次の日は土曜日だったけど、わたしの通う学校は隔週で土曜でも補習等授業をやっているので、学校へ行った。四日ぶりの学校ではいっぱい、大丈夫とか心配したとか、そういう言葉をかけられながら休んでいた分のノートやプリントでいつもより鞄が重かった。
とはいえ、学校でもわたしの身体の弱いことは周知の事実なので、みんなあっさりとしてるからありがたい。休んでいる間にあったことを、色々教えてくれるのを聞くだけで休み時間もすべて終わっていったし。なんだか、学校にくると平和な気がしてしまう。それでも、他愛ない会話の中で「あ、そういえば隣のクラスの結城くんも今日休んでるよねー」という台詞に、おもわず反応してしまった。

「え…?結城くん、休みなんだ」
「そーそー、あれ?確か名前も結城くんとおなじ外場村じゃなかったっけ」

知らないの?その何気ない言葉に、鼓動がひとつかすかに、それでも確かに跳ねた。
結城くん。結城くん、とはごく稀にバスが一緒になったけど、あれ以来、特に話すことは―――あれ、以来?
まただ。なにかが、小さな棘が。新学期のはじめに、バス停で、結城くんとは、恵ちゃんのお葬式の話を。土葬と、火葬の、話を。結城くんは、火葬にすればよかったんだって、そう。土葬じゃ、よくない、理由。それは、それは、それは―――、

死者が、起き上がって、くる、から?

もしかして、結城くんはあの時すでになにかに気付いていたんだろうか。そう考えはじめたら止まらなくて、わたしは授業が終わったあと、友人の誘いを断ると外場村へ急いだ。


結城くんの家は村の西側にあった。こういう時に限ってバスが中々こなかったせいで、もう正午を随分と過ぎていた。
外場村にはコンビニもないので、学校の傍のコンビニで買ったサンドイッチをバスの中で食べたから体力的にも大丈夫だろう。一度も行ったことはなかったけど、大体の場所は分かっていたのであまり迷わず蔵造りの家を見つけることができた。確か結城くんの両親は染物や家具をつくる職人さんだと聞いたことがあるけど、どういう人たちなんだろう。
玄関のチャイムを押して「すみません」と扉に声をかける。少し待ってみたけど、返ってくるのは無音ばかりで。声がちいさかったかな、とか、留守なのかな、とか思いながらもう一度。「ごめんください」今度はもう少し大きな声をかけたけど、やっぱり声も音もしない。留守、なのかな。だけど、どうしても後ろ髪を引かれて、中々立ち去ることができないでいると、ややあってキィ…という軋んだ音をたてて扉が開いた。
よかった、人がいたんだ。そう思って顔を上げて、かたまってしまった。現れたのは、まだ年若く見える男の人。きっと結城くんのお父さんなんだろう、その人は、眉間に皺を寄せ、険のある眼差しでわたしを見下ろしていた。
不機嫌、その言葉が瞬時に脳裏を過ぎるも、直ぐに違うと否定してしまう。だって、そこには、明らかに敵意や憎悪といったようなものが、わたしに向けて込められていたから。

「……っ、」

初対面の人にこんな眼差しを向けられることなんて、はじめてで、なにも言葉が出てこないでいると。「なにか」結城くんのお父さんはそう短く言った。それすら、氷のように冷たく尖った鋭利な声だった。なん、で。なんだろう。わたし、なにか、したのかな?なにも身に覚えがないのに、そう咄嗟に思ってしまう。

「ぁ…………いえ……あの、その……わたし…結城くんと、おなじ学校の苗字って…言います」

なんとか紡いでも、結城くんのお父さんのまとう空気はなにも変わらない。むしろ一層、眉をしかめて、無言の視線は「それで?」と言ってるみたいだった。

「ぇ、えっと……結城くんが…お休みって聞いて、それで……大丈夫かな、って…」

もう、睛を見て話すことはできなかった。視線をそらしてても分かる。怖いくらいの、まるで、害意に満ちた存在でも見るかのような、そんな視線が肌に突き刺さる。こわい、こわいこわいこわい。なんで。分からない。分からないから、こわい。歯切れの悪いわたしの言葉に、結城くんのお父さんは。

「夏野ならいまは寝ていてね、悪いけど帰ってもらえるかな」

さっきよりもやんわりとした言葉遣いは、だけどそこには失せろという、わたしを追い返す感情が痛烈に込められていて。いよいよ俯いてしまったわたしは、なんとか「すみません…」とだけ言って逃げるように結城くんの家を後にした。バタン、と背中から聞こえた戸を閉める音が、いやに大きく鋭く響いて。それに、まるでわたしという存在を拒絶された気分になった。


帰り道。なんでだろう、とそれだけが胸の中に黒く渦巻いていた。
なんで、あんな。どうして、あんな睛で、見られなきゃ、いけないんだろう。分からない。訊くことすら、できなかった。あんなにもはっきりと人から敵意を向けられたのも、拒絶されたのもはじめてで。しかも、なんの身構えもしていなかったから、余計にさっきの出来事はこころを穿った。
ほんとに、結城くんのお父さんとは顔を合わせるのも、話すのも、はじめてだったのに。理不尽さに対する怒りや悲しみよりも、疑問が勝っていたし。どうしよう、これで結城くんに話が訊けなくなってしまったという落胆と困惑が、次第に胸に広がっていった。折角、なにか知ることができるかもしれなかったのに。蛍火のように淡い光は、生まれては掻き消される繰り返しだ。希望、というほど大仰なものじゃないけど、でも、そんなものが。
だけど、とそこまでで、思う。諦めきれない気持ちが、あった。今日追い返されたばかりで明日行くのも、余計なにか神経を逆撫でしてしまいそうだから、明後日。月曜日に、また結城くんを訪ねてみよう。そう、決心する。それだけで、まだ前向きにちゃんと歩ける気がした。




結城くんが亡くなった。
十月十日、月曜日の朝のことだった。いや、正しくはらしい、という話だった。いつものように朝のウォーキングに出ていた祖母が帰ってきて開口一番「さっき、工房から葬儀社みたいな車に棺が運ばれてたけれど、旦那さんはいたから奥さんか息子さんが亡くなったのかねぇ…」そう言った瞬間、わたしは結城くんだと思った。思ってしまった。
学校を休んで寝込んでいると耳にしたのが三日前、もしその原因が貧血で倒れたのだとしたら、日数的にはいままでと一緒だったから。「やっぱり、都会から越してまだ一年だから、寺じゃくて他の葬儀社に頼んだのかしら」そう返す母たちの会話が、なんだか薄い膜の向こうのことのようだった。
もしかしたら結城くんじゃないかもしれない、そう思いながら学校へ行って。休み時間に隣のクラスを覗いたけど、そこに彼の姿はなかった。近くにいた人に訊いても、今日も休みらしいという返事があるだけだったから、わたしは職員室に足を向けた。結城くんのクラスの担任の先生なら、なにか知っているかもしれない。
だけど、職員室にいた先生は「結城くん、今日もお休みだって聞いたんですが…先生はなにか聞いていませんか?」という問いに最初、クラスの違うわたしが訪ねてきたことを訝しんでいるようだったから「今朝、結城くんの家の前に葬儀社の車が止まってた…って、祖母から聞いたんで…」そうつづければ、ようやく「ああ、そういえば苗字は結城とおなじ外場村だったな」と言ったあと、その表情を曇らせた。

「ここのところつづき過ぎてるだろ?だから今日はまだ、生徒に発表するのは控えるって朝決まったばっかだから……誰にも言うなよ?」

まるで内緒話をするみたいに、声のトーンを落として先生は、

「朝な、結城のお父さんから連絡があったんだ……亡くなったって」

そう言った。わたしは、目の前が真っ暗になるのが、分かった。


夕方、帰宅して、そのままベッドに倒れこむ。やっぱり、やっぱり、結城くんだったんだ。あとの授業にも全然身が入らなくて、いつのまにか放課後になっていた。あれからどうやって過ごしたのかを、うまく思い出せない。こんなことなら、無理にでも昨日訊ねればよかった。
どれだけ後悔しても、もう遅い。結城くんも、亡くなってしまった。唯一、話を聞いてくれそうだった人まで、いなくなってしまった。どうしよう。どうすれば、いいんだろう。もう、考えるのもいい加減疲れてきた。実を結ばない、不確かであやふやなものをずっと追いかけているのは、ひどく、疲れる。そう思って、ちょっと、笑みがこぼれた。なんだか、いまの言い方は尾崎先生への気持ちと、似ている気がしたから。
尾崎先生、どうしてるかな。もう、ずっと会っていない気がする。九月の終わり頃のは見かけただけで、実際に顔をあわせて話をしたのは先月の検診の日だったから、そろそろ一月が経とうとしている。もう直ぐ、また検診の日がくる。恭子さんが帰ったという話は、未だ聞かない。尾崎先生。先生に会っても、わたしは、なにも言える気がしなかった。
そうやって、ただ無意味に時間だけが経って。変わったことといえば、下外場の国道にあったコンビニの跡地にクリニックが開業したことや、上外場の木工所が最近引越したあとそこに葬儀社ができたことくらいで。あとは、もう、通夜と葬儀と引越しの話が絶えないことだけ。
もう、完全におかしい。おかしいことくらい、分かっているのに、手立てがない。そのことが不安と恐怖を加速させるからか、ある日もうみんな寝静まってあとはわたしと母だけの夜。わたしがおやすみなさいを言う前に、母が「ねえ……引越さない?」ぽつりと言った。その言葉にわたしは、特別に驚きはしなかった。
それまでも、ふっとした時にそういう空気はあったけど、そんなことをしたら本当に村に人がいなくなってしまうからと、憚られていたことを、ついに母が口にしただけのことだった。

「母さんたちとも、昼間話したのよ。もう、こんな村……ここにいる方が危ないって」
「……おばあちゃんたちは、なんて…?」
「母さんは、あんたたちはここを出なさいって。だけど本人はここに残るって聞かなかったわ。どうせもうこの年なんだから、どこにいったって死ぬ時は死ぬって。だから先祖や父さんが眠るこの地を離れることはできないって、まったく頑固だけど母さんらしいわよね。姉さんは、どっちでもいいみたいに言ってたけど、母さんが残るって言ったらひとりにしておけないって言い出して。姉さんも頑固だから、結局母さんと喧嘩になっちゃって……まったくふたりとも似てるのよね」

思い出したのか、母の顔に笑顔が浮かぶ。母も、疲れているようだった。前よりも、少し老けたような気がするそのおもてには、夏からの哀惜がずっと消えないままだ。わたしも、そういえば夕食時になんだか祖母と伯母の間の空気がぴりぴりしていたことを思い出していた。だけど、そんな和やかなままじゃ、いられない。

「……お母さん、それは…いま直ぐに決めなきゃ、いけない…?」

驚かなかったけど、そのことを具体的に考えていたわけでもなかったからそう言えば、母は微笑んで、首を横に振った。「ちゃんと考えて、決めてくれたらいいから。……突然ごめんね、名前」謝る必要なんてないのに、そう言ってくれた。ただ母は、でも、と言葉をつづけた。

「私としては、正直引越したいわ……名前、あなたのお父さんが亡くなった時に、私はもうこれ以上悲しいことはないってくらい、悲しんだわ。それでも、あなたがいたから、こうやって歩いてこれた。だからね、名前」

お母さん、あなたまで失ったら、もうどうしていいか分からないの。
悲しげに微笑んだまま、そう言った母に、わたしは内側から込み上げてくる熱をぐっと堪えて、微笑んで。うん、分かったよって、頷いた。
頷くことしか、できなかった。




その日は、朝から青々と澄んだ天に白い雲がよく映えていた。
ただ、天気予報では白雨があるかもしれないって言っていたから、ちゃんと大きな雨傘を持とうかと思ったけど。どうせ差す日傘が晴雨兼用だったので、結局いつもとなんら変わらない出で立ちのまま家を出た。十月ももう半ばを過ぎ、二十日になっていた。
引越しの話は、わたしが嫌だと言うことができないまま、着々と進められていた。母の中ではもうどこに越すか、場所も大体見定めているみたいで、居間の卓上にはそういった冊子や紙が散乱していることが多くなっていた。
嫌だなんて、言えるわけが、なかった。あんな母は、まるで父を亡くした時みたいな、そんな姿を、もう二度と見たくないと、わたしもずっと思っていたから。それに、わたしだってもう、この村にいたくないという気持ちがあるのは、隠しきれない事実だった。
同い年の恵ちゃんも結城くんも亡くなって、あの学校へ通うバスを待つのはわたし独りになってしまった。朝、あのバス停で待っていても、日傘で限られた視界に見慣れたスカートもズボンも、うつりこんでくることはもうないのだ。そう思う度に、涙が出そうになる。些細なことなのに、わたしの日常生活ではとても大きなことだったんだって、そう今更思い知らされた。
そして、わたしの嫌だという思いを支えるのは、たったひとつのことだったから。


その日の放課後、帰りのバスを降りて日傘を差して歩む。真夏よりもだいぶ陽が落ちるのがはやくなってきていたけど、西日はまだ照っていて天も明るい。ただ、稲穂を揺らす秋風に、かすかな湿気が混ざっていた。
今日は検診の日だった。尾崎医院に行く日。尾崎先生に会う、正当な理由のある日。少しでも、ほんの僅かでも誰かに悟られてはいけないと思っていたから、わたしはどんなに尾崎先生に会いたくても検診の日やほんとに体調のすぐれない時以外では殆ど病院の戸を叩くことはなかった。その分、院内では少し気がゆるんでしまい。だから、律子さんには意味合いは異なっても、わたしが先生に抱く好意がばれてしまったのかもしれない。
平坦な道はやがて、ゆるやかななぞえがつづくようになる。この道を通るのも、今日で最後になるのかなと思うと、足が重くなる。だけど左右の足を交互に出していれば、やがて見えてくる病院然としていない建物。細やかな木のパーツが幾重にも組み合わされた木造は、来るまでにだいぶ沈みかけた陽によってできた影さえも、綺麗な幾何学模様を描いている。
至る所にある大小も様々なガラス窓が特徴的なその佇まいが、いつ見ても飽きなくて好きだった。だけど、この建物も見納めだ。傘を閉じても、少しだけ扉の前で立ち止まってしまい、ひとつ意識して呼吸してから病院内に入る。
受付のやすよさんに受診カードを渡して、他愛のない世間話をしたあと待合室の椅子に坐った。誰も人はいなくて、今日もわたしが最後なんだろう。思いながら、鞄に入っている本を取り出さないまま室内をただ見ていた。ちゃんと、思い出せるように。たとえどんな思い出になっても、忘れたくはなかった。
それから直ぐに、窓の外にはぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。天気予報が当たったことをぼんやり思いながら眺めていると名を呼ばれ、診察室に向かった。

「やあ、名前ちゃん。なんだか随分ひさしぶりな気がするが、調子はどうだ?」

一ヶ月ぶりくらいに会った先生は、尾崎先生は、最後に見た時みたいな疲れきった顔はしていなかった。
いや、疲労の色は確かにあるけど、なんだろう、この夏よりも前みたいな。いや、前あったものが削ぎ落とされて、もっとぐっと濃く鋭さを増したような。睛だって、目つきが悪くなったとかそういうんじゃなくて、真っ直ぐに捉えられたらそらせないような、底が見えないのにその奥には怖いくらいの輝きがあるような、そんな。その睛を細めて、先生が笑う。

「そうですね、この一ヶ月は体調よかったんで。まだ人並みとは言えませんが、だいぶ身体も強くなってきたんだと思います」

先生の前に坐りながら、わたしも笑顔で返す。大丈夫、ちゃんと、笑えてる。

「そうか。九月の終わり頃にきて直ぐ帰ったって、律っちゃんから聞いてたが……あの時は本当になんでもなかったんだな」
「はい、ちょっと先生に訊いてみたいことがあったんですけど、あの日すごく忙しそうだったから……余計な心配をおかけしてすみません」
「訊いてみたいこと?なんだったんだ」
「いえ、それももう解決しましたから。大丈夫です」

診察の間にそんな会話をしながら、笑って言いながら、白々しいとこころの中で思う。嘘をつく時は、あえて真実の中に織り交ぜるのがばれない方法だと、知っている。なにも解決してないし、大丈夫じゃないくせに。そう呟く声を聞かないフリをして、胸の奥がひっそりくるしむのを見ないフリをする。簡単に、わたしは先生に嘘をつける。
衣替えもして、最近はベストも着ることがあったけど、今日はすこし季節を遡ったみたいな暑さだったから長袖のブラウスだけ。ボタンを外しながら、大丈夫じゃないから、秋になっても結局食欲が増すことはなく、むしろ寝込んだりしたせいで蒼白い肌にはいよいよあばらがくきやかに浮き出ている。
自分で触っても、薄い皮膚越しに肉ではなく硬い骨の感触だけしかしないことが嫌でたまらない、脆弱で貧相な身体。それでも胸にはちゃんと肉がついているのだから、なんだかおかしくなる。先生も、気付いているんだろうけど何も言わないまま聴診器をあてる。

「…………」

近い、距離。先生のにおいも体温も息遣いも感じられる、距離。かすかに睛を伏せた、真面目な顔が格好よくて。この三年間で、尾崎先生のいろんな表情を見てきた。笑ったり怒ったり呆れたり、ささやかな表情のうつり変わりだって見逃さないように、全部焼き付けてきた。だから、余計に、思う。

先生は、尾崎先生は―――恭子さんが亡くなった時に泣いたのかな、って。

恭子さんの通夜が行われたのはつい二日前、十八日のことだった。いつもみたいに訃報は直ぐに入ってきた。
わたしはそれを聞いた時に、なにを思ったんだろう。覚えていない。すべての思考が束の間停止して、それから溢れ出た感情が、なんだったのか。悲しみか悼みか哀れみか喜びか、それとももっと別のものだったのか。たった二日前のことなのに、わたしは覚えていなかった。いまだって、その時のことを思い出してるのに、ひどくこころは凪いだ水面のように淡々としている。
ただ、覚えているのは先生のことだった。尾崎先生は、恭子さんの死になにを想いどの感情が溢れたのだろう、と。わたしはこの二日間、そんなことしか考えていなかった。死の原因よりもなによりも、尾崎先生のことしか、考えていなかった。
そして、いま目の前にいる先生のおもてには悲嘆や哀惜といった、いまや村中の人の顔にある、身近な人が亡くなった悼みが、なかった。わたしがそう抱いただけなのか、先生が隠すのが上手いだけなのかは定かじゃなかったけど。どちらにしても先生には、恭子さんの死よりももっと重要ななにかがあることのように思えてならなかった。

「よし、終わりっと。大丈夫だな、ちゃんと安定している」

わたしのぬくもりが移って冷たさを感じなくなっていた聴診器が離れるのと同時に、先生はパッと顔を上げてそう言うと机に向きなおした。わたしがその間に身形を整えるのも、もう毎回のことだ。ボタンをひとつずつ留めるかすかな衣擦れと、ペンを走らせる音だけが静かな室内に響く。

「名前ちゃん」

すべて留め終わって、指を離したタイミングで先生に呼ばれ顔を上げる。

「俺ももうこの村に戻ってきてから三年、きみとの付き合いも長くなったからあまりこういうことは言いたくないんだが。医者に嘘をつくことくらい迷惑なものもないんだ」

先生は紙面に向かったまま、そう言った。そのせいか、すこしだけ意味が浸透するのに時間がかかって、だけど理解した瞬間心臓を鷲掴みにされた気分になる。

「十月の八日頃に何日か寝込んだって話は聞いてるし、なによりその身体が物語っている。きみは一度体重が落ちると中々戻らないからな、十日経ってもその様子じゃ食欲だってないんだろう。それにさっきの話も、なにか心配事があったんだろ?しかも解決していないことが」

つらつらと淀みなく吐き出される先生の言葉には、なにも感情が込められていなくて、それが下手に感情的に怒鳴られるより怖く感じられた。
足が床に縫い付けられたみたいに動かない。手が胸のあたりでブラウスをぎゅっと掴んだまま凍り付いている。睛がただ静かに机に向かう先生の横顔からそらせない。口は舌が顎に張り付いたみたいで、なにも言い返すことも、口を挟むこともできないでいるわたしを後目に、先生は「それに」と呟く。そうして、ようやくペンを置いて、ギシリと椅子の軋む音とともにこちらを向いて。

「きみの大丈夫は、いつだって大丈夫に聞こえない」

そう、わたしをその双眸に真っ直ぐにうつして、言った。窓の外ではいつの間にか横殴りの雨が、その大きな粒を窓ガラスに打ち付ける音がする。

「…………す…みま、せん……」

ようやく動いた舌と、呼吸を忘れていた咽喉から生み出されたのは、ひどく渇いてかすれた声だった。

「ぁ、の……ほんと…ごめん、なさい……わたし、そういう…つもりじゃ、」

そういう、先生を怒らせるつもりじゃ、なかった。なのに、先生はいま、見たこともない顔を、している。わたしが先生の怒った顔だと思っていたものが、掻き消されるくらい、怒ってる。ほんとに。そう気付いた途端、足元ががらがらと崩れ落ちる。

「謝ってほしいわけじゃない。理由を訊いているんだ」
「…………っ、あ……だって」

だって、だってだって。言いたくないのに、それは赦されない。先生が、赦してくれない。嫌だ。そんなの。きらわれたく、ない。

「だって……せんせい、すごく、忙しそうで……疲れた顔してた、から……だからっ……心配かけたく、なくて…っ」

だから。それだけで、それ以上はもう涙が一緒に溢れてしまうから、言えなくなったわたしに。だけど、先生は。

「さっきも言っただろう!迷惑だと。患者に心配されることだっておなじだ!」

鋭過ぎる怒鳴り声に、身のすくむ暇すらなかった。ぐちゃぐちゃだった脳内が真っ白になったと思った次の瞬間には、一気に視界が、尾崎先生の姿がぼやけて、にじんで溜まったそれが、溢れる。鼻の奥がツンとするよりもはやかった。熱いものが、頬を伝ってどんどん濡らしてゆく。ぽたぽたと、顎からスカートのうえに落ちる音が止まらない。
嫌だった。泣きたくなかった。怒られて泣くなんて、そんなの、ずるい。まるで、泣いたらすべて赦されるとでも思っているのかと、自分でも思ってることを、先生に思われたくないから。これ以上迷惑をかけたくないから。だから、嫌なのに。

「…………っ、うぅ」

呼吸まで止めていたらしく、知らず大きく息を吸い込むのと同時にしゃくりあげるような声が出てしまって、ぐっと奥歯を噛み締める。止まってほしくて、指を押し付けて何度ぬぐってもぬぐっても、わたしの願いとは正反対に止んではくれない。こんな、先生の前でこんな醜態を晒して、最悪だ。涙が出れば出るほどに、どんどん自分が惨めになるようで。がむしゃらだった手は、だけど、手首が掴まれて、止まる。
ぬくもりを感じた時には、ぐっと強い力で顔から引き剥がされて。布の感触と一緒にぼやけた視界が真っ暗になった。後頭部にもなにかが押し付けられるのを感じて、ようやくなにが起こったのか戸惑うわたしは、くるしい胸が求めるままに一瞬詰まっていた息を吐き出して、また吸い込んで。え、と思った。先生のにおいしか、しなかった。煙草とか消毒液とかいろんなものが混ざった、尾崎先生の。
そこで、やっと気付いた。頬や額に触れる布のあたたかさを。まわされた腕のかたさを。

「せ、んせ」

思わずこぼれた呟きはくぐもった音になって、先生のTシャツに吸い込まれた。見開いた睛から変わらず溢れ出るしずくと一緒に。だけど、聞こえなかったのか、なにも返ってくるものはなかった。
無言の暗闇では、雨の音だけが聞こえる。そのおかげか、今更自分の状況を把握して、恥ずかしくてわけが分からなくて。なのに、プチパニックを引き起こす内心とは裏腹に、規則的に上下する胸のぬくもりに、先生の体温に、わたしはなぜか安心しきってしまっていた。
そのままじっとしていると、ややあってから頭上から「…………すまない」という声が降ってきた。

「きみは、はじめて会った時から泣かない子だったからな。一度泣かしてみたかったんだ」
「…………な、んですか、それ…っ」

真面目な調子で言う先生がおかしくて、つい、笑ってしまった。なにより、先生にもう怒ってる気配がないことに、気が緩んだのかもしれない。

「あくしゅみっ、です…よ…」

泣き笑ってるせいで変なイントネーションになってしまったからか、先生も笑うのが分かった。触れてるとこから、伝わってきた。

「だけど、言ったことはすべて本当だ。名前ちゃん、心配してくれるのは嬉しいが、俺だって心配したんだ」

あんな明らかに大丈夫じゃない顔をしているくせに、嘘をつくんだからな。先生の言葉に、そんな顔してたかなと思う。待ってる間に鏡で確認した時はいつもとおりに、見えたのに。

「きみが、他人に心配や迷惑をかけまいと、ひとりで我慢しているのは知っている。俺はそれを素直にえらいと思うよ。それでも、きみが抱え込み過ぎる前に頼ってほしいと思っている人は、きみが思う以上にいるんだ。だから、大丈夫だ」

大丈夫だ。その言葉が、ゆっくりと染み渡る。あたたかいそれに、さっきまでとは違う涙がこぼれる。だって、知ってるから。尾崎先生の大丈夫は、いつだって大丈夫だったから。だから、わたしは頷いた。はい、って情けないくらいの涙声で頷いたら。ぽんっと頭に置かれた手に、余計溢れた。


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