恭子の通夜が行われたのは十月十八日のことだった。
死んだのは十日の夜、完全に起き上がったのは十五日。節子さんが起き上がらなかったことから、屍鬼に襲われても百パーセント屍鬼として甦生するわけではない。それに、甦生するためには亡くなってから四日か五日ほどかかるようだった。
そして、屍鬼は、殺せる。
あの時―――恭子を“停止”させた時。俺は何度金槌を振り下ろしただろう。覚えていない。ただ、握った杭から伝わる感触を、それが身体の中身を抉り突き刺さってゆく度に、溢れ飛び散る鮮血が降りかかることを、その体温のない血の冷たさを、覚えているだけだった。
口を塞いでいたガムテープが外れたせいで、鋭く尖った牙を剥き出し大きく開いた口からは、凄絶な叫び声が杭を打つ音を掻き消すようだった。正に、断末魔の叫びだったのだろう。いつの間にか、それも聞こえなくなったと思った時には、恭子は停止していた。今度こそ、完全に絶えていた。死んでいた。俺が、殺した。なんの感情よりも先に、屍鬼を、殺すことができた。その目の前にある事実を思った。
視界の隅にうつる手も、白衣も、その下のTシャツにジーパンも、おびただしく溢れ出たものによって足元すら、真っ赤に染まっていた。手術台からはぽたぽたと、床に出来た血溜まりに落ちる音がする。濡れた感覚があるから、顔も、なのだろう。
全身を返り血で染めた俺を、恭子を、屍鬼を殺した俺を、なんのタイミングかちょうど訊ねてきた静信は惨状を見て直ぐに理解したのだろう、俺を責める表情をした。節子さんの墓をあばこうとした時に、静信は起き上がりを擁護する発言をしていたからそれも当然なのかもしれない。
だが、俺は決断していた。このまま汚染の拡大を放置できない。だから、屍鬼を狩ると。それが俺の正義だと。そして、お前の正義はどこにあると。俺の放った言葉に対して、静信は何も言わずに去っていった。それは静信が屍鬼を狩ることを拒否し、人が狩られることを善しとする意思表示だった。
唯一の理解者だった静信と、完全に袂を分かったあと。俺は誰の理解を得られることもなく、孤立していた。
村の役場すら、完全に屍鬼の手に落ち。外部に知らせる方法も、徹底的に断たれた。それだけではない。役場にいた屍鬼、桐敷千鶴によってはっきりと宣告された獲物という言葉と、近いうちに伺うという台詞に、俺自身の時間も、もう残り少ないことは明白だった。ならば、内部からと思っても、やはり無駄だった。話をするために集まった奴らは昔からの知り合いだったが、郁美さんが言ったことを証明できるとまで言ったにも関わらず、誰も信じることはなかった。
確かに、村人は皆おかしいと思っている。だというのに、嵐は家の中でじっと耐え忍んでいれば去ってくれるものだと、そう思っているのだ。それこそ、馬鹿馬鹿しいくらいの夢物語だ。そんな甘い話ではないのだということを、誰も明確に理解しない。


そして、結局なにも手立てがないまま二十日になっていた。その日になって、俺は今日が名前ちゃんの定期健診の日だと気付いた。
そのことを律っちゃんに話しかけると、律っちゃんは「そうですね……名前ちゃん八日頃にちょっと学校休んだって聞いてたんですけど、大丈夫だったみたいで良かったです」そう言った。それはきっとここ一連の死を指してのことだったのだろうが、俺は自分が眉を顰めたのが分かった。名前ちゃん、体調を崩したのか?学校を休むほどだというのに、どうして病院に来なかった?そんな思いが黒い靄のようにかすかに広がっていた。
夕方、朝の天気予報のとおりにどこか外が白雨の気配を湛えだすのを、ただ診察室で眺めていた。ここ最近はこの時間になると暇だった。普段なら午后の診察時間ギリギリまで患者がきていたが、いまでは陽の落ちる頃合には誰も来なくなっていたからだ。それでも、名前ちゃんは学校が終わってから、バスに乗ったり歩いたりの時間を考えるといつも遅くなってしまうため、大抵その日最後の患者だった。それは、今日も変わらなかった。ぽつり、窓の外に雨粒が落ちてくる。コンコン、と控えめにノックする音のあと「しつれいします」彼女の声がした。
一月ぶりに会う名前ちゃんは、パッと見ただけではなにも変わっていないように見えた。だが、それも僅かな間のことだった。長袖になっているから分かりづらかっただけで、彼女は一月前の記憶にあるものよりも痩せているのは明解だった。ちゃんと見れば顔にだって、疲労にも似た陰りのようなものがある。
最初は軽く、最近の調子や九月に病院へきたことを訊ねたが、名前ちゃんは、まったく普段とおりにそつのない受け答えで、体調は良かったと嘯き、訊きたいことがあったと言うそれも解決したと微笑んだ。大丈夫ですと、微笑んだ。
いつもとおなじ、見慣れたちょっと気の弱さが表れるささやかな笑みが、だというのに、俺にはそう見えなかった。大丈夫だと、思えなかった。全然、そんな、哀しそうな睛で言われて、信じることなど、できなかった。
それに、無性に腹が立つのが、苛立ちが奥底から湧き出るのが分かった。そして、聴診のためにブラウスの前を開けて、あらわになったその身体に、余計それは募る。蒼白い肌には、見ただけでくっきりその形が分かるほどに、あばらが浮き出ていた。さわったら、薄い皮膚と骨の間に肉の感触はないのではと思うくらいに。恐らく、八日頃に学校を休んだ、つまり寝込んだ時に体重が落ちたのだろう。
聴診を終え、デスクに向かいながら、こころの中で吐き捨てる。こんな、こんな全然大丈夫じゃない身体をしているくせに、なにが大丈夫だ。心配ないだ。馬鹿にしているのか。こんな身体を見てしまえば、嘘だとばれることくらい分からない子じゃないはずだ。それとも、俺が気付きながら見逃すとでも、思っているのだろうか。それでも、大丈夫だと言ったから、俺はなにも言わないと思っているのだろうか。そう、いつもみたいに、なにも、言わないと。
胸の中に不快なものが広がるのが、分かる。どんどん湧き出るそれが、全身にまわってゆく。脳が犯される。知らず、口が動いて彼女の名を呼んでいた。
デスクに向かったままの視界の片隅で、ボタンを留め終わった名前ちゃんが顔を上げるのが分かった。その表情は、見なくても分かった。きっと、これから言われることに気付いていない、そんな無防備な顔をしているのだろう。そう理解しながら、俺は言っていた。

「俺ももうこの村に戻ってきてから三年、きみとの付き合いも長くなったからあまりこういうことは言いたくないんだが。医者に嘘をつくことくらい迷惑なものもないんだ」

内側で混濁と渦巻くどす黒いものとは正反対に、声はやけに落ち着いていた。

「十月の八日頃に何日か寝込んだって話は聞いてるし、なによりその身体が物語っている。きみは一度体重が落ちると中々戻らないからな、十日経ってもその様子じゃ食欲だってないんだろう。それにさっきの話も、なにか心配事があったんだろ?しかも解決していないことが」

つらつらと淀みなく吐き出される言葉に、名前ちゃんが身をかたくするのが伝わってきた。今更だ。今更気付いても、もう、遅い。それに、と呟き俺はようやく名前ちゃんの方を向いて、彼女の緊張し怯えた表情になにも思わないまま。

「きみの大丈夫は、いつだって大丈夫に聞こえない」

そう、いままでずっと胸の中にあったものを吐き出していた。名前ちゃんは呆然と睛を見開いたままで、まるでゆっくりとその矮躯に俺の言葉が浸透していっているかのようだったが、やがて「…………す…みま、せん……」そう、謝罪の言葉を口にした。

「ぁ、の……ほんと…ごめん、なさい……わたし、そういう…つもりじゃ、」

あまりにもか弱くかすれた声で、訥々と紡がれる言葉に自分の睛が据わるのが分かる。怒っているということはとっくに伝わっているのだろう、ただでさえ白い顔が蒼褪めている。かわいそうに、哀れなくらいに縮こまる彼女を目の前にしても、苛々は治まるどころか募るばかりだ。
それに、なにを見当違いのことを言っているんだと「謝ってほしいわけじゃない。理由を訊いているんだ」そう言えば、彼女のかすかに潤いをおびた瞳が、揺れる。
だって、と戦慄くちいさな唇が震える。

「だって……せんせい、すごく、忙しそうで……疲れた顔してた、から……だからっ……心配かけたく、なくて…っ」

名前ちゃんは、いい子だった。知っている。ずっと、知っている。けれど、とそこでスッと一気にこころが冷え切る。その奥から、溢れ出る気配がする。そのいい子という愚かさが、ずっと、ずっと、俺は、

「さっきも言っただろう!迷惑だと。患者に心配されることだっておなじだ!」

大嫌いだった。
腹の底から、ずっとあったものを吐き出すように怒鳴っていた。一瞬怒りで真っ白になった脳で、それでも存在する冷静な箇所ではじめてだなと思っていた。名前ちゃんは、いい子だった。いい子だったからこそ、叱られるようなことをしなかった。きっと誰の前でも、昔から、ずっと、そうだったのだろう。生来のものと身に染み付いたものの両方でできあがった、彼女の生きる術。傷付かないで、生きるための。誰も傷付けないで、生きるための。
名前ちゃんは一瞬放心していたが、直ぐに涙の膜を張った双眸から、堪えきれなくなったしずくがこぼれた。まるで表面張力を保てなくなったように、なにかあったものが決壊してしまったかのように、ぽろぽろと。溢れて出て、その頬を濡らしてゆく。ゆるやかな曲線を伝ったそれは顎の先から落ち、スカートにちいさな丸い染みをつくっていった。
濡れてきらきらと光を反射する大きな瞳から、こぼれてやまない透明なしずくを、それを真っ直ぐに見ながら、俺はただ綺麗だなと場違いな感想を抱いた。泣かしておいてなんだったが、どす黒く渦巻いていたものがふっと消え去るのが分かった。
かわいそうだと、彼女の涙に情が動かされたわけでも、うろたえたわけでもない。人前で泣く涙など、同情よりも侮蔑の方が勝るものだったが、そんなものも出てこない。ただ、俺はずっとこの子を泣かせたかったのかもしれないと思った。別に変な意味ではなく、悲しい時は悲しいと、痛い時は痛いと、つらい時はつらいと、そう、ずっと、そう言ってほしかったのだ―――俺が。
心配をかけまいと、大丈夫だと必要最低限人を頼らないように、気丈に生きているのは、分かる。理解できる。だが、理解していても納得できないこともある。そうか、とそこでようやく苛立ちの原因に気付く。

俺は、もっと名前ちゃんに、頼ってほしかったのだ。

気付いて、なんて傲慢で我侭だと自嘲する。そうして、ようやく、様々な感情でくしゃくしゃになった顔を隠すように、涙を止めようとがむしゃらに拭いつづける彼女に、申し訳なさが込み上げてくる。俺のこんな我侭で、名前ちゃんにとっては理不尽な理由で、怒鳴ってしまった。傷付けてしまった。ただ、泣かせてしまったことには後悔していない自分に、苦笑した。満足、したからだろう。とはいえ、それもそろそろ危うい。名前ちゃんの、まるで泣き慣れていないような下手くそな泣き方は、このままだと過呼吸になってしまいそうな気配があった。
それに、そんなに擦っては目元が腫れてしまうと、俺は静かに立ち上がるとその細い手首を掴んだ。簡単に手の中に包めてしまう細さは、そう力を込めなくとも剥がすことができ、そして、俺はなぜかそのまま彼女を、胸の中に抱きとめていた。
ちいさな頭を、抱えるように、ぎゅっと。きつくはないように気をつけて。自分でも予想外の行動に、瞬時になぐさめるなら頭や背中を撫でたり色々あるだろうが、なんでよりによって抱き締めているんだ俺は、こんなのは勘違いさせてしまうだろう、と自問自答が駆け巡る。
だが、そんなの答えは明白だ。分かりきっている。抱き締めたかったからだと。彼女が勘違いしたりしないと。否、勘違いしても構わないとすら。それに、腕の中に閉じ込めた名前ちゃんは、思っていたよりもずっと細くちいさかった。
ふわりと、シャンプーのにおいだろうかやわらかく香ったそれに、いいにおいだなと思ってから、三十路のおっさんが女子高生抱き締めていいにおいとか、そんなのは犯罪くさいというか、いや、まあ、犯罪なんだが。とにかく、こんな状況いよいよ誰にも見せられないなと切実に思っていると。

「せ、んせ」

胸元から、くぐもったちいさな声がして、つむじを見る。顔は完全にTシャツに埋もれてしまって分からない。戸惑いこぼれただけのような声に、つづくものはなく。俺もなにも返さなかった。
まだ涙は止まっていないのだろう、じんわりと服が濡れるのが伝わってくる。名前ちゃんは、離してくださいだとか、身動ぎする様子すらないまま、ただ静かに俺の腕の中におさまっていた。両腕は身体の横に垂れ下がったままで、その手でしがみつけばいいと思ったが、思うだけだった。
ゆるやかな沈黙の流れる室内には、雨の音だけやけに響いて聞こえる。怒鳴り声を聞きつけて誰かやってくるかと思っていたが、どうやらそれも雨音に掻き消されたらしい。名前ちゃんは、体温がそう高い方ではないが、それでも確かにあたたかかった。
やがて、まだ涙は止まらないようだったが、上下していた肩や、不規則だった呼吸も落ち着きを取り戻してきた頃「…………すまない」俺は彼女に謝った。

「きみは、はじめて会った時から泣かない子だったからな。一度泣かしてみたかったんだ」

できるだけやさしく、本音を真面目に言ったつもりだったが、名前ちゃんはそうとらなかったのだろう「…………な、んですか、それ…っ」途切れ途切れの声には、恨みがましいものや嫌悪の色が微塵もなく、やわらかな笑いが混ざっていた。

「あくしゅみっ、です…よ…」

泣きながら、笑っているのだろうか。おかしなイントネーションよりも、彼女が笑ってくれているという事実に安堵したのか、気付けば俺も笑みを浮かべていた。本当に、我侭で駄目な大人だ。自分で泣かせて、そのことに後悔はしていないくせに、彼女がこうして笑ってくれることが嬉しいなんて。名前ちゃんに、嫌われなかったことに、こんなにも安心するなんて。

「だけど、言ったことはすべて本当だ。名前ちゃん、心配してくれるのは嬉しいが、俺だって心配したんだ」

あんな明らかに大丈夫じゃない顔をしているくせに、嘘をつくんだからな。本人に自覚がないところが、またややこしい。

「きみが、他人に心配や迷惑をかけまいと、ひとりで我慢しているのは知っている。俺はそれを素直にえらいと思うよ。それでも、きみが抱え込み過ぎる前に頼ってほしいと思っている人は、きみが思う以上にいるんだ。だから、大丈夫だ」

偉そうな言葉だと思ったが、それが本音なので真摯に丁寧に、彼女に伝わってほしいと思いながら紡ぐ。きっと、彼女の母親だって似たような思いを抱えている。なにより、俺が、頼ってほしいと思っているのだと、そう。いつかみたいに、名前ちゃんの頭にぽんっと手を置きながら、触れたところから全部伝わればいいと、思った。


そのあと、もう暗い窓の外で、未だ雨の勢いが衰えていないのを見ながら、泣き止んだ名前ちゃんを連れて一緒に診察室を出た。
彼女は完全に泣き腫らした顔をしていたから、案の定、受付の傍までくればやすよさんと律っちゃんが驚いた顔をしたあと、俺に呆れた風に非難する視線と言葉を向けた。本当にそのとおり過ぎるので、言い訳をすることなく甘んじて受け止めていれば、隣で名前ちゃんが慌てながら俺を擁護してくれた。
名前ちゃんが薬を受け取り、あとは帰宅のみとなった頃、思案げな表情を読み取った律っちゃんが「名前ちゃんどうする?この雨じゃ、ちょっと外に出るのは…」そう言い。名前ちゃんも「あ、はい……あの、母に迎えを頼もうと思うんですけど…」考えを口に出す。
そして、受付の電話を使えばいいという律っちゃんの申し出に、お礼を言いながら受付内に入ろうとするのを俺は押し止めていた。

「俺が送るよ」

診察室にいた時から思っていたことを言えば、名前ちゃんは驚きに染まった顔を直ぐに焦ったものに変えて断ろうとする。だが、それをわざわざ迎えにきてもらうより俺が送った方がはやいだろと、ばっさり看破すれば戸惑い揺らいでいる様子だったが、律っちゃんとやすよさんの後押しもあり多勢に無勢、結局名前ちゃんは折れた。
車をとりに行きながら、俺はどうしてあんなことを言ったのだろうと独りごちる。名前ちゃんは泣き止んでから、恥ずかしくて気まずいのだろう、完全に恐縮ムードというか俺の顔を見なかった。そんな彼女の心情を考えれば、あそこであっさりと別れた方がよかったんだろうが。申し訳ないな、と思う裏腹にきっともう少し話をしたかったのだろうと思う。名前ちゃんが、いまの村の状態をどう思っているのか、聞きたかったのだ。
一応タオルを持って出たが、車に乗り込む間の、ほんのちょっとだけだったというのに雨粒が大きいせいか思ったより濡れた。がしがしと適当に拭いて、そうして発進させる。尾崎医院の正面口で停めれば、直ぐに名前ちゃんが出てきて日傘を差すと駆けよってきた。急いで助手席に乗り込んで、バタンと扉が閉まる。傘を差していたとはいえ、あの土砂降りだ。名前ちゃんも少し濡れているようだったので、シートベルトを止めたのを見てからタオルを差し出すのに、上体を捻って彼女の方に向く。そして、俺はかたまってしまった。
お礼を言いながら受け取る名前ちゃんの声も、どこか遠い。白いブラウスが、透けていた。濡れたせいで張りつき、その下の肌の色や下着を透かしていた。

「先生…?」

無言のままの俺を不思議に思ったのだろう、名前ちゃんに呼ばれてようやく呪縛が解けたかのようにハッとする。思わず出した声は「あ、いや……じゃあ、行こうか」なんて、ひどく歯切れの悪いものだった。何事もなかったように正面を向いて、ハンドルをぐっと握って、俺は、内心おおいに混乱していた。焦っていた。阿呆かと思った。名前ちゃんの、素肌だって下着姿だって聴診の時にもう何度も睛にしてなんとも思っていなかったくせに、なんだいまのは、と。幾ら罵ろうが、つい見てしまった事実は変わらない。それがまた堪えた。ありがちだが、そう言うのが好きだったのか。自分のことにも関わらず分からなかった。認めたくなかったのかもしれない。いま直ぐハンドルに頭突きをかましたい気分をどうにか抑えて、けれど、と思う。
さっき、俺は名前ちゃんを、女の子だと、思った。ずっと患者として、三年前からずっと接して、その成長を見てきていたが。ちゃんと意識をすれば、高校生になってから名前ちゃんは、ずっと女の子らしくなった。可愛かった。けれど、俺はずっと名前ちゃんを患者としてしか見てこなかった。だというのに、いまそれが壊れたのが分かった。
とりあえず、そのことはなかったことにはできないので、思考の隅の方に寄せながらただ運転することに努めた。何回も往診に行っているので、家の場所は知っている。名前ちゃんは相変わらず気まずいからか、特になにか話しかけてくることもなく。俺もいまのいままで思考が予想外の方向に飛んでいたので、車内は無言だったが、だいぶ道を進んだところで名前ちゃんが「先生」と俺を呼んだ。
その頃にはもう俺も冷静になっていて、どう切り出したものかと考えていたので前を向いたまま普通に反応する。なんだと思う前に、

「どうして、この夏からずっと村はおかしいんでしょう」

そう、名前ちゃんは言った。まさか彼女の方からその話題をふってくるとは思ってもみなかったが、直ぐに当然かと思い直す。名前ちゃんが、九月に訊きたいと思っていたこともこのことについてだったからかもしれない。そう思っていると「もうずっとずっと、つづいてて……このままじゃ、誰もいなくなってしまいそうな気がするんです」そう不安を吐露しはじめた。明確な言葉を避けているのは、あえてだろう。あまり使いたい言葉では、口に出したい言葉ではないからだ。
それでも、彼女の言わんとしていることが、夏から未だつづく一連の死だということは明らかだった。

「だけど、こんなにも異様で異常なのに……みんな、生きてる人はみんな見ないフリして変わらない生活をおくっていることが、一番おかしい気がするんです」

わたしも、含めて。顔は見れなかったが、視界の隅にうつる名前ちゃんは俯いていて、その声には沈痛な響きが込められていたから、どんな面持ちかは想像に容易かった。
彼女も、自分の無力さを痛感しているのだろう。おかしいと分かっているのに、なにもできない。そう切に思っているのだと、伝わってきて、知らずごくりと咽喉が鳴る。それを善しとしていない彼女ならば、もしかして名前ちゃんならば―――信じてくれるだろうか?
そう思い、いつの間にかハンドルを握る手に力が入っているのを思いながら「名前ちゃん」彼女の名を呼んでいた。

「……はい」
「きみは、そのおかしな原因はなんだと思う?」

原因。そう、彼女の言うおかしさの原因は、伝染病などではない、起き上がりの、屍鬼のせいだ、と。思った瞬間、ぶわりと痛烈な感情が全身を支配する。憎悪が、厭忌が、唾棄すべき害悪に対する―――殺意が。同時にあの時、杭を打った時の、手の感触がよみがえる。
だが、それも次に名前ちゃんが発した言葉によって、掻き消えた。

「……分かりま、せん」

名前ちゃんは、そう言った。そして、つづけた。

「わたし……引越すことになったんです。祖母と伯母は残るって言ったから、わたしと母だけ。まだ、先のことで…明確なことは決まっていないんですけど……先生には言っておかなきゃって、思って…」

冷水を浴びせられた脳で、俺はただ、そうか、と言った。
引越し。屍鬼たちの手によって暗に行われるものではなく、普通の、ただこの村から出るための。この村から、逃げ出すための。そうか、引越すのか。それなら―――彼女を巻き込むわけにはいかない。
逃げ出すことは悪いことではない。むしろそれが正常だ。こんな状態の村で、おかしさを抱えたままなにもせずにいることよりは余程マシだ。静信とおなじように。自分で道を決めるだけ、余程。それに、名前ちゃんの家はまだ奇跡的に襲われていないとはいえ、それもいつ破られるか分からないような危ういものだ。引越すのならば、直ぐにでも、明日にでもした方がいい。
理解者となってくれそうな存在の喪失に、どこか虚脱感があったが、それは俺のことだ。無事に、この村以外のところで生きていくことが、それが名前ちゃんにとって一番いいことだ。それを奪うような真似は、できない。
無意識に口元が苦笑のかたちになろうとするのを、抑える。そうして俺は、静かに苗字という表札のかかる家の前に停車した。

「じゃあ……先生、ほんとにありがとうございました。えっと、あのっ……また母と一緒に挨拶に向かうと思うんで…」

どこか落ち着きなく言った名前ちゃんは、暗にまだ今日がお別れじゃないと言っているようだった。ドアノブに手をかけようとするそのうしろ姿に「名前ちゃん」声をかける。振り返った名前ちゃんの睛を、真っ直ぐに見ながら、

「引越すならできるだけ急いた方がいい。それと、この村とは離れた業者に頼んで、ちゃんと日中に出て行くんだ。あと、それまでの間お守りみたいなものがあったら、肌身離さず持っておくんだ」

そう言うことしか、俺にはできなかった。彼女のためにできることなど、これくらいしかない。頼ってほしいと、そんなことを思っておきながら、実際に俺にできるのはこの程度のことでしかなかった。その事実が、あまりにも苦々しい。結局無力なのだと、思い知らされる。突然の言葉に名前ちゃんは驚いたのだろう。それはそうだ。特に後半なんて、なんの脈絡もなさすぎる。だから彼女が「あ……あのっ、」そう口を開いた時、俺は何を言っているのか訊かれるものだとばかり思っていた。けれど、彼女は、名前ちゃんは、

「せ…先生は……大丈夫、ですよね…?」

そう、不安に満ちた顔で、縋るように問いかけてきた。それに、ああ、と思う。やっぱり、名前ちゃんは、と思う。けれど、もう遅い。こんな時まで、俺の心配をするなんて、本当にきみは愚かで―――いい子だ。そう、思った。だが、俺は彼女に心配されるわけにはいかない。医者として、大人として、男として、それくらいは格好つけたかった。だから、不適な笑みで言ってやった。大丈夫だと。
そうして、名前ちゃんを車から降ろし、俺は窓ガラス越しに彼女がもう一度会釈をするのに手を振って返してから、車を出した。まだぽつぽつと雨が降っているというのに、傘も差さずに動かないまま車を見ている名前ちゃんを、バックミラー越しに見ながら、自然微笑んでいた。


そしていま、俺はその夜の自分を、殴りつけてやりたかった。
なぜ明日がくると思ったのか、きっとまだ屍鬼に開かれていない家だろうから大丈夫だと、そう高をくくっていた自分を。次の日、電話を受けてから急いで駆けつけた苗字の家で、名前ちゃんはベッドの中で眠っていた。急いで確認すれば首筋にはっきりと残っている虫刺されのあとにも似た、吸血痕。言いようのない怒りで一気に血が上る。
直ぐに視診、聴診、触診をすれば、まだ血を吸われて一回目にも関わらず、他の患者よりも状況はひどかった。やはり生来の身体の弱さが祟っているのだろう。名前ちゃんは寝息すら立てずに、診察している間も起きることはなかった。布団をかけなおして、床に坐り込む。起きるまで待つ間、視線はその寝顔に向かう。昨日よりも血の気の失せた蒼白い肌に、微動だにせず眠る姿は、まるで死んでいるようだった。過ぎったそれを、瞬時に否定する。まだ、名前ちゃんは生きている。脈も呼吸もぬくもりもあった。馬鹿なことを思うな。そう唾棄する。
だが、この家も起き上がりに開かれてしまった。名前ちゃんも、暗示によって入院は嫌だと言うだろう。無理に連れて行くことも考えたが、きっと抗うだろう。こんな状態では下手に興奮させることも命取りになる。それに、と自嘲の笑いがこぼれる。今更入院させても、尾崎医院が安全というわけじゃない。多勢で襲撃されてしまえば、彼女を守ることなど無理だ。結局、俺には守ることができない。なにも、できない。分かっていても、なにかないかと考えて込んでいるうちに時間だけが無情に経った。
やがて、かすかな衣擦れの音に俺は顔を上げた。名前ちゃんの目蓋がうっすらと開いていた。その瞳が、なにかを探すように、時計のある方を向こうとするので、

「十二時二十三分だ」

そう時間を教えてやれば、名前ちゃんのぼんやりしていた瞳に感情がやどるのが分かった。そうして「……お、ざき…せんせ…?」元気さも明るさの欠片もない、ひどくか細い声が俺を呼んだ。
こちらを向こうとするが、上手く身体が動かないのだろう。膝をついてベッドを覗き込むと、睛が合った名前ちゃんは、ふにゃりと「よか、ったぁ……せんせい、だ」はじめて見るくらい安心しきった顔で、微笑んで言った。
一瞬で、胸に苦々しいものが溢れて広がった。顔が歪みそうになるのを、耐えたつもりだったが、つもりで終わった。こんな時にポーカーフェイスでいられないなんて、医者失格だなと、内心呆れた口調で呟き紛らわそうとするが、それも無理だった。
それから、睛を覚ました彼女に一応病院に来ることを訊ねたが、結果は予想どおりだった。けれど、言わされた言葉を吐いたあと、名前ちゃんは泣きそうなくらい顔をくしゃくしゃにして謝った。そのことに、内心驚く。こんな状態でここまで意識がちゃんとしているなんてと、彼女の意思の強さを思う。これも、言い方は悪いが、慣れている、ということなのだろう。自分の身体の弱さに対して決して泣き言は言わず、折り合いをつけてただ耐えてきた彼女の強さなのだろう。思わず、そっと名前ちゃんの頭を撫でていた。本当に、きみはえらいよ、名前ちゃん。その意味も込めて。
その後も、名前ちゃんは軽口を叩けるくらいで。それが余計に居た堪れない。それでも、睛を瞑ったまま、嬉しそうにそっと笑う彼女に、俺も笑った。彼女に心配をかけないよう、このひと時だけでも安心していられるように。少しの間、ゆるやかな沈黙が室内に満ちていたが、それを先に破ったのは名前ちゃんだった。

「おざき、せん、せい…」
「なんだ?」

呼ぶ声に返す声が、まるで自分のものとは思えないほど、おだやかでやさしいものだったので、ガラじゃないと内心苦笑している俺を、けれど次の言葉が凍てつかせた。

「……わたし…ずっと、こうだった…から……むかしから、ほかの人、より……死にちかい、んだろうな…って、そう」

ずっと、そう思ってたん、です。目蓋を閉じたまま、おだやかな顔で名前ちゃんは、そう言った。動揺は四肢にまで伝わり一瞬だけ、撫でていた手が止まりそうになる。慌てて平静を装ったが、きっとバレているだろう。他人の感情の機微には聡い子だ。その間も、紡ぐ声は、つづく。

「だか、ら……死ぬこと、は…こわいことじゃ…ないん、だって……」

ずっと、ずっと、そう思ってきたのか。名前ちゃんは、風邪を引いただけでも肺炎にまでこじらせることが多々あった。そんな風に、軽いものから重いものまで、それこそ下手をすれば生死に関わる目にまで、あってきたのだろう。だから、そう考えることは不思議なことではなかった。おかしなことではなかった。むしろ、当然かと思う。だというのに、なんだ、この胸を穿つ感情は。彼女が、はじめて発した死という言葉が、ひどく重く圧し掛かる。

「なの、に……おかし、いん…です……わた、し……」

名前ちゃんが、目蓋をそっと開く。透明な水の膜がうっすら張っていたが、それでもその瞳は確かに俺をうつしていた。

「こわ、くて……こわく…て……しかた、ない…んで、す……」

はじめて、彼女が、弱音を吐いた。望んでいたはずの言葉は、けれど、いまだけは聞きたくなかった。いまの俺には、彼女の怖さをやわらげてあげることなど、できない。なにも、できない。守ることも、助けることも、なにも。分かっている。分かっていた、もう何度も何度もこの夏から、ずっとずっと狂いそうなほど延々と、すべてがこの手からすり抜けていくのを永遠と。
分かって、いた、名前ちゃんが―――死ぬことは。

「…せん、せ……お、ざき…せんせぇ……っ」

ああ、もう腹を立てる気すら起こらない。

「……名前ちゃん…ッ、」

すまない、すまない。名前ちゃん、すまない、俺、は―――、

「……し…にたく……な、い…よぉ…」




―――ギシリ。知らず凭れかかっていたのだろう、椅子が軋む音で我に返る。
銜えていた煙草はいつの間にかもう短くなり、その熱さにすら苛立つ。そうして息とともに紫煙を吐き出した。思い出したくもない悪夢のリピートは、だが忘れることなど赦されない。名前ちゃんの声が、言葉が未だ鮮明に耳に残っている。何度でも、何度でも。彼女が、俺に言った言葉が―――死にたくないという言葉、が。生々しく血を流しつづける、癒えない傷のように、消えない。
煙草を灰皿にぐっと押し付ける。吸殻が随分と溜まっていたが、それを認識しただけでなにも思うことはなかった。ただ、彼女の前では一度も煙草を吸わなかったことを思った。
名前ちゃんが、死んだ。そう、死んだのだ。死んでしまったのだ。あんなにも、死にたくないと、生きたいと希っていた名前ちゃんが。おなじだが、どこか異なっていた、その理由が、ようやく分かった気がした。
そうして、俺はぼんやり思う。最近は新しくできた葬儀社を利用する村人が多かったが、苗字の家は昔からの寺の檀家だ。彼女の葬儀は寺が行った。亡骸は、樅の林に埋められたのだろう。土葬。考えたくはなかったが、どうしようもなく出てくるものを止める術はなかった。
そう、彼女は、名前ちゃんは、起き上がるのだろうか、と。屍鬼として、生き返るのだろうか、と。もし、そうなった時、彼女は一体なにを思うのだろう。もし、そうなった時、俺は、
―――その胸に杭を打つことができるのだろうか?
答えは、なにも出てこなかった。


- ナノ -