山入の小屋でこうして夜を迎えるのも、これで三日目だった。
十一月二日。八月のあのうだるような暑い夏のことが、もう随分と昔のことに思えるくらい外気はかすかな冬の気配がする秋のにおいで染まっていた。そういえば、もう直ぐお祭りがあるんだ。霜月神楽。この村に越してきてから、伯母は仕事があったので、毎年母や祖母と行ったことを思い出すと、鼻の奥がツンとする。コンコンとノック音がして、今日も誰かがコップを持ってきたのかと思ったら、違った。

「入るぞ」

扉の向こうから聞こえた声に、かたまる。ぐっと、牙を立てないように、唇を噛む。戸を開いて、現れたのは辰巳さんだった。無表情だったけど、さっきの口調ではもしかしてなにか怒っているのかもしれない。昨日のことから、わたしがなにをしようとしているのか、バレたのかもしれない。そう考えると、恐怖がじわじわと身体を支配してゆくようだった。

「辰巳さん……おはようございます」
「そうやってちゃんと挨拶できるくらいなら、さっさと人も襲ってほしいものだな」

言ってから「だが、」と繋ぎの言葉を吐く。

「きみもおとなしくしているようだし、ずっとこの小屋の中にいるのも暇だろうからね。プレゼントを持ってきたよ」

やさしく睛を細めて微笑む辰巳さんに、余計に嫌な予感しかしなかった。「プレ、ゼント…?」知らず言葉をなぞっていると、そうだと辰巳さんが頷いて戸の外に消えてしまう。そこから動けないまま、待っていると直ぐにまた辰巳さんの姿が見えて、戦慄した。

「……お、かあ…さん…?」

辰巳さんの腕に抱えられていたのは、母だった。見間違えようもない。意識がないのか、睛を瞑ったままぴくりとも動かない。むしろ、顔色が悪くぐったりとしている様に、思わず立ち上がって駆け寄ろうとしたら「落ち着け」そう辰巳さんに鋭く制されて、立ち止まってしまった。不安で心配でしかたなくて、じっと見ていると辰巳さんは室内に入ってきて母を布団の上に寝かす。

「心配ない。まだ誰にも襲われていないからね」

そう言って母から離れた辰巳さんとは真逆に、わたしは今度こそ母の傍らに坐り込む。心配ないと、誰にも襲われていないと言われても、母はわたしが最期に見た時よりももっと疲れきっているように思えた。なにより、どうして睛を覚まさないんだろう。狼狽するわたしの疑問なんて、手に取るように分かるのだろう。辰巳さんが「きみの母親は、きみが亡くなってからひどく気落ちしていたらしくてね」そう話しはじめる。

「最近では夜も眠れないから、睡眠薬を飲んでいたんだろう。とはいえ、量は処方されたよりも多く飲んでいるようだがね。それでも、死ぬほどの量ではない」
「…………っ、」

母の顔を覗き込めば、寝顔は安らかなものだったけど、確かにその睛の下には濃い隈ができている。

「ただ、誰にも襲われていないとは言ったが、こうも弱っていると二度ほどの吸血で死ぬだろうがね」
「どう、して……母を、」

呆然と口にしておきながら、わたしはその答えなんてもう嫌になるくらい理解していた。していたけど、訊かずにはいられなかった。

「プレゼントだと言っただろう。名前くん。きみが、襲うんだ」

俯いたままのわたしの頭上から降ってきた声は、ひどく愉しげでいてその内容はわたしを絶望の淵へと突き落とす。

「折角の親子の再会だ。二人きりでゆっくり一晩過ごすといい」

言いながら辰巳さんが戸の方に向かっていくのが、足音で分かった。わたしはもうそっちを見れなかったから、振り向いたのかは定かじゃなかったけど。

「言っておくが、先日みたいにきみが襲わなければ、きみの母親は別の屍鬼によって襲われ、どちらにしろ死ぬ。それにきみの母親は生きることがくるしくてつらくてたまらないようだからね、娘のきみの手で楽にしてあげればそのくるしみからも解放されるだろう」

その言葉が終わると同時に戸が閉まり、ガチャン。施錠の音は、いつだって無情で無慈悲だ。


「…………」

姿勢を変えず、母の寝顔をただ見つめてどれだけ時が過ぎただろう。
ここには時計がないから分からない。ほんの少しの時間にも、途方もない時間にも思えたあと、ようやくわたしの身体は時を刻みだす。ぎゅっと、無意識にてのひらに爪が食い込むくらい握ってしまっていた手から、ゆるゆると力を抜く。そうして開いた手で、そっと母の頬に触れた。
あたたかい。ちゃんと、あたたかい。耳を欹てれば静かな寝息だって聞こえるし、その胸元はゆっくりと上下している。脈だってある。ほんとに、眠っているだけ。意識をすれば懐かしいにおいに、肌のさわり心地に、あたたかな記憶が呼び起こされて、じわり、視界がにじむ。お母さんだ。そう、それだけを、思う。抱きつきたい衝動に駆られて、でもそれを耐える。抱きついたら、絶対に縋って泣いてしまう。それは悪いことじゃないけど、それをしてしまえば、いまあるわたしのすべてが駄目になる気がした。もう、なにもできなくなる気がした。
それに、起きる様子はなかったけど、下手に起こしてしまったら、どうすればいいのか分からない。母がいまのわたしを見てどんな反応をするのかが、怖い。死んだのにどうしてって、怖がる?それとも、喜んでくれる?生きてたって。だけど死んでるって、起き上がりだって、人間を襲って血を糧に生きるばけものと化してしまったわたしを知ったら。そんな睛で見られてしまったら、わたしは。駄目だ。どちらにしても、駄目だ。いまのこんなわたしを母に知られたくない。だけど、だけど、だけど。辰巳さんの言葉がよみがえる。やつれた母の顔に、せつなくなる。父が亡くなった時と、おんなじ顔。いや、もっとひどいかもしれない。こんな顔をさせたくなかったのに。あんな悲しいおもいを、もう二度としてほしくなかったのに。ごめん、ごめん、ごめんね。ほんとに、ごめんなさい。

「……おかあさん…わたし…どうすれば、いいのかな…?」

母を襲うくらいなら、あの飢餓感に耐えて餓え死ぬ。その覚悟は、ある。死んでも構わない裏腹にあんなくるしいのはもう二度と嫌だと、思ったけど、耐えきってみせる。だけど、それはわたしの苦痛だからだ。わたしひとりが背負い込めばいいだけの、苦痛だから。そうして母はわたしが襲わなくても、他の人に襲われて死んでしまう。死んで、もしかしたら起き上がって、それで、それで…?そうなったら、母はなにを思うのだろう。ばけものと化したことを嘆くのだろうか。それとも、またわたしと生きられることを、喜ぶのだろうか。例えそれが人を殺す生でも。どう、なんだろう。分からない。分からない分からない。こんなにもずっと近くにいたのに、傍で一緒に生きてきたのに、母がなにを思いなにを選択するのか、分からなかった。いや、わたしが分かりたくないだけだった。
だって、一通り思い浮かべることができる未来の、そのどれもが―――わたしの望まないものだったから。
そうだ。そうだよ。だって、わたしは、母に死んでほしくない。生きていてほしい。でもいまの母にとっては生きることこそが、こんな風になってしまうくらいくるしくてつらいことなんだ。この思いはただのわたしのエゴだ。わたしがくるしみたくないからって、母にくるしんでもらおうとしている。ほんとに、我侭だ。
辰巳さんの言うとおり、母のことを考えるなら、このくるしみを終わらせてあげれば、母は楽になるんだ。もうくるしまなくてよくなる。つらくて、悲しいことも全部、なくなる。全部、全部全部。そう、死んでしまったら、すべてなくなってしまう。それは、くるしくてつらいことだけじゃない。いまの母は、生きることに付属する負の感情だけしか見ていないんだ。そう、それはとても楽なことだから。知ってる。そうやって悲しみの沼に身を沈ませれば、そこには明るい光は射し込まないけど、それを失うことも、もうないから。でも、それは。

それは、楽しくて嬉しくてしあわせなことが、思い出が、いっぱいあったから。

ね、そうだよね、お母さん。だって、わたしはしあわせだったよ?楽しくて嬉しくてしあわせなことを、いっぱい思い出せるよ?お母さんと一緒に生きてきて。だから、死んだあと、とってもつらかったよ?でも、死んだら、その思い出までなかったことになってしまう。起き上がっても、それはもう決して、わたしたちが生きてた時に戻れるわけじゃ、ないんだ。
ほんとに、これはわたしの勝手な想いで。母にとっては、全然望まないことなのかもしれない。でも、そうだとしても、ごめん。ごめんね。わたし、お母さんが思ってるほど、いい子じゃないんだ。すごく、我侭なんだ。

「…………お母さん、ごめんね」

最後に、そっと髪を撫でて、手を離す。体温のない指先にうつっていた、ほのかなあたたかさは直ぐに消え去った。
それに名残惜しさを感じながら、わたしは立ち上がると部屋の奥、がらくた置き場から静かに壷を取り出す。それを持って、また母の傍に戻って坐る。壷は、扉の方から見えないように自分の背中に隠して。
辰巳さんも佳枝さんも忙しいと言っていたし、昨晩外に出た時に遠目に屍鬼らしき人影を見たけど、それも数人だ。そして、この小屋の周囲にはあまり人が近付かない。用がないからだろうけど、静かにしていれば山の中は朽木や枯葉を踏む音がよく響くから、この二日足音は見張りの人のものしか聞いていない。
分かっていても、身を硬くしたままわたしは動けないでいた。することは、分かってる。考えたから、あとは実行に移すだけ。わたしが、上手くやるだけ。そう言い聞かせても、成功するかなんて分からないから、不安ばかりが全身へ巡って四肢を鉛のように重くする。
駄目だ。怖気づいていても、なにも変わらない。こうしてじっとしていても、望まない結末が待っているだけ。動いて。わたしがやれば、それは変えられるかもしれない。失敗する確率の方が大きくても、成功する確率が零なわけじゃないから。だから、だから、大丈夫。大丈夫だよ。そんなに手を震わせておいてなにが大丈夫だって、尾崎先生にまた怒られそうだけど。そう思ったら、頭の中に怒った顔の先生が浮かんで、つい口元が緩んでしまった。
すごいな、先生は。先生のことを考えるだけで、わたしこんな状況でも微笑むことができるよ。先生だってきっと、大丈夫じゃないのに大丈夫だって言ったくせに。ずるいな。わたしにはそれを見抜かせてくれないなんて。それなら、わたしだってもっと上手に、大丈夫だって大嘘をついてやる。それに、大丈夫じゃなくても、やるしか、ない。落ち着いて。力を抜いて。ぐずぐずしている暇は、もうないから。睛を瞑って、開ける。手は、もう震えていなかった。

「…………あのっ!」

ぐっと意識をして、大きな声を出す。扉の方に向けて「あの!誰かっ…誰か、いますよね…?!」そう声をかければ、直ぐに「どうかしたのか」と返事があった。聞き覚えのある声は、昨日とおなじ人だった。

「お願いします、こっちにきてください…っ」
「なっ、なんだよ…」
「母がっ……母がここにいるんです!辰巳さんに、連れてこられてっ…………わたしに、襲えって…」

そう言えば、男の人は辰巳さんがきたことを知らなかったのだろう「ああ……あの人どエスだからな…」そう苦笑している様子だった。

「だけど……わたし…どうしても、襲えなくて…っ、こんな、こんな……お母さんを襲うなんて、わたしっ…」
「……あー…まあ、そりゃあそうだよな」

ただでさえ抵抗ある奴にいきなり血縁者襲えって、やっぱハードル高いよなあ…。そう呟くように言う声には、心なしか同情の色が混ざっている。これなら、大丈夫かもしれない。

「だけど、お母さんすごく弱ってるんです……こんなところにいたら、死んじゃうかもしれない……っ」
「…………」
「わたしが……わたしが襲えないせいで…起き上がることもできないで……っ」
「……あんた、母親を起き上がらせたいのか?」

男の人は、わたしの言葉になにを言おうとしているのか察したらしく、そう問いかけてくる。

「はいっ……だから、だからっ……あの……お母さんを、襲ってほしいんです」
「俺がか…?」
「……我侭を言ってるのは、分かってるんです……だけど、わたしには…わたしにはっ……どうしてもできないんです…っ。だけど、お母さんがこのまま死んじゃったらって思うと…っ、」

そこで声を小さくして、口を閉ざすと男の人の反応を窺う。姿が見えないせいで、男の人がいまどんな表情をしているのかが分からないから、ひどい不安に襲われる。下手な演技だと、自分でも思うけど、それでも母に死んでほしくないのはほんとだったから、途中から感情が高ぶってちょっと涙声になっていた。それが作用してくれればいい。同情、してくれれば、いい。昨晩話している間も、ところどころわたしを憐れむ素振りがあったから。
きっと、きっとこの人は、

「…………分かったよ。だけど、辰巳さんには言うなよ。罰を受けるのはごめんだからな」

いい人だ。
溜息とともに言いながら、ガチャガチャと鍵を開ける音がして扉が開いた。わたしは、室内に入ってくる男の人をじっと見つめて「すみません……ありがとうございます」そうお礼を言いながらも、内心ではわたしの後ろに隠してあるものが見つからないか、ひどく緊張していた。
男の人は近付いてくると、わたしから母へ視線をうつして「寝てるのか?」そう不思議そうな顔をする。だから「お母さん……わたしが死んでから、ずっと気落ちしてて……夜も眠れないから、睡眠薬を飲んでるって……そう」わたしも母の寝顔を見ながら言えば、男は悪いことを聞いたと思ったのだろう、少し気まずそうにしていた。この人も、まだ若いから母親は健在なのだろうか、それとももう。つい、そんなことを思ってしまっていると、

「本当にいいのか…?」

そう腰を下ろしながら訊いてきたので、

「……はい…お願いします」

ぎこちなく微笑んで、それが、男の人の睛に涙を堪えているようにうつればいいと、そう思いながら頷く。男の人は、もうなにも言わなかった。未だ眠っている母の上に身を乗り出して、畳に手をつくと、その頭が母の首元に向かってゆっくりと下がってゆく。そっと、音を立てずに、手を背中に、触れた陶器の硬さを、それを、掴んで、その、後頭部に、短い髪の、つむじすら見えない、完全にわたしに向かって後ろを晒して、いる、その無防備な、頭へ―――、

「がッ…!?」

思い切り、振り下ろした。
鈍い音と、手のひらから伝わる感触。それを呆然と感じた時には、男の人は母の上に倒れこんでいた。

「…………、」

静寂、無言、沈黙。男の人は、動かなかった。ぴくりとも。ごとり。てのひらから滑った壷の落ちた音に、ハッと我に返る。そうだ、こんな、放心している場合じゃない。急いで男の人を見れば後頭部からだくだくと流れる赤。意識は失っているみたいだけど、だけど、このくらいじゃ直ぐに。一瞬の躊躇を振り切って、ひどく重かったけどなんとか母の上から男の人を退かす。
そうして、今度はわたしが母の上に身を乗り出す。そんなことをしても、母は相変わらず深い眠りの中だった。それで、いい。そうじゃないと、困る。空腹を意識する。まだ、まだ大丈夫。このくらいなら、きっと。そう、強く決心して、わたしは母の首筋に噛みついた。途端にじわりと甘美な芳香と味が口内に広がってゆく。ほしい。ほしいほしい。ぶわっと、わたしじゃない、わたしの意思が鎌首をもたげる。もっていかれそうになる。ごくり、咽喉が嚥下する。もっと、もっともっと。だけど、駄目。絶対に、駄目。これは、わたしの意思じゃ、ない。ぐっと母の肩を掴んでいた手に力を込めて、無理矢理顔を引き剥がす。

「あ……ぁ、はっ…、」

どこか虚ろな視界に、母の首筋にあるふたつの小さな赤い痕がうつる。咄嗟に母の様子を確認するけど、母の寝顔は変わっていなかった。よかった。ほんの、ほんの少しだけで、止めることが、できた。安堵した瞬間、ぐっと力が抜けて慌てる。まだだ。まだ、これからだから。

「お母さん……起きてっ」

母の顔を見たまま呼びかける。いや、違うこれは命令だ。そう自分に言い聞かせながら言えば、母は静かに睛を開けて、わたしを見る。泣きそうになって、だけど、違うと思った。見ているけど、見ていない。母の意識は、ここには宿っていない。ぐっと唇を噛んでから、口を開く。

「……お母さん、死んじゃってごめんね……だけど、わたしお母さんに生きていてほしいの……だから、だからね、帰るの。家に。山を、走ることになると思うけど、絶対に足を止めないで、わたしと一緒に帰るの。それで、家に帰ったら…………これはただの夢だから、全部忘れて」

その睛をじっと見つめてそう言う。母はぼんやりとしたまま、ゆっくりと動き出した。立とうとしているのだと気付いて、わたしは母の上から退けば母は起き上がる。なにも言わないし、その睛にはなにもうつっていない。いまの母は、ただわたしの命令を聞いて動くだけの人形のようで、分かっていたことだったけど、苦々しいものが胸を覆う。だけど、わたしにはまだくるしみに浸っている暇はない。母の身体の横に垂れた手を、ぎゅっと握って。

「帰ろう、お母さん」

わたしは母の手を引いて走り出した。


こんな風に、ただがむしゃらに走ることなんて、はじめてで。やっぱり全然はやくないし、ちらちらと林の奥に気を配っているせいか、足元の注意がおろそかになって何度も転びそうになる。それでも、呼吸をしていないから息が乱れることはないし、肺がくるしくなることもない。屍鬼として、そのことはありがたかった。
ただ、欲を言えばどうせ起き上がるのならば人狼の方がよかった。日中でも動けるし身体能力は強化されていると辰巳さんは言っていたから、もしそうだったら、母を背負ってもっとはやく走れたかもしれない。だけど、ないものねだりをしても、なににもならない。そんなことは、十五年この身体と付き合ってきて、もう十二分に分かりきっていたことなのに。ほんとに、欲深いなと思いながら、意識を戻す。わたしはただ、いまあるわたしを最大限に使って進むだけなんだ。そう、思い直す。
それに、憂慮すべきはわたしのことではなく母のことだ。母は、いくらわたしの暗示で走っているとはいえ、その表情はつらそうで、息も切れている。ただでさえ弱っている母の身体に鞭を打つ行為だとは、重々承知していたとはいえ、現実としてまざまざと突きつけられると、くじけそうになる。
だけど、時間がない。はやく、はやく。一度足を止めてしまえば、それでもう走れなくなってしまいそうだったから。はやく、はやく。見つからないように。いくら肉体はそうでも、こころは焦りと不安で確かに磨耗してゆくのが分かったから。昨晩も通ったはずなのに、道が長く感じられて、余計に。
だけど、ふっと視界に開けた道がうつった。山入と寺と分かれた看板が、見えた。ここまできたら、あと少しだった。わたしの家は寺のある門前に位置しているから。だけど、まだ気は抜けなかった。村には人を襲いに下りている屍鬼も、村の中で隠れ住む屍鬼だっているのだから。最近はもう夜に出歩く人は少ないから、出歩いている人は十中八九屍鬼で間違いないはずだ。

今度は慎重に、でも急ぐことは変えずに、夜の静寂の中母の手を引いてただ歩んでいれば人影が見えたから、シャッターの下りたお店の前に停まっている車の陰に隠れる。母をぎゅっと抱き締めて、縮こまって。そのままじっとしていれば、コツコツという足音は段々近付いてきて車の前を通り過ぎてゆく。物音を立てないように、気付かれませんように、ただそれだけを気をつけている間、緊張で、胸が張り裂けそうだった。ひとりの足音は、やけに高くて。女の人だろうなと、思って、ほんの少しだけ様子を窺うのに顔を出して、声を発しそうになった。
恵ちゃんだった。間違えようもない、あのうしろ姿。そのことに、ああ、と思う。恵ちゃんは、この夏から今日までずっと屍鬼としていままで生きていたんだ。いまああやって村を歩いているのだって、狩りのためだろう。そうやって、どれくらいの人を襲って、生きてきたんだろう。一瞬、蒼昊とどこまでも眩しい陽射しに、やがて陽炎で揺らぐ白く燥いた道、青々とした稲に、蝉の聲がする夏がふっと鮮明によみがえる。だけど、それはほんとに刹那のことで、もう随分と昔のことのように思えた。もう戻れない、あれが最期の真夏の午后。
きっと山入に戻るのだろう、恵ちゃんが曲がり角に消えて、足音が遠ざかる。静けさに満ちながらも、夜の住人の気配がそこかしこから漂ういまを思う。見上げた夜天は、蒼白く澄んだ月が、そのまわりで幾星霜を超えて死んだ輝きを届ける星々が、綺麗だった。わたしの好きな夜天は、なにも変わらなかった。それだけで、いい気がした。
はやる気持ちが、落ち着いて。周囲をよく確認すると、わたしは母の手を引いて陰から出た。


そうして、わたしたちは、苗字、と書かれた表札の前まで辿り着いた。
家の周囲は山茶花の生垣で囲まれていて、玄関までの僅かな道のりも、祖母の趣味で多種にわたる花や木が植えられているから、外からは少し見えづらい。立ち止まりそうになったけど、こんな往来にいたら見つけてくれと言っているようなものなので、松を伸ばしてつくった門をくぐって、玄関に向かう。見慣れた、見慣れ過ぎた、ずっと、この四年間住んでいた家。祖母と伯母と母とわたしの四人で、ずっと、みんなで。玄関の戸の前でわたしは足を止めた。母もその横でぴたりとその歩みが止まる。

「…………」

玄関には灯りが点されているけど、室内は真っ暗だった。だけど、わたしはまだ祖母と伯母が無事だと、どこか確信にも似たものを抱いていた。まだ、襲われていないと、思った。
それは、辰巳さんが襲わせていないと思ったから。沙子もそう言っていたけど、きっと辰巳さんはわたしのために、とっておいているはずだと。なんだかんだ、辰巳さんとはわたしにしては長く近く接してきたから、そんな気がした。すごく悪趣味な嫌がらせが、だけどいまのわたしにはよかったと安堵するものになるのだから、なんだか皮肉だ。きっと、ふたりとも母が連れ去られたことなんて気付かないまま、眠っているんだろう。苦笑してしまいながら戸を見たまま「……お母さん」ちいさな声で呼ぶ。返事も、反応も、ない。

「お母さんは、前にわたしまでいなくなったら、どうしたらいいか分からないって言ってたけど……お母さんもね、わたしと一緒でひとりで抱え込み過ぎなんだよ。もっと…ね、おばあちゃんや伯母さんに頼ってあげて。お母さんだって、おばあちゃんの娘で、伯母さんの妹なんだから……お母さんがわたしのことをそう思ってくれるみたいにね、ふたりもお母さんのことそう思ってるんだよ。きっと、すごく、心配してる」

それにね、わたしはつづける。

「わたしだって、心配だよ…?こんなんじゃ、ろくに成仏だってできないよ。お母さんが心配で出てきちゃうよ。だけどね、わたしにはもうお母さんにしてあげれることは、なんにもないの……死んじゃったから。生きてたわたしたちが、死んじゃったお父さんにもうなにもしてあげられなかったのと、おんなじ。……だから、だからね、お母さん。亡くなった人だけを、大切にしないで。生きてる人を大切にしてあげて。だって、生きてる人同士はね、すごいんだよ。お話しすることも、触れ合えることも、こころを通わすことだってできる。いろんなものを見て綺麗だって言ったり、美味しいものを食べて美味しいって言ったりすることができるんだよ。気持ちを、伝えることができるんだよ。生きてる人との間には、あたたかいものが確かにあるんだよ。大丈夫、お母さんはいまはちょっとそれを忘れてるだけ。大丈夫だよ。だって、わたしがお母さんからいっぱいもらったものだから。ちゃんと、お母さんは知ってるから、だから、生きてね。大好きだよ、お母さん。こっちにくるのはまだ駄目だからね。あんまりはやくきたら、わたしもお父さんも、怒るからね」

こんなことを言っても、お母さんは、忘れてしまう。ああ、でも暗示は一時的なものなんだったっけ。でも、それももうどっちでもいい。いま直ぐ、母の手を握り締めたまま、ただいまって、そう家に帰りたい。そうできたら、どれだけ。
呼び鈴に指を伸ばして、押す。家の中にどんな音が鳴るのかは、知ってる。何度も、何度も。そうしていると、やがて室内に灯りが点くのが戸のガラス越しに見えた。きっと安眠妨害をされて不機嫌なんだろうな。そっと、繋いでいた母の手を、離す。

「お母さん、帰ってきたよ」

ただいま、おかえり。帰って、きた。だから、だから、

「さよなら」

廊下の板張りの床を踏む音を耳にしながら、わたしは踵を返して走り出した。松の門を抜けて、山茶花の垣根を左に曲がる。濃い緑の中に、ようやく蕾の赤が彩りを添えだした頃だった。今年はもう、この花が咲く姿を見れないんだなと思った。
死角になってしまった、見えない玄関の方から、ガラガラと戸の開く音が、もう遠い。振り返ることはしなかった。ただ、前だけを見て駆けた。
わたしの最期のために。


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