睛を覚ました。意識が唐突に冴えていくような、そんな目覚めだった。
視界に広がる天井に、かすかにまだぼんやりとしながら、あれ?と思う。木の組まれたそれは見覚えのないものだった。自分の部屋じゃ、ない。そのことに気付いて、上体を起こせばそこは見知らぬ小部屋のなかだった。埃っぽくて、なにもない、窓だって板が打ち付けられているせいでその意味を成していない、そんな、打ち捨てられたような。なんで、わたしこんなところで寝ていたんだろう。おかしい。どうしてこんなところに、いるんだろう。記憶を辿ろうとして、けれど捉えることができなかった。思い出せなかった。
混乱する脳に追い討ちをかけるかのように、不可思議なのは、それだけじゃなかった。わたしは、白い着物のようなものを身に纏っていた。なんで、こんな格好をしているんだろう。こんな、薄い生地の、真っ白なこれは、前合わせが左のこれは、まるで―――経帷子のような。自分の考えに、ハッとして頭に触れる。髪の毛とは異なる、布の感触にとって見れば、それは白い三角頭巾だった。こんな、こんな、なんで、わたし、
(死装束を、着てる、の…?)
おかしい。おかしい、けど違和感もそれだけじゃなかった。天井に取り付けられた照明に灯りはなく、窓からも陽が射さないこの部屋は、真っ暗なはずなのに。睛が暗闇に慣れているからかもしれないけど、だからって、こんな部屋の細部まではっきりと、見えるものなんだろうか。分からない。だけど、おかしいことだけは分かる。
どうして。そう呟こうとして、声にならなかった。咄嗟に咽喉を手で押さえる。咳き込んでみても、どこかが悪いという感じはしなかった。なのに、声が出ない。なんだろう、ほんとに、おかしい。体調は悪くないはずなのに、なにかが、おかしい。余計違和感を覚えて、次第に恐怖が広がってゆく中、わたしは気付いた。気付いてしまった。咽喉にあてたままだった、手の、指先に、なにも伝わってこないことを。
(え……?)
ぐっと、指の腹をさっきよりも強く肌に沈ませる。それでも、伝わってこなかった。なにも。どくどくと、脈打つものが、なにもなかった。いくらそのまま待ってみても、変わらない。脈が、ない。その事実に呆然とする。脈がないなんて、そんな。慌ててその手を口元にかざす。唇を開いて、無言のままそうしていても、てのひらには、なにもなかった。あたたかく湿った息が、かからなかった。
そこで、ようやくわたしは自分が息をしていないことに気付く。だけど、気付いたからといって、これは。ゆるゆると下がった手を、胸にあてても、一緒だった。鼓動も、なかった。脈も鼓動もなく、息もしていないなんて、そんな、そんなのは―――死体だ。生きてない。
(…………わた、し……生きて…ない…………死、んで…る…?)
死んでいる。そう理解しても、理解しただけだった。けれど、現状はすべて死を示している。それ以外の、なにものでもなかった。認めたくない事実に、これは悪い夢なんじゃ、とすら思う。だけど、夢じゃないことくらい、とっくの昔に分かっていた。
放心する頭は、それでも動く。死、死体、生きてない、死んでる。だけど、わたしは、生きてる。生きてるのに、死んでる。死んでるのに、生きてる。なんて、こんな、こんなのは、まさか、わた、し―――起き上がった、の?
その時、足音が聞こえた。思考が途切れ、唯一ある扉を見つめる。次第に大きく、近付いてきた足音は扉の前で止まった。直ぐに、ガチャガチャと鍵を外すような音がして、軋んだ音を立てて扉が開いて、わたしは睛を瞠った。

「や、ようやく起きたね」

辰巳さんだった。わたしを見て、微笑みながら室内に入って来る。見知った顔に、ついほっとしてしまう。だけど、直ぐに思い直す。どうして、どうして、辰巳さん、が―――考えようとして、凍りついた。知らず、身体が震える。忘れてない。思い出せる。忘れることなんて、できない。だって、だって、わたし、は、

「調子はどうだい?名前くん」

辰巳さんに、血を吸われて、死んだんだ。
二回目の、夜。二階の部屋なのに、窓をコンコンとノックする音で、名前くん、名前を呼ぶ声で、睛が覚めた。だけど、意識はひどくぼんやりとしていた。四肢の感覚もなかったのに、わたしの身体は勝手に布団を抜け出していて、窓に向かう。そこには一階の屋根の上に立つ辰巳さんがいた。分かっていた。言っていたから。明日はって、そう。鍵を開けて、中に入れてくれ。辰巳さんは言って、わたしは駄目だって、開けたらいけないって、そう分かっているのに、こころの中で叫ぶのに、手は見えない糸で吊られたみたいに持ち上がって、鍵を開けていた。
静かに辰巳さんが窓を開いて、枠に足を乗せたと思った時には入ってきていた。なにも隔てるものがなくなった、直ぐ目の前に、辰巳さんが、いた。逃げなきゃって、思ってもやっぱり無駄だった。わたしの身体はもう、わたしのものじゃなかった。辰巳さんの操り人形だった。そんなわたしを見下ろして、辰巳さんは笑った。ぞっとするほど酷薄な笑みを浮かべて「いい子だ」そう言って、わたしの肩に手を置いて、身を屈ませた頭が顔の直ぐ横をとおり過ぎて、首筋に熱い息が触れて、それで―――終わった。
わたしの記憶は、それが最期だった。

「…………っ、」

近付いて来る辰巳さんに、後ずさる。でも、狭い室内は直ぐに壁に行き当たった。その様子を見て、辰巳さんは、おや、という顔をしたけど、その睛は直ぐに細められる。ひどくおかしそうに、笑みを浮かべる。

「なんだ、もう思い出したのか。理解がはやくて助かるが、まだ声の出し方は分からないようだね」

声の、出し方。出るんだ、声。てっきりわたしは声が出せなくなってしまったと思っていたから、辰巳さんの言葉に、意識する。そうだ、呼吸をしていなくても、声は声帯を振動させて発するものだからと、ようやく気付く。

「…………ぁ…た、つみ、さん…」

かすれていたけど、ちゃんと声が出た。喋れる。わたしの声に、辰巳さんは満足そうに頷くと「なんだい?」そう訊いてくる。だから、

「わた、し……起き上がったんです、か…?」

真っ直ぐに、疑問を口にした。辰巳さんは一瞬驚いたように睛をまるくしたあと、その表情はテストで百点をとった子にむけられるようなものに変わる。

「本当に、きみは理解がはやいな。こんな現状を冷静に把握することができるなど、可否の判断はしかねるが……そうだ、きみは死んで、起き上がったんだ」

感心した風に言ったあと、辰巳さんは真っ直ぐにわたしを見て肯定した。
起き上がり。これが、起き上がるということなんだ。自分の身体のまんなかに、ぽっかりと大きな、ひどく空虚な空洞があるような、そんな。本来あるべき、生き物としての生命活動はすべて停止しているのに、たしかに、意識も感情もこころも、生前となにも変わらないまま、生きている。

「それにしても、きみは中々睛を覚まさなかったから心配したよ。通常は死後四日程度で起き上がってくるというのに、きみは七日もかかった」

腐臭がしていないのはにおいで分かってはいたが、それでもこんなにかかるとは思ってもいなかったよ。七日。死んでから、もう七日も。辰巳さんに襲われた二回目が、あれは確か二十一日の夜のことだったから、今日は二十八日ということになるんだろう。そして、辰巳さんはわたしに起き上がりについて、一通りの説明をした。
日光に弱く、陽射しに晒されれば焼け爛れて最悪死に至ること。夜明けと同時に眠り、日没に睛を覚ますこと。その眠りは深く、抵抗できない昏睡状態になるということ。加齢や病気で死ぬことはなくなったが、不死身というわけではないこと。杭を打たれたり、首を切断されれば死ぬこと。最後に、生きるためには人間の血が必要なこと。生前に摂取していた通常の食べものは身体が受けつけなく、水分は摂るには摂れるが無意味なこと。糧になるのは、人間の血液だけで、それを摂取しなければ餓死してしまうこと。

「…………ほんとに、まるで吸血鬼みたいですね…」
「そうだな。だがぼくたちは自分たちのことを吸血鬼とは呼ばない。屍鬼と呼ぶ」

しき。屍に鬼と書いて、屍鬼。なんて、皮肉なくらいぴったりな名前なんだろう。人間じゃない。もう、ひとじゃなくなってしまった、かばねのおに。
でも、それじゃあ、いまの説明では納得できないこともあった。

「辰巳さんは……屍鬼じゃ、ないんですか…?」

そう、辰巳さんは日光の下でも平気だった。ずっと、燦燦と陽の照りつける時間帯に会って、話をしていた。なのに、彼はわたしの血を吸った。わたしの疑問に、辰巳さんは「ああ」と首肯する。

「そうだ、ぼくは屍鬼ではない。その亜種のようなものでね、昼も起きていられるし、日光だって平気だ。ぼくたちは人狼と呼んでいる」

口の中だけで人狼と呟いていると、辰巳さんが「名前くん、きみは他に違いは分かるかい」そう問題を出してくる。わたしは、少し考えたあと首を横にふった。

「まあ、そうだな。きみはぼくとしか接していないから、屍鬼というものを客観的に知らなければ分からないのも無理はないか。脈も鼓動も呼吸もない屍鬼は、文字通り既に死した身だ。屍だ。だから、体温もない」

体温。その言葉に、なにか、ひっかかる。辰巳さんを、見上げる。健康的な、うらやましいくらいの体つきに肌の色。辰巳さんは、まるで、死んでいないような。生きている、ような。そこで、思い出す。血を吸われる時に、触れた辰巳さんの手にはぬくもりがあった。首筋に触れた吐息は、あたたかかった。

「……人狼、は……生きて、るんですか…?」

呟けば「や!」正解と言わんばかりに、辰巳さんは笑った。

「そう、人狼は生きている。呼吸も脈拍もあり、ごく普通の食事でも一応は持ち堪えられる。身体能力も強化され、五感も人間の倍以上。そして、屍鬼と一番の違いは、起き上がり方なんだよ。屍鬼が一度死んでから起き上がるのに対して、人狼は生きたまま起き上がるんだ」

だが、人狼として起き上がるのは屍鬼となる過程で、何十人かにひとりの確率だからね。ここには、俺ともうひとりしかいない。勿論、死んだ人間が屍鬼となる確率も高いわけではない。だいたいは甦生せずに墓の中で腐ってしまうからね。辰巳さんの言葉に、わたしは口を閉ざす。
屍鬼と、人狼。だけど、どちらも血を糧にする、いきもの。人間を襲う、ばけもの。この夏からの、村に蔓延する死の、原因。そんなものに、わたしは、なってしまった。辰巳さんは、まるで“いいこと”のように、言うけれど、そんな、そんなのは、わたしは。

「さて、説明もこのくらいかな。きみも腹が減っているだろう?食事にしよう」

おいで。軽く何気ない誘いだったけど、食事。その言葉の意味が脳に浸透した瞬間、ぐっと身体が強張る。けれど、辰巳さんはそんなわたしを見下ろして、明るい色を湛えていた表情から感情を消し去って「来るんだ」と言った。怖いくらい高圧的なそれは、命令だった。暗示は、もうかかっていないはずなのに、従ってしまいそうになるのを耐えていると、辰巳さんは溜息を吐いたあと、その大きな一歩で間合いを詰めるとわたしの腕を掴み、無理矢理立たされる。逃げる暇もなかった。

「痛っ、」

ギシリと、骨が折れてしまいそうな強さに顔が歪む。痛い。けど、辰巳さんはそのままわたしを引きずるように部屋を出た。どうにか足を踏ん張ろうとしても、手を剥がそうとしても、ことごとく抵抗は無意味と化す。そうして、別の部屋に放り投げるようにして腕を離された。受け身をとることすらできずに、強かに畳みへ身体を打ちつけてしまい、痛みに喘いだ。息はしてないはずなのに、きつく咳き込む。

「……っ、あ…、」

どうにか身を起こして、視界にうつったものに、かたまる。さっきと変わらないような、狭く寂れた室内には先客がいた。ちいさな、まだ小学校低学年くらいの男の子が、倒れていた。
一瞬死んでいるのかと思ったけど、その肩はどこか忙しなく上下している。生きて、いる。誰だろう。知らない子だ。だけど、一瞬で戦慄する。辰巳さんは、食事と、そして連れられてきたこの部屋にいるこの子は―――、

「きみのために用意した人間だ、誰かは知る必要がない。もうだいぶ弱っているから反撃される心配はないし、きみが食事をすれば死ぬだろう。まあ、さっきの抵抗で分かったが、きみは襲うのにひどく抵抗があるだろう?横にコップがあるのが分かるかい、中身は血液だ。好きな方を選べばいい」

つらつらと説明をする辰巳さんの言葉は至って抑揚のない事務的なもので、わたしは言っていることとの差異に眩暈がしそうだった。男の子と、真っ赤に染まったコップを見ながらただ坐り呆けていると「だが、」そう辰巳さんはつづけた。

「ここから逃げたり、反逆することは赦されない。覚えているだろう、名前くん。俺が人狼だということを」

人狼。人狼は、屍鬼と違って昼も起きていられるし、日光も平気だということが、直ぐに脳裏を過ぎった。辰巳さんが、なにを言いたいのか、分かってしまった。

「俺はきみが眠っている間に陽光の下に放り出し、焼き殺すことも、その胸に杭を打ちその首を切断することもできる」

分かっていても、地の底を這う声音で告げられた死刑宣告に、背筋が凍りつく。辰巳さんはけれど、前みたいにその雰囲気を一瞬で消し去って「まあ、きみは大事な仲間だからね。ぼくとしても、そうならないことを願うよ」そう明るい声で言った。だけど、わたしの恐怖心は消えない。だけど、とこころの中で訴えるものは、消えない。

「…………勝手、です…ね…」

恐れに身が震えても、わたしの口は紡いでいた。辰巳さんがぴくりと反応する気配がある。

「勝手に、襲って…殺しておいて……起き上がったら、仲間だなんて……選択の自由すら与えずに、無理矢理…自分たちのやり方を押し付けるなんて……、」

勝手だ。傲慢だ。なんて、ひどい、こんな、こと、勝手過ぎる。一度溢れ出してしまえば、堰を切ったように、止まらない。こんな、こんなこと。起き上がるなんて、屍鬼だなんて、そんな、そんなこと、わたしは、

「わたしは……望んでない…っ」

吐き出せば、辰巳さんが動く気配があった。そう感じた瞬間には、ひゅっとなにかが視界を過ぎって、腹部の衝撃が痛みに変わる前に、わたしの身体は壁に叩きつけられていた。

「かっ……は、っ」

痛みは、さっきの比じゃなかった。それもそうかと、こんな時でもやけに冷静な頭で思う。蹴られたんだから、当然だ。壁におもいきり激突した身体は直ぐに崩れ落ちて、思わずくの字に折れ曲がる。打ちつけた背中も十分痛かったけど、蹴られた腹部の方がひどかった。内臓が抉られたんじゃないと思うくらいの、激痛に、視界が歪む。胃液が逆流してくることは、なかった。中身がないからかもしれない。ただ、咽喉の奥がぐるりと鳴る。

「勝手だという言葉は事実だからね、甘んじよう。だがな、名前くん、きみが望もうが望まなかろうが、そんなことは俺たちには関係ない。あまり減らず口を叩くようなら、いま直ぐその細い首を捻じ切ってやってもいいんだ」

いつの間にか傍に立っていた辰巳さんが、芋虫みたいにうずくまるわたしを見下ろして言う。それに、口元がいびつな笑みをつくるのが、分かった。

「……っ、は……はぁ…はっ……か、まいま…せん……」

痛みとくるしさの中、そう言っていた。

「どう、せ……もう…一度……死んでる、ん…です…………それ、に……言った…じゃ……ない…です…かっ…………はっ…ぁ、のぞ…んでない…って……」

わたし、自分がされて嫌なこと、ひとに、したく、ないん、です。微笑んで、そう、辰巳さんに言ってやった。
怖いし、痛いし、くるしいし、死ぬことは、一度もう死んでるのに、もう一度死ぬことは、怖かった。怖くて、たまらなかった。死んだ時のことを、わたしはあまり覚えていない。けど、くるしかったり痛かったりする記憶は、なかった。幸いな、ことだった。だけど、きっと、今度は違う。杭を打たれるもの、首を切断されるのも、それはそれは怖くて痛いことなんだろう。死にたくないって、思うことなんだろう。だけど、それでも嫌だった。恐怖に流されることも、暴力に屈することも、誰かの命を奪うことも、嫌だった。
そんなことをしてしまえば、わたしは、ほんとに、ばけものになってしまう。人を喰らって殺す鬼になってしまう。そう、屍鬼に。そんなものには、なりたくなかった。そんなものに、なるくらいなら、

「……死んだ…ほうが……マシ…です」
「…………」

沈黙のあと、辰巳さんが「それが、きみの答えか」氷のように冷たい声で言ったから、わたしはゆるやかに睛を瞑って、無言を承諾とした。やっぱり、さすがに、自分が死ぬとこは見たくない、から。痛みはもう殆ど引いていて、強張っていた身体から力を抜く。そうして、その時を、待った。待っていた、けど、いつまで経ってもそれは訪れなかった。それどころか、辰巳さんが動く気配があったと思ったら、それは足音とともに遠ざかっていった。
(…………え…?)
つい目蓋を開けて見れば、辰巳さんはちょうど扉のところで立ち止まって。わたしと睛が合うと、とてもとても愉しそうに笑った。それに、ぞっとするわたしを尻目に「名前くん」どこか嬉しそうに名前を呼ぶ。

「残念ながら、仲間はなるべく殺さない方針なんだ。きみも、一晩ここでじっくり屍鬼というものを経験するといい」

明日の朝を、楽しみにしているよ。そう、わたしの見慣れた、明るく爽やかな笑顔で言って、辰巳さんは出て行った。ガチャリ、施錠する音がいやに大きく響いた。




真っ暗闇なのに、まるで明かりが点いているのとおなじように見える室内の隅に坐って、どれくらい時間が経っただろう。わたしは、辰巳さんの言葉の意味を、思い知らされていた。
おなかが、すいた。そう最初はなにげなく、腹部が空腹を訴えるだけのものだった。なのに、それは段々と増し、どんどん思考の割合を占めてゆく空腹感は、最早ただの苦痛にすり替わり、いつしか飢餓感に変わっていた。そして、視線は知らずわたしと対角線上で変わらず浅い呼吸を繰り返し眠る男の子と、なみなみと赤いコップに注がれる。あの子は、どこから連れてこられたのだろう。全然知らない顔だったから、外場村の住人ではないことだけは、確かだけど。あんな状態、くるしいだろうな。つらいだろうな。わたしも、知ってる。それに、たぶん、どこかから連れ去られてきたんだろう。誘拐の二文字が脳裏を過ぎる。あんなちいさな子、きっと家族が心配している。意識はない様子だったけど、あったらきっと帰りたがっただろう。こんなところに、閉じ込められて。こんな、異常な空間で、こんな、ばけものと。
ぎり、と腕に爪を立てる。奥底から支配しようとする感覚を、抑える。本能、だろうか。これが、屍鬼としての。まだ一度も血液を摂取していないのに、分かっている。あれが、食すものなのだと。あれが、糧なのだと。あれが、あれだけが、この苦痛な餓えをなくす、この咽喉を掻き毟りたくなるような渇きを、癒す―――餌なのだと。

「…………ッ、」

立てた膝におもいきり顔を埋める。組んでいた腕を握る手に、力がこもる。さっき以上にぎりぎりと爪を立てて、痛みで、誤魔化そうとする。これが、屍鬼ということ。このまま我慢していれば、やがて餓え死ぬのだろうか。どれくらい耐えれば、いいんだろうか。分からない。自分が耐えきれるのかすら。夜明けと同時に眠るって、辰巳さんはそう言っていたから。そうなれば、わたしはこの苦痛から解放される。それまで、それまでの、我慢。ずっと、ずっと、我慢してきたんだから。痛いのもくるしいのもつらいことも、いままで何度も、何度も何度も何度も、昔から、ずっと、耐えてきたんだから。そうやって、生きてきたんだから。大丈夫。きっと、今回も。でも、とそこで思う。

わたしは、もう死んでる。生きてるけど、ほんとに死んでるんだ。

もう二度と太陽の光を浴びることはできないし、なにより、人間として生きていくことが、できない。こんな身では、生きていたとしても、家には帰れない。起き上がり、ばけものとなったわたしを、家族はもしかしたら受け入れてくれるかもしれないけど、駄目だ。一緒にはいられない。いまのわたしが生きるということは、誰かを襲うということだから。誰かを殺すということだから。
医療に携わりたかったから頑張って勉強して、高校を卒業したら大学は医学部に進みたいって、そう抱いていた夢も、もう叶わない。わたしの、人間としての生は、人生は、もう終わってしまったのだ。あの明るくあたたかな場所には、もう戻れない。
太陽の光なんて、わたしの身体には堪えるばかりで、好きじゃなかったけど。夜の闇の方が、好きだったけど。こんなにも、こんなにも恋しくなるなんて。ひとつひとつ、事実を噛み締めるたびに、胸がくるしくなる。もう動いてないのに、心臓がぎゅっとなるような、錯覚。涙が、出そうになる。最近、涙腺が緩みっぱなしだなと思ったけど、もう七日経っているんだ。もう、そんなに。七日、一週間。
母は、どうしてるだろう。わたしが死んで、きっととても悲しんでいる。父が亡くなった時みたいなおもいを、させてしまったのかと思うと遣る瀬無かった。どうしようもなく悲しくて、涙が出た。あんな母を二度と見たくなくて、だから、わたしはどれだけくるしくても生きて、生きて絶対に長生きするんだって。お母さんより、長生き、するんだって、そう。

「…………っく、ぅ……っふ、ぅ……」

声を殺しても、息苦しさはなかった。呼吸をしてないから、当たり前なのかもしれない。だけど、どうしようもなく、くるしい。くるしくてくるしくて、たまらない。死んでる。死んでるのに、涙は、まだ出るんだ。そう思うと、ちょっとだけおかしかった。ごめん。ごめんなさい。親不孝な、娘で、ごめんなさい。祖母も、伯母も、みんな、みんな、無事で、いて。止まらない。涙が。溢れて、こぼれて、こぼれて。悲しい、つらい、つらい、よ。こんな、こんなの、やだよ。なんで、わたし、こんな、こんな目に、まだ、あうの?死んでるのに、どうして、終わらないの?いつになったら、わたしは、このくるしさから、解放されるの?
どうして、どうしてどうしてどうして。生きてる間だって、あんなに、あんなに我慢したのに。痛くても、つらくても、くるしくても、ずっと、我慢してきたのに。どうして、死んでまで、こんな目に、ね、どうして。もう、いやなのに。ずっと、いやだったのに。我慢することも、耐えることも、ずっと、いやだったのに。もう、やだよ。こんな、こんな、たすけて。たすけて―――せんせい。
尾崎、先生。
助けて。

「ひっ……く、ぅ…あ……ぁ、あ……っうぅ…っ、」

先生。先生先生先生。思い出せる。先生の、顔。あの時、最後に見た。あれが、最期になっちゃった。尾崎先生。
先生も、無事なのかな。無事で、ありますように。先生が、わたしみたいな目に、あいませんように。尾崎先生のことを考えると、悲しいのに、それでもちょっとこころが落ち着いた。だって、先生は大丈夫だって言ったから。先生の大丈夫は、いつだってわたしを安心させてくれる。だから、大丈夫だって、わたしも思える。それでも、でも、と思う。先生にも、もう会えなくなっちゃった。もっと、ちゃんと、お別れしたかったな。それに、結局、伝えられないままだったな。それで、よかったんだけど。ちゃんと、自分で戒めていたとおりに、お墓まで持ってきちゃったんだ。そう考えると、おかしくて笑ってしまう。でも、やっぱり、伝えたかった。先生に、言いたかった。ちゃんと、好きですって。折角お墓まで持ってきたのに、いまこうやって後悔しているんだから、どうしようもない。死んでも、まだわたしは尾崎先生のことが好きなんだ。
死んだのに、消えないなんて、この感情はなんて厄介で、うとましくて、大切で、いとおしいものなんだろう。

「…………、」

ごしごしと袖に顔を擦りつけて、涙を拭う。大丈夫。わたしは、まだ、大丈夫。絶対に、我慢するから、耐えきるから。ちゃんと、わたしのまま、もう人間じゃなくても、人のままでいたいから。だから、ちゃんと、死ぬから。もう一度、わたしのまま、死ぬから。だから、ちゃんと我慢できたら――――えらいなって、頭撫でてくださいね。


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