スリーピング・ロスト
結局自分が変わろうが変わるまいが、日常はなんの変化もなく淡々とすぎていく。
最近は夜が長くなり、季節の移り変わりが如実に肌で感じられる。煙草の煙をくゆらせていると、どこからともなく馬のいななきが響いた。繁華街からははずれたひと気の少ない公園には珍しい音に顔を上げる。
案の定、公園の入口に一台のバイクがとまっていた。
静雄は越しかけていた花壇から立ち上がると、目の前に駐車したバイクへと近づいた。黒いライダースーツに向かって手を挙げる。
ヘルメットが緩く頷いた。やはり静雄に会いに来たようだ。
「どうした、珍しいな」
『仕事帰りだ。たまたまおまえを見つけて』
夕飯時の路地には家路を急ぐ学生やサラリーマンの姿がちらほらとあるだけで、あまり静雄たちに意識を向ける人間はいなかった。
邪魔にならない脇にバイクをとめたセルティに訊ねると、特に気を遣うでもない普段どおりの答えが返ってきた。
彼女とこうやって偶然会うことは少なくない。静雄の仕事が外回りのようなものであると同時に、常に街を駆けている彼女との遭遇率は自然と高くなる。
「そうか。……あの馬鹿は相変わらずか?」
『まあな』
共通の人間の名前を出すと、なめらかな動きでキーボードを叩く音がした。見せられた画面にはそっけない言葉しかないが、彼女が自分の友人に対して誰より優しい感情を抱いていることはよく知っている。
他愛ない近況を話しているだけでも心がほぐれる。
人と関わることが苦手なくせに、やはり寂しさを癒すのはこういった友人とのささやかな時間なのだ。
ふいに彼女が言葉を選ぶように、それまで起用に動いていた指がとまった。
『ところで静雄』
「ん?」
続いた言葉に目を細めた。黒い手袋に覆われた華奢な指が躊躇いがちに揺れる。
『最近、何かあったか?』
「……なんで?」
『気のせいだったらすまない』
慌てたように文字を叩く彼女に申しわけなく思う。問い返す声には棘があった。
人のいい彼女が自分を気遣ってくれていることはわかっている。数少ない心安い友人に対しても気を張ってしまうことに苦笑した。
『ただ、その、ちょっと空気が柔らかくなったというか』
文面に一瞬言葉に詰まる。
(――柔らかく)
それは暴力沙汰が減ったということか、それとも単純に優しくなったということか。
けれど静雄にはわかっていた。他人に対して常に一線を引く自分が変わるのはいつだって誰のせいか。
そんな自分の空気が和らいだというのなら、きっと殺意や嫌悪だと思いこんでいた感情が本当はなんのか。それに気づいたからだろう。
「……ちょっとな」
肯定の言葉にセルティは驚いたようだった。
『やっぱり。何があ――』
「あのさ」
『?』
彼女の指を遮って問いかけた。どうしたって変化がばれているのなら開き直ってしまえと、あけすけな気持ちになっていたのかもしれない。
「おまえ、新羅とつき合ってるわけだろ?」
『ほぇあ?』
静雄の言葉に明らかに動揺している。疑問符と一緒に映し出された言葉にもそれは見えていた。
何かを言おうとしているのだろう。けれど指が彷徨っている。打っては消し打っては消してを繰り返していた。彼と恋人になってそう日も浅くないだろうに、そんな初々しい反応を見せられるとこちらまで恥ずかしくなる。
そして、羨ましい。
『そ、そうだ。それがどうした?』
「つき合うってことはあいつが好きで、あいつもおまえが好きなんだよな」
ようやく文章になった言葉にさらに言葉を重ねる。あたりまえのことを聞いている自覚はあった。
こんなあたりまえのことを聞ける相手は、そしてそんな自分の質問に真面目に答えてくれる友人は少ない。
だから悪いと思いつつも訊ねることをやめなかった。
『……そうだ』
僅かな沈黙のあとの返答は簡素なものだった。そこには彼女なりの自信と現実が表されていて、下手な言い回しよりもずっと真実味がある。
「どんな感じ?」
『え?』
「愛されるって」
呟いてからしまったと思ったが、今さら訂正するのもおかしな話だ。戸惑う彼女に申しわけなく思いながら、視線をそらした。
(愛されてる……)
仲間意識や同族意識と呼べるものがあったのかもしれない。彼女は人ではなかったけれど、だからこそ自分と近しいものを感じていた。
初めて出会ったまだ学生の頃には、新羅とそんな関係になるとは思ってもいなかった。友人はいつも彼女への愛だとかいう静雄には半分も理解できない講釈を長々と語っていたが、完全に空回っているようにしか思えなかった。もちろん彼女が彼に信頼を置いていてそれなりの厚意を抱いていることは知っていたが、恋とは違う。彼女は街にとけこむことなくいつも独りで、そしてそんな俗っぽい感情とは無縁だと勝手に思っていたのだ。
そうであればいいと、自分勝手な願望だったのかもしれない。独りじゃないという、ただそれだけの確証が欲しかった。卑屈な感情だとわかっている。
その反面、友人の恋を喜ばしく思う気持ちも本当だ。幸せそうな彼女に寂しさを感じても、やはり嬉しさや楽しさを滲ませる姿のほうがいい。
セルティの人のよさも優しさも、身に沁みて知っている。そして新羅の彼女に対する一途すぎる想いも。
そんな二人が結ばれるというのはまるで幸せな御伽噺の結末のようで、心から祝福することができた。
友人たちの幸せな姿は自分には眩しすぎるくらいだった。
『……静雄?』
「深い意味はねえよ。そんな顔すんな」
おずおずと差し出された文字に苦笑する。
『いや、私に顔はないんだが……じゃなくて!』
今度は勢いよく突きつけられた。自分のらしくない言動に動揺しながらも、内容の意外さとそこから推測される事態に興味があったのかもしれない。
静雄は素直に答えた。隠すことでもない。
「ちょっと、興味があったんだ。そういうの、いいなって」
喉の奥が痛い。我ながら情けない。
『もしかして、好きな人がいるのか?』
視線を向けるとそんな言葉があった。よくわからない感情が胸に滞留している。笑おうと思っても頬が引きつってうまく表情が作れない。
「…………」
言葉はなく、ただ小さく頷いた。誰とはもちろん言わない。彼女が立ち入って聞かないこともわかっている。だから、話した。
自分のそういう姑息さが嫌いだった。
『なんだ、それならそうと言ってくれれば。よかったじゃないか!』
「そうかな?」
喜びを隠さずにセルティは静雄の肩を優しく叩いた。触れた手の温度があたたかい。人でない彼女も自分も、たしかにあたたかみがあるのだと実感する。
『あ。相手はまだ知らないのか? 静雄の気持ち』
「どうだろう。……そのへんはあんまりわかんねえな」
『でも、もちろん私は二人がうまくいくことを願っているが……少なくとも静雄が誰かを好きになったことが嬉しいな』
優しい言葉が胸に痛い。彼女が思うような綺麗な感情ではないことをうしろめたく思った。
それでもなんとか笑うことができた。彼女の優しさに報いる唯一の方法だった。
「ありがとな」
深くなった夜の冷気が肌に痛い。
言葉の虚しさには目を瞑った。
昔から見たくないものを見ない。そんなことだけがうまかった。
『時間を取らせてすまない。もしまた何かあったら教えてくれると嬉しい』
バイクにエンジンをかけた彼女が見せた言葉に曖昧に頷いた。
明るい話は聞かせられそうにないといいかけて、やめた。言う必要のない事実だ。
「こっちこそ聞いてもらってすっきりしたよ。遅くに引きとめて悪かった。新羅に謝っといてくれ」
『あいつのことは気にしなくていい。……あ』
「なんだ?」
『思い出した……今さらだが、新羅が時間があれば家に来てほしいって。もし静雄に会うことがあれば伝えておいてくれって言われてたんだ』
首をかしげる。
言われて心あたりを探ったが、何も思いあたるものがなかった。
『別に急ぎの用ってわけじゃないらしいから、空いた時間があれば来てやってくれないか?』
「時間はあるけどよ。……まあ、いいか。それなら明日あたり仕事終わりに顔出すわ」
ポケットに片手を入れて中の煙草を手に取った。
火をつけるとまるでそれが合図のように彼女がアクセルを回した。
『悪いな』
「いや、じゃあな」
『おやすみ』
去り際に交わした会話が馬のいななきに消えた。彼女には夜が似合う。
その姿が見えなくなってもしばらくの間、静雄は煙草を口に暗い路地を見つめていた。