私は貴方の従順なしもべ


十日前の夜のこと。
村にある唯一の教会が、大きく損傷した。
一夜にして半壊した神の館に、人々は驚きと恐怖を隠せなかった。
あるじである静雄は何も語らなかったが、そこで起こった出来事は教会の内部を見れば明らかだった。
大量の血に、灰。そして、その上に横たわる、ひび割れた十字架と剣。
窓から差し込む光に照らされたそれらは、幻想的ですらあった。
血の海に浮かぶ特殊な形をした十字架と剣の持ち主を、村人はみな知っている。

――神父がヴァンパイアを倒した

そんな噂が流れるのに、そう時間はかからなかった。
しかし、それは都合のいい虚実だと静雄だけが知っている。真実とはかけ離れた話が、ひとり歩きしているのだ。
まことしやかに語られる噂は、安寧を夢見る人々の願望にすぎない。

(だからって、言えるわけねぇ。あんな――)

誰もいない、廃墟のようになってしまった教会の中、静雄は静かにうなだれる。
自分の家でもある教会は見るも無残な有様だが、それでも一番の安息場所には違いなかった。
ほの暗く、静かなわが家は落ち着く。叶うならずっとここで閉じこもっていたい。

(ああ、嫌だ、嫌だ)

元からあまり出歩くほうではないが、あの一件以来、ますます外に出るのが億劫になった。
顔を見れば声をかけてくる村人。脚色された噂。称賛と羨望。

(……頼む。放っておいてくれ)

顔を上げる。西日が眩しく、手で遮った。
目の前には神の像と、そして、どす黒く変色した血だまり。錆くさい匂いが鼻をついた。

(ここで、俺、は)
「――ッ」

目の奥が赤く染まる。眩暈がして、体が揺らいだ。
赤から白へ。一瞬、何も見えなくなった。
滝のような汗が溢れ、頬を伝う。

「は……ぁっ……ハッ……」

息が上がる。
胃も痛むが、胸まで苦しくなってきた。

「う……」
(情け、ねえ)

外からの痛みには鈍感な自分が、こうも弱っているのがおかしくて笑いそうになる。
散々怪我をして傷を負って、そのたびに強くなった。今ではもう、静雄を傷つけることは、ただの人間には不可能に近い。治癒力も、もはや人とは呼べないほどだ。
なのに、今の自分ときたら。

「っく、そ」

信仰とはなんだったか。神の愛は、教会の教えは。
何もかもがわからなくなってしまった。今までの人生をすべて奪われたに等しい。
もはやここにいるのは敬虔な神父でも異形の力を持った罪深い人間でもなく、まるで迷子になった幼子のようにうろたえる実のない男でしかない。
けれど、村人たちは言う。

神の御使い。
聖騎士にも劣らぬ働き。
英雄と呼ぶにふさわしい。
汚らわしいヴァンパイアに死を。
勇猛な男。
化け物殺しは罪ではない。

「……ッ」

脳裏を巡る称賛の声は、まるで呪いのようだった。

(違う……俺は……)

違うのだ。何ひとつ、事実ではない。
真実はもっと、みだらで背徳的で、救いようのないものだった。

(英雄? 俺が? ……笑わせる)

どす黒い感情が湧き上がる。愚かなのは自身であると重々承知していたが、浅はかにもそんな自分を讃える人々を、もう慈愛の目では見られない。
心を侵食する影は、あの化け物を殺したからではなかった。
みな、好き勝手なことばかりを口にする。あの夜にあった本当のことを誰も知らない。

「くそ……ッ」

噛みしめた唇から鉄錆の味がした。握りしめたこぶしは色を失い、力のやり場を見失う。
恐れられるほどの力を持っていても自分が無力であることを、静雄は深く刻みつけられていた。

(……気が、狂っちまいそうだ)

叫び出したい衝動をこらえ、目を閉じた。思い出すのはいつでもあの夜のこと。忘れられるはずがない。
あの、夜。
勇猛な神父がヴァンパイアを倒したなんて。そんな英雄譚など、どこにもありはしなかった。





静雄の出自は定かではない。物心ついた頃には教会の施設にいた。
世話をしてくれた人間は何も言わなかったが、おそらく両親は自分を捨てたのだろう。静雄の特異な力は生まれつきのもので、教会にいるときでさえ持てあまされた。
自分と同じように身寄りのない子供から、世話をする大人まで。みながみな、自分を避けた。
不運は、神の家でさえ静雄に降りかかった。
ある者は化け物と言い、ある者は厄災と言い、またある者は生まれてくるべきではなかった子供と言った。そして、正義や神の名のもとに幾度となく殺されかけた。
人間離れした力があるとはいっても、当時は十に満たない子供だ。教会を出て生きるすべもない。
耐えるしかなかった。向けられる殺意や暴力に抗わず、ただひたすら小さく膝をかかえるだけだ。
何度も死線をさまよい、そのたびに死にきれなかった。

――どうして、俺は生まれてきたんだろう

自問することに疲れてしまった。
誰も答えをくれない。そのことに早々と気づき、静雄は諦めを覚えた。
期待せず、望まず、求めない。
そうすれば傷つくことはないと信じて、感傷を捨てた。捨てた、つもりだった。

そんな自分の身辺に変化が起こったのは、十五の頃である。
当時は大陸の各地で戦争が勃発し、不穏な時世だった。静雄の国も例外ではない。
近隣諸国や内政の情勢が悪化。教会は帰路に立たされた。
幸か不幸か、そのことで自分の人生は大きく動く。
静雄のように特殊な力を持っている人間は、数少ないとはいえ各地に存在した。教会は彼らの力に目をつけ、そこに活路を見出したのだ。

異形の力を持つ者は罪深い。
人にあらざる業を背負ったものは、人の比にならぬほどの神への忠誠と信仰を持たねばならず、生まれ持った力はすべて神に捧げられるべきである。
さすれば神の恩恵と慈愛をもって彼らは救われるだろう――。

本来ならば断罪し処刑の対象である存在を、協会は内部に取り入れみずからの力とすることで、聖戦と称した争いにいくつもの勝利を飾った。
多くを殺し、多くを捧げたものは聖騎士の称号を得た。
神はどんな人間も愛し、救いを与えてくれるという。
その愛に縋り、自分もまた神を愛していると思いたかった。そして、それを証明するため、静雄は狂信的なまでに教会に尽くした。
しかし、たとえ教会のため国のため、神のため。どれだけ尽くしても、本当の救いはない。
人々は忌避し、嫌悪する。残るのは血に染まった腕だけだ。

やがて戦火が終息し、平穏な時代が訪れた。
そうなると、かつては蛮勇をふるった彼らに居場所はない。
かといって捨てることも殺すこともできず、教会は苦肉の策として各地に彼らを派遣した。
表向きは神父として。けれど、身に纏う異様な空気は隠しきれるものではない。
村人の誰もが、静雄の存在が異端であるとわかっていた。わかっていて、知らないふりをする。
偏見や迫害がなくなったわけではないが、少なくとも生きる価値は約束された。
何せ、教会おかかえの聖職者だ。国の実権を握っている強大な力がうしろ盾とあっては、表立って害をなそうなどと愚かの極みでしかない。
うとまれつつ、生は許される。飼い殺されるだけの存在だった。






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