おかしい。九月も中頃になって、なんだかその言葉をよく聞くようになった。
先日も、八月にまだ年若いお嫁さんのお葬式があったばかりの安森工務店の、その旦那さんと息子さんが亡くなったらしく。母と祖母がそんな会話をしている最中、何度も口にしていた。
わたしも、それを聞いて確かにおかしいと思った。五人家族の三人が、それも特に持病とかを抱えていたわけでもない人たちが突然亡くなったのだ。それも旦那さんと息子さんはたてつづけに、まだ八月に亡くなったお嫁さんの四十九日も済んでいない間に。確かに、誰かが亡くなることはあったけど。それは若者の少ない村の、もう年を召した人が病死したり天寿を全うしたりすることが、年に数回あるくらいだった。事故死でさえあまりなかった。
なのに、今年はどうだろう。夏から、山入からここ最近までずっと死がつづいている。途切れることなく、村のどこかで誰かが亡くなってゆく。そんなことは、ずっとこの外場村に住んでいる祖母もはじめてのことだと、その柳眉を顰めていた。そこには、不快感と、なにか得体の知れないものに対する恐怖心があった。
それに、このところ引越しもつづいているらしく、そのことも祖母はおかしがっていた。村から人がいなくなりはじめている。それは、まだ漠然としたものだったけど、明らかに、なにかおかしいことが起きていることは事実であるような気がした。


そして、それはゆっくりと確信へと変わっていった。武藤さん家の一番上の息子さんである、徹ちゃん。村に越してきた当初、よく話しかけてきてくれたみっつ上のやさしいお兄さん。
他に弟妹もいるし苗字だと分かりづらいから、わたしがなんて呼べばいいんだろうって、戸惑っているとみんなそう呼ぶからちゃん付けでいいよって、やわらかく明るい笑顔で言ってくれた、徹ちゃんが。遊んだりすることはなかったけど、会えば必ず笑顔で接してくれた彼が、亡くなった。九月十七日のことだった。
そして村迫米殻店でも博巳くんが十九日に、正雄くんが二十一日に。この二人とはわたしは殆ど話したことはなかったけど、正雄くんはふたつ上の十七歳で、博巳くんはまだ小学三年生だった。他にも、いろんな人が。老若男女問わず、わたしと年の近い人だって例外なく、亡くなってゆく。きっとわたしが知らないだけで、もっと大勢の人が。
家族のみんなも敏感になっているのか、毎日のようにどこの誰が亡くなったという話が飛び交っていた。疫病や伝染病という単語も混じりはじめ。そして、不安ばかりが賽の河原の積み石みたいに、こつこつと静かに募るのが分かっていた。その視線が、まずわたしに向けられていることも。病だとすれば、病弱なわたしが真っ先にかかる可能性が高いことは自分でも分かっていた。若い人も例外じゃなさそうだから、自覚していた。
伝染病、確かにどんどん村人にうつって、蔓延しているような。そう、まるで、伝染している―――死、そのものが。
情報を集めようと家族の会話に気をつけているとある時、貧血、という単語にハッとした。話によると、大抵最初は貧血のような症状がでて、そこからだんだん悪化して四日後くらいには亡くなってしまうらしく。一瞬思い出せなかったけど、直ぐに霧は晴れた。
前回の診察の時に、尾崎先生が言ってたことだと。風邪はひどくなることはなかったから、あれから尾崎先生には会っていないけど、先生はもしかしてこのことを言っていたのかもしれない。次の検診の日は来月の中頃だけど、その前に先生に訊きに行ってみようと思った。



だけど、数日後にいつもみたいに学校帰りに寄った尾崎医院は、はじめて見るくらい待合室は人で混雑していた。びっくりして、近くにいた律子さんに訊ねると「ちょっとね、ここのところ患者さん多くて……季節の変わり目だからかしら」そう苦笑していたけど、そこには隠し切れない陰りのようなものがあった。

「名前ちゃんは、大丈夫?検診の日じゃないけど、どこか具合が悪くなったの?」
「あ、いえ、わたしは全然大丈夫です……その、」

言葉をつづけようとした時、診察室の方から人が出てくるのが見えた。尾崎先生だ。それだけで嬉しくなったわたしは、だけど直ぐにその気持ちは地面に叩き落された。尾崎先生は、ひどく疲れた顔をしていた。いや、それだけじゃなくて、なんだろう、苛々しているような、そんな。

「あ……あの、ほんと、ただ、ちょっと寄ってみただけなんで、」

失礼します、そう言い残して立ち去ろうとするわたしに律子さんは声をかけようとしたけど、ちょうど他の看護婦さんに呼ばれてそちらに気が向いている間に、わたしは尾崎医院から出た。先生に、見つからなかっただろうか。足早になりながら、思った。
律子さんも忙しそうだったから、きっと尾崎先生はもっと忙しいんだ。だから、あんな疲労しきった顔。律子さんは濁したけど、たぶん、村の人たちもみんなわたしの家みたいに、不安に思っているんだろう。いままで、こんなに大勢の患者さんが殺到したところは見たことがなかったから、そう考えるのは簡単だった。
先生は。尾崎先生はきっとわたしに気付いたら、心配してくれる。なにかあったのかって。きっと、もしかして貧血かって。お医者さんとして。だけど、わたしは心配をかけたくなかった。患者としてというよりも、わたしというひとりの人間として。それに、ほんとに今日はなにか話が聞けないか立ち寄っただけで、具合が悪いわけじゃなかったから、そんなことで先生に心配をかけることも、時間をとらせることもしたくなかった。あんな先生ははじめてだったから、少しでも休んでほしかった。



十月に入っても、人死にが途絶えることはなく。引越しや、あと伯母が働いている会社でやたら辞職する人が増えているとぼやいていたのも、なにか関わりがあるように思えてならなかった。重なり過ぎているそれらの共通することは、人がいなくなることだったからそう思ったけど、なんの関連があるのかまでは定かではなかった。
気が重い。訃報にすら、感覚が麻痺してしまったような気がして嫌だった。夜はだいぶ暑さがやわらいで、秋を感じさせる風が窓から入り込むようになっていたけど、日中はまだまだ陽射しが強いのでわたしはその日も、日傘を手に図書館へ向かっていた。
休日の朝。商店街にも、なんだか活気がなくなっているように思えた。どうしようもなく、言いようのない、まるで樅の林の死者が眠る湿った土塊みたいな暗鬱とした不安が、村全体を覆っているかのような。例外なくある日訪れる死の前兆に、みんな怯えている。誰も明確には表さないけど、恐れ慄いていることを、みんな知っている。そんな空気が、村には蔓延していた。
例外なく。その言葉に、考えたくないことまで考えてしまう。尾崎先生。ずっと、先生はわたしなんかより、この夏からの死に接している。病院の看護婦さんとか、働いている人たちからはまだそういう人はでてきていないけど。もしこれが伝染病だとしたら、幾ら徹底した衛生管理をしていてもかかる可能性は決して零じゃない。
もし、と思う。もし、先生が、かかってしまったら。そんなことは考えたくないのに、わたしの頭はやめてはくれない。心配だった。ただでさえ、先生の、あの最後に見た疲れた容貌が忘れられないせいで、余計だった。だけど、と満潮の水のように溢れる思考はいつもここで堰き止められる。
わたしには、なにもできない。先生のためにしてあげられることが、なにもない。図書館で医学の本を手にとってみても、分からないことだらけのわたしにはなにが正しいのかを知る術すらないし、そんなことはきっとお医者さんである尾崎先生や病院の人たちが十二分に調べていることだろう。ただの無知で無力な子どもであることが、こんなにも悔しくてたまらない。先生のためになにもできない自分が情けなさすぎて、嫌になる。将来はわたしも医療に携わりたかったから、自分で勉強はちゃんとしてきたつもりだった。だけど、それだって、いまこの時にはなんの役にも立たない。その現実が、あまりにも重く圧し掛かってくる。本棚にぎっしりと並ぶ背表紙を見ながら、そんなことを考えていたせいか、

「あ、」

ふ、と突然視界が下がっていた。唐突に意識が遠のいて、揺れる目線からの映像をぼんやりと見ているしかできない。白く、霧がかってゆくような感覚。倒れる。そう思ったのに、それだけ。思っただけ。身体の感覚はない。意識だけが宙に浮いてるような、あやふやさ。でも、それすらも乳白色に霞んで。次に、なにかがうつった時には、まだ数秒と経ってないみたいで。無意識に壁へ手をついていたらしく、倒れてはいなかったけど片膝は地についている。
眩暈、だ。昔から何度も経験しているから、特になにも驚くことはなかった。ただ、ひさしぶりだなと思った。幼い時はしょっちゅうだったけど、ここのところはだいぶなくなってきていたのに。はあ、とひとつこぼれた溜息に眉根が寄るのが分かった。帰ろう。立ち上がって、目星をつけていた数冊を引き抜く。大丈夫。きっと、なにか、なにかあるはずだから。知らないことなら、知ればいい。もっと、もっといろんなことを、わたしは知らなくちゃいけない。自分から話しかけるのには勇気がいるけど、村の人に訊いてみよう。そこに、もしかしたら、ほんの些細なことでも、尾崎先生のためになることがあるかもしれない。その可能性だって、決して零じゃないんだから。
今度は溜息じゃなくて、知らず強張っていた肩の力を抜くように、静かに深呼吸をした。


図書館を出ると、さっきよりも高いところで陽が白々と輝いている。眩しさに目を細めてから、日傘を広げた。
誰に、どんなことを訊けばいいのか、そのことを考えながら歩いていると、車の音が聞こえて途切れる。たぶん、聞き慣れない音だったからだろう。柄を傾けて、音のする方を見て、後悔した。見なければ、よかった。晴れすぎたせいでかえってぼやけて見える、村ののどかな風景の向こうで、坂を上ってゆく見慣れない車。一目で外車だと分かるその車の持ち主を、わたしは知っていたから。

「……恭子、さん…」

かすれた声で、知らず紡いでいた。恭子さん。どうしてもあまり、耳にしたくも呼びたくもない名前に、口の中に苦いものが広がる。坂の先にあるのは、尾崎医院。当然だ。だって、恭子さんは、尾崎先生の、奥さんだ。
でも、奥さんといっても、あの人は村での生活を嫌っているらしく。他の町の市街地でアンティークショップを経営してて、そこにあるマンションに住んでいるから殆ど村にいることはなかった。だからか、先生と恭子さんの間に子どもはいなかった。
ふたりの間になにがあるのか、きっと大人の事情とか、そういうのは、わたしには知りえないことだったけど。それでもふたりは結婚していて、妻と夫という間柄で、だからそこには知り合って付き合って結婚するまでの、ふたりの、ふたりだけの時間があることくらいは、分かっていた。だけど、ここ数ヶ月戻ってきたなんて噂すら聞いてなかったのに、そんな人がどうして突然。
そこまでで、わたしは自分の思考を一笑してしまった。
そんなの、きっと大変な先生を気遣って戻ってきたに決まってる。だって、先生を一番に心配するのは、奥さんである恭子さんだ。あの人だけが持つ特権だ。堂々と、誰に憚ることなく心配して癒すことのできる、わたしにはどうあがいてもできないことを、先生のためにしてあげられる。その場所にいるのは恭子さんだ。わたしじゃない。尾崎先生のためになにもできないわたしなんかとは違う。
分かっているつもりでも、平素どれだけ忘却の彼方へ押しやって見ないフリをしていても、こうやって恭子さんの存在はわたしをどん底まで突き落とし、抉った。まるで浮かれるなという戒めのように突き刺さる事実に、わたしはいつまで経っても馬鹿みたいに無防備なこころがずたずたになるのを受け入れることしかできなかった。
知ってる。知ってる。先生の隣にいれるのが、わたしじゃないことくらい知ってる。だけど、知ってるけど、どうしようもない時は、どうすればいいんだろう。こんなわたしにだって、できることがあるって、先生のために、なにか。そう、思って、信じていたいのに。それすら、信じられなくなる。強く、想ってるはずなのに、こんな簡単に。くやしい。くるしい。
いつのまにか片手で胸のあたりをぎゅっと掴んでいた。服が皺になっちゃうなと、思ったけど、血の気が失せて蒼白く強張った手は、離れない。どくどくと早鐘を打つ心臓に、浅く短くなってる呼吸をどこか他人事のように捉えながら、わたしは結局誰に話しかけることもできずに真っ直ぐ家に帰って、そのまま布団に倒れこんだ。
くるしい、きもちわるい、考えたく、ない。いまは、もう、なにも、考えたくなかった。



そのまま眠ってしまったらしく、赤い暗闇の中睛を覚ました。
うっすらと目蓋を開ければ、窓から入り込んだ西日によって視界は緋橙に染まっている。時計を見るために身じろぎをしようとして、身体が重いことに気付いた。まだぼんやりとする頭も、どこか鈍い。それでも自分が体調を崩したのは分かった。季節の変わり目はと、尾崎先生たちも言っていたとおりにわたしはこういう夏とも秋ともつかない頃合に身体を弱らせることが昔からあったから、今年もそれなのだろう。寝過ぎたせいだけじゃないだるさは、きっと微熱があるのだろう。だけど、不調の原因は身体的なものというよりも心的な要素のような気がした。
そこでようやく、帰ってきたのは正午前だったのに、お昼をいらないと言ってからこんな時間まで誰も起こしにこなかったことを思う。鉛を孕んだような手足をどうにか動かして起き上がると、もう十九時前だった。
そのまま一階の居間に向かう間に、なんだか家の中がしんとしていることに気付いた。階段を下った先には、やはり人気はなく。居間にある机の上に紙が置いてあるのを見つける。達筆な文字は祖母のものだ。母とふたり通夜に行ってくると書かれていた。
台所に晩御飯は用意されていたけど、ちょっと食べられそうになかったのでお粥をつくることにした。溶いた玉子に、枸杞や松の実を加えて少しだけ塩を振る。昔から母がパートとかでいない時もあったので、自分のことはなるだけ自分でできるようにと対処法は心得ている。伯母はこのところ残業つづきで、きっと今日も帰宅は遅いのだろう。薬を飲んで、お風呂にはいるのは今日はやめにして、眠ることにした。これ以上悪化させたらいけない。
いまは、ちょっとだけ、病院に、行きたくない。


結局そのあと三日間学校を休んでしまった。本格的に寝込むほど悪化はしなかったものの、微熱と立ち眩みがつづいたため大事を取ってのことだった。
病院に、という心配げな母の言葉にも大丈夫だとかぶりを振ったらあっさりと承諾されて、内心驚いた。駄目だと、病院に行かなきゃと言われるとばかり思っていたから。だけど、思案顔の中にわたしへの心配以外のもの、不安が入り混じっているのを見て。きっと、伝染病のことを考えているのだろうと気付いた。下手に病院に行ってもらってきてはいけないと、そちらに天秤が傾いたのだろう。予想外のことだったけど、ありがたかった。
尾崎先生には、会いたい。会いたいけど、いまあそこには恭子さんもいる。ただでさえ、病が先か心的なものが先か、どちらにしろいまのわたしの精神状態はよくない。こんな時に、先生に会ってもなにを言えばいいのか分からないし。ちゃんと、いつもみたいに、笑える気がしなかった。
だって、わたしは、もうずっと、尾崎先生に、好きだって、伝えたい。
分かってるフリして、言ったら迷惑だって、駄目だって言い訳ばかりで。ほんとは、尾崎先生ただひとりに伝える勇気がない臆病者なだけ。先生を好きでいることは、つらくて悲しくてくるしくて、せつないことばかりで。何回もやめようって思ったけど、知ってるから。それだけじゃないって。うれしくて楽しくて、喜んだりしあわせなことだって、いっぱいあるから。先生を好きになってはじめて知った、大切な気持ちがいっぱいあるから。だから、ちゃんと伝えたかった。
奥さんがいることだって、きっと、ほんとは関係しないんだ。そう思うのは傲慢なことかもしれないけど。そうやって、奥さんがいるから絶対に諦めなきゃいけないって、自分が傷付かないように、恋に恋することができるように、そうやって甘やかしてるだけなんじゃないかって。
それでも、そこまで考えて、でも、言えないなって、思った。わたしのこの想いは夫婦であるふたりからしてみれば、とても身勝手なものでしかない。そこにあるものを壊すようなことは、やっぱりできなかった。そんなことをするくらいなら、臆病者で、いい。だって、だって、これは、わたしが―――尾崎先生を好きにならなければよかっただけの、はなしだからだ。


四日目に、ようやく平熱に戻ったけどもう一日様子をみましょうと、今回は母に押し切られて今日もわたしは休みだった。
頭もさえてきたし、ちょっとズル休みっぽくて、嫌だったけどしかたない。確かに、無理をするつもりはないけどこれでぶり返したら、この三日間安静にしていた意味がなくなるから。本を読むのと自習ばかりで、さすがにちょっと外に出たい気持ちがあったもののぐっと抑えて。普通に、母たちとおなじものが食べられるようになった午后。なんだか外が騒がしい気がしていると、気付いた母が外に出て行った。
少し経って戻ってきた母のおもてには、苦笑が貼り付けられていて、どうしたのと問うと「大丈夫よ、水口の郁美さんがまた変なこと言いまわってただけだから」そう返ってきたのでわたしは余計に首を傾げた。

「変なことって?」
「名前も知ってるでしょう?起き上がりっていう村の言い伝え。ほら、夏から亡くなる人が多いのは、全部兼正が起き上がりだからだって言うの」

兼正が人を襲ってるとまで言ってるのよ?まったく…前々からうさんくさいことばかり言う人だったけど、この暑さでいよいよ頭がやられたのかしら…。そう呆れた風な母の言葉を、どこか遠く聞いていた。

「起き、上がり…?」

母との会話もそこそこに、二階の自室に戻って、ついここ数日の習慣でベッドに寝転がる。起き上がり。外場村に蔓延する死の原因が、起き上がり?それも、兼正、辰巳さんのいる桐敷さん家が?
普段なら、きっと母とおなじように笑って聞き流すような事柄だろうに、それができないでいる。だって、死者が起き上がるなんてゾンビや吸血鬼くらいだって、わたし、考えたことが。確かその時に、この村に伝わる起き上がりは、どういう存在なんだろうって、考えたことが、ある。そこで、なにかが引っかかる。なんだろう。なにかが、分からないけど、確かにそこにあるのに。記憶に引き摺られて出てこないってことは、なにか、違う。それでも、関連のある。ゾンビは、人を襲って食らう。そうやって襲われた人もまた生ける屍と化す。吸血鬼も人を襲うけど、目的は血だ。……血?その単語にハッとした。やっと、気付いた。貧血、という言葉がまるでキーワードのようにはっきりと出てくる。
まさか、起き上がりは、吸血鬼に近いものなんだろうか。墓から起き上がって、人の血を吸う死者。だけど、とそこで違和感を思う。仮に吸血鬼だとしても、兼正と言っていたけど、辰巳さんは、全然そんな風じゃなかった。陽の下で、健康的な肌の色と肉体を持っていた。
吸血鬼といえば、日光に弱いというのが定石だ。十字架や、銀に杭。おはなしによって弱点は様々だったけど、日光は大概共通していた。でも、でも、そんな、そんなのは、空想上の話だ。フィクションの小説だ。ホラーだったりサスペンスだったりする、絵空事だ。ありえない。
それとも、とも思う。そういう空想とは異なって日光は別に平気なのだろうか。でも、昼中に桐敷の家の人を見たという話は聞かない。ちらほらある、奥さんや旦那さんを見かけたという話は、すべて夜のことだ。辰巳さんが、違う、吸血鬼じゃないだけなのだろうか。分からない。
ひどく現実味の薄いことを考えている自覚はあるし、ただ貧血という症状が吸血鬼を彷彿とさせるだけであって、不安を抱きすぎているせいでその発想にもう縋るしかできないだけの、ことなのかもしれない。だけど、どうしてもわたしには考えるのをやめることができなかった。

本棚から、怪異やそういう空想上の化物のことが書いてある本を抜き出してベッドの上に広げる。仮に、吸血鬼だとすれば、そういう意思で指がページを捲ってゆく。
吸血鬼。諸説あるものの、大まかには一度亡くなった死者が、不死者として蘇った存在。人間の生き血を啜り、吸われた人間も吸血鬼になることが多い。鏡にうつらなかったり、はじめて訪問する家には招かれないと入ることができなかったり、川みたいな流れる水を越えることができなかったり特徴も様々だ。
弱点だって十字架といった信仰のしるしや、銀製のもの、ニンニクや香草、色々あるけれどやっぱり一番は太陽の光を浴びると灰になってしまうことなのだろう。生前とおなじように、明るい陽の下で生きることを許されない生き物。
そして、殺す方法で最も有名なのは、心臓に杭を打つこと。
でも、もし吸血鬼に血を吸われたせいで、死に向かう最初の症状が貧血になることだとしても、みんなそこから三日四日ほどは生きている。一回で死ぬわけじゃない。一度で死に追いやるほどの量を、吸血できないからなのだろうか。だとしたら、吸血鬼に血を吸われたとしたら、どうして誰もなにも言わないんだろう?だって、そう仮定すると一回目に襲われてからも、生きてることになるのだから。その疑問も、本の中に直ぐ答えが見つかった。
吸血鬼は血を吸った相手に、一時的な暗示をかけることもできる。それなら、血を吸われたことを忘れろとか、誰にも言ってはいけないと言い含められてしまえば。

「…………っ、」

ああ、どうしよう。ありえないって、分かってるのに。吸血鬼という空想の存在を認めるだけで、こんなにも疑問に答えがあてはまってゆく。ずっと白紙だった解答用紙が、どんどん埋まってゆくような、そんな。だけど、だけどだけどだけど、その思いも、尽きない。
だけど、ほんとに、そんなことが、ありえるのだろうか?
お化けや幽霊だって見たことないのに、こんな到底現実味のないはなしを、信じられるわけがないと。そう思うのに、その可能性を捨てきれないのも、現実であり事実だった。


ずっとそんなことが頭の中をぐるぐるしていたおかげで、勉強にもあまり手がつかないまま夕食の時間を迎えていた。
伯母は今日も遅いのだろう、母と祖母とわたしの三人で食べるのももういつもの光景だった。ほうれん草のおひたしに箸を伸ばしながら、何気ない風に「そういえば、お母さん。お昼の、水口の郁美さん、あのあとどうしたのかな…?」そう切り出せば、母はああと、やっぱり呆れたような顔になった。

「あれねぇ……さっき買い物の時に聞いたんだけど、すごかったらしいわよ」
「なんだい、郁美さんがどうかしたのかい?」
「あれ、母さん知らないの?今日の珍騒動」
「あたしゃこのところの騒ぎで流石に疲れたからね、今日は休ませてもらってたんだよ」

そう言う祖母は、確かに朝のウォーキングが日課だったりする快活な人にしては珍しく疲労の色が見える。この家では祖母が一番この夏からつづく通夜や葬儀に駆け回っていた。そんな祖母に、母が昼間に郁美さんが兼正が起き上がりだと叫んでまわっていたことを伝えると、祖母はやれやれと言わんばかりに眉を顰めてお茶を飲むだけだった。

「それがねぇ、郁美さんったら村の人引き連れて兼正に乗り込んだんですって。正面から、お前らが起き上がりだってのは分かってるとか言って」

ほんと非常識って言うか、頭おかしいばあさんよね。億劫そうにつづけた母に、おもわずわたしもびっくりしてしまう。

「そ、それで…どうなったの?」
「兼正の旦那さんが出てきて、追い返されたそうよ。しかも、起き上がりだって喚きたてる郁美さんに尾崎の若先生まで引っ張り出されて」

尾崎の若先生。その言葉に心臓がぎゅっとする。

「でも、おかげで若先生が診断させられて兼正の旦那さんは見事、ちゃんと生きてる人間だって証明されたわけ。奥さんと娘さんだって、病気で外には出られないだけでちゃんと窓のとこにいたって言うし。ほんっと、兼正も若先生も災難だったわよねぇ。そりゃ不安なのは分かるけど、いくらなんでも起き上がりなんて、ねぇ?」

そう母は言ったけど、祖母は静かにお茶を飲んでいるだけだったので、わたしは「う、うん…そうだね」と返すしかできなかった。そのあとも、起き上がりなんて懐かしいわねぇという母の言葉から祖母とふたり思い出話に花が咲きはじめたので、わたしはごちそうさまをしてお風呂に向かった。


お湯を張ったタイルばりの浴槽の中に、ゆっくりと身をひたす。秋の気配が強まるごとに身体の熱が奪われてゆくような気がして、お湯がひどく熱く感じられた。だけど、ゆるやかに一度四肢の力を抜いてしまえば、あとは心地よさだけだった。ほっと息を吐いて、目蓋を閉じて、水滴が落ちる音だけを聞く。そんなぼんやりとした状態で、最初に思ったのは、やっぱり、だった。
やっぱり、起き上がりなんてそんなこと、ないよね。そう、思うのに、ほっとしているはずなのに、なんだろう、この僅かな息苦しさは。まるで、胸に小さな棘が刺さってるみたいな、そんな。でも、尾崎先生がちゃんと診断したって、言っていたし。尾崎先生。意識する途端に脳裏で白衣がひらめく。そこで、気付いてしまった。わたしは、尾崎先生に起き上がりのことを、吸血鬼のことを、聞いてもらいたかったんだって。だけど、先生が診断して、起き上がりが否定されたことによって、言えなくなってしまった。
お医者さんはやっぱり科学と技術だから、そんな迷信を信じてはいないんだろう。わたしはさっきの晩御飯の時に、少しだけ母に言おうかと迷ってた。だけど、言えなかった。子どもの戯言だって、郁美さんの言葉を真に受けたのかって、笑って流されるのが目に見えていたから。それと、おなじように、きっと尾崎先生も。
じんわりと、眦がにじむのが分かった。


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