ふっと意識が浮上して、わたしは睛を覚ました。だけど、まだ半分夢の中にいるみたいにうすぼんやりとした覚醒だった。
目蓋を開けようとしても明るい暗闇がつづくばかりで、意識だけでなく四肢の感覚がひどく希薄なことにようやく気付く。そうして、どうにか重い目蓋を開けばそこには見慣れた天井が広がっていた。布団の感触もやっと伝わってきて、自分のベッドで寝ていることを思う。ああ、もう朝だ。何時だろう。目覚ましが鳴る前に起きてしまったのかな、と寝ぼけているのだろう、やけに緩慢な頭で思い時計を確認しようと身じろぎすることが、できなかった。目蓋だけじゃなくて、全身が、鉛のように重くシーツに沈んでいる。
(あ、れ…?)
なんだろう。また調子を崩してしまったのだろうか。風邪がぶり返してしまったのだろうか。でも、風邪の時のだるさとは、なにか違う気がした。頭痛もないし、喉や鼻に違和感もない。身体が発熱している感覚も、ない。むしろ、どちらかといえば常時よりも低いような。それに、なんだかとても眠くて。でも、この感じには、なんとなく身に覚えがあった。あの時と、似ているなって思った。あの時―――貧血で倒れた時みたいな。
(………ひんけ、つ…?)
そう気付いた途端、違和感が胸元からじくじくと出てきて、広がってゆく。貧血、だとしたら、わたし、倒れたんだろうか。そう、眠る前を思い出そうとすれば余計に違和感は増した。
昨日の、夜。どうしてだろう。いつもなら簡単に思い出せるのに、なぜか出てこない。いつ布団に入ったのか、思い出せない。昨日。昨日は、尾崎先生の車で送ってもらって帰宅したあと、晩御飯を食べて、お風呂に入って、それで、夜天が綺麗だったから、外に、ちょっと、外に散歩に、出て、それで、それで、戻ろうと思った時に、人に、辰巳さんに、会って、それでそれで、それ、で―――サアッと血の気が引いた。
(ぁ……あ……わた、し…、)
咄嗟に首筋へ触れようとしたけど、やっぱり意思とは異なって感覚のない手は動かない。だけど、覚えてる。あれは、夢なんかじゃない。だって、首筋に硬い、牙の、突き刺さる感触が、残ってる。

―――いいかい?このことは誰にも言ってはいけないし、なにを訊かれても、病院に行ったり入院しろと言われても、絶対に断って大丈夫だと言うんだ。さっきも言ったが、ぼくは明日も来る。部屋に入れろと言ったら入れるんだ。分かったね。

真っ暗闇に染まる意識に、辰巳さんの声が、残ってる。はっきりと、まるで呪詛のように、脳裏に深く刻まれている。
ああ、やっぱり、そうだったんだ。彼らは、兼正は吸血鬼―――起き上がりで、郁美さんは、正しかったんだ。どうしよう。どうしようどうしよう。まわらない頭で、それでも考えていると、ガチャリ…とドアの開く音が耳に入ってきた。ややあって、薄く開いていた視界に母の心配そうな顔がうつる。

「ああ、名前睛を覚ましたのね…!良かった。大丈夫?」

布団に手をついてわたしの顔を覗き込んでくる母は、すっかり眉を八の字にさせていた。わたしが寝込むことなんて、昔からもう数え切れないほどあったから、母も一々そんなに大袈裟な反応をすることはもう久しくなかったというのに。答えようとするけど、唇も動かなかった。

「心配したのよ?時間になっても起きてこないから……たぶん貧血だと思うんだけど…」

母の言葉に、どうやら血を吸われたあとは自分の足で部屋に戻ってきて寝たのかと思う。かすかに開いていた口を、舌を、どうにか動かそうとすればかすれた音だったけど、ちゃんと声が出た。意識して息を吸い込んで、もう一度。

「……大丈夫…ちょっと、つかれてた…みた、い……」

言えなかった。襲われたって。起き上がりに、襲われたんだって。言いたい意識を裏切って、口から出たのはそんな言葉だった。どうして、と思う。だけど、それも直ぐに合点がいった。吸血鬼は血を吸った相手に、一時的な暗示をかけることもできる、って。そのことだって、ちゃんと、考えてたはずなのに。馬鹿だなあ。どこかで、ずっと痞えて刺さっていたちいさな棘があったのに、実際に自分が経験するまで信じられないなんて。

「……本当に?でも、一応病院に行きましょう?」
「大丈夫…病院は行かない……」

病院。その言葉に一瞬で胸が熱いもので満ちる。だけど、やっぱりわたしの舌はそう紡いでいて。母も、昨日定期健診を受けたばかりで、大丈夫だったという事実にそれ以上深く言ってはこなかった。
代わりに「お腹空いてない?なにか欲しいものがあったら言ってね。学校には連絡しておいたから、気にせずに休んでね」そう言ってくれた。でも空腹感すらいまのわたしには分からなくて、でもとりあえずお水だけを頼んで母にお礼を言った。直ぐにとりに行くために、母のいなくなった静かな室内で、わたしはただ天井を見ていた。
病院に、行きたかった。先生に、尾崎先生に会いたかった。会いたくて、たまらなかった。涙が出そうなくらい。いまのわたしは、自分に起こっている現実を現実だと認識していて、それでも夢であったらと願っている。悪い夢なんじゃないかって。ほんとは、首筋にはそんな映画とかでよく見る噛まれた痕なんてないんじゃないかって。そう、無駄な夢想に縋ろうとしている。
泣きたかった。泣き喚いて、起き上がりだって、母に伝えたかった。だけど、できない。できないように、されている。なんで、なんで、辰巳さん。ひどい。辰巳さんは違うって、そう、信じていたのに。わたしにとっては数少ない、人見知りしないでちゃんと友好的に喋れる人だったから、裏切られた心地で、思わずそう悔しくなるけど。もしかしたら、いや、たぶん、辰巳さんは最初から、わたしの血を吸う機会を窺ってただけなのかもしれない。そう、辰巳さんにとっては最初からわたしは、ただの獲物でしか、なかったのかもしれない。わたしがちょっとだけ築けたと思っていたものなんて、彼にとってはなんの意味もないことだったんだ。
その考えに行き着いた途端、胸がくるしさを増す。悲しみやつらさが、溢れる。
(……おざき、せんせ…っ)
先生に、会いたい。会いたい会いたい会いたい。だけど、病院には、行けない。行けないまま、会えないまま夜になって、そうして辰巳さんがきて、また血を吸われて、そうしたら―――どうなるんだろう?
わたしの身体にはいま、どれくらいの血が足りていないんだろう。勉強したから、知ってる。人間は全血液量の、二分の一から三分の一の血液が失われると、死に至る。わたしのこの症状は貧血だけど、それはほんとに直接血を失ったわけだから、下手をすればそこまでいかなくても出血によるショックで亡くなる可能性だってある。みんな、村で貧血からはじまる症状で亡くなった人たちは大体そこから三、四日だったけど、わたしは、わたしのこの脆弱な身体は、そんなにも耐えられるのだろうか?もしかしたら、今晩で、わたし、は、
ぐっと、心臓がきつく鷲掴まれたみたいなくるしさに、一瞬呼吸ができなくなる。スーっと、ただでさえない血の気が失せて、感覚がないはずの背中に脂汗が浮かんで、耳鳴りがする。息がしづらいのに、心臓はどくどくと早鐘を打っている。
駄目だ、こんなのじゃ、落ち着かないと。いつだって、大丈夫だって、そう自分の身体を騙しながらやってきたんだから。いまだって、まだ、大丈夫。大丈夫、きっと、なにか、あるはず。あるはず、だから。考えて。でも、病院には、行けない。さっき、母に言う時に先生に往診しにきてもらうことも考えたけど、それも口には出てこなかった。
じゃあ、どうすれば。どうすれば、いいんだろ?いやだ、こんなの。会えないまま、昨日で最期だなんて。会えないまま―――死んでしまうなんて。そんなの、いやだ。会いたい、会いたい。会いたいだけなのに、わたしは、ただ。尾崎先生に、尾崎、敏夫さん、に、

「あ、いたい、よぉ…っ」

知らず紡いでいた声には苦々しい響きしかなかったけど、わたしは、え?と思った。言えた、と思った。まさか。その思いに、くるしささえ忘れる。まさか、まさか、もしかして。

「名前?お水持ってきたわよ」

母が戻ってきて、コップを差し出す。けど、相変わらず身体の感覚のないわたしは受け取ることができないので、ベッドの脇にある棚に置いてもらう。置いて、もらって、わたしは「おかあ、さん…」母を呼び止める。ちいさく微笑んで首を傾げる母に、ちゃんと言うために、ひとつ深呼吸をした。




どれくらい経っただろう。母に十一時過ぎだと教えてもらってから、待っている間にまた眠ってしまったみたいで。次に睛が覚めた時は、まだ明るかったものの少しだけ窓から射し込む光が朝よりも橙に染まっているような気がした。
今度は目蓋を持ち上げるのもまだ楽だったから、どうにか時計を見ようとしたところに、

「十二時二十三分だ」

そう刻を告げる声がした。母じゃない、いや、女ばかりの家人とは全然異なる男の人の低い声音に、間違えるはずのないそれに、ハッとする。

「……お、ざき…せんせ…?」
「ああ、そうだ。名前ちゃん」

声のする方に、ほんの僅かにしか動かなかったけど首を傾けて視線を向ければ、そこには確かに尾崎先生がいた。昨日、会ったばかりなのに。ずっと、ずっとこころに思い描いて、会いたいって願ってた、尾崎先生が。

「よか、ったぁ……せんせい、だ」

よかった。ほっと、すべてが楽になるのが分かった。昨日の辰巳さんと会った時とは比べものにならないくらい、こころの底からただ安堵した。嬉しくて安心したまま微笑むわたしとは正反対に、先生は苦笑をさらに痛ましいものへ変える。
そんな顔をしてほしくないのに、そうさせているのは自分だ。先生にずっと心配かけたくないって思ってたくせに、昨日といい、わたしは駄目駄目だった。

「驚いたよ。お母さんから、きみが会いたがってるって言われて……病院に行くのは、嫌なんだろう?」
「病院は、駄目です……入院もしません…」

ああ、まただ。喋るのさえ億劫なはずの口からすらすらとついて出る言葉。いやでいやでしかたない。抗えない自分が。

「…………ごめん、なさ…せんせ……わた、し」
「いや、いいんだ。名前ちゃん、無理して喋らなくていい」

尾崎先生の手がそっと頭に触れて、撫でられる。やさしくてあたたかい手が心地よくて、自然睛を瞑ってしまった。
先生はそのまま「眠っている間に調べさせてもらったが、貧血だな。女の子なんだから、普段から鉄分のあるものを摂っておくようにと言っていただろう」言ってることはお説教じみているのに、その声音はどこまでもやわらかなものだった。

「……レバー、にがて…なんです……」

だから、嬉しくて口元がゆるんでしまう。先生も笑う気配があったから、余計。また眠ってしまいそうなくらいゆったりとした沈黙が静かに流れるけど、それを先に破ったのはわたしだった。

「おざき、せん、せい…」
「なんだ?」
「……わたし…ずっと、こうだった…から……むかしから、ほかの人、より……死にちかい、んだろうな…って、そう」

ずっと、そう思ってたん、です。一瞬だけ、淀みなく流れるようだった手つきに、ぴくりと違うものが混ざる。

「…………っ、」
「だか、ら……死ぬこと、は…こわいことじゃ…ないん、だって……」

この世界に生まれたこととおなじように、どんな死であってもそれは誰にでも平等に訪れるものだから、だからなにも怖いことじゃない。当たり前の摂理だって。そう思っていた。そう、思ってたし、それはきっとこれからも変わらないはずだった。なのに、

「なの、に……おかし、いん…です……わた、し……」

目蓋をそっと開く。うっすらとにじむ視界で、尾崎先生をうつした。
ちょっと目つきも悪いし、無精髭が生えているし、ふっと彼から香るとおりに煙草を吸ってるのを見かけるし、服装も白衣は纏っているけどTシャツにジーパンとか、なんだかだらしない、先生を。大好きな、先生を、睛に記憶にこころに、焼き付けておきたかった。

「こわ、くて……こわく…て……しかた、ない…んで、す……」

そうすれば、きっと怖くなくなるって。最期に、先生のことを思い出しながらだったら、きっと、そうだって、思ってたのに。いやだと、こころが血を流す。溢れて、止まらない。
眠くて、眠くてたまらない。睡魔が音もなく意識をひきずってゆくことに、抗えない。目蓋が、閉じそうに、なる。先生が、もう、うまく見えない。眠ってしまうのが、怖い。もう、次はないかもしれないって、そう。もう、尾崎先生に会えなくなってしまうって、そう。

「…せん、せ……お、ざき…せんせぇ……っ」

いやだ、いやだいやだいやだ。そんな、こんなの、わたし、

「……名前ちゃん…ッ、」
「……し…にたく……な、い…よぉ…」

だって、わたし、まだ、尾崎先生に、なんに、も―――、


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