どうにか泣き止んだ頃には、目蓋がはれぼったくなっているのが鏡を見なくても分かった。先生に渡されたティッシュの箱を抱えて、屑入れをくしゃくしゃに丸めたティッシュでいっぱいにしてしまうわたしを、先生はただやさしく口元を緩めるだけでなにも言わずに待ってくれた。

「…………雨、止まないな」

風はなくなっていたけど、いつの間にか集まった暗雲で驟雨になり、外はもう陽が落ちているのかすら分からない薄闇でおおわれている。やがてぽつりと窓の外を見ながら先生が言って、促されるまま一緒に診察室を出た。
わたしが最後の患者だったから、やすよさんと律子さんが直ぐにわたしと先生を見て、驚きに睛を開いていた。けど、それも瞬きをする間に「先生、幾らなんでも名前ちゃんまで泣かすなんて……」呆れた風にじとりと先生を非難する視線に変わったので、慌てた。

「あ、いえっ…違うんです!先生は悪くないんです、わたしがっ…勝手に泣いちゃっただけで」

ぶんぶんと首と手を振って言えば、ふたりは苦笑しながら薬を出してくれた。それを受け取りながら、つい窓の外を見てしまう。夕暮れと雨が重なって見通しが悪いけど、地面に叩きつけるような激しい雨が降っているのは音で分かった。
どうしよう。さすがにこの雨の勢いじゃ日傘は心もとなさ過ぎるというか、殆ど意味を為さない気がする。止むまで待つのは病院に迷惑だし、家に電話をして車で迎えにきてもらおうかと思案していると。

「名前ちゃんどうする?この雨じゃ、ちょっと外に出るのは…」
「あ、はい……あの、母に迎えを頼もうと思うんですけど…」

律子さんに訊ねられて、ついいましがた考えていたことを口に出せば「じゃあ、電話こっちの使っていいから」待合室に一応ある公衆電話じゃなくて、受付内の固定電話を指して言ってくれた。なので、ありがとうございますと受付内に招かれるまま入ろうとしたわたしを「いや、」という声が押し止めた。

「俺が送るよ」

先生だった。ふたりの視線にも特に釈明も弁解もすることなく、でもちょっとだけ気まずそうにしていた尾崎先生が片手をあげてそう言った。

「え…?あ、いえ、母も家にいると思いますし……」

大丈夫ですと。なにより先生に送ってもらうなんて悪い気がして断ろうとするも「もう今日は診察時間も終わったしな、わざわざ迎えにきてもらうより俺が送った方がはやいだろ」そうばっさり遮られた。しかも戸惑うわたしを余所に律子さんもやすよさんも「そうね、それがいいんじゃないかしら」と賛成ムードだ。三対一の、しかも大人三に子ども一という不利極まりない状況に、結局わたしは「じゃあ……すみません、先生。おねがいします」と甘んじることにした。


母が心配しているかもしれないので、一応電話を貸してもらって、先生に送ってもらうことになった旨を伝えると。母もちょうど迎えに行こうかと、病院に電話をかけようとしていたところらしかったのでちょっと安心している様子だった。先生にかわって、母と先生がなにか話していたけど、やっぱりわたしは先生に送ってもらうことになった。
尾崎先生が車をとりにいって数分、病院の前にヘッドライトの明かりが見えてわたしは律子さんとやすよさんと別れて外に向かった。
一応日傘を差して車まで駆けるものの、土砂降りなせいで思ったより濡れてしまいながら急いで先生の指した助手席に乗り込むとちょっとひと息。だけど、緊張は途切れなかった。シートベルトを締めている間にも、気持ち見ないようにしていても否応なしに視界にうつる白衣が、尾崎先生が。今自分が尾崎先生の運転する車の隣の席に坐っていることを、まざまざとした現実にするから。こんな、夢にも思わなかったはじめての状況に、緊張するなという方が無理だった。

「やっぱりちょっと濡れたな。ほら、名前ちゃんもタオル」
「あ…ありがとうございます」

かすかに濡れた髪の毛やブラウスが張り付いて気持ち悪いなと気をそらしていると、先生がタオルを差し出したので咄嗟に受け取って、そのまま視線が合わさってしまう。いつも向かい合わせで、隣なんて滅多になかったから思いのほか近い距離にとまどう。
車の助手席って、こんな近かったっけとつい記憶を探っていると先生はなぜか、じっとわたしを見たまま無言なので「先生…?」不思議に思って声をかけたら「あ、いや……じゃあ、行こうか」そう言いながら前を向いた。歯切れの悪い先生なんて珍しいなと思いながら、タオルで拭いていると車が動き出した。
先生は、何回も往診にきてくれているのでわたしの家の場所は知っている。から、特になにも話しかける言葉がみつからないまま、定期的にワイパーが扇を描く度にあらわれる景色は滞りなく流れてゆく。なんとなく、やっぱりちょっとだけ気まずいのは、さっきのことがあったからだ。まさか、先生に抱き締められるなんて、思ってもみなかった。
そう、つい先刻の出来事を思い出す度に、すごく今更だけど、とんでもなく恥ずかしくなってしまって。そのことが緊張に輪をかけて先生の顔すら見れない理由だった。むしろ、さっきの夢じゃないよね…と現実逃避をするくらいのレベルだった。でも、夢じゃ、ない。だって、まだ残ってる。先生のにおいや、触れた肌のぬくもりが。忘れられるわけが、ない。顔が赤くなっているんじゃないかって、気が気じゃなかったけど、車内は薄暗いから先生に気付かれていないことを祈った。
それに、きっとあれは先生にしてみれば子どもあやす程度のことなんじゃないかって。なにも特別な意味のない、こと。わたしは、自分から先生に触れたことは一度もなかった。触れられなかった。たまに、無性に触れたくてたまらない衝動に駆られても、それに身を委ねる勇気は、なかったから。わたしにとっては、それだけ大きな意味をもつことだったから。だから、臆病なわたしは自分の都合のいいように捉えることができなかった。
たまに頭を撫でられたりする延長線上、つまりそれは子ども扱いの。そう考えれば浮かれていたものも、ゆっくりと沈静化する。冷静になってしまえば、自ずといま言わなきゃいけないこともちゃんとでてきた。ここ数日、ずっと言わなきゃいけないって思っていたことが。

「先生」
「ん?」

声をかければ、先生が前を向いたまま反応する。

「どうして、この夏からずっと村はおかしいんでしょう」
「…………」
「もうずっとずっと、つづいてて……このままじゃ、誰もいなくなってしまいそうな気がするんです」

どうしても、明確な言葉を避けてしまうけど、きっと先生には伝わっている。当てはまることなんて、夏から未だつづく一連の死しかないからだ。

「だけど、こんなにも異様で異常なのに……みんな、生きてる人はみんな見ないフリして変わらない生活をおくっていることが、一番おかしい気がするんです」

わたしも、含めて。だから、分かっている。おかしいことくらい分かっていて、だけどなにをどうすればいいのか分からないから、そうするしか術がないことくらい。でも村の人口だって、そんなにも少ないわけじゃないのに、これだけ人がいてこんなにも無力なことがどうしても遣る瀬なくて。なにより、なにもできていない自分のちっぽけさを痛感した。

「名前ちゃん」

黙って運転をしながら聞いていた先生が、口を開く。

「……はい」
「きみは、そのおかしな原因はなんだと思う?」

特に視線すら動かすことなく尾崎先生はそう言って、その問いに、わたしは思わず先生の横顔を窺い見た。真っ直ぐに、その瞳は道を見ているはずなのに、まるで虚空を見据えているようにうつった。いや、そこにはきっと、先生の睛には確かに見えているなにかがあるのだと思うくらい、静かでいて怖いくらいの激情に満ちた鋭さが奥に潜んでいる眼差しに、ぞくりと背筋が震えた。それを感じながら、わたしは、

「……分かりま、せん」

そう答えていた。

「わたし……引越すことになったんです。祖母と伯母は残るって言ったから、わたしと母だけ。まだ、先のことで…明確なことは決まっていないんですけど……先生には言っておかなきゃって、思って…」

暗くて分かり難かったけど、点々と燈る街灯によってもう直ぐ自宅に到着するのが分かった。途中からまた顔を前に戻して言ったから、もう先生がどんな表情をしているのかは分からなかったけど、ほんの僅かな沈黙が永久の時にも感じられた頃。尾崎先生はただ「…………そうか」とだけ言った。
そうして車は静かに、苗字という表札のかかる家の前に停まった。

「じゃあ……先生、ほんとにありがとうございました。えっと、あのっ……また母と一緒に挨拶に向かうと思うんで…」

ぺこりと頭を下げて、降りようとドアノブに手をかけた時。

「名前ちゃん」

名を呼ばれて、その手は止まり、振り返った先で尾崎先生の強い眼差しと真っ直ぐに合う。少しだけ眉間に皺を寄せて、その双眸は尖鋭さを増しているからなにかに憤り怒っているのかと勘違いしそうになるけど、違った。

「引越すならできるだけ急いた方がいい。それと、この村とは離れた業者に頼んで、ちゃんと日中に出て行くんだ。あと、それまでの間お守りみたいなものがあったら、肌身離さず持っておくんだ」

その睛にあったのは、まるで痛みを耐えるみたいな、どこか悲しみにすら似た苦々しいものだった。なのに、口調はどこまでも強い意思を湛えていて、拒否することが赦されない命令の響きがあったから。だから、わたしはその差異にひどく混乱したまま頷いていた。だけど、言われたことは理解できたけど、言われた意味を理解できなくて。それでも、先生の様子になにか胸がざわつくのが分かって「あ……あのっ、」知らず手を強く握ったまま。

「せ…先生は……大丈夫、ですよね…?」

そう縋るように問いかけていた。そんなわたしを見て、先生はふっと睛を細めて不適な笑みに変えると「ああ、大丈夫だ」さっきとは全然違うやさしい声音で言った。

「じゃあ、名前ちゃんおやすみ」
「は、はい……おやすみなさい」

未だ先生に言われたことの整理がつかなくて、わたしは促されるまま車を降りた。雨はもうだいぶ小降りになっていたから傘は差さずに、水滴のついた窓ガラス越しにもう一度先生に会釈をすると、先生は笑って手を振って、そのまま車は発進した。わたしはただ、そのうしろ姿が夕闇に紛れるまで、ぼうっと突っ立って見送っていた。




すっかり雨も止んで、暗々と垂れ込めていた雲もどこかへ消え去り、おかげでよく澄んだ墨を流したみたいな夜天に、蒼白い月と星々がいつもより輝きを増していた。空気も雨のにおいが残る透徹ったものだったので、つい寝巻きにカーディガンを羽織るとつっかけを引っかけて、ひさしぶりにちょっと外へ出ていた。
そこでようやく、ここ暫く星を見に夜外へ出ていなかったことに気付く。夏の間は晴れた日は、毎晩のようにこうしていたというのに、どうしてだろう。不思議に思いながらも、白雨で少し冷えた外気はかすかに肌寒くて、母に身体を冷やす前に直ぐ戻ってくるのよと言われたので、そんなに長くはいられない。だけど、つい立ち止まって天を見上げると時間を忘れてしまいそうだった。それに、この冴えた空気は動かしっぱなしだった脳にちょうど良かった。
帰宅して夕飯を食べてお風呂にはいっても、わたしの頭の中には尾崎先生に言われたことがずっとまわりつづけていた。わざわざあんなことを言うなんて、きっとそこには意味が込められているはずなのに上手く理解できないまま。先生があえて伏せた理由も、おなじ。
一見なにを言っているんだろうって、首をひねることばかりなのに、わたしは笑って「なに言ってるんですか」って流すことができなかった。それは、少なくとも先生の言葉になにかを感じ取ったからだ。こころの奥底にある得体の知れない不安を刺激されたからだ。先生には明言できない理由があって、でもなにかを伝えようとしていることだけは、分かった。
ちゃんと理由を聞けばよかったのにと後悔するも後の祭りでしかない。でも、とそこまでで思う。迷惑かもしれないけど、またちゃんと訊ねてみようって。そうすれば、もしかしたらなにか、なにかが変わるかもしれない。
漠然としたものにぎゅっと袖を握ってちいさく決意する。だから、とりあえず引越しのことを母に聞いてみようと一先ず考えを止めた。お守りの方は、元旦の初詣で買ったものが通学鞄の中にずっと入ったままだけど、取り出してポケットとかに入れていた方がいいのかな。というか、むしろ、そのお守りは縁結びのものなんだけど…………どう、なんだろ。
淡い紅色に白い花が刺繍された可愛いお守りを思い出すと、つい買ってしまった時の複雑な気持ちまでついてきて、ちょっと恥ずかしくなる。分かってるのにそんなものを買ってしまうんだから、この想いはほんとに厄介だなって。でも、きっともう直ぐそれも終りだ。そんなことを考えるとまた気分が沈みそうだったので、そろそろ家に入ろうと元きた道を戻っていたら正面から歩んでくる人影があった。

「や!これはこれは、誰かと思いましたら!」
「あ…こんばんは」

暗闇に睛を凝らしていると、それは辰巳さんだった。相変わらず特徴的な喋り方と、はきはきした調子にほっとする。外場村ではそういう事件とかは滅多にないけど、やっぱりずっと都会にいたからか夜道で人を見かけると一瞬いやなものが過ぎってしまうのは変わらなかった。たぶん、もう条件反射のようなものなんだろう。

「こんな夜分にひとりでどうされたのですか?」
「星を見るのが好きで、たまにちょっとだけ散歩してるんです。辰巳さんは?」
「それは、素敵なご趣味をお持ちで!ぼくは屋敷の電球が切れてしまって、買いに出たのですが……」
「えっと……この時間じゃ村のお店はもう閉まってるかと…」
「や!やっぱりそうなのですかっ…」
「村にはじめて出来たコンビニも潰れちゃいましたから、やっぱりこういうところではあまり必要ないんでしょうけど……余所からきた身としてはちょっと不便ですよね」

わたしが前に住んでいたところでは徒歩一分の距離にコンビニがあって、夏なんかは家族三人で夜突然食べたくなったアイスを買いにいったりしたのを思い出しながら言えば、辰巳さんは「ああ、都会からきた方はやっぱり分かってくれるのですね!」と大袈裟に感動していた。こんな時間にあまり長々と立ち話をするのもよくないかなと思って、挨拶をしようとする前に「それにしても」辰巳さんが言った。

「なんだか、おひさしぶりですね。最近見かけなかったのでどこか悪くしていたのかと心配しました」

この村ではなにやらよくないものが流行っているようですから、余計に。その言葉に、なぜか心臓がひとつ跳ねる。あまりよくない話題だからだけじゃないことは、分かってた。だって、さっき過ぎったいやなものは、人影を辰巳さんだと認識してもあったままだったから。話しかけられて、ようやく消えたものは、起き上がり、吸血鬼、兼正。そのみっつの単語が、辰巳さんを見た瞬間でてきたものだった。

「あ……はい、ちょっとだけ。もう全然大丈夫なんですけど、母が心配するので…わたしそろそろ戻りますね」

それに、気付いてしまった。ここ暫く夜の散歩をしていなかった、理由に。人気のない澄明な闇が、いつからだろう。ちいさないきものじゃない、もっと不確かで、なのに胸がざわつく気配で満ちてゆくようになったから。心休まる夜闇の静寂が、なにかに犯されているみたいに、だんだん不安と恐怖で引きずり込もうとするものに、いつしか変わってしまったから。
言って、別れようとしたのに、辰巳さんからはなにも返ってこなくて、つい歩き出そうとしてた足を止めてしまう。口を閉ざした辰巳さんは、笑みを消し去った見たこともない顔をしていた。それに戸惑っていると「あなたは、」ようやく口を開く。

「あなたは、本当に人がいいくせにガードだけは固いのだから……やはりそこは都会人ということなのでしょうかね」

平淡で無機質な声も、はじめて聞くもので。呆然と見てしまっていると、つらつらと言いながら辰巳さんがこちらに向かってくる。なにを、なにを、彼は言っているんだろう?

「あ、あの……辰巳、さん…?」

一歩分の距離を残して、目の前で、辰巳さんが止まる。恐る恐る声をかけたら、彼はにこっと笑った。

「や!引き止めてしまって申し訳ありません、お母上が心配していらっしゃるのでしょう?はやく帰ったほうがいい」

いつもとおなじ、見慣れた声と笑顔で、辰巳さんは言った。
手品のような鮮やかさで消し去られた、ついいましがた睛にしたものが錯覚かと思うくらい、綺麗に笑って。そのことに、一瞬脳が追いつかなかったけど、直ぐに「え、あ……じゃあ、おやすみなさい」そうわたしは辰巳さんの横をとおり抜けた。

「おやすみ、名前くん。明日はぜひ、こんな路上じゃなくて、きみの家に招いてもらうよ」

え、と思う暇もなかった。辰巳さんが、なにを言ったのか、理解する前に腕を掴まれそのままうしろに引かれていた。強い力に、呆気なく自分の足が地面から離れるのを、ただ感じていたら背が、なにかに当たって。倒れずに、支えられた身体の、その首元に、なにか、硬い、尖ったものが、触れて―――それがつぷりと皮膚を破って肉の間に埋まる。遅れて、熱さと痛みが、神経を刺した。
あとはもう、なにが起こったのか分からなかった。


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