薄い窓ガラスの向こうから蝉のなく聲が聞こえる。ガタガタと、風の強い日には木枠が音を立てるここの窓が好きだった。いや、窓だけじゃなくてこの建物が好きなのだろうなと思いながら、開いていたブラウスの前を閉じてゆく。ずっといると慣れてしまうけど、意識をすれば吸息の度に特有の消毒液のにおいがして、この病院然としていない建物がやっぱり病院なのだとわたしに知らしめるようだった。それは、いまわたしの前に坐る人も、おなじ。

「異常なし、っと。大丈夫、風邪でもないし特に変わった様子もない」
「やっぱり……ちょっと堰がつづいただけなのに、母は大袈裟なんです」

わたしがちょうどボタンを留め終えた頃、デスクに向かってなにかを書いていた尾崎先生がこちらを向く。笑みとともに紡がれた言葉に、肩をすくめながら返せば先生はちょっとだけその笑いの種類を変えた。しかたないさと、そう言ってるみたいに。それにわたしは分かってます、と心の中で呟く。

「とはいえ、何もなくて俺としても安心したよ。折角の夏休みなんだ、夏風邪なんて無粋なものに邪魔をされたくもないだろう」
「そうですね……でも、夏休みと言っても、特に出掛ける予定もないですし、大して普段と変わりませんが…」

それでも、確かに風邪でもなんでもないと言われて、ほっと安堵したのは事実だ。下手に風邪をひいてこじらせれば、床にふせる日々がつづいて最悪入院生活しか待っていないから。そこで、そういえば、と思い出す。一昨年の夏には風邪をこじらせ寝ついたせいで、先生に何回も往診してもらったのだった。あれは、申し訳なかった。わたしは先生の手間も省くためにも、できるだけ安静にしてないといけない。

「まあ、こんな田舎の村じゃあな」
「帰省しようにも、ここがそうですし。でも、最近晴の日がつづいているおかげで、星が綺麗に見えるんですよ」
「星か、きみは相変わらず好きだな……って、もしかして今回の堰は星を見るのに夜更かししていたからだな?」
「あ……バレちゃいました?」
「まったく……悪いとは言わんが、夏だからと言って油断せずに、少しでも肌寒いと思ったら暖かくしておくんだぞ」
「分かってますって、尾崎先生」

わたしの身体の弱いことを、もう熟知している先生は、だけどすべてを駄目だと決め付けないから嬉しかった。昔から、少しでも身体に悪いことはさせてもらえないことの方が多かったから。今時期の体育やプールの授業だって、駄目だと言われていつも見学で、それはもう物心ついた時からずっとだったから今更なにを思うでもないけど、やっぱり、ちょっと、つまらなかった。

「じゃあ、名前ちゃんお大事に。星を見るのも、ほどほどにな」
「先生も、煙草はほどほどに」

医者の不養生って言葉、もう習ってるんですよ。微笑んで返したら、先生は困ったように頬をかきながら苦笑した。でも、もう今日はわたしが最後の患者だから、先生はきっとわたしが出て行ったあと煙草を吸うんだろうなと思った。その時に、先生の頭の中にわたしとの会話が残っていればいいなと、思った。


病院からの帰路。夕方の五時頃なんて、夏も盛りの八月ではまだ全然明るくて、昼中かと勘違いしてしまうくらいだった。だけど、やっぱり夕闇に向かってゆく陽の傾きだと分かる気配が空気に満ちている。田畑や樅の葉を揺らす風とか、夕日の色がまざってゆく燥いた地面や影とか、そういうもののひとつひとつに。日傘を差しても、そろそろ石突が陽光を反射し煌くのでおとなしく閉じれば、途端に西日の眩しさで睛を細めることになった。毎年思うことだったけど、ここは、ひどく四季が濃い。ひととせの、それぞれの季節が手でさわれるくらいに身近なものであるような気がした。
ここに、この外場村に越してきてから四年目の夏だった。
引越しの理由は、父の突然の事故死だった。母は、女手ひとつでわたしを育てるのは大変だからと、実家のあるこの外場村に戻ってきたのだ。都会に長く住んでいたとはいえ、母ももとはこの村で生まれ育ったからか、特に嫌ではないようだった。
それに、幼い時分から身体の弱かったわたしに都会の空気はよくないと昔から父とふたり相談していたので、父のことがなくてもここに越してきていたかもしれない。まだ十一歳だったわたしには父を亡くした悲しみに暮れながらも、気丈に一人娘であるわたしを育てようとする母に嫌だと言う選択肢はなかった。仲のいい友達や慣れ親しんだ土地と離れることは淋しかったけれど、母がずっとわたしの身体の弱さを、こんな風に産んでしまった自分のせいだと思っていることを知っていたからだ。
それに、わたしにはひとつだけいいことがあった。
何度か母の実家には行ったことがあって、その時になんてここは夜天が、星が綺麗なんだろうと、そのうつくしさに驚いて、素敵だと思っていたから。あの綺麗なものがいつだって見られるのだから、悪いことばかりじゃないと、そう納得させたのをいまでも覚えてる。都会と違って、不便なこともいっぱいあるけど、都会にだって不便なこともあるし、わたしはこの外場村が嫌いじゃなかった。
そして、きてよかったと思えるようになったのはここに越して一年経った頃、先生と、尾崎先生と出会えたからだった。

越してきた当初は、先代の、尾崎先生のお父さんがずっとこの村のお医者さんをしていて、わたしは苦手だった。なんだか威圧感がひどくて、怖いなという第一印象とおりの人だったから尾崎医院へ定期的に検診に行くのが億劫でしかたなかった。
だけど、その先代の先生が亡くなって跡を継ぎに戻ってきた息子さん、尾崎先生とはじめて会った時にわたしはただ若い先生だな、と思った。ちょっと目つきも悪いし、無精髭が生えているし、ふっと彼から香るとおりに煙草を吸ってるのを見かけるし、服装も白衣は纏っているけどTシャツにジーパンとか、なんだかだらしないし、と。なんというか、いままでわたしの接してきたお医者さん像にはどれも当てはまらなさ過ぎて、たぶん単純にそう思ったのだろう。だけど、先生は怖くなかった。
過保護な両親の囲いの中で育てられたわたしは、同年代の子には人見知りをする性質だったけど、お医者さんといった病院関係の大人に対する当たり障りのないいい子どもを装うのには慣れていた。苦しさも、痛みも、ままならない身体との折り合いだって、もうしかたのないことだと、わたしがたまたまそういう風なだけだと、諦めていた。注射だって、もう慣れっこだったわたしは最初、先生の骨ばった手を見ながら痛みに顔を歪めることもなかった。
事務的に行われるそれは、いつもなら淡々としていたのに、貼られた注射絆を押さえるわたしに尾崎先生は「痛いの我慢できるなんて、名前ちゃんはえらいな」そう言って。ぽんっと頭に置かれた手に、なぜだかくるしいものが胸に広がった。えらいな、なんて、そんなこと。慣れてますから、とか、当たり前です、とか、反発するように瞬時に出てきたそれらとは正反対に、わたしはなにも言えなかった。たぶん、尾崎先生の言い方が、手が、あまりにもやさしくてあたたかかったからだ。
それからわたしは尾崎医院に行くことが億劫じゃなくなった。病院っぽくない建物に、お医者さんらしくない尾崎先生のことを好ましく思うようになっていた。ちょっとの間でも先生と話せることが嬉しくて楽しかった。その気持ちがなんなのか、その時のわたしにはまだ理解できなかったけれど、それも僅かな間のことだった。
ある時見かけた、村の雰囲気に似つかわしくない車。それが尾崎医院の前に停まっていて、その車の持ち主である女の人が、先生の奥さんなんだって待合室で律子さんに教えてもらった瞬間、サアッとわたしの中でなにかが冷めていくのが分かった。それが馬鹿みたいに浮かれていた、淡く曖昧で、それでも確かに形を成そうとしていたものだと―――初恋だと、理解した瞬間にわたしは失恋した。

だけど、それも当然だ。わたしと尾崎先生はひとまわり以上も年の差がある。中学生の餓鬼なんて、先生にとってはただの子どもで、そうでなくてもわたしはただの患者のひとりでしかない。事実、子どもでしかなかったわたしには、深く底の見えないぽっかりとした大きな溝が、自分と先生の間にある現実をどうにかする術なんて思いつかなくて、ひどく打ちのめされた。
だって、分かっていた。わたしのこの気持ちは、尾崎先生にとっては困るもの、迷惑以外のなにものでもないって。くるしくて悲しくて、もうとっくになくなったと思っていた、どうして自分ばかりという嘆きに引き摺られて涙が出た。溢れるままにしていたけど、泣くのなんていつ以来だろうと水分が出ていき過ぎてぼんやりする脳裏で思った頃。この涙は自分がかわいそうな涙なんだと思って、やめた。勝手に好きになって勝手に失恋して勝手に自分を哀れむなんて、なんてそれは不毛なことなんだろう。まるで恋に恋する乙女だ。ほんとに、馬鹿みたいだ。だから、しかたのないことだといつもみたいに諦めようとした。いままでずっとそうやってきた。
なのに、どうしてだかわたしの中に芽生えてしまったそれは消えてくれなかった。尾崎先生と会うと嬉しくて、話せることが、ちょっとした先生の一言なんかにしあわせな気持ちになってしまった。そんなことははじめてで、どうしていいか分からなくて、消せないそれを誰にも気付かれないようにそっと奥底にしまっておくことしかわたしにはできなかった。きっと、伝えることなんて一生ないから。そのうち消えてしまうそれまでは、ちょっと大切にしておきたかったからかもしれない。
だけど、それは消えないまま、わたしは高校生になって、十五歳の夏休みをむかえていた。




夏休みといっても、やっぱり特に普段と変わらない日々を過ごしていた。
もともと学校以外で外出することは稀だったので、図書館に通っては本ばかりを読んでいる日常。昔からふせていることの多かったわたしは、自然と暇を潰す相手に本を選んでいた。おかげでいまの自室も大きな書棚に溢れるほどの本がある。それに、この外場村には小説家の人がいた。お寺の若御院である室井さんの本がわたしは好きで、最初の一冊目を図書館で借りたあとすべて買い揃えてしまった。前に一度お会いした時に、その旨を伝えたら室井さんは驚いていたけれど「ぼくが知っている限りでは、きみが最年少の読者さんかな」と、ちょっとはにかみながら微笑んでくれたので、よかった。
あとは、夜に少しだけ散歩をすることくらいがわたしの楽しみだった。特に真夏の日中の陽射しはきつく、それだけで眩暈がしそうなほどだったから、わたしは夜が好きだった。毎日異なる月の満ち欠けや、蒼や紫の混ざる夜天に、幾千もの輝く星々。それらを見上げながら家の傍を歩けば、静かな暗闇に葉の揺れる音や川のせせらぎ、ちいさな虫の聲が心地よく響いた。
ちょっとだけだからと、これだけはなんとか母の心配を押し切ってよかったと思う。もう高校生なのだ。少しずつだけど、身体も昔よりは丈夫になってきている。だけど、母の中ではずっと些細なことで高熱を出していた幼い頃のままなのだろうなとも思った。


わたしが尾崎医院に行くのは、いつも早朝か夕刻だった。
真昼に出歩くことはまずなかったけど、その日は学校の登校日のあとそろそろ常備薬がきれそうだったから寄ることにした。いつも貰ってる薬だから、もう受付だけで尾崎先生と会うことはないのが残念だったけど、先生はこの村で唯一のお医者さんなので忙しいところを邪魔したらいけない。待合室で本を読んでいると「ねえ、聞いた?兼正が夜中に引越してきた話」ちらほらいる村の人たちの話し声がふっと耳にはいってきた。
兼正。確か、村の西山にある大きな家のことだ。わたしが越してきた頃はまだ大きな古屋敷だったけど、数ヶ月前そこに住んでいた兼正の人たちが引越したあと、まるで西洋のお城のような洋館に建て変わった。そこを、村の人たちはいまでも兼正と呼んでいる。そっか、あそこようやく人が越してきたんだ。わたしと母が越してきた時は、まだ母が実家に戻ってきたということだったので特別大きな噂にはならなかった。
だけど、一年前に結城くんという、わたしと同い年の男の子がいるお家が引越してきた時はしばらくの間、村中がその話題でもちきりだったから、きっと今回もそうなんだろうな。あんな洋館だから、余計なんだろうな。そこまでを思って、わたしは再度本に意識を戻した。


「はい、お薬。いつもの出しておいたから」
「ありがとう、律子さん」

律子さんの笑顔は癒されるなと思いながら薬の入った紙袋を受け取って、鞄にしまう。もう他に患者さんはいなくなっていたので、きっとこれで午前の診察は終わりなのだろう。これからお昼休憩だという開放感があった。

「名前ちゃん、大丈夫?これから帰るのは、ちょっと陽射しがきついんじゃないかしら…」
「大丈夫ですよ、少しくらい。もうちょっと運動して、体力つけないといけませんし」
「無理しないでね。でも、名前ちゃん昔より顔色もよくなってるから、安心してるけど」
「ほんとですか?」
「うん、本当よ。それに、すごく女の子らしくなった。この表現は嫌がられそうだけど、ちゃんとお肉もついてきたし」

にこにこ明るい律子さんの言葉に、嬉しくなる。生白くて骨と皮だけみたいな自分の身体が好きじゃなくて、たぶん他の子なら律子さんの言うとおり嫌がるだろうけど、わたしは健康的な身体に憧れていたから素直に喜んだ。確かに、ここ数年で胸だって大きくなったし昔よりは丸みをおびているような気がする。食べる量も増やしたいけど、夏はどうしてもこの暑さに食欲が減退するので秋からかな。今年の秋は食欲の秋にしよう、とこっそり決心していると、律子さんの顔が急に輝く。

「あ、もしかして!高校で好きな人でもできた?」
「え?……あ、いや……そういうわけじゃ、」

ぱちっと両手を合わせて言う律子さんに一瞬ドキッとするけど、高校ではないから否定する。なんとなくやましい気持ちになったけど、嘘は吐いていないとそっと落ち着かせようとしていると、

「そっかあ…でも、そうよね。名前ちゃんは先生一筋だもんね」

律子さんが、えへへと困ったように笑いながら言ったので、わたしは思わず「えっ…!」と大袈裟に反応してしまった。そして、直ぐに睛を丸くした律子さんの表情に、あ、と思う。失敗した。律子さんは冗談で言ったのに。

「え……?えっと、名前ちゃん先生と話してる時楽しそうだから……って思っただけなんだけど……もしかして、ほんとに先生のこと…?」
「あっ、いえ……その、」

上手くはぐらかす言葉を考える前に、なんだろう、熱い、と思った。自然、自分の顔に手をあてる。ひどく、熱かった。

「…………」
「……名前ちゃん…」

たぶん、いま、顔が真っ赤になってるんだろうな。こんなの、なによりも雄弁過ぎる。不意打ちだったとはいえ、こんなあっさり出ちゃうなんて、馬鹿だ。誰にも、知られちゃいけなかったのに。

「…………ぁ、あのっ…律子さん、お願い……先生にも、誰にも、言わないでください」
「…………」
「ちゃんと……分かってるんです。わたしは子どもだし、先生には奥さんがいるし……こんなの、迷惑だって。伝えるつもりなんて、ないんです……だから」

お願いします。だんだんと伏せてしまっていた視線を上げたら、律子さんは辛そうな顔をしていた。

「……うん、大丈夫。絶対に誰にも言わないから。ごめんね、名前ちゃん私が変なこと言ったから…」
「あ、いえ、気にしないでくださいっ…………じゃあ、えっと、わたし帰りますね」
「う、うん……気をつけてね」

なんだかもう律子さんに気を使わせてしまったことも、ここに、尾崎医院にいることも居た堪れなくて、わたしは足早に病院を後にした。
建物から出た瞬間、無情なほどに白く痛いほど照りつける陽射しに習慣じみた動作で日傘を差す。影の中、砂塵が眩しく光る燥いた道を見ながらさっそく後悔に襲われる。知られてしまった。まさか、律子さんにあんなことを言われるなんて思ってもいなかったから、だから、動揺してしまったんだろうけど。だけどそれは、ちゃんと隠し切れなかった自分がいけないんだ。律子さん、びっくりしてたから、申し訳ないな。ほんとに、気にしないでもらえるといいんだけど。はあ、とつい溜息がこぼれる。でも、律子さんでよかった。ちゃんと、誰にも言わないでいてくれるだろうから。下手な人に知られて、万が一でも村中に広まってしまったらと思うとゾッとした。
そんなことになったら、迷惑どころの話じゃない。わたしは、ここではじめて田舎の、村という狭く閉じた空間の怖さを思った。もう、絶対に知られたらいけない。このことは、お墓まで持っていかなきゃいけない。

村には高い建物が少ないせいか、田畑のつづく開けた道路沿いよりも、木々のつくり出す影が少しでも涼しい山に面した小道を通ることが多かった。起伏していてちょっと歩きづらいけど、人と会うことも殆どない。知らず足早になっていたせいで、だんだん気分が悪くなってきたのが分かった。
家まではまだ距離があるから、ちょっと休憩しようと道をそれて大樹の木蔭に坐り込む。覆い茂る夏の濃い青葉が日差しを遮り、昼中だというのに道とは異なって薄暗く鬱蒼としている。だけど、それが心地よかった。
緑のにおいがする風も、さっきより涼しく感じられて、隆起した太く大きな幹に背を預けると、ほっとした。火照った身体に樹の冷たさが心地よい。かすかな吐き気が首をもたげていたけど、ここで静かに休んでいれば治まるものだと知っている。やっぱり夏の真昼はきついなと思うも、たぶん、さっきのことで気が張ってしまったのも一因なんだろう。ちょっとだけ乱れてる呼吸を、意識してゆっくりとしたものにしようと努めながら、わたしは睛を瞑った。


どれくらいそうしていただろう。うっすらとした睡魔に、ただ暗闇に身を委ねるのは楽なので吐き気が治まってもしばらくそのままでいたわたしの耳に、ガサリという音が聞こえた。蝉雨とそよ風が草木を揺らす音くらいの静かな空間に、それはやけに大きく響いた。
獣、だろうか。野犬がいるというのは聞いたことがあるけど、この辺りじゃなかった気がしたのに。もう少しこのままでいたかったけど、しかたない。ややぼうっとしながら目蓋を開いて、びっくりした。目の前に、男の人がいた。

「…………ぇ?」
「や!」

しゃがんでいたその人は、わたしと睛が合うと片手を軽くあげた。や!って……やあってことなの、かな。まだ意識が完全にはっきりしていなかったせいか、なんだか場違いなことを思ってしまった。

「あ、ぇっと…」

知らない人だった。村で見かけたこともない。若い男の人は、そのきょろっと丸い瞳をぱちぱち瞬かせたあと「ああっ!」と突然大きな声を発したので、びくっと肩が跳ねてしまう。一瞬で睛が覚めた気分に、今度はこちらがぱちぱち、なんだろうかとつい見てしまっていると、

「良かった!!たまたま通りかかったらこんなところで倒れていらっしゃるので、なにかあったのかと心配していたのですっ!」
「え?あ、それは…すみません。あの、ちょっと休んでただけなんで…大丈夫です」

彼の言葉になるほど、と思って急いで姿勢を正すと謝る。確かに、こんなとこで寝てる人を見かけたらびっくりするよね、と。知らない人にまで余計な心配をかけてしまった。人に見られないように、道からは死角になるところを選んだはずだったのに。

「いえいえ!大事でないのなら良かったのです!」
「ほんと、すみません……」

なんだかお互いに恐縮しながら頭をさげていると、また彼は「やっ!」と声をあげた。

「紹介が遅れました、ぼくはこのたび引越してまいりました辰巳と申します」
「あ……えっと、わたしは苗字名前って言います。あの、あそこの洋館に越してきた方ですか…?」
「や!そうです。ぼくはあそこで使用人をしているのですよ」

辰巳さんと名乗った彼は見るからに私より年上なのに、年下であるわたしに敬語を使うこととか、すごくそれが板についているなと感心していたら使用人という言葉に驚いた。小説の中にはたまに出てくるけど、実際そんな肩書きの人に出会ったのははじめてだったからだ。だけど、あんなお城みたいな家だから、使用人がいて当たり前なのかもしれないと直ぐに再思する。その間に「どうかされましたか?」辰巳さんに不思議そうに小首を傾げられたので、なんでもないですと返す。

「あの…じゃあ、わたしそろそろ行きますね。ほんとに心配をおかけしてしまって、すみません」

言いながら立ち上がると、辰巳さんもおなじように起立する。そのことによって、がっしりとした体躯が鮮明になったので、すごいなとつい見てしまう。鍛えてるんだろうな、あんなちゃんと筋肉ついて。彼の体つきはなんていうか、とても健康的にうつったせいか少し羨ましくなった。そうして筋肉のきの字もない自分の身体の貧弱さに、今更だけどげんなりする。

「大丈夫ですか、ぼくで宜しければ家まで送りますよ」

心配そうな辰巳さんに、だけど「ありがとうございます、でも、ほんと大丈夫なんで」そう頭を下げると渋々そうだったけれど、納得してくれたみたいで「や!では、本当にお気をつけて」そう見送ってくれた。そうして彼と別れて暫く歩んだあと、そっとひとつ息を吐く。好意は嬉しかったけど、わたしはそれに甘えたくなかった。
ただでさえ人に心配と迷惑をかけてしまうのは、もうどうしようもないことなんだろうけど、それらを必要最低限に止めておきたかったから。できるだけ、自分ひとりでできることは、ちゃんとできるようになりたかったから。日傘の影から出ている、夏の強い陽が透けそうな白く細い足元を見ながら、もっとちゃんとひとりで立ちたいなと、思った。


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