スリーピング・ロスト


臨也は在宅していた。
扉を開けてリビングに静雄が顔を出すと、彼は何やら難解そうな本に目を通しているようだった。瞳が真剣そうに日本語でない文字を追っている。
ふいに顔が上がる。
視線が交差し、すぐに凛々しい面に柔和な表情が浮かんだ。
静雄に気づいた彼は優しく微笑んで、ソファに座るように促した。
自分と入れ替わるようにして臨也は立ち上がり、キッチンへと向かった。対面式のキッチンはリビングからでも彼の姿が見える。いつもの風景だ。
呑み物は何がいいかと聞かれて、「任せる」とそっけない返事をする。これもいつものことだった。臨也の気分により時々に出されるものが違うが、静雄の口に合わなかったことは一度もない。
しばらくすると香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
今日はコーヒーらしい。





「はい」
「ああ……」

(――ん?)

手渡されたコーヒーに違和感を感じた。
何がというわけではなく、本能的な反射のようなものだった。それが静雄の指をとめた。

「…………」

臨也は背を向けて自分の分をカップに注いでいる。
無言で口をつける真似だけをして注意深く匂いを嗅いだ。コーヒーの香りに隠れて確かに知っている匂いに気づく。
どこかで嗅いだ匂いだと記憶を手繰ると、臨也との共通の友人であり闇医者でもある白衣の男が頭に浮かんだ。
白い部屋、様々な薬品の匂い。高校時代にまだ傷の治りが遅かった頃。
それでも数日あれば消えてしまう傷をわざわざ治療と称した観察をしたがった友人が、何度か自分に使おうと試みた。彼が常人に使う量では無駄だと悟ったのは高校最後の夏あたりだ。

(確か……)

――睡眠薬

思い至ったのは静雄でも知っている単語だった。
本来は無臭のはずの、その薬剤を嗅ぎ分けた自分を新羅は褒めた。
思わず顔を上げて臨也を見ると、本を手に対面のソファに腰を下ろしていた。そこにはなんの不自然さも感じられない。

「…………」
「…………」

無言の時間はいつもと変わりない。しかし静雄の胸中は普段のそれとは違う。
臨也はなんのために。それを考えずにはいられなかった。

(なんで――)

眠らせるためだけの薬だ。量を調節すれば死に至ることもあるだろうが、それでも静雄に有効かどうかは疑わしい。

(……なんで、よりによって)

毒ならよかったのに。
ふいに、そんなことを思った。
これが毒なら、躊躇いなく呑んだだろう。静雄にはその確信があった。
今までこんなふざけた関係につき合わせたせめてもの償いになるなら、彼に殺されることなどどうということはない。むしろこの場所で死ねるなら、それは優しさにも思えた。
こんないびつで嘘ばかりの関係の終止符は自分からはどうしたって打てない。だから、そうするのは臨也しかいない。そこから自分を解放してくれるのは彼だけだ。

「……呑まないの?」

僅かに指が震えた。陶器のカップから伝わる熱が指に痛い。それでもこれを置くことができない。呑むか否か。その選択ができるまでは。

「熱いんだよ」

苦しい言いわけだったが、臨也は笑って頷いた。

(どうする……どうしよう)

睡眠薬となると臨也の意図が読めない。静雄を眠らせてどうするつもりなのか、静雄自身想像がつかなかった。

――さっさと死んでよ、この化け物

――てめえが死ね!

懐かしい罵倒の応酬が甦った。彼のあの、憎悪に染まった目。今は見ることができなくなってしまったが、そっと隠れているだけなのかもしれない。
機会を窺って、そして今、それが巡ってきたのだろうか。

(そうか)

想像したのはやはり自分を殺害するという目的だった。眠らせたあとで心ゆくまでこの体を傷つけるつもりかもしれない。生半可な凶器で自分の体が傷つくとは思えなかったが、少なくとも臨也がその気なら何かしらの方法を練っているのだろう。
そうだとすれば、今までの恋人の真似事の理由も理解できた。
彼が辛抱強く我慢してきたのはこの瞬間のためなのだと、合点がいった。

「っ」
「……あ、忘れてた」

チャイムの音が静寂を破った。
狙いすましたようなタイミングに思わず肩が揺れる。鼓動が早まった。

「ちょっと待ってて。たぶん宅配便だから」

自分の動揺に気づいた様子もなく、臨也はそう言い残して部屋から出ていった。





「…………」

一人残された静雄は考える。そう時間はない。
思考することは苦手なはずなのに、この時ばかりは答えがすぐに出た。
カップを手に立ち上がると、すぐ傍の観葉植物のプランターに中身をすべて捨てる。
香りでばれないかと不安になったが、思ったほどではない。おそらく臨也は気づかないだろう。
急いでソファに座りなおし何事もなかったようにぼんやりと宙を見つめていると、荷物を手にした臨也が戻ってきた。

「ごめんごめん、時間指定してたの忘れて……」
「臨也」

彼の言葉を遮って名前を呼ぶ。できるだけ気だるそうな声になるように努めた。

「何?」
「……悪い、眠くなってきた」
「……そう」

臨也がすばやくカップに目を向けるのを静雄は見逃さなかった。
彼は穏やかな笑みを浮かべると静雄の隣に腰を下ろす。

「どうする? お風呂入る?」

わざとらしい問いかけに首を振る。

「いや……眠い」
「じゃあ、ベッドに行こうか。大丈夫? 立てる?」

臨也の手を借りて立ち上がる。もちろん眠気などあるはずもなかったが、足元も覚束ない演技は我ながら巧いものだと感心した。
廊下に出て突き当たりの部屋の前で、臨也は立ちどまった。

「ドア、開けるからね。入ったらすぐ右だよ」

ベッドの場所を指示されて言葉少なに頷いた。
扉が開けられると彼の言葉通り大きなベッドがあった。

(ここで――)

何もかもが終わる瞬間を想像した。
清潔そうな白いシーツが目に入る。物の少ない落ち着いた雰囲気の部屋だ。恋人になってセックスまでしているのに、この部屋には入ったことがなかった。

「…………」

こういった形で入ることになるとは思わなかったが、普段彼が寝ている部屋だと思うと心臓の鼓動が早くなる。
そこに横たえてもらえるなら、こんな形も悪くない。路地裏で対峙して殺す殺さないの日々が遠い。こんな最期ならどんなにいいだろうと、今さら幸福感に酔った。恐怖も怒りもない。
自分が望んだのはこういった平穏だと、あらためて実感したのだ。

「横になっていいよ。あとのことは俺が全部しておくから」

部屋は暖房がよく効いていて、少し暑いくらいだった。






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