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「今日中に荷物をまとめろ」
「今日中……冨岡様、もう夜なのですが」
「夜の間に荷物をまとめて明日の朝にはこの屋敷を出るんだ」

 不慣れな左腕を細かく震わせて冨岡義勇は夕餉に出された青菜のおひたしを箸でつまみ、お膳から口元までの長い距離を落とさないように慎重に運んだ。香ばしい鰹節がふわふわと揺れて青菜の上からおよぎだしそうになるのを堪えて、やっと一口。
 配膳を終え急須から茶を注いでいた屋敷唯一の女中、苗字名前は急な主人の命令に困った表情を浮かべる。

「庭の畑には大根と白菜が植わっています。冨岡様にはお野菜のお世話なんて出来ないでしょう? それとも、別な女中をお雇いになるのですか」
「俺はあと三年のうちに死ぬ。だから、もういい」

 少しの塩引き鮭で握り飯を二口食べた冨岡の食い気はとても残りの寿命僅かな人間には見えなかった。右腕を失い両手を使うことが出来なくなった主人の為、片手でも食べられるよう名前が握った白飯二つのうち一つがあっという間に冨岡の胃に消える。
 名前はまる二年この男の屋敷に住み込みで働いた経験がある。彼が嘘をつける器用な人間でないことは分かっていた。

「鬼は根絶したと聞きました」
「そうだ」
「冨岡様たち鬼殺隊は解散したのでしょう」
「ああ」

 人食い鬼の原種、鬼舞辻無惨は冨岡たち鬼殺隊の手によって永遠に葬られた。
 あまたの犠牲と癒えない傷の上に鬼の根絶という悲願が成就し、半年以上が経過した。
 名前は鬼を見たことがない。苗字家の親戚が鬼に食い殺されその生き残りが隠になった伝手で冨岡の屋敷に女中として住まうことになったが、終ぞ彼女の人生に鬼が登場することはなかった。

「鬼は死んだのにどうして冨岡様の命が脅かされるのですか」
「……はあ」

 油揚げの入った味噌汁をすすった口で冨岡はため息をつく。自身の進退がかかっている名前は引き下がらなかった。
 緑茶の注がれた湯飲みを膳に置いて感情の薄い主人の顔をじっと見つめる。

「ここに痣がある」
「どこです?」
「ここだ」

 汁物の椀を置いた手でそのまま己の左頬を示す冨岡だが、そこには白い皮膚と米粒が一つあるだけで痣はどこにも見当たらない。
 名前無礼を承知で彼に近づき指を伸ばして米粒をつまみ、自分の口にひょいと入れた。我ながら塩加減が絶妙だ。

「お米粒しかありませんでしたよ」

 冨岡はたまに真顔で冗談みたいなことを言う。
 本人はいたって真面目らしいが彼の心の声が聞こえるでも無いので、他人から見ればすっ呆けている様にしか見えないのでさまざまな誤解を生んできた。
 冨岡は名前の小さな口に消えた米粒と自分の口元を交互に見て耳輪を赤くした。冨岡と名前は同じ年の頃だったが二人姉弟の下と、五人姉弟の次女という生い立ちのせいか、冨岡は時折こうして主人でありながら世話を焼かれる弟みたいに扱われる。

「見えなくともあるんだ、ここに、痣が」
「はい、わかりました」

 再三指さされた冨岡の頬には確かに痣がある。それは特定の条件を満たすと浮かび上がり平時では見られない。痣は鬼との戦いを終息に導いた勲章であり、それ故に冨岡や不死川たち痣者が長く生きられないことの証明だった。

「鬼を倒す為に生命力を燃やして発現させた痣だ。痣の出た者は代償として齢二十五まで生きられない。燃やした命は二度と元には戻らないからだ」

 冨岡の年齢は鬼との決戦を終えて誕生日を迎えたため、二十二を過ぎている。だから彼は名前に「あと三年で死ぬ」と宣告した。
 側で黙って話を聞いていた名前の喉がひゅ、と空気を吸って虚しく鳴る。

 名前はまだ大切な人を喪う悲しみを知らない。

 苗字の実家では両親、嫁いだ姉以外の三人の弟たちがつつがない日々を過ごしている。家族の暮らしを堅実に守り、鬼に襲われることも夜盗に襲われることもない、平穏だからこそ本当はたもつのが難しい生活の中で彼女は育った。
 その後、水柱の屋敷に勤める以上他の柱や鬼殺隊の隊員との面識もいくらかあったが、屋敷の主が冨岡ともなればそう多くの人が屋敷を訪れることはなかった。一時期足しげく屋敷に通い詰めた竈門炭治郎ぐらいしか気軽に挨拶を交わす仲の者はいない。
 苗字名前はこの時代において月並みな、どこにでもいる娘だった。

「先の長くない主人に仕えて時間を無駄にするな」

 一息つくために名前の淹れた茶を飲んだ冨岡がほろりと笑った。
 角のとれた氷が音もなく崩れるような、畑の葉についた一滴の朝露が地に落ちるような、穏やかな静寂をたたえる冨岡の微笑みに名前の胸がつまる。
 名前は自分の主人がこんなにも優しく笑う人間だと知らなかった。
 二年も同じ屋敷に寝起きしながら冨岡と名前がゆっくり顔を合わせるいとまはなかった。水柱を担う冨岡は夜な夜な鬼を狩り、日中は割り振られた警備区域を練り歩いて警備を怠らず、また夜が来れば刀を振るって鬼の首を断つ。空いた時間に屋敷に帰る主人に合わせて名前は飯を作り、湯を沸かし、布団を敷いた。ただの女中と無駄話をする時間など一切ない過密な日取を冨岡はこなしていた。
 名前が日常話す相手は町の人であり、屋敷のご近所さんであり、時間を作って顔を出す親戚の隠ぐらいだったし、彼女もそれで満足していた。
 そもそも冨岡は生来口が達者な男ではない。口下手が災いして周囲の人間とのあいだに軋轢を生むこともしばしばある。
 名前は別に冨岡の口数の少なさを気にはしなかったし、むしろ好ましかった。

「このお屋敷で過ごさせていただくことほど有意義な時間はありません」
「だが苗字、おまえもそろそろ嫁にいく年だろう」

 冨岡は口下手で、しかも女心の機微に疎い男だった。
 名前もそれは十分承知しているので今さら気分を害さない。

「私、今がとても幸せです」

 苗字名前は小さな商家に生まれた。
 家事手伝いと針仕事を繰り返す毎日は今思えばひどく色褪せたつまらない日々だった。
 日の出よりも早く起きる母に倣い、名前は眠る弟たちの部屋を素通りして台所へと向かい姉と一緒に朝餉の支度を手伝う。米が炊き上がる頃に起きる父親は妻や娘達には目もくれずに座布団に着き当然の様子で飯を待つ。それに慣れ切った母親もなにも言わずに膳を用意し、名前もろくに口を開けずに端の席で味の薄い魚を齧った。
 女は出しゃばらず、常に少し下を向いて、男をたてるのが美徳なのよ。
 これが名前の母の口癖だった。現に、母や周りの女性はいつも能面のような表情で夫に付き従い、枯れ落ちる寸前の萎びた椿のように首を折っている。母が半歩でも父の先を歩こうものなら、いつもはかっ達に話す父が怒声で母を制するのが名前は怖かった。
 女は男より強く賢くなってはいけないの。いつも弱く、分からないふりをしているのが幸せなの。
 これも名前の母の口癖だった。
 名前は母や姉とはちがい針仕事や繕いものが好きになれなかった。かえって親戚たちのように日の下で田畑を耕す方が好きだった。けれど、彼女の母親は娘が土まみれになるのを父親以上に忌避し、時に目に涙をためて止めさせるので、母を悲しませるのは本意ではない名前はしぶしぶ土を落とした手で針と糸を掴むのだった。
 苗字家はこの時代のどこにでもある家父長制の敷かれた家だ。外れてしまったのは名前であり、子どもの頃は靄だったものが心の成長と伴って確かな違和感に形を変えて彼女の胸にいくつも小さな穴を空ける。堅実な家族は嫌いになれないけれど、ひどく居心地が悪くて呼吸さえ苦しい。
 その穴を埋めようと名前は親戚の隠を頼って住み込みの女中をはじめた。その屋敷こそここ、冨岡の住まう水柱の屋敷。

 名前はここでの生活を心の底から愛していた。
 着任早々鬼の討伐に出向いた家の主に代わり名前が荒れた庭を整え、許可もとらずにささやかな菜園を耕した。一か月弱の任務を終え新たな住まいに戻った冨岡は庭の一角を占拠する豊かな緑に驚いたが、せっせと雑草を抜き一所懸命に水を撒く名前の丸まった背に「戻った」と一言投げかけて、女中の勝手を広い心で許した。
 多くの言葉を交わしたり長い時間を共に過ごさなくとも、名前は自分の主人が好きだ。
 冨岡は名前の土いじりを咎めない。それどころか大根の種を与えて育てるように言ってくる。ただそれだけで名前は冨岡も、彼を支えるこの生活も、屋敷も、全部をいとしく思い、大切にしたかった。

「きっと私にとって結婚は自分の幸せを大きく左右するものではないのです」
「………」

 切れ長の冨岡の目が大きく開き、生まれて初めて雪を見た子どもみたいな表情を作る。
 祝言を前にした姉の蔦子は美しく、冨岡は女の幸せは結婚にあると思っていた。
 女の幸せは結婚して家庭を守ること。
 おそらく大多数の女性がそう母親や周囲から説かれ、それを信じて結婚する。大正はそういう時代だ。
 冨岡にとっても名前は大切な女中だった。
 実は名前が来る前に別な女中がいたのだが、三日ともたずに辞めてしまったのである。
 わずか三日でなにがあったのか、いったい何が気に入らなかったのか。理由が気掛かりではあるが冨岡は女中に「(仕事が辛くて辞めたいのならば自由に)出ていけ、俺は構わない」といつもの言葉足らずをきめてしまい、女中は己は嫌われていると勘違いをしたまま半泣きで屋敷を飛び出した。その後釜が名前だった。
 前例に違わず冨岡は名前に対しても辛辣と誤解される態度で接したが彼女は全くへこたれなかった。土いじりさえ認められれば名前はその他のことは気にならない。それに冨岡は厳しい言葉を選んだとしても、彼女の父親と違って声を荒げたりしなかった。
 繕いはお世辞にも上手いと言えないがよく働き、庭で採れた新鮮な野菜で料理を拵える名前を冨岡はすぐに気に入った。

 名前が大切だから、冨岡はいつ死ぬか分からない自分に付き合わせ彼女の人生を浪費させるのが申し訳ないのだ。
 二十を過ぎたとはいえ今ならまだ彼女の縁談も間に合う。死への直線を進むしかない男の世話で結婚の機を遅らせるのは忍びないと屋敷から送り出そうとする冨岡の誠意を、名前はばっさり断った。

「冨岡様の余命があと三年というならば、なおのこと私が必要ではありませんか。私がここを去れば冨岡様の身の回りのお世話は誰がするのです? お洗濯もお料理もあなた様おひとりでは難しいのに。別の女中を雇うにも三年という期限付きではそう簡単に見つかりはしませんよ」
「………」
「この屋敷につとめて二年、とても充実しております。後生ですから私の人生の幸いを取り上げないでください」

 名前は目の整った畳に額をこすり付けて冨岡に懇願した。
 あと三年のうちに冨岡は死に、名前の愛する生活は主人の死と共に消え去る。
 今の彼女ではその最期をうまく想像出来なかった。
 冨岡を看取ってやりたいという驕った気持ちは彼女にない。ただ、自分に軽やかに呼吸させてくれる生活を与えてくれた主人が息を引き取るまでは、自分のもてる限りを尽くして利き腕を失くした彼の暮らしから不自由を取り除きたかった。
 じり、と藺草で皮膚がひきつる音が静寂になった。

「わかった。これからも頼むから、顔をあげろ」
「荷物をまとめて夜明けに出ていかなくてもいいのですね」
「そうだ」
「よかった」

 なかば強引にゆるしを得て顔をあげた名前の視線の先で冨岡が困ったように眉尻を下げている。

「これで今夜もぐっすり眠れます」

 藺草にすれてほんのり赤くなった額を右手で隠して名前が笑った。その笑みに冨岡は根負けしたのだった。



 女中の朝は早い。
 とりわけ名前は朝の炊事前に畑の水やりをはじめるのでいっそう起きるのが早かった。実家住まいの頃より早まった起床時間だが、彼女は毎朝気分よく目を覚ます。寝起きとは思えない素早い動きで布団をしまい身支度を済ませ意気揚々と屋敷の外に出ると、そこはまだひとけもなく、おごそかな空気に包まれていた。
 胸をふくらませ深呼吸をする。
 夜の暗闇に守られしっとりと水気を含んだ土のにおいが鼻の奥に広がる。秋のはじめらしく高く澄んだ空のつめたさを名前は肺いっぱいに満たした。
 その日いちにちをはじめる彼女流の儀式を終えてざっと畑を見渡す。
 白菜は順調に育ちうす緑の葉を四方にのばしている。あと二月三月も経てばひもで縛って形を整えるのに足りるぐらい大きくなるだろう。大根は白く小さな頭を土から覗かせているが葉ばかりが立派な気がする。何枚かちぎって佃煮にしてもいい。縦にも横にも成長した茄子は夏ほどではないが秋に移った今もぽつぽつと実をつけてくれていた。
 それぞれの数は少ないが白菜、大根、青菜に茄子と数種類の野菜が並ぶ見事な菜園を育て上げた名前はもはや女中を越え小作人の域に踏み込もうとしていた。

 冨岡の屋敷は鬼殺隊の柱の住まいにも関わらず日を追って茂っていく畑を揶揄し、時に「兵站屋敷」と呼ばれたりもした。実際、先代当主の産屋敷耀哉も名前の作った野菜を気に入り妻のあまねや隠を遣わしていたので「兵站屋敷」はあながち間違いではない。

 夏に比べて小ぶりな茄子を少しと大根の葉、シソを茎ごと摘んだ名前はそれらを竹編みの籠に入れ、土がしめるほどの水を撒いてから屋敷に戻った。草とりや虫とりは朝餉の後にしてもいい、秋は夏と違って日中に野良仕事をしても暑くないから。
 土のついた着物を取り替えた名前は割烹着姿で土間に立ち竈に火を起こした。冨岡の屋敷は水道も電気も通っている。苗字の実家が名前が十五を過ぎた頃ようやく電気を引いたのを考えれば、この厨には快適に料理をできる環境が整っていた。

 水を煮立たせてきぱきと野菜を切り、研いだ米を炊いて朝餉の用意をする。今日の味噌汁には皮をむいた茄子と一緒に刻んだシソも入れてみよう。きっとさっぱりとして朝は食が細い冨岡も食べやすいはずだ。他にはたまごを焼いて昨晩の残りの塩引きを出せば立派なものになる。
 せっせと厨を動き回る名前の少し赤い額を朝日が照らした。次第に屋敷の外からも人の声が聞こえてくるような時間になっても、屋敷の主人が寝室から出てくる気配はない。

 ここ数日、冨岡の目覚めが遅い。
 今まで夜もろくに眠れぬ日々を過ごしていたので褒美として惰眠を貪っているのか、本当は朝に弱い体に鞭打っていたのか。真偽は名前にも分からない。それだけならまだ良いが名前にはもう一つ心に引っかかる点がある。
 洗濯に出された冨岡の寝間着が汗でぐしゃりと濡れているのだ。
 一日ならまだしも三日続けて汗を絞れそうな寝間着を出されれば不安に思う。秋口になり夜は肌寒さも感じるため、布団を厚手のものにかえるか尋ねた時も冨岡は「まだいい」と首を横にふった。
 夏から秋にかけての寒暖差で風邪をひいたのでは。そう心配して名前は冨岡の顔色をうかがうが昼間の主人はいたって普段通りで、深く考えすぎたかと淀みの晴れない胸を押さえる。

「おはよう」
「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか」
「……ああ」

 名前がお膳を置いたところで瞼を半分落とした冨岡が戸を引いて茶の間に入ってきた。まだまだ寝足りないと書いてある顔はこころなしか青い。首から手ぬぐいを下げ髪から落ちる水滴を見て、起きてすぐ寝汗を流すために水を浴びたのが分かった。
 表情をくもらせた名前はすぐさま熱い茶を注ぎ座布団に腰を下ろした冨岡の傍に寄る。

「ぐっすり眠れた人の姿には見えません」
「おまえには関係ない」

 名前から湯飲みを受け取りつつ冨岡は彼女の心配をにべもなく切り捨てた。たいていの女中ならこの冷たい態度に怯んで続く言葉を飲むが名前はそうはいかない。

「冨岡様がやつれた顔で外にお出になれば、あそこの屋敷の女中は主人にろくな食事も出さないのかと噂されてしまいます。そうなれば私も無関係では済みません」
「む……」

 それはよくないな、と茶をすする冨岡の唇がぴたりと横に結ばれた。
 三年後、名前が望まなくても彼女は新しい働き先か嫁ぎ先を探す必要がある。その際に相手の心証を悪くする噂が残ってしまうのは冨岡も望まない。

 むむ……。閉じた口の中でうなる冨岡の心が名前には透けて見えるようだった。

「そう真面目にお悩みにならないでください。ただ……そう、ただ冨岡様のお体が心配なのです」
「苗字」
「さあ、冷めないうちに召し上がってください。おにぎりはいつもより小さく握りましたから、少なければまた握ります」
「……」

 冨岡に二の句を継がせず名前は深く頭を下げて茶の間を出た。
 仕方なく見下ろした冨岡のお膳の上。
 今以上に主人の食が細まらないように握られた食べやすい大きさのおにぎり。汁気を吸ったやわらかな茄子の味噌汁からは食欲を刺激するシソの香がただよう。全部、名前の用意した朝餉には冨岡への心くばりがちりばめられていた。



「よいしょ」

 かこん、と小気味よい音をたてて薪割り台の上でクヌギ薪が二つに割れた。たすき掛けをした名前がまた斧を振り上げ、下ろす。かこん、かこんと音を重ねるごとに名前の周りに薪が増えていく。

「ふー……」

 名前いわく、鬱々した気持ちを払拭するには薪割がよく効く。らしい。
 薪の蓄えは豊富にあった。しかし、からになった冨岡のお膳を下げ自身も朝食を済まし、水をはった桶を前にさあ洗濯だと手に取った男物の寝間着の汗のにおいに、名前の肝が冷えた。
 ざぶざぶ飛沫をたてて洗濯板に寝間着をこすり付ける名前の迫力に、朝の厳しい言葉を詫びようと裏庭を訪れた冨岡も気配を消してそそくさと立ち去った。一応、彼の心にも己を心配する存在を無下にした後悔がくすぶっていた。
 訓練を受けたでもない名前はそんな主人の存在に気づかぬまま竿に洗濯を干して、一息もつかずに薪割の斧を握りしめた。

 冨岡はあきらかに無理をしている。
 青白い顔色にくわえ、目の下にはうっすらと隈もできていた。まともな睡眠がとれていない証拠だ。
 名前は医者ではないので冨岡の不眠の原因が分からない。季節の変わり目に風邪をひかせてしまったのか。それとも、今まで人生を捧げていた鬼殺隊が解散し生きるよすがを見失ったが故の虚無感が肉体に影響しているのか。肉体苦が先が精神苦が先か。

「はあ……」

 割った薪を縄で束ねて屋敷の壁に沿わせて積む。身の丈よりも高く積み上げられた薪は冨岡を心配する名前の気持ちさながらだった。



 その晩、名前は二の腕の痛みで夜遅くに布団の中で目を覚ました。
 昼に八つ当たりの薪割で両腕を酷使したツケである。重い斧を肩より高く持ち上げるのは見た目よりも重労働だ。以前は冨岡も薪割を手伝っていたが、右腕を欠き肉体の均衡をなくした主人が左腕一本でよろよろと斧を振り上げる危なげな状況を名前が目撃し、悲鳴交じりの声で止めてからは彼女がすべての薪を割っている。
 当日のうちに筋肉痛がくるのはまだ若い証拠、と誰も聞いていない言い訳をして彼女は薬箱をとりに私室を出た。

 職業柄、怪我の絶えない柱たちには蟲柱の胡蝶しのぶが調合した薬入りの箱が配られていた。
 本来は柱の為の軟膏や飲み薬だが、冨岡は自分は柱に相応しくないという思いもあり女中に自由に使うよう箱ごと管理を丸投げしていた。鼻をつまみたくなる生薬独特のにおいがする箱の中には打撲や筋肉痛に効く軟膏も入っている。主人が柱を引退してからはめったに開かなくなった箱の存在を思い出し、名前は冷えた床板の上を進む。
 途中、名前は冨岡の寝室前を通るようつま先の向きを変えた。昼食も夕食もしっかり完食したが心配なものは心配だった。

 寝室に忍び込むわけじゃない、少し前を通って様子をうかがうだけ。

 また自分自身に言い訳をして視線を上げる。すでに明かりの落とされた冨岡の部屋は暗く、名前は主人を起こさないように忍び足で近づいた。そろそろと床の上を擦る足先からじょじょに熱を奪われる。
 襖の前にたどり着き、名前は耳に手をあてて横にそむけた顔を寄せる。

「……う、うう………たい……」

 冨岡のうめき声が聞こえ、足元の冷えが脳天まで一気に駆け上がり名前の全身を凍らせた。
 主人の苦しむ声に居ても立っても居られない彼女は女中という身分をわきまえない行為だと知りながら、大急ぎで襖を引いて部屋に入った。

 部屋の中で冨岡は掛け布団をもつれさせ、歯を食いしばり、左の手のひらで力いっぱい右の肩を握りしめていた。
 体じゅうからふき出た汗で色の変わった寝間着のはりついた背が丸まり、伸びて、また丸める。もがく膝下は敷布団を飛び出し、畳ですれたふくらはぎにみみず腫れが出来るほど。しかしながら現実の痛みを越えるなにかに蝕まれた冨岡の両目はゆがむ眉の下できつく閉じられたままだ。
 いつも凪いだ湖面のように感情を表に出さない冨岡が、全身から堪えきれない苦悶をあふれさせている。

「冨岡様!」

 こんな痛ましい姿、見ていられない。

 名前は我慢できずに部屋の明かりをつけ、冨岡に駆け寄りその隣に膝をついた。
 着物の上からぎりぎりと肩を毟る自傷行為に似たそれを止めようと両手で冨岡の左手を握るが、名前の力では到底男の、まして柱として鍛え上げた男の力には敵わない。

「いたい……うう、あ……」
「冨岡様、起きてください!」

 爪を立てた肩が痛いのか、縫合された傷口が痛むのか。別のなにかが痛むのか。名前には主人が苦しんでいるという現状しか分からなかった。

 とにもかくにも、冨岡に理性を取り戻してもらうほか彼の苦痛を止める術がない。

「起きてください冨岡様、起きて!」
「ああ……うっ………だれ、だ……」
「苗字がここにおります、冨岡様」
「苗字……」

 冨岡の顔にかかる前髪を丁寧によけて、名前はもう一度大きな左手に自分の左手を重ねた。
 汗のにじむ手の甲を指先で撫ぜる。つよくかたい骨の浮き出る関節を包んでほぐす。

「はなれないんだ、右手から」
「なにがはなれないのですか?」
「こぶしがひらかない、刀を、にぎったまま」

 まつ毛をふるわせ冨岡がうわ言のように繰り返すのを聞き、名前は彼の右肩の先を見た。少し前まで刀を握っていた利き腕。鬼の頭目との戦いでどこかに置き去られてしまった。布団に倒れる彼の右半分にはもう、腕も刀もない。

「鬼は滅びました、冨岡様が刀を持つ必要はありません」
「だが、夜がくる……守らなければ……」
「鬼殺隊のみな様が私たちの夜を守り通してくださいました。だからもうよいのです」

 名前の必死の呼びかけに冨岡の瞼が薄く開く。焦点の定まらない瞳は名前を突き抜けて天井の向こう、夜の虚空を見上げている。

「いいのか……おれはもう、夜を守らずとも……」

 喉を圧す乾いた空気の隙間から無理に絞り出した、聞くだけで胸が痛むひきつった声。
 名前の手の中で一瞬肩を握る冨岡の力がゆるんだ。その機を逃すまいと名前は彼の握りこぶしと右肩の間に自分の右手を潜り込ませた。

「ええ、ええ……もう大丈夫ですよ。ほら、冨岡様の右手はここに、刀ではなくご自分の左手を強く握っていますでしょう」

 うつろな瞳が空中をただよった。名前は身を屈めて上体を冨岡につける。
 名前の声に導かれるように冨岡の左手が彼女の右手にすり寄り、握られていた拳がわずかに開かれその右手をつかまえ、祈りをささげるように指を互い違いに絡ませた。
 存在を確かめる二人の手のひらがくっついた時、冨岡の目にかすかな光が戻る。

「そうか、つかんでいたのは……おれの右手か……」
「めいっぱい強くつかんでいましたから、痛いはずです。さあ両手の力を抜いて、そうすれば痛みも引きます」

 節の目立つ冨岡の指が開いていくのに合わせて名前も自分の右手をそっと開いた。
 少しずつ少しずつ、手のひらが開かれると共に冨岡のこわばった体の力も抜けていくのが、隣に伏せる名前にも伝わった。
 刀を握り続け皮の厚くなった大きな冨岡の手と、清潔を保つため短く爪を整えた名前の小さな手は似ても似つかない。しかし今の冨岡にはその二つの手が両方とも自分の手に見えている。
 名前は呼吸の間隔まで冨岡に合わせ、彼の動きをそっくり真似る。
 ひきつっていた吐息がなめらかになると、大きく上下していた肩もしぼんでいく。
 見つめ合った男女のはざま、残された最後の小指がのろのろと剥がれ、一対の手は完全にはなれた。

「ひらいた」
「ええ」
「もう、にぎらなくていいのか」
「あなた様の夜に、もう、刀は必要ございません」

 滅の文字を背負ってから今まで、冨岡は無防備な自分の手のひらを握りつぶしてきた。
 亡くした姉を、友を、仲間を弔うために重ね合わせた祈りの手のひらがほどけていく。
 冨岡のひどくながい夜がようやく終わる。
 片時も刀を手放せないはりつめた夜が。
 安らかな眠りではなく怒涛をつれてくる夜が。

 開かれた己の手のひらを見いる冨岡の片目から一筋の涙が流れた。
 伏せていた体を起こした名前は冨岡の乱れた寝間着を整え掛け布団をなおしてやる。
 そうして二度、三度、布団の上からあやすように主人の体をさすったら、彼の瞼がやわらかに閉じていった。

「どうぞおだやかにお眠りください」