶暴なポケモンの方が可愛らしいレベルだ。

「………お兄ちゃん、それ、わたし以外にみせないで…ね…?」

なんと答えるべきかと考える以前に、思わず浮かんだ不安と懸念がぽろっと溢れたら「嫉妬か?可愛いな。大丈夫だぜ、心配しなくともお前以外にこんなオレをみせるつもりは毛頭ないからな!」朗らかな返答に、脳内だけで違うそうじゃないと頭を抱えるも口には出てくれない。心配してるのはそこじゃないよ?お母さんやホップやその他諸々の、兄の太陽の如き像しか知らないであろう人達にみせるには、ちょっとだいぶかなり憚られる言動なだけだよ?正直わたしにだってみせてくれなくていいんだよ?

「………ん、なんか…うん、もういいや…考えるだけ無駄な気がしてきた…」
「だから何時も言っているだろう、お前は余計な事を考え過ぎていると」

知らず強張っていた全身からふっと力が抜ける。気づけば涙ももう引っ込んでいた。なのに、名残惜しそうに兄の指の腹は未だしずくの跡をなぞっている。そのうちまた兄のせいで心がぐちゃぐちゃになる事が、泣く羽目に陥るんだろうかと一瞬思うも、先の事は分からないので放置しておく。

「大好き、だよ。お兄ちゃんが、ダンデさんが、好き…ずっと好き、です。えっと……もう、逃げないから、煮るなり焼くなり……お好きにどうぞ…」

ここまできたらもう本当に自らまな板の上のコイキングとなろう。わたしがどうあがいたところで結末は変わらないのなら、それなら、少しでも幸いな方がいい。兄を憎悪し嫌悪する可能性のない方がいいに決まっているのだ、主にわたしの精神衛生上。

「ああ、嬉しいな。やっとお前がこの手の中だ」

まるっと差し出されたわたしに、兄がそれはそれは今までで一番嬉しそうに、恐怖なんて感じない、ただ純粋なこどもみたいな喜色に満ちた顔で笑うものだから、もういい気がした。
それで兄も幸せなら、諸々の問題には全部目を瞑ろう。前にも言っていたとおりに兄が、どうせわたしには手も口も挟む暇なく上手くやってしまうのだろうし。どう上手くやるのかは結局聞きたくないままだけど。
頬に触れていたのとは反対の、兄の、ダンデさんの手が背に回って引き寄せられると同時に近づくかんばせが、額がこつんと当たって、そこで止まるせいで余計恥ずかしい。普段ならキツく締め付ける腕が、怪我を考慮してだろうけど、そっと壊れ物に触れるみたいなのもよくない。至近距離でぼやける黄金色はそれでも綺麗過ぎて、思わず睫毛を伏せてしまうと熱い吐息が唇を掠めて。

「愛してるぜ」

それ以上の熱が口唇に触れて、そっと瞼を閉じた。
何度も何度も触れ合って、ただそれだけなのに色んな感情がごちゃごちゃになって。潤いを帯びてきた頃、ちろりと熱く濡れた感触に、考える前にそっと閉じていた貝の口を開けてしまう。その隙間が見逃されるわけもなく、ぬるりと身をねじ込ませてきた勢いにちょっと戸惑うけど、結局より口唇を開いてしまう。
自由に動けるスペースを得た舌は、それでも真っ直ぐにわたしの舌に絡みついてきて思わず戦慄いてしまうし、ぬちゅぬちゅとくちゅくちゅと、擦り合わせる音が隙間から漏れて、余計顔が熱くなる。荒い呼吸とともに鼻から抜ける微かな声は酷く甘ったるくて嫌になるのに、止める事ができない。
わたしの口内で、もう触れていないところが存在しないのではと思う頃、やっと解放されて、途端に必死で呼吸する。苦しさと気持ちよさと酸欠で脳がくらくらとするまま呆けていたら、指先で唇の下を撫でられ飲みきれなかった唾液が溢れていた事にようよう気づく有様で。なのに、未だ鼻先の触れ合う距離にいるダンデさんの呼吸は熱を増しても乱れてはいない。

「ふふ、カジッチュみたいに顔が真っ赤だな」

美味しそうだと楽しげに揶揄されても、割と例えでなくリアルに齧られそうな雰囲気を察してしまって「……っは、ぁ…痛いのは…やだ、よ…?」つい息苦しいのに紡げば余計深まる愉快げな笑みに不正解じゃなかったようだと、逆にちょっと嫌になる。特殊性癖のデパートとかやめて?
でも、なんだかんだわたしが嫌だと言えばきいてくれるのは、愛されているからなのか気紛れなのか。後者だとしたら何れ取り返しのつかない事なりそうだ。やっぱりわたしの癒しはホップだけだ。そういえば結局まだ一緒にごはん食べれてないなとふと思い出していたら「ナマエ」名を呼ばれる。

「また、考え事か?」
「ひえ…」

とうとう口から零れ落ちてしまった。だって笑顔なのに圧が酷過ぎて。ダンデさんの特性は方向音痴なのだから、プレッシャーを発するのはやめてほしい。

「まあいいぜ、これ以上はアーマーガアに突つかれそうだしな」

可笑しげに言いながらわたしから離れ立ち上がると、カーテンに手をかける。シャッと軽快な音を立てて引かれた先には、じとりとした眼差しのアーマーガアがいた。窓も開けられると途端に、機嫌の悪そうな低い鳴き声が唸るように聞こえてきて、どうしたのとびっくりしているわたしを他所に、ダンデさんは微笑みながら「済まないな、ナマエを泣かせて」軽く言う。

「やっぱりお前がナマエの手持ちでよかったぜ。その殺気は心地いいが、できればバトルで浴びたいな」

どうだ?と後半を振り向いてわたしに問いかけるので、ふるふると勢いよく首を横に振ってしまう。ダンデさんとバトルなんてそんな恐怖体験ごめんだ。「残念だ」そうたいして残念そうになく言うので冗談だったかなと思うも、たぶんガチだ。
どうやら窓を閉めていても人間より聴覚の優れているポケモンであるアーマーガアにはわたしの涙する声とかが聞こえていたらしいと察して、恥ずかしいやら申し訳ないやら。でも悪びれない様子のダンデさんに、抗議しても無駄だと悟ったのか「えっと、わたしは大丈夫だよ、アーマーガア」わたしの言葉に溜飲を下げてくれたのか定かでないものの、アーマーガアはもう一度鋭くダンデさんをみたあと静かに羽繕いをはじめた。

「じゃあ、オレはそろそろ行くぜ。もっと一緒にいたいが、最低限を済ませただけだからな。いい加減任せているキバナやネズ達からのクレームが酷そうだ」

取り出したスマホを愉しげに振ってみせるも、病院内なので電源が落とされているその画面は真っ黒であり、チャンピオンに連絡がつかないと各方面が悲鳴をあげているのではと容易く想像がついてしまい、そっと心の中ですみませんと手を合わせる。
ブラックナイトの後始末や明日のチャンピオンマッチの準備やらで大変だろうに、今更ながらこの人はと思うも、目が覚めた時にいてくれて嬉しかったのも事実なのでなにも言わない事にした。

「さっき母さんとホップにも、お前が目を覚ましたと連絡しておいたからじきに着くはずだぜ」
「うん、あ、えっと…明日のチャンピオンマッチってわたし…、」
「残念ながらお前はまだ安静に、だからな。テレビの前でみていてくれ」

直に観られないのか、とちょっとだいぶかなり残念過ぎてダンデさんの言葉に凹んでしまう。自業自得とはいえこれは痛い。

「そんな顔をしても駄目だぜ?オレだってお前にスタジアムで観ていてほしかったんだからな?」

余程残念そうな顔をしていたのか、大きな掌がそっと頭を撫でる。でもそういうダンデさんだって笑っているから分かりにくいけど、怒っているような寂しがっているような、そんな風にみえてぐっと胸が締め付けられる。
惜しむように指先が髪の毛をすくいとりながら離れていって、行ってくるぜと病室をあとにしようとするその背に、兄の、ダンデさんの、チャンピオン・ダンデの、ユニフォーム姿のその背に「ダンデさん」声をかける。
ん?と振り返ったその姿は、やっぱり何時だってわたしには曙光のように目映くて、それで、

「チャンピオンマッチ、楽しんでね!」

勝ち負けよりも、そう思って、今できるだけ一番の、でもきっとへたくそな笑顔でそう言ったら。

「ああ!」

ニカっと大輪の笑顔は眩しくて、どこまでも麗麗とうつくしく煌めいて、なんだかまた泣きそうになったけど、それでも悲しくて嬉しいから、笑ってその背を見送った。




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