迎えたチャンピオンマッチ、スタジアムの中心でチャレンジャーを待つ王者はその双眸を閉じていて何を考えているのかは分からない。湧き上がる歓声にカメラが入場してくるユウリちゃんを映す。近づいてくる挑戦者に、目蓋を開けた事で、あの力強い黄金が現れた一瞬で、静から動へと空気が一変する。
言葉を交わして、いよいよバトルとなった直後にざわつく客席。スタジアムの大きなスクリーンに映し出されるローズさんの姿。常人には意味の伝わらないであろう言葉の数々のあとに、兄とユウリちゃんの間で地面から天にのぼる光。同時にわたしの足元も大きく揺れ、カフェの中で悲鳴が上がる。
スマホをしまってその混乱をみていたら、ナックルスタジアムでダイマックスしたポケモンが暴れているという声や、エネルギープラントが危険だという声が飛び交って、より混乱が酷くなる。避難を。その言葉に慌ててカフェから出て行く人達。わたしもそれに混ざって外に出たら、ナックルスタジアムの遥か上空までのびる赤い光が目に入る。オリーヴさんの手持ちのこが暴れてしまっているんだったっけと記憶を掘り起こしていたら、ジムトレーナーやリーグスタッフ、警察の人が避難誘導をするなか大通りはどんどん逃げる人が増えてきたため、細い道を入って一旦裏通りにそっと身を隠す。
そのままじっと待っているとやがて人の気配がなくなって、たぶんこんなに静かな街はとても珍しいんじゃないのかなと場違いな事を抱いていたら、スタジアムの方から今まで以上の騒音と振動が発生して、キバナさんが到着したのかと予想をつける。各地のジムスタジアムのダイマックススポットも暴走しているいま、ジムリーダーが駆けつけるのは当然だ。確かナックルスタジアムのポケモンを静めたのはキバナさんだったはずだから。
しかしキバナさんが着いたという事は兄も。兄の方向音痴をホップは心配してたものの流石にこの非常事態だからか、無事にナックルシティに辿り着けていたのを思い出していると「おい!」突然腕に負荷がかかって後ろに引かれる。え、と思うのと同時に、今の声は、と心臓が止まる心地。

「ナマエ!何故お前がここにいるんだ!?」

振り返った瞬間の鋭い声に身が竦むより驚愕の方が大きい。わたしの腕を掴んで、その凛々しい眉を吊り上げ見下ろすのはちょうど今脳裏に思い浮かべていた人物、兄だった。その後ろから遅れてナックルジムのユニフォームを着た人が「チャンピオン!」慌てたようにやってきたので、たぶん避難誘導していたこの人に案内してもらっていたのではと察する。でも今はそれどころじゃない。

「お、お兄ちゃん…っ、」

なんでと言いたいのはこっちの方だった。ナックルスタジアムへの道筋は数多あるのに、よりにもよって兄と鉢合わせるなんて。なんて不運だ。

「お前はシュートスタジアムに居たんじゃなかったのか?何故ナックルシティにいる?それに避難もせず……その方向はナックルスタジアムのはずだが?」
「えっと、その、わたし…、」

詰問だ。尋問だ。瞳の奥でチリチリと炎が燃えている黄金に身体が強張る。恐ろしいと、思った。怒っている。兄が。ここまで怒りを露わにしているのは、それを向けられているのは、はじめてかもしれない。圧倒的なプレッシャーに、言い訳を考えようとする思考が真っ白になって、何も浮かんでくれない。
口籠るわたしに、けれど兄はスッと全てを焼き尽くす太陽の双眸を細める。

「いや、いい、今は目を瞑ろう。キミ、このこを安全な場所へ頼む。リザードン、行くぞ」

わたしをその灼熱の視線と拘束から解放して、後ろで戸惑っていたジムトレーナーさんに声をかけるとボールからリザードンを出す。
分かりましたと返事をするトレーナーさんに促されるまま、スタジアムとは、兄とは逆の方向へ。今は従わないといけない事だけは判断できたから。危険に赴く兄の心配事になってはいけない。
それでも離された腕に、喜ぶよりも無性に不安を感じてしまって、思わず「お兄ちゃん…!」と声をかけてしまったら、リザードンに先導してもらおうとしていたその背が振り返って。

「大丈夫だぜ、ナマエ!チャンピオン・ダンデに任せろ!ああ、だがあとで覚えていろ。理由はちゃんと訊くからな」

安心させるような笑顔と声音で、でも最後にしっかり釘を刺して走り去っていった。
兄がこれからムゲンダイナと対面する事を考えると時間にはまだ猶予がある。一先ず避難指示に従ってから、どこかで機会をみてとナックルシティの外れまできたところで、キツく手を握り締めていた事に気づく。ああ、駄目だ、嫌だ。兄のあんな笑顔をみたくなかった。チャンピオン・ダンデに任せろだなんて、そんな言葉を聞きたくなかった、言わせたくなかった。違うと叫びたかった。嫌だと訴えたかった。
無敵のチャンピオン、無敗のチャンピオン、ガラルの英雄、そんな言葉に無責任に頼って、たったひとりの、ただの人に、全てを押しつけるなんて、わたしはしたくない。そんな事、してたまるか。

ガラルの全ての人に、そう望まれて、兄もそれを良しとしていたとしても、わたしだけは嫌だと伝えたかった。

言ってしまえばただそれだけなのだ。たったそれだけの、わたしの我儘でエゴ。兄が希んでいないとしても、それでも。
カタカタと、ポケットで揺れる感触にふっと我にかえる。わたしの感情の昂りを感じとったのだろう、ポケットに手を入れてアーマーガアの入ったボールを撫でる。大丈夫。大丈夫だよ。そう気持ちを落ち着かせていると、不意に悲鳴が耳を打つ。
突然いっそう暗くなった視界に、見上げれば赤い光と共に巨大な影。二本のツノの特徴的なシルエットが全容を現す。ダイマックス状態のニャイキングだ。スタジアムだけじゃないのと思うも、この付近は前に実験の影響で一度ダイマックス騒ぎが起きている。兄が素早く鎮圧しニュースにもなっていた記事を思い出す。そのせいで他よりもダイマックススポットが活性化しているのかもしれない。想定外の出来事に混乱するわたしを他所に、ジムトレーナーさんはポケモンを出しながら周囲の人に避難を促す。でもここには他にポケモンを繰り出すような人がいない。ひとりと1匹でダイマックスしたポケモンをどうにかするのは酷く困難だ。それができるのはジムリーダーやチャンピオンレベルなのだろう。きっと応援が駆けつけるだろうけど、それまでにどのくらい時間がかかるのか。
揺らぐ、揺らいでしまう。時間が、今はどの時点なのか、ホップとユウリちゃんは今どこにいるのか、もうナックルスタジアムに着いてしまっていたら、時間が。
焦燥にぼやける視界の端で、トレーナーさんのポケモンが攻撃を受け地面に膝をついているのが映って。それでも直ぐに立ち上がって指示の元、ニャイキングに向かって行くのをみて。

「……ッ、アーマーガア!はがねのつばさ!」

ポケットの中で知らず握り締めていたボールを、取り出すと同時にニャイキングに向かって思いきり投げる。軽やかな音と、鋭い鳴き声と共に光沢のある黒い硬質の翼を広げたアーマーガアの攻撃がニャイキングに当たる。
でも大したダメージは入らない。はがねタイプ同士、いまひとつの関係性だ。ただターゲットはこちらに変わった。ニャイキングの攻撃を紙一重でかわしてくれたアーマーガアに「てっぺきで守りをかためて…!」指示を飛ばす。
ダイマックスポケモンとのバトルなんてこの世界では初めての事で、心臓がドクドクと嫌に大きな音を立てている。ジムトレーナーさんの手持ちはジャラランガだから、かくとう技を持つあちらの方がニャイキングには効果が抜群だ。
防御を上げながらニャイキングの周囲を飛び回るアーマーガアに気を取られているうちに、ジャラランガの技が綺麗に決まり僅かにぐらりと揺れる巨躯。それに油断した。ギラリと大きな瞳が剣呑な色に染まる。ダイマックス技だと思った時には遅かった。

「っ、避けて…!」

叫びも虚しく、鈍く鋭い数多の鋼が地面から天を襲う。ひとつふたつと避けた先で、その鋭利な先端が直撃したのをみてしまう。くぐもった鳴き声とともに、漆黒の煌めきが墜下し地に叩きつけられる。

「アーマーガア…ッ!」

自分のものと思えないくらい悲痛な声だった。どこか他人事のように脳の片隅で思いながらも、身体は勝手に動いている。土煙りの先で、地に伏す姿に駆け寄ればアーマーガアは閉じていた目を開いて起き上がってくれたけど、思いの外ダメージが大きかったのが伝わってきて瞬間目の奥が熱くなる。それでも警戒の唸りをあげながらわたしを自分の後ろへと庇うような動作に、無意識に傷をみていた視線を上げればニャイキングの攻撃の動作が目に入ってくるのが、やけにスローモーションのように映って、ジムトレーナーさんの危ないと叫ぶ声がどこか遠く聞こえて、それで、

「ドラゴンクロー!」

竜の吠える声と共に、うつくしい羽音の風圧が髪を揺らしていく。大きく鋭い爪を弾いた竜の爪によってギィン!と空気を振動させる衝撃が肌に伝わってくる。それに見惚れていると、ぽんと軽く肩を叩かれると同時に「よく耐えたな。ソイツ、ボールに戻して下がってろ」降ってきた声の持ち主は、膝をついた状態の身にはあまりにも大きい。わたしを追い越し前に立つ褐色の肌に濃紺とオレンジを基調としたユニフォームの持ち主、ナックルシティのジムリーダー、キバナさんの姿にまだ頭がついていっていなかったけど、耳に残る声を思い出して慌ててアーマーガアをボールに戻すと距離をとる。

「イイコだ―――フライゴン!じしんをお見舞いしてやれ!」

気配で察したのだろう、振り向かないままやさしい声がかけられるのも刹那、それを一切消し去った獰猛で苛烈な指示の差異に眩暈がするようで。天を飛ぶ羽根を持つ身でありながらじめんタイプでもあるそのドラゴンの、フライゴンの強烈な広範囲技にダイマックスしたニャイキングは逃れる術なんてない。わたしの方にまで揺れが伝わってきて、よろけそうになるのを踏み止まるそれが直撃したニャイキングは、爆発したような煙に身を包まれ、その姿が縮んでいく。光と煙がはれたそこでは、元のサイズに戻ったニャイキングが目を回していた。
その様子を確認して、ジムトレーナーさんがキバナさまと駆け寄って行くのをただみてしまう。試合なら何度も観たのに、ジムリーダーの、兄のライバルのバトルに間近で触れて、恐れとも高揚ともつかない感覚になんだかまだ脳が上手く働かない。死にかけた、せいもあるのだろうか。あの攻撃を人間である自分が受けていたらどうなっていたのか。怪我をしているのに、わたしを庇おうとしたアーマーガアが、どうなっていたのか。血の気が引くような感覚を、だけど叱咤する。時間が、どのくらい経って、今はどのタイミングなのか。思った瞬間、身を満たす焦燥に駆られるままキバナさんに、泣きそうな声で訊いていた。

「キバナさん…!ホップとユウリちゃんをみませんでしたかっ?」
「ん…?ああ、ホップはともかくユウリならさっきジムのそばで会ったぜ……って、お前ダンデの妹じゃねえか!」

こんなとこでなにしてやがる、そう問うキバナさんの台詞はもう入っていなかった。わたしの事を知っていたのかと驚く思考も遠い。キバナさんがここに駆けつける前に会ったという事は、もう2人とも地下に、エネルギープラントでローズさんと対峙しているはずだ。時間が、ない。それを理解した瞬間走り出したのに「ッ、おい!」腕を掴まれ停止させられる。リーチの長さがうらめしい腕の持ち主であるキバナさんに「離してください…ッ、」叫び腕を振ろうにも、大人とこどもでは力の差なんて歴然で。

「待てって!そっちはまだ危ねえんだよ」
「っ、や、行かないといけないんです…!」

普段ならイイコにきけただろうけど、今は、今だけは無理だ。キバナさんの目には聞き分けのないこどもに映っているのだろう。仕方ねえなという雰囲気がある。わたしだってキバナさんの手を煩わせたくなんかない。だけど、だけど、わたしはそんな安穏としていられないのだ。
離してともう一度叫ぶ前に、軽い音と同時に手に持ったままだったモンスターボールから姿を現した影が、わたしとキバナさんの間を割いた事によって手が離れていく。
わたしの前に、さっきと同じように、庇うように凛と立つその後ろ姿に「……アーマーガア…」知らず名を呼んでいた。

「……っ、」

キバナさんがわたし達の姿に目を見張ったその隙を見逃さず「お願いします!行かせてください…!わたし行かないといけないんです…ッ!」必死に訴える。また駆け出したところで彼の足の方が速いし、彼のフライゴンの方が速い。キバナさんは、静かに目尻の上がったままの鋭い眼差しでわたしとアーマーガアを見比べる。竜の圧も、沈黙も、王者に勝るとも劣らず重く荒々しい。ドラゴン使いでありながら氷の色をした怜悧な双眸に、呼吸すら忘れそうになる中で、やがて静かに閉じられるのに合わせて、はあと億劫そうな溜息が空気を壊す。

「ったく、ダンデといいホップといい、こうと決めたらテコでも動かない頑固なとこはそっくりだなお前ら兄妹は……分かった、行けよ」

キバナさんの言葉にジムトレーナーさんの驚愕が滲む声が聞こえる。チャンピオンから避難させるよう任されたのだと伝えられても、キバナさんはめんどうそうに一転眦を下げて「アイツは過保護なんだよ。コイツらは確かに守るべき存在だが、それだけじゃないのはもう今回身にしみたからな」独り言ちる。
こんなにすんなりOKが出されると思っていなくてつい見上げてしまっていると「だがな、」キバナさんが言葉と共にアイスブルーの瞳でわたしを真っ直ぐ射抜く。

「無茶だけはするんじゃねえぞ」

分かったなと念をおされて、こくこくと頷くしかなかった。それでもなんとか「ありがとうございます…!」頭を下げて、アーマーガアに休んでてと伝えボールに戻ってもらうと今度こそ駆け出した。


古い石畳の道は綺麗に整えられているとはいえ躓いて転ばないように、なんて注意事項も今は頭をかすめない。ただ、早く、速く。アーマーガアの翼を使えればとは何度も思ってでも、ガラルはアローラ同様自分のポケモンに乗ってそらをとぶのは難しい地方だから。アーマーガアタクシーが主流の中、一応ちゃんと免許を取得すれば個人がそらをとぶのも許されるものではあったが、わたしではまだとれないものだった。それに怪我を治せていないアーマーガアに無理をさせるわけにもいかない。だから、走るしかない。自分の足で、自分の決めた事を成すために。
やっとナックルスタジアムの荘厳な跳ね橋の入り口がみえて、中に駆け込む。エレベーターは入った直ぐそこにあるからありがたいとはいえ、突如現れた想定外のわたしの姿にオリーヴさんがその綺麗な顔を驚きに染める。

「貴女は…確か…、」

ローズさんの有能な秘書であるオリーヴさんの脳にはチャンピオンの家族情報も一応入っているのだろう、だけどもうそれどころではないのだ。エレベーターのボタンを押せば幸いにも直ぐに開いたから乗り込む、慌てたような声がしたけどすみませんと心の中だけで謝罪して無視し扉を閉める。正直、全力疾走したため閉じれない口から絶えず漏れるのは乱れ切った呼吸だけで、言葉を紡ぐ余裕すらなかったせいもある。心臓が痛いくらい早鐘を打って、瞼を閉じればドクドクとうるさい。なんでこのエレベーターはタワートップに直通じゃないのとキレそうな気分で地下に到着した瞬間、まだ全開しないドアの隙間に身を捻じ込むようにして出る勢いのまま駆ける。
静かなエネルギープラントの様子に、もうホップとユウリちゃんが去ったあとだと気づいていっそう顔が歪む。道の横から開けた空間に通じるそこは、もうみなかった。ローズさんが、きっとまだそこには佇んでいたのだろうけど。ローズさんには、兄に自分の妄言を押し付けるなと、兄のせいにするなと、兄は貴方のためにここに来たのではないと、言いたい言葉は、怒りは、いっぱいあったけど、今はそれどころではない。そんな事は、もうどうでもいい。

エレベーターはまだ下がっている途中で辿りつかない事に焦りが酷くて、瞳の奥がチカチカするようで、でも、もしも今昇っていったばかりだとすれば、まだ、きっと、きっと。ようやく軽い音と共に開いた中に乗り込んで、直ぐ様一番上のボタンを押す。上昇するのさえどこか緩慢に思える中、足が疲労からか緊張からかガクガクと震えているのに、知らず乾いた笑いが零れる。
無意味な事だ。無駄な事だ。わたしがこんな事をしなくても兄は、ダンデさんは―――分かっていて、何度も、もう何度も何度も何度も自問自答して、それでも、嫌だと思う自分の感情をおさえきれない馬鹿なこども。前世の記憶があって同年代のこよりも賢いつもりで、誰よりも大馬鹿なのだろう。
然れども、思ってしまう。ゲームの画面の向こうで、駆けつけた主人公と弟にチャンピオン・ダンデは安心させるように言った。リザードンをはじめ、チャンピオンチームでムゲンダイナを追いつめた、と。
けれど、そこに立っていたのはリザードンだけだ。リザードンに他者を守らせ、自らを守らなかった、守れなかったのは、もうリザードン以外の手持ちが戦闘不能になっていたからではないのか?てこずったで済まされたそこを、思ってしまう。
ポケットの中に、そっと、手を入れて、指先が、つるりとした丸さに触れて、震えてしまう。
アーマーガアを、怪我を負ったアーマーガアを、わたしは。
わたし自身が盾になれればよかった。そうであればどれだけ。だけど、だめなんだ。わたしではだめなんだ。兄の胸元までしか身長のない小さなこどもの身では、その身を呈したところで兄の盾になんてなりきれない。だから、だから、わたしは、アーマーガアを、このこを。
大事だと言いながら、酷い事をさせようとしている。
決めたのに、秤にかけて兄をとった残酷な人間だと自分で理解しているのに、懇願したくなる。ごめんねとアーマーガアに謝って、謝って、謝って、今直ぐわたしの手から逃したくなる。なのに、それができないでいるわたしは本当に最低な人間だ。じわりと瞳の奥に熱さが滲んで、それをぐっと耐える。泣いていい資格なんてない。わたしはそれを自分に許さない。
指先に、カタリと揺れる感覚。カタ、カタ、わたしの震えとは別の。そっと、手のひらで包み込んで、取り出して、目の前にかざす。
アーマーガアはみていた。何時もと同じように、ただ、わたしを静かにみつめていた。その凪いだ水面のような紅の瞳をみつめ返すと、何時だってわたしの心は、落ち着くようで。

「………アーマーガア。わたしを、恨んでいいからね。憎んで、いいからね。絶対に、許さなくて、いいからね…」

ボールの表面に、泣き笑いみたいな不細工な顔が映っている。アーマーガアは、ただ静かにそれをみていた。


永遠とも思える時間を経て、やっとエレベーターが停止する。飛び出した瞬間視界に入るのは、さっきまでよりもぐっと近くなった暗い天。風が強い。まるで阻むようなそれにのって、声が聞こえる。ホップの、どこか、喜びに弾んだ声。それを耳にしながら階段を駆け上がる足はもうどこか他人のもののように感覚がなくて、それなのに鉛のように重くて。
開けた空間の先に、ホップの、ユウリちゃんの、リザードンの、そして、兄の、後ろ姿。その先に対峙する厄災の姿はない。あるのはただ、地に転がる赤と白の、丸い―――、
兄が、腕を後ろに伸ばす。まるでふたりの賑わいを静止させるように、警戒するように。長い菫色の向こうに、黄金の煌めきを、横顔を、みてしまう。兄の相棒が、リザードンが、その瞳をみつめ返すのを、みてしまう。
振り向きながら、その緋色の巨体を素早く反転させるリザードンの鮮やかなエメラルドグリーンが、音もなく見開かれる。わたしを、みているのだろうと、それを視界の隅でぼんやりと捉えて思う。わたしの目にただ鮮烈に映るのは、王者の証の赤と、紫の鬣を靡かせる、その人。わたしの家族で、兄で、大好きな人。
自分の身体の動きも周囲の景色も、まるで無音のコマ撮り映像みたいで。ああ、距離が、足りない。ボールが、揺れる。まだ、もうちょっと、お願い、お願い、どうか―――

「―――お願い…ッ!!」

アーマーガア。無理矢理投げた腕の先で、わたしの指先から離れた宙で、光る。
瞬間、その光が比べ物にならない閃光に、掻き消される。視界が焼かれるような、真っ白な世界で、それでも映していたかったその後ろ姿の先で、黒い翼をみた気がした。
刹那、何も遮るものがなかった、ボールを投げた無防備で不安定な体勢だったわたしの身体は、直撃した衝撃にいとも容易く地から足が浮いて。後ろに飛ばされたまま受け身をとる事もできずに、後頭部に酷い震盪。次いで背中から全身を叩きつけられる。一瞬の空白のあとに激痛が感覚を支配して、それでも、それすら薄い膜を挟んだみたいにぼやけていって。
そこでようやく、ああ、と思う。そうか、もしこの場で、この時に、誰かがこうなる事が決まっていたのだとしたら。それが、確定した事象を変える代償だとしたら。そんなつもりはなかったけど、それなら、代わりがわたしでよかった。
罰だろうかとも思う。それでもいい。それがいい。だってやさしいあのこは、きっとわたしを恨んでも憎んでもくれない。我儘なわたしは、許されるくらいなら罰がほしかった。

「―――ナマエッ!!」

声が、聞こえた気がした。大好きな人の姿をみたような、気がした。それも全て、真っ暗闇に塗り潰された。




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