「なあ、ナマエ、オレはお前にやさしくしたいんだ。頼むから酷い事はさせないでくれ」

後頭部に口付けたまま喋られ、熱い吐息が地肌にまで触れるぞわぞわと落ち着かない感覚に、今直ぐ逃げ出したい気持ちになっても同時に自分の力では決して褐色の拘束を解けないだろうし、恐らく兄の言う酷い事はわたしが逃亡すれば発動するもので牽制されているのだと気づいてじっと身動ぎのひとつもしないよう身体はより強張る。
それが触れた箇所から伝わるのだろう、ふっと笑う気配は満足気で自分の選択が正しかった事を思う。ただし兄にとってだけのだが。
先んじて逃げ道を塞がれてしまえば、あとは床に座った兄の腕の中でおとなしく借りてきたニャースを演じる他ない。お兄ちゃん酷い事ってなあにと訊く勇気なんて持ち合わせていない。

「ふふ、いいこだなお前は」

すり、とより頭部に触れる面積が大きくなった事に今更ながら汗臭くないだろうかと現実逃避のように思考がそれる。
ぎゅうぎゅうと逞しい筋肉の檻は酷く強固で、まだ足りないと言わんばかりに狭められてしまえば雁字搦めで抜け出すのがどんどん困難になっていく気がするのは錯覚だろうか。

「お兄ちゃ、」
「ナマエ」

絞り出したような声になってしまったそれは、確固たる意思の込められた真っ直ぐな圧の前では紙切れに等しく一刀両断にされる。

「違うだろう?」

次いで紡がれた主語のない問いに、柔らかなニュアンスとは正反対の辛辣さが込められているのを過敏に感じとってしまい、戦慄く。勘違いだったらどれだけ。

「ダ、ンデさん」

ぽつりと重く地に落ちそうな呟きをけれど拾い上げて「呼び捨てで構わないんだぜ?」可笑しそうに言われるも、ふるふると横に小さくかぶりを振って答える。兄だという事を抜きにしても、遥か年上の相手を呼び捨てにできるようなタイプではない。

「それで、どうしたんだ?」

幸いにも機嫌を損ねたようすはなく、むしろつい一瞬前のプレッシャーが綺麗に消え去った、何処までも甘くやさしい声音で訊かれてしまえば咽喉が詰まるようで。手品のような鮮やかさが恐ろしい。
しかし訊かれたところで、咄嗟に制止したくて出てしまった言葉のあとに続くものはなかったせいで困ってしまう。ただ呼んでみたに等しいそれを素直に白状するのは憚られるのもあって、現状をどうにか打破できる言葉がないかと脳をフル回転させるも、そんなものがあればこんな事になっていないと自分の頭の悪さを思うだけで終わってしまう。無言の間をどう受け取ったのか「ナマエ」名を呼びながら回されている腕の先で指が、服の上から横腹を撫で「ひぅ、」と間の抜けた声を上げてしまう。

「可愛い声を、オレに聞かせてくれないのか?」
「あ、ゃ…ッ、」

するりと這う指先を止めようにも、腕は拘束の下でありもがくくらいしかできない。
ぞわぞわと落ち着かない触り方は妹に向けていいものではなく、兄が自分を妹だと思っていない事をまざまざと知らしめるようで。それは、それは確かに自分は兄の妹であって妹じゃなかったのだ。全く血の繋がらない赤の他人。けれどそれを知ったのは最近なのだから許してほしいし待ってほしい。

数年前に前世の記憶がよみがえって、兄が当時の最推しであった事を思い出し、迂闊にも芽生えた恋心を長い時間をかけてようやく手放したのだ。だのに、実は物心つく前の幼少時に両親を亡くしたため引き取られた赤子だと聞かされた時の衝撃たるや。いや、そも記憶では彼には弟はいても妹はいなかったし、ひとり毛色も肌色も瞳の色も異なるから似ていないとは思っていたけれども、なにかしらイレギュラーなだけだとそう能天気に考えていた過去の自分を殴り飛ばしたい気分だった。
それに、血の繋がりがないとはいえ当たり前の家族として受け入れられてきた中で、今更知ったとて兄への恋心を再熱させるわけにはいかなかった。もうずっと兄として慕ってきたのだ。スキャンダルだし誰も喜ばないだろう。そう、あらためて心に決めていたのに。
だというのに、わたしの固い決意を崩しにかかってきたのが他ならぬ兄だとは誰が想像できただろうか。少なくともわたしは欠片も想像した事なんてなかった。

昔からスキンシップの多い人だったけど、実の兄妹ではないと知ってしまったし、わたしが引き取られた頃既に物事の分別もつく齢の兄はその事実を最初から知っていたのだ。わたしも思春期と呼ばれる頃合いなので流石にもう控えた方がいいだろう、そう何時ものように顔を合わせた瞬間ぎゅうぎゅうと抱き締めるハグに頬や額に降ってくる軽いキスをされる前にやんわり伝えれば、兄の大きなうつくしい黄金色がパチパチと瞬く。
そうしてそれをにっこり細めて、目映い太陽の笑顔で「お前が事実を知ったのならもう遠慮はいらないな、ナマエ。それに問題ないぜ、オレはずっと妹にするつもりで触れていなかったからな!」などと核爆弾にも等しい言葉をあっさり人に落としてきたのだ。
え、と困惑する間にしっかり抱き締められ降ってくるキスの嵐が最後に、その笑みを消した真っ直ぐな眼差しでわたしを捕らえたまま唇に柔らかく触れた瞬間、小さな脳の容量は限界を超えた。
ようやく再起動した頃、つまり兄から向けられていた親愛だとばかり思って疑っていなかったものが、そんな家族間の穏やかな代物ではなかったのだと気づいて再度フリーズした。嘘だ。思いたかったけどホップに訊いたら軽いハグはたまにするけど、キスとかもうとうの昔にやらなくなったぞ!と言われ、あの過剰なスキンシップがわたしだけに向けられていたものだと知って二度死んだ。
わたしが必死に兄への恋慕を亡き者にしようと苦心している間に、兄は着々とわたしへの恋心を育んでいたとかちょっと意味が分からないですね。理解したくないと拒絶反応が起こるのに、そこを待ってくれないのが兄だ。
どうやらわたしが事実を知るまでは一応兄としての体面を保っていたらしいが、わたしが知った今我慢も手加減も容赦も無用だと判断したらしくただでさえ過剰だったスキンシップがより酷いものになった。なにが酷いって、触り方が、今までと全然違った。
するりと産毛を撫でるくらいの秘めやかなそれは酷く淫靡で、ぞわぞわと落ち着かない気持ちになるのは本能的な女としての部分が反応しているからかどうなのかの判別はわたしにはつかないものの、やめて欲しいと思ってやまない事に変わりはなく。しかし朗らかで天然のような発言が目立つのとは正反対の強かさをも持つ兄にやめてなんて言えば、途端に何故だと問われ、どう違うと、この落ち着かない感覚を如実に吐露させられる羽目に陥るのだから悪手ばかりだ。前世があるとはいえ、チャンピオンとして様々な人間関係で揉まれた貫禄に、このハロンタウンの牧歌的な空気でしか未だ生きていない自分が勝てるはずがないのかもしれない。

「う…ぁ、ま…待って…っ」

やめてとも嫌だとも言えない中、辛うじて口に出した声は自分ながら酷く心許なくて。それでもそろそろ服の裾から侵入しそうな気配を醸し出していた指先が動きを止めたのは、恐らくこの抵抗が兄にとってあまりにも些細であるがゆえの温情じみた憐みによるものなのだろう。絶対的な優位に立つ強者の余裕から生じるそれはいっそ傲慢だというのに、嫌味に感じさせないのが兄のすごいところだ。

「まだお預けなのか?オレはもう随分と待てをしたと思うんだが」

その随分が、わたしが成長するまでの期間を指しているのは知っているがそんな事を言われてもだ。わたしにとってはつい最近の出来事だし、わたしが待てと命じたわけじゃないそれの責任を擦りつけないでほしい。それをちゃんと理解しているのだろう、空々しい声音に混じるのは寂しさではなく揶揄するようなおかしげな色で。

「わ…たしは……お兄ちゃんの、ままが、いいよ…」

言葉を選んでようよう紡ぐ。まるで地雷原を歩む心地だけど、それでも意思を主張しなければどうにもならない。

「………」

直ぐに反応はなくて、それに怖くなる。普段が打てば響くようだから余計。顔がみえないからより一層。

「それは無理だぜ、ナマエ」

無言の間は居心地が悪く、それでもぴくりとも動けないでいると不意に降ってくる。同時に回されていた腕によってグイッと身体ごと横を向かされ「わっ…、」視界に髭の生える顎が映って強張る。
少しでも顔を上げれば、合ってしまう。既に真っ直ぐに貫く視線を感じているのだ。今の状況で合わせる勇気など臆病者のわたしには存在しない。一瞬前には顔がみえない恐怖を感じていたのに、今はもうその表情を、瞳をみる恐怖に変わっているのだからどうしようもない。
そっと頬に触れる指の熱さに思わずびくりと肩が跳ねてしまう。

「こんなにもお前を愛おしいと思うこの感情の前に立ち塞がるモノがなにもないと分かっていて、手を伸ばさない理由は存在しないな、するわけがない」

最も障害があったとしてもオレは諦めないだろうが。緩やかに輪郭を撫でながら滔々と紡がれる、断固たる意志の込められた声音は普段なら頼もしくて仕方ないのに、それを今だけは発揮しないでほしいとどれほど。血の繋がりがなくともずっと家族として過ごしてきたのだからそれを世間がどうみるかとか、チャンピオンダンデの経歴に少しの汚点も付け入る隙もあってほしくない、いちファンの願望的にもわたしにとっては未だ到底乗り越えられない高い壁が聳え立っている気分なのに、兄のうつくしく強い眼差しには映っていないらしい。

「お兄ちゃんと呼び慕われるのも好ましかったが……ナマエ、オレはお前にひとりの男としてみられたいんだ」

ブワッと瞬間、顔に熱が集まるのが分かる。思考をそらしてどうにか誤魔化していたのに、直球過ぎる言葉の数々に容易く瓦解してしまうのはもう本当仕方がないと思う。無理。無理だ。この体勢とかシチュエーションとかももう、そもそもとして無理なのに頑張って耐えてきたわたし偉くない?褒める。滅茶苦茶自分で褒め称えるから兄にもそこをもうちょっと配慮してほしい。いや、逃げたくても逃亡を阻止されているせいなので完全に全面的に兄が悪いと思うけど。兄の言う酷い事がなんなのか皆目見当もつかないのに、恐ろしい事が待ち受けている気しかしない辺りが既に恐怖だ。
この際いっそ酷い事がくすぐりの刑くらいだと信じて逃げを打つべきかと思うも、現実は残酷で今はうららかな午后で、ここはハロンタウンの実家のわたしの部屋であり、兄は久しぶりの帰省を堪能中なうえに今日は泊まりだ。今逃げたところで直ぐに夕食で必ず顔を合わせる事になるしとあとが怖い。詰んでいる。

「ナマエは賢いから色々気にしているんだろうが、お前はなにも心配しなくていい。全部オレが上手くやる。お前には決して嫌な思いをさせないと誓うぜ」

なんて説得力。どう上手くやるのかの方法はさておき、キョダイマックスゴリランダーの如き大樹のような圧倒的安心感がすごい。
じゃなくて!読まれてる!鋭過ぎる観察眼と経験則でもってして弾き出されているのだろうけど、逃げ道を丁寧にひとつずつ潰されている気しかしなくてちょっと背筋を薄ら寒いものが撫でる。
そこで、ふと気づいてそうだと閃く。

「お、お母さん…ビックリすると思うの…」

幾ら上手くやるとはいえ世間よりもまず身内だ。家族を悲しませるような事を兄がするとは思えない。そう、思ったのに。

「ああ、母さんなら心配ないぞ。もうオレの想いは告げてあるが、ちょっと悩んだあと「どっちにしてもナマエが娘である事に変わりないから問題はない気がするわね」と言っていたからな!」

お゛か゛あ゛さ゛ん゛!!??
そういう問題なの???問題ないの???
知らないうちにおおらかな気質を発揮させていた母にたいしては諦めしかないが、既に根回しを済ませている兄の周到さは末恐ろしい。外堀を!埋められている!
なるほど、それであとはわたしを陥落させればいいだけで、だからこんなに大胆なのかと気づきたくない事を察してしまった時点でSAN値チェックを失敗してクリティカルを叩き出している気もしつつ。だってきっと、今はジムチャレンジ中だから邪魔になったらいけないし、告げるのはジムチャレンジが終わってからにしようと家族間で暗黙の了解になっている、なにも知らないホップだって、この事を知ったら吃驚はしても絶対最終的には「兄貴とナマエが幸せならそれでいいんだぞ!」とニパーって朗らかな笑顔で言ってくれるに違いないのだ。

「しかし、パルシェンみたいにからにこもるからやっと口を聞いてくれたと思えばお前は、やはりそういう事ばかり気にして…」

すりすりと頬に触れているだけだった指に不意に力が込められ、あっと思った時には俯いていた顔が上げさせられ真っ直ぐみてしまう。合ってしまう。

「目の前のオレだけをみて考えろ」

鮮烈過ぎる黄金の輝きに近距離から無理矢理絡めとられ視界が焼けるようだったし、思考も掻き消される。

「あ……ぅ…、」

王者の命令だ。兄にはそのつもりがないのに無自覚に発せられる事がちょこちょこある傲慢さを、超至近距離でまともにくらってしまい、こうかは ばつぐんだ。きゅうしょに あたった!流れるテロップは現実逃避か走馬灯か。
うつくしく大きな双眸はあまりにも力強く、太陽の光を閉じ込めたみたいにぐらぐら燃えている。その熱で燃やし尽くされ灰も残らなければいっそ、と思うのにそんな事すら許してはくれない。溶けて消えてなくなってしまいたいわたしの輪郭を強引に形作って押し込めて、捕らえようとする眼差し。牽制なんてしなくても、この瞳に映されるだけで簡単に身体は硬直してしまい逃げる意思すら削ぎ落とされるくろいまなざし。

「ナマエ、好きだぜ。お前が好きだ、ずっと…ずっと…なあ、好きなんだ」

普段の快活さなんて一切ない、そっと囁くような、ずっと傍で生きてきたのに初めて聞く声にはその静けさに似つかわない酷い熱量が込められていて。ぞわ、と肌が粟立ったのは恐怖からじゃない。ああ、とそこで気づく。初めて聞くのは当たり前だ。だってこの声は完全に家族に向けるモノを払い去っている声だ。
ただの、ひとりの女に向けられている、生々しい感情そのものだ。

「……っ、ぁ、待…っ、ゃ…ゃだ、おにいちゃ…、」
「逃げるな。ナマエ、何時もみたいに大好きだって返してくれないのか…?」
「ち、違う…だって、あれは……わたし…っ」

やさしい兄、チャンピオンとして忙しい兄、たまに会えれば何時も好きだぜと笑顔で言ってくれるから。恋心を封殺して、ちゃんと妹として生きるから、いい妹でいるから、兄に恋人が、結婚相手ができたその時は心から祝福しておめでとうって言うから、だから、だからそれまでは妹という立場を利用したってバチは当たらないはずだ。わたしもお兄ちゃん大好きって、そう返しても許されるはずだって、そう。だから、だから、違うのだ。あれは、違うのに。
本当に違うのか、そう思う醜さを見透かされているようで耐え難い。

「オレの事は、もう好きじゃなくなってしまったのか?」
「………ッ、」

ずるい。ずるい訊き方だそれは。首肯なんてできるわけがないし、したところで直ぐに嘘だと見抜かれるのだろう。わたしの好きが家族愛であったとしても、否定すればどう捉えられるか分かったものではない。
兄の好きと自分の好きは異なるのだと伝えても恐らくそれで納得してくれるはずがない。ここまで追い詰めておいて今更逃す選択肢があるとは到底思えないからだ。ああ、なんでこんな、わたしなのだろう。
捨てた恋心を、消し去ったと思い込んだ恋慕を、差し出す事はきっと酷く容易い事であってこんなにも恐ろしくて堪らない。あんなに必死で決意したのに、涙とともに強く諦めたのに、その全てが兄の言葉であまりにも簡単に芽吹きそうになる事に絶望する心持ち。
好きな人に、好きだと言われる奇跡なんて、起こるはずも起こってもいけないのだと思っていたわたしは、きっと悔しいのだ。自分のずっと苦しんでいた心が救われるのが怖いのだ。くだらない意地のようなちっぽけな矜恃に縋ってどうなると理解していても、簡単に馬鹿だと笑い飛ばせないのだ。そうできればどれだけ。

「ナマエ……」

焼け焦されそうな熱を湛えた双眸が真っ直ぐわたしを捕らえたまま、とろりと蕩けたその黄金で視界が埋め尽くされていく。熱い吐息が唇を掠めて、それで。

「……だからちょっと待ってっていってるじゃん…っ!!」

ゴッ、と鈍い音とともに痛む額。思ったより衝撃が大きかったせいで目の前から聞こえてきた「っぐぁ…!?」くぐもった声がどこか遠い。
腕が緩んだのが分かったので素早く抜け出しドアノブに手をかけ開けたところで「っ、ナマエ!」叱る響きに思わず振り返れば、額を押さえた手の隙間からちょっと涙目なのに爛々とギラつく太陽がみえて、ひえ、と隙間に身を滑らせる。

「だから待っている間にお前は余計な事を考えるだろうが!」
「そんな事ないもん…!」

吠える声にそれだけ返してあとはダッシュで階段を駆け下りると、そのまま玄関から外に飛び出す。
柵を飛び越えて林の中に、でも直ぐに死角になる部分に身を潜ませる。つくばったままじっとしていると、ナマエと名を呼ぶ声が聞こえるけど思った通りに駆ける足音は遠ざかっていった。この時ばかりは兄の特性である極度の方向音痴がありがたいし助かった。ほっと息を吐いて、次いでやっちゃったと頭を抱える。未だじんわり痛む額はだけど、兄の方が痛かっただろうから。わたしの謎の特性石頭による頭突きは結構なダメージが入った気がする。
最高に悪手だが、仕方ない。だって、だって、本当にわたしはちょっと待ってほしいだけなのだから。こころが落ち着く時間を、整理する時間がほしいだけなのだ。確かに兄の言う通り余計な事ばかり考えているから危惧は正しいけど、それでも違うのだ。今回ばかりは逃避ではなく、ちゃんと、向き合うために。
それにしたってあとが怖い。そこが一番陰鬱だ。酷い事についてはもうとりあえず考えないようにして、ポケットからそっと球体を取り出す。赤と白の二色の中で、こちらを窺う瞳と合う。

「大丈夫だよ」

言ってモンスターボールを撫でたら、アーマーガアは静かに目を細めた。



日が暮れはじめた夕食の頃にそろりと家に帰ったら、兄は急な呼び出しが入ったため去ったあとだった。拍子抜けはしたけど特段驚く事ではない。だって今はジムチャレンジ中で、兄が最も忙しい時期だから。そんな時にわざわざ時間をみつけて実家にやってきてわたしを追い詰めてくるのだから元気というか、色んな意味で休んでくださいと思ってしまう。
そんな事を思いながら晩ご飯を食べて、ポケモンフーズに木の実をそえたご飯入れの器を手に庭へ向かうとアーマーガアをボールから出す。この巨体では家の中で一緒にご飯というのは叶わないから、毎食の恒例だ。たまにサンドイッチとか軽食的なお昼ご飯の時は庭で一緒に食べるけど。
その鈍く輝く鋼の羽根を少し膨らませたあと、地面に置いたご飯入れではなくわたしに大きな頭を寄せてくるアーマーガアに、両手を広げて抱きつくと、ひんやりとした冷たさとほのかな温もりを同時に感じる硬い身体を撫でる。最初にゲットした時はまだ小さなココガラだったのに本当に大きくなったものだ。でもおっとりな性格のやさしいこのこはまるで猫や犬みたいに擦り寄ってきて、撫でると嬉しそうに目を細めるのは進化しても変わらなくて、可愛いと愛しいと思ってしまう。たしか雌の個体だったので、そういう部分もあるんだろうか。わたしが身に付けるちょっとしたアクセとかリボンとか、そういうのをみる時は輝いている気がするし。
一通り撫でたら満足したのかご飯を食べはじめたアーマーガアを温かい気持ちで見守るなかで、後ろめたい気持ちも同時にチクリと心臓を刺す。

ホップがジムチャレンジに旅立って直ぐに、1番道路でどうにか手持ちになってもらったココガラ。あとでびっくりさせたいから、お兄ちゃんとホップには内緒ねと母にお願いしている、わたしがこっそりひっそり育てて進化し、アオガラスを経て今や立派なアーマーガアとなった大事なこ。ジムチャレンジに挑戦しなかったとおりに、わたしにはトレーナーになる気はないのに何故ポケモンをと、その答えは単純明快でムゲンダイナだ。
前世という記憶がある中で未来を、ストーリーを変えようなんてそんな気はさらさらなかったけど、唯一ずっと咽喉に刺さった小骨のようにあったそれが、ブラックナイトに起きるナックルスタジアムの天辺、タワートップでの出来事。チャンピオンがムゲンダイナを捕まえ損ね、意識不明になる怪我を負うあれだ。
その3日後に主人公とバトルをする姿にはそんな出来事の後遺症はみえなかったけど、だけど目の前で生きているその人にたいしてゲーム画面から得られる情報だけを盲目に信じる気にはなれなかったのと、兄には、チャンピオン・ダンデには、万全の状態であの最期のバトルに挑んでほしいから。結果は変わらなくて、兄がチャンピオンの座を退く事は決まっていたとしても、わたしはなにひとつ憂いのない姿でバトルをするチャンピオンがみたかったから。ただのわたしの我儘でエゴだ。
そんな自分勝手な理由で、わたしはアーマーガアを盾にしようとしているのだ。ムゲンダイナがボールを破壊するあの瞬間、リザードンに自分ではなく背後の子供達を、未来を守るよう託した結果自らを蔑ろにした兄を守る、ただそれだけの盾に。
アーマーガアには、ココガラの頃に、ゲットする前にその事は告げてある。そっと紡いだわたしの言葉に、きみにわたしの兄を守る盾になってほしいのだと懇願した声に、やさしいそのこは頷いて、そうしてボールに入ってくれた。その瞬間からわたしはこのこにたいして罪悪感を抱き続けている。決めた事だと甘えるなと自分を叱咤してもどうしても消えないそれを抱えて、ただ真摯に接する事だけを課した。わたしがアーマーガアにしてあげられる事なんてその程度しかない。このこが少しでも幸いであってくれればいい、ただそれだけを胸に想う。
先日テレビでみた、ホップがナックルスタジアムでバトルをする姿を、キバナさんを下した瞬間を思い出す。ジムチャレンジが終わってしまった。
もう数日のうちにトーナメントがはじまる。必死に野生のポケモン相手にバトルを繰り返して、アーマーガアも十分なレベルまで達したと思う。だから、大丈夫だ。上手くやる。やってみせる。
それにしても、それにしてもだ。そうやって着々と準備してきていたのに、実は継しいこどもだったのは、まだ吃驚はしたけど納得はできる。問題は兄だ。兄の方のは完全に想定外だったから、思い出しては溜息が零れてしまう。好きな人に、求められて嬉しくないわけがないのだ。なんで自分なのだろうとか、本当に自分でいいのかとは思うけど、兄が、ダンデさんがこんなわたしでいいのならノシをつけてどうぞと差し出すというより、まな板の上のコイキング並みに好きにしてくださいレベルだ。
それでもあんなにグイグイこられると混乱するし焦るし慌てるから、つい逃げ腰になってしまう。とかく恋心とはままならないもので、でも外堀を埋められたり、わたしの不安を丁寧に潰していく兄によってだいぶ腹を括れた気がするのも事実だから。今回のごたごたが無事に落ち着いたら、わたしの目的がちゃんと達成できたら、兄としっかり向き合おうと再度こころに決めた。




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