気がつくと、わたしは横になっていた。眠ってしまったのだろう。そうぼんやりする頭で思って、バッと起き上がる。
生きて、いた。眠ったってことは、もう次の日の夜になっていることなのに。それに、おかしい。なにかが、違う。部屋の中には、あの男の子の姿はなくなっていた。コップもだ。なにが、そう思うわたしの耳に、

「まったく、きみが意思の強い人間だとは生前から知っていたが、まさかここまでとはな」

驚いたよ。そう呆れた風な声に、勢いよくそちらを向く。辰巳さんが腕を組んで扉に寄りかかっていた。

「…………わた、し」

辰巳さんの言葉に眉を顰めながら、わたしはようやく違和感に気付く。昨晩の、あの死にそうな苦痛が、耐え難い空腹感が、なくなっていることに。その事実が意味することに思い当たって、サアッと血の気が引く。そんなわたしの反応を見て、辰巳さんは「そうだ」と睛を細める。

「きみは血を吸ったんだよ」

わたしの考えを読み取ったかのような言葉に、愕然とする。そんな、と思う。途方に暮れる意識は、だけど辰巳さんのふき出したみたいな笑い声に呼び戻された。

「冗談だよ。きみはあの子を襲わなかったし、コップに手をつけることすらしなかった。最初に言っただろう、驚いたと。屍鬼の空腹は耐え難い苦痛だ。そう、人殺しなど、どうでもいいと思えるほどの」

そんなものを耐えきって餓え死んでいった者はこれまでにも何人かいたが、きみほどの年齢ははじめてだよ。そう、どこか感心したように言われて、耐えれたことに、我慢できたことにほっとする。だけど同時に疑問が湧き出る。だとすれば、どうして空腹感は治まっているのだろう、という疑問の答えは直ぐに辰巳さんの口から紡がれた。

「空腹感が足らないせいかとも思ったんだが、あのままでは本当に死んでしまいそうだったからね。きみが眠っている間に、ぼくが飲ませたんだ」

なにを、は簡単に理解できた。どうやって、は訊こうとしてやめた。わたしが血液を摂取した事実に変わりはなかったから。だから、代わりに「……あの男の子は、どうしたんですか…」そう疑問を口にした。

「きみが食事をしなかった子どもは、勿体ないから他の仲間に与えたよ」

他の、仲間に、与えた。あっさりと、まるでなんでもないことみたいに言われた言葉は、深々とわたしの胸に突き刺さった。それは、あの男の子が死んだことを指していた。勿体ないから。わたしが血を吸わなかったから。代わりに、他の屍鬼に、餌として。

「…………ッ、」

助けることなんてわたしにはできないことくらい、分かってたけど。だけど、それでも、わたしの行動はあの子を救えなかった。くるしさを、長引かせただけだったのかもしれない。それでも、わたしは血を吸いたくなかった。だから、我慢した、のに。でも、こうやって悔やむことすら、お門違いなんだろう。だって、わたしが我慢したのは、わたしのためだったんだから。あの子のためじゃ、なかったんだから。

「洋服はきみの部屋から拝借してきた、着替えるといい」

そう言って、辰巳さんが指したそこには確かに見慣れた自分の服があった。それを見てから、つい辰巳さんに視線を戻してしまう。どうして、辰巳さんは、わたしを生かしたのだろう。どうして、

「……殺さないんです、か…?」

昨晩あれだけ死を示唆しておいて、結局わたしを殺さず生かしている理由が分からなかった。

「言っただろう、仲間はなるべく殺さない方針だと。それに、きみに会いたがっている人がいる。あと、昨晩のあれは、ただきみを試しただけだ。だというのにきみは死にそうになっていたからね、焦ったよ」

まったく焦った様子のない辰巳さんは「じゃあ、ぼくは外にいるから。着替え終わったら出てくるといい」そう言うと、扉の外に消えていった。バタン、扉の閉まる音だけで鍵のかかる音はしなかった。
それを見送ってから、会いたがっている人って、誰なんだろう。まず思ったのはそれだった。誰かを思い浮かべようとしても、明確な人影は誰も出てこなかった。そうしてから、自分の姿を見る。薄汚れた、白い経帷子。死装束。二の腕のあたりが赤黒く血で汚れていたけど、脱いでみてもわたしの腕には傷痕ひとつなかった。きっと、昨晩爪を立て過ぎて傷つけてしまったとばかり思ったのに。でも、傷痕はないけど、血痕は残ってる。もしかして、再生能力は高いのだろうか。そんなことを考えながら、着慣れた洋服の袖に腕をとおしていった。
全部着替え終わって、経帷子はとりあえず畳んで部屋の隅に置くと扉に手をかける。あっさりと開いた先には廊下がつづいていた。辰巳さんの姿はない。左手はもう一室あるけどその奥は行き止まりになっているので右に進む。こうやってちゃんと見れば、古い民家のようだった。随分と長い間、人の営みの気配がないまま寂れてうち捨てられた。歩く度に痛んだ木の床がギシギシと軋んだ音を立てる。どの部屋も鍵がしてあるようで、窓も完全に板が打ち付けられ遮光されている。そう歩かないうちに、玄関についた。
出入りできる場所は、どうやらここしかないようで、砂塵で汚れたそこには違和感を覚える綺麗な靴が一足。これも、見慣れたわたしの靴だった。履いてみれば、やっぱりしっくりくる。そうして、玄関の引き戸を開ければ、暗い夜の澄んだ風が頬を撫でた。

「や、きたね。じゃあ、行こうか」

玄関脇に立っていた辰巳さんはわたしを見とめると、直ぐに歩きはじめた。一瞬躊躇したけど、きっと従わなければまた引き摺ってでも連れていかれるのだろうと、昨晩の痛みを思い出したので、あとを追い歩き出す。どうせ結果は変わらないなら、自分の足で歩いた方が余程いい。
振り返って見れば、やっぱり民家だった。だけど、周囲は林で他に家はない。辰巳さんが進む先もずっと木立が広がっている。村の、どこだろう。思うだけで、答えは出てこない。それよりも慣れない山道では、一々足をとられてしまいそれどころではなかった。ずんずんと、まるで平淡な道を歩んでるみたいな辰巳さんとは大違いだった。

「あっ…、」

そうして、何度目かの石に蹴躓いた時体勢を立てなおすことができずに転んでしまった。地面に擦れた膝と手のひらに痛みが走る。てのひらを見れば、擦りむけたところから赤い血が出ている。ただ、それは見ているうちに音もなく消えていった。傷痕もなく。流れた微量の血だけを残して。膝も一緒だった。あっという間に、まるで何事もなかったみたいにもとの肌に戻った。ついそれに見入ってしまっていると、視界に砂利を踏む音と一緒に靴がうつった。見上げれば、わたしより少し先を歩んでいたはずの辰巳さんが目の前に立っていた。

「その程度の傷なら一瞬だろう?屍鬼は怪我だけには強いからね」

だからこそ、その殺害方法は極めて古典的で残虐なものになるんだが。言いながら、わたしの手首を掴むと引っ張る。昨晩とは異なる、痛くないその行動は、わたしを立ち上がらせてくれるものだったので「あ…ありがとうございます」お礼を言ったら辰巳さんはただ睛を細めた。そしてまた踵を返すと歩き出す。手首を掴まれたままだったので、わたしもつられて。

「きみの身体の弱さは生来のものだが、そのせいで弱った部分の回復は望める。暫くすればもう少し体力もつくだろう」

辰巳さんは前を向いたままそう言い、わたしも足元に気をつけながら進むけど、つい繋がれた右手に視線がいってしまう。こんな風に誰かに腕をひかれて歩くことなんて、いつ以来だろう。幼い頃は、よく父や母が手をひいてくれた。大きな手に包まれると、とても安心したのを、いまでも覚えている。だからか、辰巳さんはわたしを殺した人で、昨晩だってあんなに怖くて苦痛を与えた人なのに、わたしはその手を振り解く気が一切でてこないことに驚いた。きっとこの心身ともに不安定な現状で、よすがとなる存在が辰巳さんだけだからなのだと、そう結論づける。辰巳さんの手が、あたたかいのもいけない。
すっかり明るい陽射しの下で会っていた時の、正に好青年といった風に明るくはきはきと敬語を喋る、ちょっとおかしな人っていう面影はもう影を潜めていて。敬語の抜けた、たまに怖い時は俺って言ったりするこっちが素なんだろうなと、思う。

「どこに、向かってるんですか?」
「桐敷の屋敷さ」
「……え…?」
「前に誘ったことがあるだろう。ぜひお嬢様の話し相手になっていただきたいのです、と。そのお嬢様、沙子がきみに会いたいと言っているんだ」

一瞬だけ記憶にある明るい声音で、辰巳さんは言った。そう言われてみれば、そんな誘いを受けたような気がする。そこで、気付く。もしかして、その時誘いを承諾していたらわたしは、と。そんな思いを感じとったのか、辰巳さんはちらりと視線だけこちらに向けた。その瞳はひどく愉しそうだった。

「どうして、わたしを…?」
「さてね、ぼくも知らないよ」

首を傾げて訊ねても、返答はそっけないものだった。そうして逆に「きみは桐敷家について、知っていることはあるかい」そう訊いてくる。

「いえ……あまり、人から聞いた家族構成くらいしか」
「なら、沙子に会う前に少しくらいは予備知識をあげよう。桐敷家の家族は三人。父親である正志郎に、母親である千鶴、そして娘である沙子。だが、この三人に血の繋がりはない。まったくの赤の他人だ。正志郎は人間で、千鶴は屍鬼。このふたりはただ、屍鬼である沙子のために、両親という役どころへ就いているだけにすぎない」

つらつらと並べられる言葉に、素直に驚いた。ずっと、病弱な娘さんと奥さんとそのふたりを支える旦那さんの図が頭にあったから。そして、旦那さん、正志郎さんが、郁美さんが乗り込んだ時に日光の下に出てきても平気だったその答えを知る。人狼でもなく、ほんとに人間だったから。

「そして、使用人であるぼくと佳枝。佳枝はぼくとおなじ人狼だ。住み込みの医者である江渕は屍鬼。そして、ぼくたち全員の中心にいるのが沙子だ」

ぼくたちは沙子に付き従っているのさ。辰巳さんは嬉しそうに、そう言った。


なんとか辰巳さんの先導のおかげで、その後はこけたりすることもなく無事に桐敷のお屋敷に辿り着いた。
間近でみる洋館は、ほんとに大きくて、お城みたいで。つい見上げてしまっていると「はやく来い」その頃には手は離されていたので、洋館の玄関先に立つ辰巳さんに呼ばれ、急いで駆け寄った。招かれるままに入れば、広いホールにまた睛を開く。外観とおりの豪奢な内装に見とれる。どこを見ても壁や家具、暖炉に階段と全部が全部はじめて睛にするものばかりで、すごかった。暗々としている様子は一切なく、むしろ明かりの点いた室内は人のあたたかな気配で満ちているようだった。それに、自宅を思い出してちょっと切なくなった。わたしはもうこんな雰囲気のする場所に入れないと思っていたから。

「いちいち見とれるな。きみは意外と緊張感のない子だな」

辰巳さんに呆れた声音で言われて、わたしは気持ちを切り替える。こっちだと呼ぶ声について行けば、ある扉の前で辰巳さんが立ち止まる。軽くノックをしてから「沙子、連れてきたぞ」そう声をかける姿に、この中にいるんだと思う。返事は聞こえなかったけど、辰巳さんは扉を開いてわたしを促した。辰巳さんは、入らないらしい。彼の前をとおって扉を抜ければ、そこもアンティーク調の家具で統一された瀟洒な一室で、中央には大きなテーブルがあり、それを囲む椅子のひとつに小柄な少女が坐っていた。

「ありがとう、辰巳」

小鳥の囀りのような声が言い、辰巳さんはそれに一礼すると扉を閉めた。はじめて顔を合わせる少女とふたりきりの状態に、人見知りなだけじゃなくて緊張していると「坐って」そう彼女と対の位置にある椅子を勧められ、おとなしく席に着く。

「あなたが、苗字名前さん」

真っ直ぐにわたしをその大きな瞳にうつして、彼女は言った。頭からつま先までをじっと見つめられて余計緊張する。なんだろう。なにかおかしなとこ、あったかな。思っていると「本当に普通にしか、見えないわ。でも、前例があるから喋ってみると違うのかしら」そう独り言のように呟かれて、余計に身体が強張ってしまった。まあ、いいわ。その言葉と一緒に、ようやく視線が外されてほっとする。

「そんなに緊張しないで、別にとって食べようってわけじゃないんだから」

テーブルの上にあったティーポットで珈琲をカップに注ぎながら、彼女が言う。まるで年下にしか見えないのに、その所作も佇まいもわたしなんかよりずっと繊麗されていて、やっぱりと思う。彼女は、もうどれくらい長い年月を生きてきたんだろう。そんなことを思っていると、どうぞ、とカップを差し出されて、慌てて受け取る。

「あ、ありがとうございます」

屍鬼は、飲み物はまだ摂取できるらしいから大丈夫だと。ミルクと砂糖を入れて一口飲めば、じんわりと特有の苦味とあたたかさが口内に広がった。体温もなくなっているからだろうか、とてもあたたかく感じて、ほっとひとつ息を吐く。彼女も静かにカップを傾けていたので、置いたところを見計らって「あの、」と声をかける。

「あの、どうして沙子さんはわたしをここに呼んだんですか…?」

わたしの声に顔を上げた彼女は、その睛を少しだけ丸くしたあと、おかしそうに破顔した。ふふ、と軽やかな笑い声がかわいい。じゃなくて、わたしなにか変なことを言っただろうかと自分の発言に悩んでいると、

「沙子さんだなんて、あなたくらいの年の子に言われたのはじめてよ」

おかしい。くすくすと笑う彼女は、年相応の、ただの女の子に見えた。

「やめてちょうだい。そんなの、呼ばれる度に笑ってしまいそう。それに、敬語もいらないわ」

そう言って、彼女は、沙子はようやく笑いがおさまったのだろう、カップに口をつける。外見はともかく、内面はやっぱりわたしよりずっと年上だろうと思ってのことだったんだけど、あんまりそうでもないのかもしれない。

「ふふ、ちょっと楽しくなってきたわ。ずっとどんな子だろうって、思ってたから」
「え…?えっと、どうして…?わたしと、沙子は面識もないはずなのに」
「室井さんよ」

思いがけない言葉に、余計「え?」ってなる。

「わたし、室井さんの小説全部読んでて、ファンなの。その室井さんに会いに行った時、最年少読者の記録が塗り替えられたなって、そう」

誰って訊いたら、この村に住む十五歳の女の子だよって。沙子はその時のことを思い出しているのだろう、宙を見ながら言う。そうして、それは、それが示すのは、わたしのことだった。

「だからね、それを聞いた時からわたしみたいな子がいるんだって、ずっと気になっていたの」

その視線をはっきりとわたしに合わせて、彼女は微笑んだ。わたしは、まさかそれが理由だとは思ってもみなかったから、ただ彼女の瞳を見つめ返す。

「だけど、あなたは違うみたい。辰巳から聞いたわ、人を襲うこともコップの中身を飲むことすらしなかったって」
「…………」

突然話題が切り替わって、思わず珈琲を飲もうとしていた手が止まる。

「どうして?」

そんなわたしを真っ直ぐに見たまま、今度は沙子が首を傾げることもなく問いを口にした。

「わたしたちは、もうそういういきものなの。人間じゃないわ。人間の血液を摂取することでしか餓えをしのげない、生きることができない、ただそれだけ。悪いことじゃないわ、人間だった時だって豚や牛といった家畜を食べて生きてきたじゃない。あなたはお肉を食べる時に死んだ家畜をかわいそうだと思ったことがある?罪悪感を抱いたことがある?それとおなじことよ。当然の摂理なの。当たり前のことなの。わたしたちはただ、食べるものが人間に変わってしまっただけ」

彼女の、沙子の言いたいことは、わたしにもよく分かっていた。

「それに、吸血衝動のくるしみはあなたも思い知ったはずよ。あなたはもう生前の身体の弱さにくるしめられることはなくなったのに。そう、死んでしまったらもうなにも関係ないわ。わたしたちは人間じゃないんだもの。人を殺したって、誰に罰を与えられることも罪を裁かれることもない。なのに、あなたはどうして死んでまでくるしい道を選ぼうとするの?」

沙子がなにを想って、どんな感情でその言葉を紡いでいるのかは、その双眸を見てもわたしには知ることはできなかった。ただほんとに、純粋に不思議がっているだけにも、その奥底にはわたしには計り知れない、夜の闇にも似た深淵があるようにも思えた。

「…………それは、きっとわたしがまだ屍鬼になりたてだからだと、思うよ」

そっと視線を伏せて、珈琲の深い色を湛える水面を見れば、わたしがうつっている。

「沙子の言ったことは、わたしにも分かるよ。わたしたちは、もう人間じゃないから人間のつくったルールからも、外れてしまったんだよね。屍鬼について、昨日辰巳さんに教えてもらって、空腹を紛らわすのにわたしなりに色々考えたんだ……それでね、思ったの。屍鬼は……なんてくるしくて残酷ないきものなんだろう、って」
「残酷?人間を襲うから?」

沙子の言葉にわたしは首を横に振る。

「違うよ。さっき沙子が言ったとおりに、わたしはいままでお肉を食べても、家畜となった動物を哀れんだことはなかったと思う。もちろん、机に並ぶお肉がもとは自分とおなじように生きていたものだとは、分かってた。……だけど、他者の命を摂取する罪悪感はなかった。だから、それはどうしてだろう?って考えたの。でも、結局のところそういうものだったからなんじゃないかって、思ったんだ。これまでずっとつづけられてきた、人間の営みの、当たり前のこととして疑いなく行われてきたことだからだって……。それにいきものはみんな、別のいきものの命を奪って糧として生きているから。人間はただ合理的に家畜を生み出しただけで、誰もそれを残酷だとは思わない。だから、屍鬼が人を襲うことはそれとおなじように当然のことだっていうのは、分かってるんだ」

ただね、一口珈琲を飲んでから、つづける。

「それは、人間と豚と牛というように、最初から種族が分かれているからこそのことなんだと思う。だけど、屍鬼は違う。わたしたちは……もう死んで、人間じゃなくなって、人間を糧とするいきものになってしまった。これはもう人間とは別の種族になってしまったのとおなじで、だけど、違う。いきものとしての身体や性質が変容しているのに、意識やこころといったものは人間の時のまま……それは、とてもくるしくて残酷なことだと、そう思うの。だって、全部が全部屍鬼として変容していたら、なにも感じることなく、ただ自分が生きるために……人を殺すことができるのに、そうじゃない。もう人間じゃないって理解しているのに、どうしてもこころは人間のままだから」

屍鬼というひとつの種族として考えれば、そのいきものはなんて生きづらいいきものなんだろう。そう、思った。ばけものと呼ぶのも糾弾するのも、人間の勝手だ。屍鬼にとっては人間を襲うことは当然の摂理で、そうしないと生きていけないから。存在がバレれれば、昔からずっとそうなように、少数の異端で社会に害悪と認識されたものが抹殺されることは睛に見えている。
だから、殺すのだろう。ひっそりと、こっそりと、人間にその存在を知られずに生きてゆくことしか屍鬼にはできない。そして、屍鬼はずっと少数なままじゃないといけないんだ。増え過ぎたらバレる確率は高くなるし、人間より数が多くなることは絶対にありえない。そうなってしまえば屍鬼には餓え死ぬ道しか残されていないから。だから、人間の睛から隠れるようにしか、生きられない。そして。
わたしは顔を上げて沙子を見る。彼女は、ずっとそうやって生きてきたのだろうかと、そう思った。

「だからね、わたしはまだ全然屍鬼になりきれていないから。分かってるけど、それでもやっぱり人でいたいから……くるしいけど耐えようって思ってしまうんだと思う。誰かの命を奪いたくないって……わたしとおなじ人をつくりたくないっていう、ただそれだけなんだ」
「…………」
「それに、ね……きっと、わたしは人を殺して、屍鬼として生きるようになったら、それは、もっとずっと、いまよりもくるしいことだと思うから」

じっと、黙ったままわたしを見つめる沙子がなにを思い考えているのかは、やっぱり分からなかった。だから、彼女に問いかけた。わたしも、ただ純粋に気になったから。彼女がもうどれくらい生きているのかは定かではなかったけど、それでもずっとわたしより長い生を歩んできたのだというような気がしたから。

「沙子くらい生きたら、もうくるしくはなくなるかな」

沙子はなにも答えなかった。だからわたしは、それを答えにした。


さすがに喋り過ぎたというか、わたしにしてはものすごくいっぱい喋ったというか。ちょっと反省しつつも、昨晩からぐるぐる内側で渦巻いていたものの一端を吐き出せたことにほっと息を吐いていた。
ただ、不快にさせていないといいんだけど、と今更沙子の無言に彼女を怒らせてしまっただろうかと不安になる。それでも、沙子はちゃんと聞いてくれて、だからわたしも喋りやすかったんだろうな。辰巳さんからこの村にいる屍鬼を統括する存在だって聞いていたから最初は緊張したけど、それももうなくなっている。いままで意識したことはなかったけど、やっぱり辰巳さんの言うとおり、わたしはあまり緊張感がないのかもしれない。そんなことを考えながら、冷めてぬるくなった珈琲をいただいていると「あなたって、」そうちょっとぶりに彼女が口を開いた。

「おもしろいわ。辰巳が気に入ってるのも分かる気がする。お話しすることができて、やっぱりよかった」

特に表情を変えることなく言うので、どう受け取ればいいのかちょっと悩んだけど、とりあえず微笑んでみた。

「わたしはね、ここに屍鬼の村をつくろうとしてるの」
「屍鬼の、村…?」
「そう、もう少しで完成するわ。わたしたちだけの、わたしたちのための村。もうこそこそ逃げることも、隠れなくてもいいように安全に生きられる拠点」

素敵でしょう?そこでようやく微笑を浮かべる沙子に、今度はわたしがなにも返せなかった。肯定も否定もできないでいるわたしに、けれど沙子は笑みを深めるだけだった。

「もう少し…っていうことは、もう村の殆どの人が…?」
「いいえ、それはまだ。村にはわたしたちの存在に気付いている人がいるから、中々最期の詰めが難しいんだけど。でも、それももう時間の問題だわ」
「気付いてる人が、いるの?」

沙子の言葉に驚いた。だけど、同時にまさかという予感も首をもたげる。

「ええ、尾崎の先生が気付いて、わたしたちを狩ろうとしてる。やっぱりお医者さんだからかしら、鋭い人ってどこにでもひとりはいるのね」

尾崎先生。その名前を聞くだけで、どうしようもなく胸が締め付けられる。先生はやっぱり、気付いてたんだ。原因が、起き上がりだって。屍鬼だって。困った風に言う沙子にわたしは動揺を気取られないように、平静を装って「それは、大丈夫なの…?」と訊ねる。

「大丈夫よ。尾崎先生は村の人に、誰にも信じてもらえなくて孤立しているもの」
「そうなんだ…」

そこで沙子は「あ、」とカップを置いて空になった手を合わせる。

「いいことを教えてあげる。あなたの家族はまだ誰も襲っていないわ」

楽しそうな色を取り戻した彼女の言葉に、わたしは睛を瞠った。ぎゅっとカップを持つ手に力がはいる。喜びに。だけど、その嬉しさは「あなたの獲物としてとっておいてあげたの」沙子の軽い歌でも口ずさむような口調に凍りつく。

「わたしはね、名前さん。仲間がほしいの、だからあなたが起き上がってくれたことも嬉しい」

そう言う沙子は本当に嬉しそうで、それは、ひとりはさびしいもの、って言ってるみたいに聞こえた。

「あなたが屍鬼になったということは、あなたの家族だって起き上がる可能性が高いということ。あなたは、家族が好き?」
「……好きだよ」

弱弱しく微笑むわたしとは違って、沙子はにっこりと綺麗に笑った。

「ふふ、よかったわ。あなたは死にたいかもしれないけど、もう少し生かしておいてあげる」

笑って、そう言った。


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