沙子の言葉のとおりに、わたしはそのあとも殺されることはなかった。
辰巳さんに連れられて、今度はどこへ向かうのかと問えば「山入だ」そう短い返答があった。山入、確か夏のはじめに住んでいた人が全員亡くなってしまった地域だったけど、そこはいまは屍鬼たちの隠れ家として使用されているらしい。山道にも少しは慣れてきた頃、到着した山入でわたしの身柄は辰巳さんから佳枝さんという、山入を担当している女の人に引き渡された。辰巳さんも忙しいらしく、今晩はわたしひとりに時間を割いたからと言って足早に去っていった。
佳枝さんは明るく元気で、わたしの緊張も話しかけられるうちに、少しずつほぐれていくようないい人だった。なんだか、最初の頃の辰巳さんをちょっと思い出したけど、佳枝さんはもともとにこういう人なんだろう。とはいえ、そろそろ夜明けが迫っていたのでわたしは、開けた集落の部分から少し離れた山の中にある小屋に案内された。奥の方には乱雑にがらくたのような物が寄せられていて、ここが物置だったことを髣髴とさせる。その中心には一応という感じで布団が敷いてあった。

「あなたの寝床はここ。ただ、あなたはまだ不安要素だから、外側から鍵をかけさせてもらうけどね」

そう言うと佳枝さんは扉の向こうに消えて、施錠する音がした。それにはもう、特になにも出てこなかった。まあ、当然だよねと思って布団の上に寝転がる。自然浮かぶのは沙子との会話で得た情報。
家族が、ひとまずは無事と聞いて安心した。彼女が嘘をついているようには見えなかったし、たぶん沙子はそういう嘘をつかないんじゃという思いがあった。屍鬼になっても、家族をつくって、仲間を欲している沙子なら。でも、ほんとによかった。それだけでも随分こころが軽くなった気がした。だけど、まだ重いものは、ある。
(…………尾崎先生、)
先生も気付いてたんだ、起き上がりのことに。いつからだろう。少なくとも、あの雨の晩に車で送ってもらった時には、あの時理解できなかった言葉がいまになってようやく分かる。日中は、屍鬼の活動しない時間帯。お守りは、たぶん吸血鬼が十字架が苦手なのとおなじように、屍鬼もそういうものが嫌いなのだろう。できるだけはやくと言ったのは、もうこの村に残された時間が少ないことを、予感していたから。だけど、それだけで、先生は明確なことはなにも言わなかった。
どうして、と思ったけど、直ぐにこころあたりがあった。わたしと、一緒だったのかもしれない。尾崎先生も。誰に言っても、信じてもらえないって、そう。さっきだって、沙子が言っていた。尾崎先生は誰にも信じてもらえずに、孤立してるって。瞬間それを聞いた時の、つらさや言いようのないくるしさがよみがえって、それに今度は顔が歪むのが分かった。沙子の前では必死に隠そうとしてきたものが、ひとりになって枷が外れる。
信じてもらえないことは、つらい。ひとりは、さびしい。わたしは、最初から信じてもらえるわけがないって、逃げたけど。きっと先生は逃げない。わたしとは、違うから。そう思うと、矛盾が生じる。先生は、わたしにも言おうとしたのかな。そこまでで、あ、と思う。自分がどうしようもなく馬鹿なことをしでかしたような気分に襲われる。あの時、車の中で、先生は、尾崎先生はわたしに―――きみは、そのおかしな原因はなんだと思う?って、そう。そして、わたしはそれに答えた。分かりません、って。

「あ……っ、」

馬鹿だ。ほんとに、馬鹿だ。きっと、あれがそうだったんだ。だけど、なのに、わたしがそう答えたから。逃げたから。だから、尾崎先生はそれ以上言えなくなってしまったんじゃ。ただのわたしの思い込みかもしれなかったけど、いまのわたしにはそう思えてしかたなかった。
わたしが、わたしが折角先生が伸ばしてくれた手を、とらなかった、から。わたしが、臆病者だから。ああ、こんなの、こんな、死んだって、自業自得だよ。わたしがもしあの時逃げなかったら、もっとちゃんと怖がらないで、先生に信じてもらえなくてもいいからって、そうつよく思って伝えていれば、そうしたら、きっと、きっと―――、

「…………ばかだ、わたし」

自嘲しているうちに、ふっと眠くなってくるのが分かった。すとんと落ちていくようなそれに、抗う気なんてないままわたしは意識を手放した。


次の晩に睛を覚ましても、特になにもすることはないしする気分にもなれなかったので布団の上でそのまま横になっていると暫くして、戸を叩く音と佳枝さんの「名前ちゃん、起きてる?」という声がした。返事をして、とりあえず起き上がって待っていると鍵を外す音のあと戸が開いた。

「おはよう、気分はどう?」
「いえ、特に…普通です」
「外に出て、人を襲う気には?」

明るい、ほんとに朝かと思うくらいの佳枝さんの声に、けれどわたしは首を横に振った。佳枝さんも予想内だったのだろう、特になにも怒ったりする様子はなく、ただ困った子だねというみたいに嘆息する。それでも直ぐに明るい顔に戻って「まあ、まだしかたないか」そう言うと、部屋の中に入ってきた。その手には真っ赤な液体の注がれたコップが握られていた。

「とりあえず、今日の食事分はここに置いとくからね」

佳枝さんはそれを布団の脇に置くと「あたしも忙しいから行くけど、一応外にひとりつけてあるから。なにかあったらその子に言うんだよ」そう言って、鍵をかけると去っていった。ずっと寝たままというのも身体によくなさそうなので、坐ったままコップを眺める。閉じ込められて、食事を与えられて、まるでめしゅうどだ。それはわたしからの見方で、佳枝さんたちからすると、厄介で役立たずなお荷物なんだろう。
だけど、そんなわたしを彼らは殺さずに生かす。それはひとえに沙子がそう決めたから。それがなかったら、わたしはとっくの昔に辰巳さんによって二度目の死を迎えていたんだろう。別にこんな身になって生きたいわけじゃなかったから、それはそれで構わなかったというか、起き上がって最初の晩にわたしは死を決意したはずなのに、まだこうしてのうのうと生きてる。生かされてる。その事実はどうしようもなく嫌なことだったけど、そこにはやっぱりわたしの死にたくないっていう気持ちも付加されているような気がしたから、一概に彼らを責める気にもなれない。
そう、わたしは、結局のところ死にたくないんだ。そう思い知らされる。
このコップの中身を飲まなければ、わたしはまたあの地獄のくるしみに襲われることになるんだろう。あれに、また耐えなければいけないのかと思うとキリキリと胃の辺りが傷むようだった。そして、こうして人を襲うことを拒否しつづけていれば、いつか殺されるのだろうか。分からない。すべては沙子の気分次第ということなのだろう。それは、わたしの範疇を超えている。
知らず溜息がこぼれる。こんな身になっても、わたしは周囲に迷惑しかかけられないのかと思った。なんにもできないでいた、生きてた時とおなじ。無力さは、変わらない。なんにもできない。こんな、屍鬼に、なっても。
(…………屍鬼…?)
ふっと、なにかが過ぎる。胸が、かすかにざわつく。そうだ、いまのわたしはもう人間じゃない、屍鬼なんだ。拒絶して否定してもその事実は変わらない。そう、屍鬼。屍鬼なら、屍鬼としてなら―――なにかできることがあるんじゃ。そう、思った。そうして、その思いは加速する。水を得た魚みたいに、淀みなく脳を駆け巡って、

「…………あった」

わたしは、ひとつの考えを導き出した。あった。わたしにできること。いまのわたしにしか、できないこと。ひとつだけ。家族のために、そして、尾崎先生のために、できることが。喜びと同時に、それをするための難しさを思う。どうにか、機会を、まずはここから逃げ出すチャンスを窺わないといけない。鍵もかけられていて、外には人が、見張りがいるのに逃げ出すことなんて無理に等しいけど。それでも、それでもやっとできることを見つけたから、そのためのことならなんだってしたい。ほんとは、家族や尾崎先生のためって名分を立てて、ただ自分が生きたいからだけかもしれない。でも、そうであったとしても、ちがう。わたしは、
わたしは、死ぬために生きるんだ。
深く決意を刻み込んで、ひとつだけ息を深く吸って、吐く。生きてた時の真似事は、それでもわたしのこころを落ちつかせた。

「…………」

そして、わたしはコップに手を伸ばした。




その日は結局考えながら、小屋の中を捜索することだけで終わってしまった。
なにか使えそうなものがないかなって思ったけど、ほんとにがらくたばかりで目ぼしいものは見つからない。換気のできない室内に埃ばかりが立って、咽ながらもそうやっていると扉の外から「なにやってるんだ?」知らない男の人の声がした。
がさごそ物音が立っていたのは自覚済みなので、いつか聞かれるかなと思っていたから「暇なんで…部屋の片付けをしてるんです」そう答えれば「ああ、その小屋適当に片付けてたからな」と納得した風だった。そうしているうちに、だんだん男の人に言ったとおり若干物探しから掃除になりかけていた頃。

「あ、」

ようやく使えそうなものを発見した。少し縁の欠けた、壷だった。所々罅もはいっていて、薄汚れているけどまだちゃんと原型は留めている。持ってみたら重厚な手応えがあって、これなら大丈夫そうかなと、やっと見つけれたことにほっとしながら、それをなるべく目立たないようにがらくたの中に隠す。用途を思い出して苦笑したけど、でも決めたんだと思い直してそのままもう少し片付けることにした。やっぱり、暇だった。
そうやってまた夜が過ぎて、朝がきて眠って、また夜に目覚めて。完全に昼夜逆転生活だけど、そのあたりは屍鬼の性質なのか、ずっと真っ暗闇にいてもそれを不快に感じることは一度もなかった。その日は佳枝さんではなく、昨日の男の人だろうか、がコップを持ってきた。それを飲み干してから、わたしはその人に声をかける。

「あの……ここでじっとしてるのも退屈なんで、外に出てみてもいいですか…?」
「外に?いや、あんたはなるべく外に出すなって言われてんだよな」
「駄目、ですか…?少しでも、人を襲えるようになりたいんで……みなさんがどうやって過ごしているのか知りたいんです」

昨晩考えていた台詞を思い出しながら。やっぱり知らない人と話すのは、すごく緊張してうまく睛を合わすこともできないけど、それでも耐えて言えば、男の人は思案顔になった。きっと、わたしがここに閉じ込められているのは人を襲うことを善しとしていないからだと、この人も知っているのだろう。

「こんなところにいたら……わたし余計に人を襲えなくなっちゃうと思うんです…」

つづけてそう言えば、男の人はわたしが人を襲うことに前向きになったと思ってくれたのだろう「だけどなあ…」感触は悪くはない。たぶん、あともうひと押し。

「あなたにも、わたしの見張りで……ずっとこんな小屋の傍にいてもらうのは、申し訳ないですし……」

眉を寄せて、最後に我侭言ってすみませんと肩を落として言うと「あ、いや…」男の人がうろたえるのが分かった。そうして、わたしを見ながら少し悩んだあと「分かったよ、少しくらいならいいだろ」そう言った。夜はみんな食事に出たり、色々個人の好きな時間を過ごしているのは聞いていたから。そんな時に小屋の見張りなんて退屈な仕事は、命じられたからしているだけでやりたかったからじゃないだろうと思ったけど、当たってたみたいで良かった。
それに、さっきわたしを見たのは逃げても直ぐ捕まえられるだろう、という値踏みの視線だったから。侮ってもらえるのは、ありがたい。そうやって、油断してくれないと、困るから。まさか自分の恥じていた弱さをこんな風に活用することになるなんて、ちょっと前だったら思いつきもしなかったんだろうな。けど、なりふり構っていられないから、これでいいんだ。

外に連れ出してもらって、男の人にいろんなことを教わった。ここはちょうど山入とお寺の中間に位置しているらしく、どっちに行けば屍鬼の集落があって、どっちに行けば村に降りれるとか、そういう地理的なものを詳しく訊いて、しっかり頭に叩き込んでゆく。
だけど、山入以外でも最近は村の中、引越したりして空き家になっていたところに住んでいる屍鬼も多いという話を聞いて、わたしは内心愕然とする。もう、そんなにも屍鬼が人と入れ替わってるんだと思うと、言いようのない恐れが胸に広がった。山入の屍鬼は睛を覚ますと村に下りて人を襲ったり、辰巳さんや佳枝さんに命じられたことをこなしたりして、未明にはここに帰ってくる。
他にもいまは西山に何箇所かある小屋を“起き上がり小屋”として使用していて、葬儀社から運ばれてきた死体を小屋に並べておいて数日後に起き上がったら山入へと送るという話。葬儀社自体が最初から屍鬼側が経営するもので、墓に埋める前に棺の中身を入れ替えて死体を掘り返す手間を簡略化しているということにまず驚いてしまった。
葬儀の裏でそんなシステムが平然と行われているのに、葬儀に集まった人は誰ひとりとして気付かないんだ。そこまで考えて、自分はどうだったんだろうと思い男の人に訊ねたら。

「あんたは、確か……わざわざ辰巳さんが掘り返してきてたからな、寺が葬儀を行ったんじゃないのか」

そう言われて、ちょっとほっとしてしまった。あの樅の林の薄暗い土の中に埋められたのだと、思った。男の人はそうやって話している間に、少しだけならと言っていたのに、わたしを連れてちょうど山入と寺と書かれた看板のある道の傍まで案内してくれた。ここなら、分かる。ここからなら、あとはどう行けばいいのか分かる。その思いに、はやる気持ちを抑えるようについくせで胸元の服を掴んでしまった。

「どうした?」

それを見た男の人に訊ねられて、ハッとする。

「あ、いえ……すみません。あまり動いていなかったせいか、疲れたみたいです……もう、戻りませんか?」

そう自分から帰宅を促せば、男の人も「そうだな」と言い踵を返した。そわそわしてるように見えるのは、たぶんおなかが空いているからなんだろう。それについて行きながらも、内心ではひどく後ろ髪を引かれていた。いま直ぐ村の方へと駆け出したかった。
だけど、分かってる。そんなことをしても、直ぐ追いつかれてしまうから。ほとんど運動とか、走ったりしたことなんてあまりないわたしが、逃げきれるとは客観的に見ても無理がある。捕まってしまえば、元も子もなくなってしまう。きっと、殺される。
だから、いまはまだおとなしくしていなくちゃいけない。疑われたらいけない。でも、ほんとにそのチャンスは訪れるのだろうか。分からないそれに、不安と焦りばかりが静かに降り積もってゆく。



- ナノ -