なんてシリアスぶっていたのになんでさと、あくる日シュートシティへ向かう列車に揺られながら遠い目をしてしまう。肩から下げた自分のお気に入りの鞄とは別の紙袋の中身をちらりとみて、何度目かも分からない溜息。兄の忘れ物だ。母は急に戻る事になったから慌ててたのねとほわほわ笑っていたが、わたしはそうだねと乾いた笑いしか返せなかった。
ホップがいない今の家で、身軽なのはわたしだけなので、必然母からお兄ちゃんに届けてくれる?とおつかいを頼まれるのはわたしで。まさかそれを見越して“わざと”忘れ物をしたのではなかろうかと勘繰ってしまうのは、ちょっと自意識過剰かとも思うけど兄ならやりかねないのも事実で。そういう、本能的で直情的なようでいて酷く頭の良い狩りの仕方をするのが兄だと思っているから。虎穴に誘い込まれている気分に落ち着かないのをどうにか気のせいだと宥める。
それにたぶんきっと、前回逃げてしまった手前自ら穴に飛び込むのは良策ではなくとも愚策でもないだろうから。わたしが自分から兄の元を訪れるというのは幾ら誘導されていたとしても、兄にとっては機嫌が良くなる事には変わりないと思うので、恐らくは。仮定ばかりでだいぶ曖昧過ぎて嫌になるけど、そんなに間違ってはいないはずだと思いつつ。でもやっぱり気が重いので列車が何時迄もシュートシティに着かなければいいのになと思うわたしを尻目に無情にもみえてきた、特徴的なマゼンダが鮮やかな花のような建築物、シュートスタジアムの姿にそっとまた溜息をついた。


兄が一人暮らしをしているマンションは流石にチャンピオンが暮らすだけあって大きく高級そうな外観に伴いセキュリティもしっかりしている。でも何度か訪れた事があるのと、既に母から連絡のいった兄が話を通しているのだろう事もあってすんなり通されエレベーターに乗り込む。高層マンションのためぐんぐんガラス越しの地上が遠ざかっていくのを眺めながら、エレベーターというとついローズタワーを思い出してしまうなと詮無い前世の記憶を思う。ホップとユウリちゃんが向かうのも明日の事だ。
平和な景色のなかで、でも着々とガラルの地を揺るがす事件へ向かっているのかと思うとなんだか変な気分だ。誰も知らないで、みんなトーナメントの活気に溢れている。知っているのはわたしだけなのか、それともこの世界に他にわたしのような記憶持ちがいるのか定かではないけど、そう考えるとなんだか妙な感じだった。
ままならない事を思考しているうちに目的のフロアに到着してしまう。広い廊下は天井も高い。ここを歩く度にやばいなと思うのが、この階に住んでいるのが兄だけだというところだ。防犯面がすごい。兄は気にしなさそうなのでローズさん辺りが全部手配している事なんだろうけど、兄は正直ガラルで一番の有名人だから当然の結果なのだろう。
そうしてひとつのドアの前で歩みを止める。わたしが到着した事は伝わっているだろうから、このドアの向こうで兄が待ち構えているのかと思うと好きな人に会える喜びよりも恐怖と憂鬱さが勝って、正直やっぱりインターフォンを鳴らしたくない。今直ぐドアノブに紙袋をかけて回れ右したい気分だ。こないだもだけど兄のペースに乗せられるのはあまり、結構、かなり色んな意味でよくないので、せめてサプライズ的に虚をつけられていればとも思うけど仕方がない。
ついインターフォンを押すのを戸惑っていると、不意に視線を感じた気がして横をみたら壁からドラパルトの頭が生えていた。

「ひっ、」

軽いホラーに吃驚して咽喉から情けない悲鳴が漏れると、ドラパルトは楽しそうに目を細めするりと全身を壁から現す。兄の手持ちのこだ。何度か会った事があるけど、毎回なにか悪戯を仕掛けてくるそのこは、すり、とわたしの身体に擦り寄ってきたからつい撫でてしまう。

「ひさしぶり、ドラパルト」

すり抜けないで撫でさせてくれる、少し低い体温の滑らかな皮膚はちょっともっちりしていて気持ちいい。思っているとツノの穴にいたドラメシヤも出てきて肩や耳元に擦り寄ってきたため、くすぐったくて笑っていると、ガチャリ、ドアの開く音にハッと現実にかえった時には遅かった。
無防備に見上げた先で、バッチリ、視線が合ってしまった黄金がにこやかに細められる。わたしがトレーナーだったらバトルがはじまっていた事だろう。

「中々来ないと思ったら、ドラパルトが出迎えてくれていたのか!先を越されたな」

わたしに戯れついているドラパルト達の姿は微笑ましく映ったのだろう、とてもご機嫌そうな様子に一先ずほっとする。まだ心の準備ができていなかったのに、ドラパルトのおかげでこうなってしまったが逆にありがたいかもしれない。なにより、今なら間にドラパルトというワンクッションがある!安心感にこのまま紙袋をささっと渡して帰ればいいんじゃと気づいて差し出しつつ「お兄ちゃん、これ…」忘れ物、と続くはずだったのに。

「ほら、ナマエもドラパルトも何時迄もそんなとこにいないで入るんだぜ」

快活な声に遮られ、更に手を伸ばした兄が掴んだのは紙袋ではなくそれを持つわたしの腕で。
え、と思うも引かれるまま上がり込んでしまいそうな気配にぐっと足を踏ん張る。

「………」
「………」

無言の間が兄とわたしの間に流れる。ドラパルト達はきょとりと双眸を瞬かせていた。家の中に入ったら!出られない気しかしないよね!それだけは避けなければと最初から決めていたのだ。なんとか玄関先で終えようって。

「わ、忘れ物届けに来ただけだし、わたし、このあと行くとこがあるから…」

嘘ではない。目的は忘れ物を無事に兄に手渡す事だし、久しぶりのシュートシティなので行きたいショップがあるのも事実で、本当の事しか言っていないのに後ろめたさが酷い。未だ笑顔の眩しい兄が怖過ぎるのもある。

「折角来たのに、もう行ってしまうのか?酷いな。先日も少ししか会えなかったから、オレは寂しいんだが」

少ししか、のところをやけに強調されている気がして、気後れするまま腕を引こうにも、大きな褐色の手が指が、痛みを感じさせない程度に、けれどあまりにも強固に肌へ食い込んでいるのを実感するだけで。内心、ひえ、と悲鳴しか零れない。
こうやって、逃さないというのが思いきり伝わってくるから物怖じしてしまうのに、兄は無自覚なのかわざとなのか。いや、確かに先日散々逃げるなと釘を刺されておいて逃げたのはわたしだけど!自業自得な気しかしない。兄からの信頼度がだいぶ下がっている気がする。でも一応今日はこれを回復しなければとも思っているので、ひとつ息をつくとそっと腕から力を抜く。それが伝わったのだろう、兄の笑顔に不思議そうな色が混ざる。

「ドラパルト、ちょっとお兄ちゃんと話があるから…中に入ってもらえる?」

困ったような笑顔になってしまっただろうけど、未だわたしの傍をふよふよ浮いていたドラパルトはその感情の読めない瞳でわたしと兄とをみると、静かにドラメシヤ達と一緒に開いたままのドアをすり抜けて消え去っていった。

「家には、あがらないよ…」
「随分警戒されてしまったな…分かった。ナマエ、なにもしないから、オレにお前の時間をくれないか?」

あやすような寂しげな声音に良心がツキンと痛む。きっと宣言通りに兄は先日のような事はしてこないんだろうと信じられるけど、それでも頷くわけにはいかないのでふるふると横に首を振る。

「お前と一緒の時を過ごしたいだけなんだ」
「あのね…ほんとにね、ちょっと待ってほしいだけなの…」

兄のどこまでも穏やかで甘やかな声の誘惑をどうにか断ち切るように言葉を紡ぐ。

「気持ちの整理ができたら、ちゃんと、こたえるから…だから、お願いだから、ちょっとだけ待っててほしいの」

真っ直ぐに兄の瞳をみつめて、できる限り真摯に。野生のいきものみたいに嘘や紛い物の感情には聡い人だから、こういった時には真剣に兄と対峙しなくてはいけない。我が道を歩むタイプとはいえ、一応話が通じないわけではないからとそこに望みをかける部分もある。
兄はじっとわたしを見下ろしたまま無言だ。眼力の強さと圧が酷い。臆しそうになるけど、ここで少しでも引いた気配をみせれば瞬時に牙が向かれそうな予感しかしないからなんとか我慢していたら、ややあってから「……分かった」静かな声が降ってくる。

「お前が逃げずにちゃんと伝えてきたんだ…ならオレはお前を信じて待つしかないな」

言葉とともに腕を掴む力が緩んだのが分かって、指先は惜しむみたいにするりと手の甲まで伝うと紙袋の持ち手をすくいとって去っていく。
よかった。難関を無事に突破できた。心底安堵していると、兄が両手を広げる。

「…………、」

そろりと伺うとにっこりヒマワリみたいな笑顔。こういう時の表情はホップとよく似ているなと思う。いやホップが兄に似ているのだけど、兄よりホップと一緒にいる時間が長いからつい基準がそちらになってしまう。じゃなくて。そっか、そういえば今日はまだだったと気づいてしまうも、何時もと違って兄が待ちの姿勢なのは、たぶん、わたしを試してるというか逃げない意思を示せと言われているようで。あと待ってとお願いした手前無下にするのは得策ではない。
家に入らなくともここが既に虎穴だと思いながら、そっと足を踏み出して自分から飛び込む。わたしが両手を広げても兄の厚みのある胸板のおかげで背中で触れ合わないのに、兄の逞しい腕はやっぱり雁字搦めにするみたいにわたしの身体を絡めとる。

「ん……ああ、やっぱり愛おしいな、お前は」

ぎゅうっと、ギリギリ苦しさ一歩手前のラインが巧みに守られている兄のハグは、わたしも羞恥やらなにやらあっても好きなのでちょっとほっとしてしまう。頭上から降ってきた声は聞かなかった事にした。

「この間は、頭突きしてごめんなさい…」

これも今のうちに謝っておこうと紡げば、頭上でふふと笑う気配。

「ナマエの頭突きは小さい時に、寝てるお前にキスしようとしたら、目を覚まして起き上がるタイミングと運悪く合ってしまってな、喰らった事があるが、相変わらず効いたぜ」

記憶にないので本当に幼い頃なのだろう、兄は思い出しているのか楽しげな笑声が混ざるも、それわたしだけでなく兄の前科も暴露してない?キスって寝てる幼い妹のどこにしようとしたのお兄ちゃん?なんて藪をつついたところでサダイジャしか出ないのは目にみえているから、野暮な事はつっこまないでおく。スルースキルって大事。

「ふふ、しかしこうやって閉じ込めていると、このままいっそと思ってしまうな」
「……お兄ちゃん」

ちょっと抱擁に隙間ができて、額に柔らかく押しつけられるぬくもり。その羽毛のような軽やかさとは正反対の重い台詞に、つい非難するような声が出てしまうと、兄は爛々と燃え嫌な輝きが増した黄金をゆっくり細める。

「冗談だぜ。だが、まあ、もしお前が来ていなかったら、逃げたままだったら、そうだな…オレはお前に酷い事をしていただろうから、ナマエは本当に賢いな。やりがいがあってオレもなんだかんだ楽しいんだぞ。それに、お前がオレだけをみてくれるのなら、愛も憎も同じだろう?」

ひえ。悲鳴はなんとか咽喉奥から漏れる事はなかった。
色々理解したくない言葉が並んでいた気がするけど、兄の言っていた酷い事が、わたしが兄を憎悪する可能性のあるものだと判明してしまってこれはSAN値チェック案件。追い詰めるのにやりがいを感じないで?問いかけにするのやめて?返答に困ってる妹に気づいて?
さも真っ当な風に言っているあたりがだいぶ怖いし、なにより目の前にある、どろりと溶けた黄金の熱が恐ろしい。それに触れて焼き尽くされる覚悟は、未だない。

「………わたしは、お兄ちゃんの事、嫌いになりたくない、かな…?」

こわごわと、どうにか言葉を絞り出せば、瞬きをひとつ、長い睫毛が触れ合う音が聞こえそうなあとに、満面の笑顔。

「オレもお前のそういうとこ大好きだぞ!」

どう兄の琴線に触れたのかは甚だ定かでないものの、一応正解だったみたいでほっとする。これ以上メンタルが削れる言葉は耳にしたくない。もう既にこの短時間でごりっごりに削れているし、あまりに兄が当たり前の顔をしているせいで、どんどん自分の方がおかしいのではと思いそうになるのが一番恐怖だ。
なんとか今日のミッションは達成できたかなと油断したのが悪かった。

「だから、ナマエ」

次は頬に落とされるとばかり思っていたキスが、本当に、ほんっとうに唇ギリギリ端に触れて固まる。嫌にゆっくりと離れていく際に、ちゅ、とわざとらしく響かせたリップ音だけが空気にそぐわず可愛らしい。
顔を動かせないまま眼球だけで音もなく見上げてしまった先で、あまりにもうつくしく微笑む兄を瞳に映してしまいなけなしのメンタルが無事に死亡する。

「もう少しだけ“お兄ちゃん”でいてやるぜ」

猶予を与えられた死刑囚の気分ってこんな感じなんだろうかと、思考はもはや現実逃避だった。おかしいな、わたし悪い事なんにもしてないのに!



兄による兄のための法律により無事執行猶予、もとい時間をゲットできたのでこれでなんとか一先ずは安心でき、るのかは怪しいけど今のところの最善は尽くした気がするのでいい事にする。あとの事は考えたらいけない。
次の日のチャンピオンカップのトーナメント。ホップの勇姿を観るためにシュートスタジアムに向かう。ここまでジムチャレンジを突破してきたチャレンジャー達によるトーナメント。ホップは負けてしまうけど、それでもユウリちゃんとのバトルでみせた輝きは確かだから。ゲームの画面でも、テレビの画面でもなく、実際にはじめて観るホップの全力のバトルに、勝敗が決する前からちょっと泣きそうになった。似てない双子の妹として、ずっと一緒に育ってきた片割れなのだから仕方ない。身内贔屓になってしまうのも当たり前だ。
ホップはわたしが血の繋がった兄妹じゃないと知っても、笑って受け止めてくれるっていう信頼があったからわたしもこうやって落ち着いていられる部分もある。
ユウリちゃんとのバトルに決着がついて、凄かったよと思いの丈を綴ったメールを送っておく。本当は今直ぐ実際に会いに行って伝えたかったものの、この直後にホップとユウリちゃんを待ち受けているのは兄だから。そこにわたしも混ざってややこしいのはよくないだろうという判断がつい働いてしまった。ご飯の約束をして、でも兄は約束の時間に訪れないのだ。その間ならいいかなと、とりあえず二人の宿泊するホテルに向かう事にした。
まあ、ホップも泊まってるからと母を説得してわたしも同じとこに部屋をとっているのだけど。思いながらホテルのロビーの椅子に座って待っていたら、さっきまでのユニフォームじゃない普段着姿で、そわそわと落ち着かない様子のホップがやってきたから席を立って向かう。

「ホップ!」
「あ!ナマエ!さっきはメールさんきゅな!」

声をかけたら陽だまりみたいな笑顔がニパっと咲く。その笑顔が尊い。ホップの笑顔は何時も安心してみれるのに兄の笑顔ときたら。

「うん、メールでも書いたけど、ホップもホップの手持ちのこ達もすっごく格好よかったよ!」
「オレも、ナマエがジムチャレンジの時からずっとメールや電話くれるの嬉しかったんだぞ!」

にこにこにこにこ、お互いに気心の知れた仲なので何時も褒め合戦みたいになってしまうし、そんな風に言われたらわたしまで嬉しくなってしまう。

「だって大好きで自慢のホップだもん!」
「照れるんだぞ…!」

ちょっと頬を染める姿が可愛い。癒しだ。圧倒的癒しだ。最近の諸々で失敗ばかり叩き出していたSAN値が回復する気分だ。しかし直後の台詞にピキっと凍りつく。

「あ、ナマエも一緒にこのあと飯食べに行かないか?アニキが奢ってくれるんだぞ」

状態異常こおりになったわたしに気づかないホップに罪はない。そういう誘いを受ける可能性をすっかり失念してたわたしが悪いのだ。

「ご…ごめんね、このあと行きたいとこがあって…」

嘘だ。今日の予定は特にない。けど兄と違って嘘発見センサーの搭載されていないホップは「そうなのか…」途端に残念そうに顔を曇らせるから罪悪感に襲われる。誰だ笑顔の目映いホップにこんな顔をさせたのは、わたしです。謝るからそんな表情しないでホップ。

「えっと、お兄ちゃんには昨日会ったし、ホップもこのままファイナルトーナメントと決勝戦みるんでしょ…?わたしもこのホテル泊まってるし、その時一緒にごはん食べよう?」

慌てて言ったら「約束だぞ!」と花開く笑みにほっとする。やっぱりホップは笑顔の方がいい。とはいえこのあと起こる事を思うとそんな呑気にごはん食べてる時間あったかな?と思わないでもないけど、そこはそれ、きっとなるようになるよねという希望的観測。うん、ごめんねホップ。久しぶりに一緒にごはん食べたいのは本当なんだよ。
その後合流したユウリちゃんにしっかりエールを贈って、長居してもいけないしとネズさんがくる前にホップ達と別れてホテルを脱出する。悪いリーグスタッフ探しを手伝ってもいいものの、ホップにとってはポケモンも持たないか弱い一般人がわたしなので、守られる対象として足でまといになってもいけない。でもモノレール乗り場に行ってネズさんのストリートライブを観たい感もある。悩ましいけどおとなしく公園でまったりする事にした。昨日からアーマーガアをあんまり出してあげられていなかったのもある。
簡単に食べられるサンドイッチのセットを買って通りから一番離れた、喧騒も聞こえないようなところでアーマーガアと一緒にごはんを食べながらふと思い出す。さっきユウリちゃんと話すホップはやっぱり笑顔だったなと。悔しさや色んな負の感情があるはずなのに、それでも決して理不尽にあたったりしないホップの姿は素直にすごいと思う。それは確かにこのあと、ユウリちゃんがチャンピオンになったあとには色々あるけど、それだってやっとという感じだと思うし。それを乗り越える事ができるのだから、ホップといい兄といい圧倒的太陽属性。わたしとは違う。チャンピオンもジムチャレンジも本当は全然好きじゃないわたしとは。
そこでそういえば、と記憶の底からあぶくのように浮上するものがあった。なんだか昔、兄に訊かれたような気がする。まだ記憶が戻るよりも前のずっと小さな頃に。
「―――なあ、ナマエ。もし、オレがチャンピオンでも、ナマエのお兄ちゃんでもなかったら、ナマエはオレが好きじゃないか?」
今よりも幼い声音の問いかけに、なんて答えたんだったっけ。覚えていなかった。



ローズタワーでの出来事は、その晩ホップから大変だったぞ〜と連絡があったので無事に済んだ事にほっとしながらベッドに寝転がる。でもちょっと寝つきが悪かったのは、明日がファイナルトーナメントの日で、ブラックナイトの日だからか。知らず緊張しているのか、ぎゅっと握ってしまったボールの中でアーマーガアもまだ眠らずにわたしをみている。こんなのじゃだめだな、思って微笑んでおやすみの言葉とともに灯りを消すと、そっと目を閉じた。
一応眠れたみたいだけど、ちょっと寝足りないなと思いながら起きた明るい朝。ホテルの窓から射し込む陽は眩しくて、とてもいい天気なのが今日起こる事への対比のようで。支度を済ませて部屋を出る。アーマーガアの体調も万全だ。
どうしようかと悩みながらも、チケット勿体ないし開会式だけでも観たいしとシュートスタジアムに向かう。ホップもどこかにいるんだろう。座席が別なのでどこにいるのかは分からないままだけど、それでいい。一緒にはいられないから。確実にあの場へと行くのなら、ホップやユウリちゃんと一緒に駆けつけるのが一番だと思って、でもただの一般人のわたしがあの混乱の最中に同行できるとは思い難い。危険だから安全な場所に避難するよう言われてしまえば、それに従う他ない。説得に戸惑ったり万が一言い争ったりして、ふたりの貴重な時間を消費してしまうのも避けたいから、結局どうにか自分ひとりで向かわないといけないんだ。

満員御礼のスタジアムで、歓声とともに姿を現すジムリーダーとユウリちゃん、そして一際大きな声を受けるのは威風堂々と赤い王者のマントをはためかせる、隆とした立ち姿のチャンピオン―――兄の姿に正直口元を覆ってしまった。うちの兄が、推しが今日もあんなに格好いい。色々めんどうで複雑な想いはあっても、コートに立つ兄の、チャンピオン・ダンデの姿はどこまでもただただ格好よくて。夜明けを照らす曙光の如きこの輝きが好きで、嫌で、でもどうしたって、どう想ったってこれが兄の生き様なのだから、わたしにできるのは祈る事だけだ。健やかに、幸に満ちた生を、楽しんでほしいと。でも祈るだけなんてやっぱり嫌だったから、わたしは今ここにいて、ポケットの中の丸さを撫でる。
本来なら委員長が、ローズさんが述べるはずの開会の挨拶も兄が代わりに喋るのを耳にしながら、やっぱり傲慢だなと思う。でもあれは紛れもない兄の願いだ。決して負けたいわけではないけれど、自分を、無敵のチャンピオンを破る好敵手を求め続けている切実な、頂点故の希み。
わたしには理解する事のできない兄の想いの部分に、何故だか口元がへたくそな笑いで歪む。笑いたいのか泣きたいのか、悲しいのか嬉しいのか分からなくて。落ち着かない感情のまま、ファイナルトーナメントの開始とともにスタジアムを抜け出した。
移動手段の限られるわたしでは事が起こってからナックルシティに向かっても間に合わないだろうから、人の多さに逆流するように空いている列車に乗り込む。ナックルシティに到着してからはカフェに入って、スマホでシュートスタジアムの様子を観る。ジムリーダー同士のハイレベルなバトルも、ユウリちゃんがビートくんとバトルする様子も、普段ならドキドキするのにどこか空々しい気持ちでみてしまう。緊張している。恐れている。上手くいくのか、本当に。もうあと少しなのに。ノックアウトシステムに則って、勝ち残ったキバナさんとユウリちゃんによるバトルが、砂嵐の中キョダイマックスジュラルドンの姿が縮んでいって、戦闘不能のジャッジが下る。ユウリ選手の勝利!高らかな審判の声。次の、最後の決勝戦が、チャンピオンマッチがはじまるまでの時間、バトルのハイライトを映し出す画面に、ひとつ、息をついて、スマホをとじる。
代わりにポケットから取り出した丸さを、ぎゅっと握り締めたまま祈るように懺悔をするように、その手に額を当てる。

「……もうちょっと、もうちょっとだよ…アーマーガア…お願い、お兄ちゃんを…一緒に守ってね…」

あまりにも静かな、掻き消えそうな声になってしまったけど、少し離れてみた先で、アーマーガアはただわたしを真っ直ぐにみつめてくれていた。




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