名前ちゃんが、死んだ。
十月二十二日のことだった。朝、様子を見にいった母親が見つけたらしい。最早、ここ最近の村ではよく耳にするような、いままで亡くなった人たちとなんら変わらない話には正直慣れ過ぎて麻痺していた。だというのに、その一報を聞いた途端ひさしぶりに身体の奥底から、まるで瑞々しく赤い岩漿がどろりと溢れ出て、一瞬のうちに全身へその灼熱がまわるのが分かった。
助けることのできなかった、医者としてなにもできない無力感は、この夏から絶えることなくこの身を責め苛み、悔しさと憤りは遣る瀬無い怒りへと変わっていた。だから、今回のもそれとおなじものだと思い、けれど片隅で違うと否定する。おなじだが、どこか異なっていた。それは、その理由は、なんだ?
無意識の動作で煙草を取り出し口に銜える。ライターで火を点け、煙を肺まで吸い込むと、吐き出す。なにもうつさない視界に、くゆる紫煙だけがやがて消えてゆく。まだ高校一年生という若い身空だということだけじゃない。あの子は、名前ちゃんは、違う。昔からずっとその脆弱さやつき纏う病と闘うことは早々に無駄だと悟り、折り合いをつけるように、しかたのないことだとそう自分の感情を押し止めていたのは、あの時―――はじめてあの子を見た時、直ぐに分かった。


名前ちゃんの、陽を浴びることさえ害悪になりそうな、緑青の静脈が透けて見える蒼白い肌も、可愛らしいのに気の弱さやおとなしさが顕著に表れている顔も、迂闊に触れたらぽっきり折れてしまいそうな骨と皮だけの手足も、肉付きのない薄い体つきも、華奢を通り越して身体の弱さを明確に示していた。
そして、ひどく子どもらしくない、達観といえば聞こえはいいが、そのあまり感情をうつさない瞳の奥にあったものは諦めだった。境遇を考えれば、それはしかたのないことに思えた。思えたが、それでも、そんな睛をしてほしくなかった。
そう、それはただの俺の勝手な我侭だった。あの子がそうしているのは、楽だからだと分かっていた。痛みとくるしみに満ちた生を、しかたのないことだと諦めることが、彼女にとって苦痛を和らげる唯一の逃げ道だったのだろう。採血のための注射をしても、その年頃の子どもにはまだ嫌だと痛いと泣き喚く子もいれば痛みに顔を歪めて耐える子と、様々な子がいたが、名前ちゃんは違った。
濃紺のワンピースの袖口から覗く腕は、想像よりもずっと白く、透徹るくらいで。その血の通わない白さに反して、シリンジにはどんどん鮮血が満ちてゆく。その様はどこか眩暈がするような光景だった。けれど、それ以上に違和感を感じたのは、痛いということも、ぼんやりとした瞳や眉をぴくりとも動かすことすらない、名前ちゃん本人だった。
人見知りなのか、あまり会話はなかったし笑ってもくれなかったが、母親と一緒にいる時に嬉しそうに年相応の顔で笑っていて、ちゃんと感情をおもてに出せる子だと認識していたから余計。痛いはずなのにそれを表すことすらこの子は諦めているのかと、自分の感情を押し殺すことが、もうこの年でこの子はできてしまっているのかと、そう気付いてどこか愕然としたのを覚えている。
他の子どもであれば、年に一、二回ぐらいしか注射をすることはないだろう。けれど、この子は違う。きっと、もう、何度も何度も。この十一年の間、一々痛いなんて言っていられなくなるくらい、この子にとって当たり前のことになっている事実を思い知らされた。
だからか、つい手を伸ばしていた。その丸くてちいさな頭に触れると、俯いたまま注射絆を押さえてじっとしていた名前ちゃんは、驚いたように俺を見上げた。
その反応に笑みがこぼれながら「痛いの我慢できるなんて、名前ちゃんはえらいな」そう言えば、彼女はその睛をまるくして瞬きもせずに俺を見つめた。かすかに開いていた口元がきゅっと結ばれて、そのまま名前ちゃんはなにも言わなかったが、俺は確かにその睛になにか感情が宿るのを見れたから、それだけで十分だった。
苗字の家も、昔からずっとこの地に根ざした家だった。もともとこの外場村で生まれ育った母親が戻ってくる形だったからか、一年で母親の方は十二分にもう村へ馴染んでいるようだった。
だが、名前ちゃんの方は受け答えはちゃんと、敬語まで使って年齢よりも大人びている風だったが、その分同年齢の子どもとはあまり打ち解けられていないのだという話は聞いていた。身体の弱い名前ちゃんのために引越す考えはあったそうだが、父親が亡くなって直ぐこの村に越してきたらしいから、しかたないと言えばそうなのだろう。
ただ、その話を聞いても俺には特になんの感慨も浮かばなかった。その頃、もう名前ちゃんは病院のスタッフや俺に対してちゃんと、母親に向けたのとおなじ笑顔を見せてくれるようになっていたし。なにより、診察室に入ってきた瞬間、その顔をやわらかくほころばせて「尾崎先生」鈴を転がすような声で俺を呼ぶ彼女を見れば、大丈夫だろうという気持ちになった。それに少しずつだったが、名前ちゃんの話の中には学校のことや同級生と遊んだこととか、そういった他愛ないものも増えていき、いつも嬉しそうにしていた。
定期健診以外でも、季節の変わり目なんかは体調を崩しやすいらしく、彼女の家に往診に行くことも多かった。そういう時、ベッドの中でおとなしく本を読んでいる名前ちゃんは決まって「そこまでひどくないから、大丈夫なのに…」そうこぼした。大丈夫と心配しないでは、もう彼女の口癖のようなものだった。
確かに、まだ軽い症状の時にはそう思うのも無理はなかった。患者が勝手に軽んじるのをいいことではないと思う俺は、けれど、名前ちゃんのそこに込められたもの―――もっと重い症状だっていままでに何度もあったこと、自分の身体の弱さを恥じ、申し訳なさからくる罪悪感、心配しかかけることのできない不甲斐なさ、そういったものすべてに、軽々しく諌めることはできなかった。


そうやって季節は巡り、やがて三年の時が経った。
中学生だった名前ちゃんは高校一年生になり、村には高校がないから毎朝バスで村外の学校に通っていた。自分もそうだったから、なんだか懐かしく思う。身長と比例して、とはいかないが名前ちゃんも出会った頃に比べればまだ肉付きもよくなり、少女の形を模してきていたし、だいぶ定期健診以外で尾崎医院に訪れることも少なくなっていた。
少しずつだが、確かに昔よりはよくなってきている彼女の成長に、俺もほっと安堵した。若者の少ないこの村では、検診にくるのも持病を患った年寄りばかりだったから、そんな年配者に混ざっていつも待合室で静かにひとり本を読んでいた彼女の姿に、いつもなんとも言い難いものが胸にじわりと広がっていたせいだろう。慎ましくおだやかに、けれど頑ななものを秘め、自分の足でしっかりと立とうとする姿が痛ましくも健気にうつっていたからかもしれない。
患者に感情移入し過ぎてもいいことがないことくらいは、知っていた。それでも俺はたぶん、名前ちゃんに懐かれているのが分かっていた。いつの間にか、ひどく信頼されていることに気付いていた。ただ、それを俺は医者としてのことだと、ずっと思っていた。
その思いが覆されたのは、いつだっただろう。様々なことが起こり過ぎていて、記憶は曖昧だったが、この夏の、八月のまだ頭のことだったような気がする。
午前の診察が終わって昼休憩に、ぐっと伸びをすれば椅子がギシリと軋んだ音を立てた。それを耳にしながら、咽喉が渇いていたので一服の前にと思い診察室を出た。とはいえ、既に癖のようなものだったので歩きながら知らず胸ポケットから煙草を取り出して、直ぐにその手ごたえに舌打ちをする。空だった。村の医者が愛煙家とはいえ、さすがに病院の傍に煙草の自販機なんてものはない。あとで、自転車をひとっ走りして煙草屋に行くかと、空箱をくしゃりと手の中で握り潰した時だった。受付の方から、話し声が聞こえた。
尾崎医院の優秀な看護婦たちだろう。そう思って、違った。ひとりは律っちゃんだったが、もうひとりの声は「え?……あ、いや……そういうわけじゃ、」戸惑い揺れながらも澄んだあの声は、名前ちゃんだった。
きっと薬を貰いにきたのだろう。折角だし、一声かけて行くかと受付の方に向かっていれば、話し声は次第に大きく鮮明になる。

「そっかあ…でも、そうよね。名前ちゃんは先生一筋だもんね」

先生、という言葉に俺の話をしているのかとつい興味がそそられる。盗み聞きはよくないと分かってはいたが、咄嗟に足を止めてしまった。律っちゃんの明るい声音に、苦笑するのと同時に「えっ…!」という名前ちゃんの驚いた、珍しく大きな声が響く。その時にまだ気付けなかった俺はきっと鈍いのだろう。

「え……?えっと、名前ちゃん先生と話してる時楽しそうだから……って思っただけなんだけど……もしかして、ほんとに先生のこと…?」

ややあって、律っちゃんが恐る恐るといった風に訊ねる言葉に、ようやく、まさか、と思った。名前ちゃんは「あっ、いえ……その、」と焦った声を出すだけで、かすかな否定すら逆効果でしかなかった。そうして沈黙。静寂が辺りに満ちる中「……名前ちゃん…?」律っちゃんが、声をかけると。

「…………ぁ、あのっ…律子さん、お願い……先生にも、誰にも、言わないでください」

思い詰めたようなのに、思い切った声で名前ちゃんが言った。けれど、それもだんだんとちいさくなる。

「ちゃんと……分かってるんです。わたしは子どもだし、先生には奥さんがいるし……こんなの、迷惑だって。伝えるつもりなんて、ないんです……だから」

お願いします。最後に、そう言って名前ちゃんは口を閉じた。

「……うん、大丈夫。絶対に誰にも言わないから。ごめんね、名前ちゃん私が変なこと言ったから…」
「あ、いえ、気にしないでくださいっ…………じゃあ、えっと、わたし帰りますね」
「う、うん……気をつけてね」

あとはもう、はやかった。足早にぱたぱたというスリッパを鳴らす音が、遠ざかってゆく。俺はなにを考える前に、踵を返していた。診察室までの元きた道を戻っていた。律っちゃんに、気付かれないように。
音もなく扉を閉めて、椅子に逆戻りして背もたれに身を預ける。ギシリと悲鳴を上げたが気にしてなどいられない。さっきの会話は。まず、そう思った。なんだったのだろう、と。まるで無意味なことを。分かっていた。そこまで初心でもない。ただ、どこか信じられないだけだ。明確な言葉がなかったからかもしれないが、あんな、あんなのは、名前ちゃんが俺のことを好きだと言っているようなものだ。
それは、確かに懐かれている、好かれているという自覚はあったから、なにを驚くことでもない。そこまでで、ふっと鼻で笑う。そうか、俺はいま驚いているのか、と。自分で思っていたものと違ったから。分かっている、彼女のつらそうな響きに込められたものが、なんなのかくらい。あれは、あの好意は医者に向けられたものではない。ただの、ひとりの男に向けられた、恋慕だ。
そこまでを、ようやく認めて、おかしくなる。嘲笑が、溢れる。伝えるつもりなんて、ない。そう言った彼女の声がまだ鮮明に耳に残っている。分かってるじゃないか、ちゃんと。そう思う。名前ちゃんの言ったことは、すべてそのとおりだった。
俺と彼女はひとまわり以上も年の差があり、彼女をそんな睛で見たことなど一度もないし、俺には妻がいた。例えその間にあるものが、なにもない、冷え切っているという言葉すら似つかわしくないようなものだったとしても、事実上俺は妻帯者だった。そして、尾崎の家のひとり息子。幾ら親父が嫌いでも、どうあがいても変わらない事実に、結局俺は大学病院を辞めてこの村に戻り、尾崎医院を継いだ。
古い外場村は兼正と寺と尾崎の三役が村を結束させてきた、その歴史ある尾崎。その院長である俺に、まだ高校生の女の子が懸想しているなど、そんなことが村人に知れれば格好の大スキャンダルだろう。決して俺にその気がなくとも、彼女がただ片想いとして秘めていただけだとしても、俺も名前ちゃんも村人からどんな誹謗中傷をされ好奇の睛で見られるかなんて、そんなことは想像に容易かった。
だから、彼女のその想いは俺にとって、迷惑以外のなにものでもなかった。
それは明らかなことだった。だと、言うのに。どうしてだか俺は、上手く笑えなかった。くだらないことだと、切り捨てられなかった。どうせ、思春期にありがちの恋に恋をしている状態、報われない片想いに酔った悲劇の主人公気取りでしかない。そう思っても、それを嘲笑うことが、できなかった。
(…………彼女は、そんな子か?)
疑問が深々と穿つ。知っているはずだ、分かっているはずだ。名前ちゃんが、そんな子じゃないことくらい。これは、俺が自分を正当化しようとしているだけの、狡猾で浅はかで身勝手な考えじゃないのか。俺は、俺はずっと、あの子と接してきて、何気ない話や冗談で諦観のないまっさらな顔で笑ってくれる度に、俺だって嬉しい気持ちになった。
医者と患者、間に金のあるただの商売でしかないのに、いつもお世話になっているからと、はにかみながらたまにお菓子をくれたりすれば、なにかを返したくなった。それだって、本当に医者と患者の範囲内。彼女は検診の時以外で、無闇に病院を訪れることはなかった。
好きになったら、会いたくてたまらないものなんじゃないのか。特に、まだ若い彼女は余計に。だけど、名前ちゃんは俺になにかしてほしいと願ったり、そういうことは一切なかった。あくまで医者と患者としての良好な関係の範疇からはみ出ることは、なかった。だから、気付かなかったのだろう。それだけ、彼女はちゃんと考えて、俺の迷惑にならないように、ちゃんと自分の感情を押し殺して。そこで、ハッとする。

それは、そんなのは―――はじめて彼女と会った時とおなじじゃないか。

そうだ、いつだってあの子は自分のことを後回しにする。蔑ろに、とまでは言わないが、いろんな苦いものをゆっくりと咀嚼して、相手のことをまず考える。そうして犠牲になるのは、彼女自身だ。それを善しとしている、名前ちゃんの、こころや感情といったものが。

「…………っ、はは、」

今度こそ、嘲笑う声が出た。けれど、さっきとは違う。あの子がそうやっているのに、俺はなんだ。保身にしか走らずくだらない言い訳ばかりを並べて、あまつさえ彼女を侮辱しようとした。認めてしまえ。そう苛立つ脳の片隅で、ささやく。認めてしまえば、いいのだ。名前ちゃんの言葉に、なにも出てこなかった事実を。そう、俺は、
俺は―――嫌じゃ、なかったんじゃないのか。
ようは、つまるところそうだ。彼女からの好意が思っていたものとは違っても、驚きはしたが、それだけだったんだ。そこに行き着いた途端に、全身から力が抜ける。馬鹿馬鹿しくて笑っていると、母が昼食をとらないのかと催促にやってきた。


そのことがあっても、名前ちゃんと俺の間にあるものはなにも変わらなかった。医者と患者の関係。いくら馬鹿馬鹿しくとも、間に横たわった事実の溝は深く、それを乗り越える気など俺にはなかった。
なにより、彼女は俺が知っていることを知らないだろうから。名前ちゃんの前では変わらない、ちゃんと“尾崎先生”でいた。ただ、年上に憧れる時期であるのも分からなくはないが、よりによってこんな三十路のおっさんに、とこころの中で苦笑していた。
その頃から謎の伝染病が流行りはじめ、村では次々と人が亡くなっていった。正体は知れないが、老若男女、年齢も問わないそれは貧血が初期症状だったから、村人には貧血が起こったら直ぐ病院に来るよう言っていた。それは名前ちゃんも例外ではなかったが、つい彼女には念を押してしまった。
そのせいか、ある日律っちゃんから名前ちゃんが病院にきたが直ぐに帰ったことを聞いた。本人はただ寄っただけだと言っていたし、特別体調がおかしいようにも見えなかったという言葉に、眉を顰めた。近いうちに訊ねてみようかと思ったが、それも訃報ばかりがつづく目まぐるしい日々に掻き消えた。原因が分からないことに、ひどく苛立っていた時期でもあったせいだろう。けれど、九月の末に夏野くんの言葉で、十月には安森工務店の節子さんを入院させたことによって謎は解明した。一連の死の原因は伝染病などではなく、すべては起き上がりの仕業だったのだと。
俺と静信の目の前で、節子さんを襲っていった既に死した者たちと兼正の使用人。節子さんに、助けるとそう約束したのにできなかった。目の前で食い殺されるのを見ていることしかできなかった、あの夜。
伝染病だと疑っていた頃、医者としてなにもできない無力さに自分に苛立っていた時とは、違う。守れなかったという自責と、起き上がりに対する怒りや憎しみといった激情が混ざり合った。何人も見知った、診てきた村人の顔ばかりでも、連中はもう人ではない。人を殺す外敵と化したものを、赦すことなど、できるわけがなかった。


だが、そうと分かっても問題はなにも解決しなかった。死人が出るのは起き上がりが血を吸っているからなどと、そんなことを話しても村人は誰も信じないだろう。知っているのは、俺と静信のふたりだけだ。あまりにも不利な状況だというのに、静信すら節子さんの墓を暴こうとする俺の前から姿を消した。
どうやって、村人に起き上がりの存在を伝えるか。それがまずは一番の課題だった。起き上がりのせいだと、兼正の奴らが原因だと分かっているのに、悩んでもなにもいい方法が浮かばないまま時間だけが経ったある日。静信から水口の郁美さんが商店街で兼正は起き上がりだと叫びまわっているという電話がきて、唖然とした。これ以上痛い頭を、と抱えそうになったが直ぐに思い直した。郁美さんのやり方は愚かだが、言っていることは間違っていない。ちゃんと起こっている事態を正確に把握している。だから、俺は一先ずこれを放置することにした。兼正がどういう対応をするのかを、見ておきたかった。
結果は、郁美さんにとっては散々で、俺にとっては予想を覆すものだった。陽光の下に現れた桐敷氏に先日病院を襲撃した辰巳という使用人、それに家の中だったがちゃんと窓辺にいた家族。脈や瞳孔を調べても、桐敷氏は死体ではなく生きている人間とまったくおなじだった。村人だって漠然と兼正が怪しいと思っていた。だから、何人もの人間が野次馬と見せかけて郁美さんに付いてきたのだ。だというのに、そんな村人の前で起き上がりという事実が真っ向から否定された。
もう誰も兼正を、起き上がりだとは疑わないだろう。その現実が、あまりにも手痛かった。だが、どうして連中が陽光の下に出てこられたのか、謎が深まったおかげで考える術が逆に増えたのも、確かだった。


だが、そんな五里霧中の状態にひとつ転機が訪れた。恭子が、倒れた。節子さんの入院時に疲労と睡眠不足が祟っていた頃、母に呼び戻されていたが、忙しいおかげですっかりその存在を失念していた。そのせいで、気付くのが遅れた。明らかに連中に襲われたその状態は、もはや手遅れの域に達していた。
けれど、それ以上に胸を占めることがあった。起き上がりは、招かなければ家に入ることができない。つまり、恭子が襲われたいま、この尾崎の家すら既に奴らに開かれていたのだ。そう、夜中に襲おうと思えば、いつだって襲える状態に。
恭子が暫くもたせることはできても回復はせずに、死ぬだろうことは、分かっていた。ならば、いっそ。そう思った俺は、あえて恭子が襲われるのを見逃した。もう一度吸血されれば死ぬことが分かっていて、なにもしなかった。そして、恭子は、死んだ。俺は生体モニタがフラットになるのを見ながら呟いていた。

「恭子……たのむ、起き上がってくれ」

いま思い返せば、恭子に対してここまでも、こころの底から切実になにかを願ったのは、はじめてかもしれなかった。そして、俺は周囲に恭子がまだ生きていると偽装して、起き上がるのを待った。
ただ待つことしかできないあの四日間は、なにをしていても上の空だった。診察をしていても、気が気でなかった。恭子の死体は鍵のない回復室に寝かしてあり、そこは様子を見ようと思えば簡単に病院の者が入れるような場所だったからだ。苦し紛れの気休めに簡易な鍵をつけても、いつ誰にバレるか分からない。死体を抱えているというプレッシャーは日に日に増していった。腐敗しないように気をつけているから、見た目にはなにも変わらない。ただ眠っているだけのようにすら見える。だが、恭子はもう死んでいる。
そうして、丸四日が経ち、もう限界だった五日目に入ろうとしていた。これ以上は、無理だ。これで起き上がらなかったら死亡診断書を書こうと、そう思っていた。
幸い、腐敗は進んでいないおかげで、死んだばかりと言っても誤魔化せる。そうしてこの四日間が無意味と化す。節子さんだって、あのあとひとり墓を暴いたが起き上がることはなく腐敗していった。だが、と思う。どうしても、諦め切れなかった。
恭子が、恭子が起き上がれば、俺は、いまも村人を襲っている連中の、起き上がりの―――サンプルを手に入れることができる。
こんな機会を、逃すわけにはいかなかった。
そして、その夜。恭子は起き上がった。ゆっくりと、けれど物体としては迅速に。死体が甦生するわけではなく、なにか別の、腐敗とは別種の変化が進行していく様を、俺はただひとつひとつ分析し、映像として記録に残していった。その作業を淡々と進めながら、俺はどうして自分が恭子を妻に選んだのだったかを、思い出せないでいた。
出会いから結婚までのいきさつは思い出せるのに、感情や想いの方はなにも出てこない。いきさつだって、俺が都会の大学にいた頃の、バイト先の娘だったのが恭子で。俺が医学部で、病院の跡取りだと知ると積極的に話しかけてきた。そして大学を卒業後、都会の病院で働きだした頃付き合うようになりそのままいまに至る。だが、こうして思い出せないのとおなじで、その時から生々しい感情はなかった気がした。


起き上がり、否、屍鬼となった恭子が睛を覚ましたあと。俺は手術室で様々なことを試した。連中の生態を知るというよりも、弱点を見つけ出すために、ありとあらゆることを試した。
まず屍鬼は呼吸をしていなかった。だからだろうか、最初声を出せないでいた。そうして採血し調べるうちに、連中の本体が血液なのではないかという考えに至ったあと、まずは薬品を試すことにした。麻酔は効かないらしく、注射針を刺す度に恭子は苦痛の表情を浮かべていた。痛みは感じるらしい。お前ですらそんな表情をするのかと、一瞬あの子のことが過ぎった。けれど、途中で声の出し方を思い出したのだろう、ひさしぶりに耳にした恭子の声が、悲鳴が漏れないように口をガムテープで塞いだ。
麻酔薬も鎮痛薬も、試しに注射した農薬も消毒薬も、すべて効果はないようだった。陽光に弱いことは、まだ恭子が睛を覚ます前、回復室にいた時に皮膚が焼け爛れ炭化していったから証明済みだ。完全に遮光された手術室で、ようやくそれは止まり回復した。次に試したのは呪術だった。それには仏壇から拝借してきた本尊を尋常でなく嫌がり気絶したことから、有効だと判断した。だが塩には反応せず、抹香や線香などは嫌がり、鈴の音、澄んだ金属の音にも恐怖を感じるようだった。これならばきっと、神社のお守りといった類にも弱いのかもしれない。
ここまでで、連中に対抗する手段は得られた。これで反撃も随分と可能になったが、まだだった。これだけでは、駄目だった。もっと確実に奴らを死に至らしめる―――殺す方法を確認しなければいけなかった。
そうして手に取ったメスで、恭子の至る箇所を切開していった。傷に対する回復速度はもう知っていたが、静脈を切っても傷は直ぐに塞がった。だが、やはり痛みはあるからか恭子は先刻とは桁違いの苦痛の表情を浮かべ、その恐怖に染まった瞳を涙で濡らした。こんなにも痛がっている恭子を見ても、俺はもうなにも感じることはなかった。
思えば、恭子を選んだのはただ単純に父母の選んだ女と娶わせられるのが嫌だっただけなのかもしれない。村に戻って父の跡を継ぎ、村に尾崎を残さねばならないという自分の立場は分かっていた。だからこそ、いっそのこと適当な女、恭子を捕まえた―――ただ、それだけのことだったのかもしれない。

切り開いた皮膚と肉の間から、露出した静脈を直接切開しても無駄なことだった。脳の破壊すら効果がない。生半な傷はあっという間に塞がってしまう。このことから屍鬼はなまじな方法では負傷させることができないと判明する。そうして残ったのは、血液の遮断だった。
頭部の切断に、心臓や肝臓の破壊、つまり大動脈大静脈が集中する箇所の破壊。木でつくった杭と、金槌を手に取る。それを目にした恭子はなにを意味するのか察したのだろう、信じられないという色を湛えていたがその顔は恐怖で引き攣っていた。
起き上がる前に挿していた動脈カテーテルが、完全に屍鬼と化したあと押し出されてしまったため、細い穴では治癒してしまう。ひどく古典的だったが、心臓に杭を打つことが、一番有効だと判断したが、流石に知らず息が上がる。持つ手が震えそうになるのが分かる。当然か。既に一度死んだとはいえ、これは別の意味では生きているのだ。それを、俺はいまから殺そうとしている。
緊張か畏れか興奮か。どれかは分からなかったが、最早そんなことはどうでもいい。正確に、胸骨の裏側を透かすように左右の肺の中間に、胸のほぼ中央に鋭利な切っ先を当てる。静寂と狂気に満ちた薄暗い手術室に、荒い呼気の音だけがいやに大きく響く。俺のものか、恭子のものか、きっとどちらともの。
そして、俺は叫びながら金槌を振り下ろした。


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