END

 早いもので彼女が妻となってから半年が過ぎていた。出会いの頃の梅雨空も、今ではすっかり肌寒い師走の空へと移り変わっている。
 鬼との抗争は激化の一途を辿り、長丁場にもつれ込んだ任務から帰る俺の頭には白い包帯が巻かれている。防ぎきれなかった鬼の爪が右のこめかみ近くを掠りひどい出血騒ぎになり、帰宅を急く俺を胡蝶が「頭部の怪我を甘く見るな」と一喝、予定よりも家に戻るのが遅れてしまった不名誉な傷である。柱の負傷は隊士の士気にも関わる問題だ。目立つ傷をこさえてしまった己の不覚を反省し、更に鍛錬を積まねばと気を引き締める。

 それはそれとして、早く彼女や千寿郎、父上の顔が見たいと歩幅を広めると、靴の先に白い結晶が降ってきた。

「雪か、もうすっかり冬だな」

 誰に言うでもなく呟き、羽織を首元まで引き上げかじかむ寒さを凌ぐ。
 踵を鳴らし進めば隣近所の人々から労いの言葉をもらい、中には「奥さんが子どもの看病を手伝ってくれた」「奥さんと弟さんが一緒に庭掃除をしてくれた」等の感謝の言葉も交り、有難いと応えてより足を速める。あの煉獄家にハイカラな嫁が来たと界隈は盛り上がったそうだが、彼女の人柄でたちまちご近所の仲間入りをしていたのは夏のあたりか。
 待ちわびた屋敷の塀が見え大人げなく駆け出す。葉の落ちた庭木を通り抜け、勢いよく玄関の戸を開けた。

「戻ったぞ!」

 よく通ると自負している声で家人に帰りを伝えると、すぐさま名前が出迎えに現れる。
 俺の贈った緋色の丸紋があしらわれた着物を纏った妻は今日も美しい。

「お寒い中のお勤めご苦労様でした」
「君も、留守の間よく家を守ってくれた」
「槇寿郎様と千寿郎くんがいらしてこそです」

 靴をそろえて家に上がる俺に歩み寄り手ぬぐいで俺の頭や肩の雪を拭く彼女から、ふわりと香ばしい醤油の香りがする。今日の夕飯は煮物だろうか。時折素肌に触れる指先も温かく、釜の近くにいたと分かる。蝶屋敷で療養中は薬や病人食で腹が満たされる事は無く、ようやく妻の手料理がたらふく食べられると心が躍った。出来れば味噌汁やお吸い物といった体の温まる汁物も食べたい。
 期待を隠しもしないで微笑む俺の額に、彼女の指が近づき、止まる。見上げる瞳が不安に陰り、眉が八の字に下がる。

「お怪我はもう大丈夫なのですか?」
「心配をかけたがもう大丈夫だ。この通り十二分に回復している! 君の作った飯を食べればもっと良くなるさ!」
「それでは、たんとお米を炊かなければいけませんね」
「夕飯は煮物か? 君から食欲のそそる香りがする!」
「白身魚の煮つけですよ。たくさんご飯が食べられるよう味をこってりと濃くしましょう」
「考えただけで腹が鳴ってしまいそうだ!」

 彼女の物憂い表情を笑い飛ばして、本当に同じもの食べているのか不思議に感じる細い腰を抱え上げた。その場でくるりと一回転して鼻先をこすり合わせる。瞬きを繰り返した彼女が赤く頬を染めて軽やかに笑った。

「千寿郎から君とダンスを踊ったと聞いたぞ」
「父の手記に外の国の舞踏会について書いてあったのが気になったと、少しだけ」
「弟ながら妬けてしまうな、俺だって君と踊ったことは無いというのに!」
「杏寿郎様はダンスがお上手なんですか?」
「いや、からっきしダメだ! そも踊ったことがない!」

 歌舞伎を見るのは好きだがな! 等といつまでも玄関でじゃれ合っていると千寿郎が彼女を呼ぶ声が聞こえてくる。彼女を下ろし並んで廊下を歩き安堵の息をつく。

 ああ、今日も無事に帰ることが出来たのだと深く感謝した。

「それでは甘露寺様は継子をお辞めになられたのですね」
「甘露寺の呼吸は炎に似て非なるもの、恋の呼吸というらしい」
「恋の呼吸……甘露寺様らしく可憐で胸がそわそわしてしまうお名前」

 湯浴みの前に二人で室に戻り、会えない空白をひとつひとつ言葉で埋めていく。どうにも彼女は甘露寺のことをいたく気に入っており、名前を呼ぶ時などまさに恋に落ちた乙女の如くである。
 以前、同性である甘露寺に嫉妬したと示した事を都合よく忘れている彼女は、依然としてうっとりと胸に手をあてた。

「杏寿郎様の継子でなくなってしまったのは残念ですけど、ご自身で新たな道を切り開いていく甘露寺様、憧れます……」
「こらこら、あまり甘露寺ばかり誉めてくれるな」
「もちろん旦那様の炎の呼吸も素敵です」
「そういう意味で言ったわけでもないんだがなあ」

 しかし、彼女に友と呼べる人が出来たことは純粋に喜ばしかった。煉獄家の嫁として、そして今でも藤屋敷の頃のように積極的に鬼殺隊の為にと精力的に活動している彼女にはいつまでも頭が上がりそうにない。そんな彼女が一時でも肩の荷を下ろし、同年代の少女と同じように笑っていられるのであれば多少の嫉妬は我慢しよう。出来る限り。

「そういえば、名前はなぜその反物を選んだんだ?」
「どうしたんです、急に」
「君が初めに選んでいた時は藤や萩を手に取っていたから気になってはいたんだ」
「それは……前にも申した通り、緋色が杏寿郎様のようで」
「それだけか?」

 それだけか、というのも辛辣な言い方だが、どうにも引っかかる。
 あれ以降、もう一着ほど着物を購入する機会があったが、彼女は迷わず萩の柄を選んでいた。なにがどう引っかかるかと聞かれると言葉にし難いが、追究の声に目を逸らし耳を赤くする彼女を見るに、やはり何か隠している。隠されれば隠されるほど、人は明らかにしたくなる生き物だ。俺の贈った着物の袖を揉んでは離し、どうしても言わなければいけないのか、そう雰囲気で訴えてくる。

「どうしても名前の口から聞かせてくれ!」
「わたくしは旦那様のその素直なお口に弱いというのに」

 やれやれと首を振り観念した彼女が着物の柄を指先でなぞる。伏せられた目の豊かな黒色から、研鑽を積んだ彼女の才知が満ちていた。時折見せるその思慮深さに、学のある子女なのだと改まって思い知る。

「丸は始点と終点の無い形から永遠や終わりのない、そういった意味を持っています。そしてえん、円は同じ読みの『えにし』とも掛けられます。緋色の糸が円を描く着物に袖を通すとはすなわち、わたくしの縁は終わりなく煉獄家と結ばれておりますと、わたくしなりの覚悟のつもりだったのです」

 話すうちに開き直った彼女に対し、俺は咄嗟に面を見られないように反対側に首を回した。反動で肩に伸びる筋がごきりと不穏な音を立てるのも構わずに。

 よもや、彼女があの時そこまでの決意を胸に秘めていたとは思わなかった。俺とて今日まで生半可な覚悟で彼女の手を取り、寄り添ってきたわけではない。しかしこれは、いやはや、予想以上の愛慕をくらってしまい一本どころか百本取られた!

「ではその熱い思いに応えて、俺からこれを贈ろう!」
「杏寿郎様、明後日の方向を見たままお話になられても困ります」
「今俺はとても情けない顔をしているから少し待ってくれ!」
「まあ」

 両手で勢いよく頬を叩いて気合を入れる。あまりにも気前よく叩いたせいでよく響く音が鳴り「お怪我をされてるんですから無茶なさらないで!」と窘められてしまった。首も頬も額も痛んだが、何より目の奥が熱くなる程照れてしまっていた。

 気を取り直し俺はいつ渡そうかと機会を窺っていた桐の箱を棚の奥から引き出す。
家にいる名前に悟られないようにと細心の注意を払った甲斐あり、見覚えのない木箱に目を瞬かせる彼女に、いよいよ俺の間合いに引き込めたと胸を張る。

 ささくれの無いよく鉋の効いた上質な桐の蓋には、彼女の着物を選んだ呉服屋の印が彫られている。粛として畳を滑らせ彼女にその箱を差し出し、潔く正座した膝上にこぶしを乗せた。彼女も真摯に背筋を正し、そろそろと蓋に手をかけた。
 薄いたとう紙の包みを指でつまんで中の衣を目にした彼女が浮かべた、夢見る少女のかんばせ。

「どうしましょう」
「気に入ってもらえたか?」

 桐の箱からすくい上げられたのは、細かい刺繍の施された白い絹織のワンピースだ。反物を購入した際、一緒に頼んでいた彼女の為だけの特注の品である。
 宇髄があの店を薦めた理由の一つが洋裁も手掛けている点だった。

「煉瓦街で育ったんなら、ワンピースの一つ二つ持ってたんじゃねえか?」

 という彼の読みは当たっていたらしい。彼女が熱心に反物を見極める横で、俺も熱心に彼女に合うワンピースを探すのは骨が折れたが、人に贈り物を選ぶ楽しみを知るきっかけにもなった。
 普段の彼女の振る舞いを考え、もし慎み深く断られたらと危惧していたが杞憂に終わったようだ。自らの体に広がるワンピースを当て、その場で軽く回ってみせる。上質な絹が満開にそよいで彼女を華やかに飾った。

「幸せで息が止まりそうです」
「それは困る」
「でも本当に、胸がいっぱいで息を吸う隙間も無いんですもの!」
「それならば名前が幸せではち切れてしまう前に、着た姿を見せてくれ!」
「今ですか?」
「もちろん!」

 さあ着替えてくれと念を押して背を向ける。一瞬戸惑ったものの彼女も手にした絹の肌触りに夢中で、すぐに着物を脱ぐ衣擦れの音が聞こえてきた。片手で足りるとはいえ彼女と肌を重ねる夜を経ていても、背中のあたりがむずつく浮ついた気持ちになってしまう。
 一日千秋の思いで彼女の身支度を待ち、微かに揺れた空気と「杏寿郎様」と名を呼ぶ声にゆっくり振り返る。
 絹糸できめ細かく刺繍された生地が彼女の胸を覆い、細く長い手首までをしなやかに包んでいる。腰から下は折り重なる花弁のようにたっぷりとした生地が広がって、まるで一輪のすずらんだと思った。なによりも、幸せを全身で表すように笑うのが、愛しくてたまらなかった。
 くるり、くるり。
 二度回ってはにかむ。
 女性に美辞麗句を送った経験が無い俺の口からは、ああ、だの、うむ! だの、とにかく肯定する返事しか出でこないのが惜しい。女性を花に例えるのは、正しいのかそうでないのか。
 正解が分からないまま、ただ思うままに簡潔に。

「とても綺麗だ、よく似合う!」
「杏寿郎様が選んでくださったの?」
「遠い異国の地では花嫁が白い衣装を着るのだろう? 聞きかじった知識だが、祝言も挙げられていないせめてもの気持ちだ」

 もっと近くで見たいと側に寄って、髪をよけた額に口づける。

「心から、ありがとうございます。きっと世界で一番幸せな花嫁です」
「ならば俺は世界一幸せな花嫁を迎えることのできた、それ以上に幸せな夫だな!」

 どんぐりの背比べな幸福論で笑い合いながら、何度抱きしめても抱きしめ足りない体を両手にしまいこむ。
 ふと、玄関先での会話を思い出して抱えた白いすずらんと一緒にくるりと回る。勝手はよく分からないが、右手を腰に添えて左手で彼女の右手を……逆だったろうか? 左手を腰に回すのか?
 曖昧な挙動でいる俺の考えを汲み取った聡い彼女は、もうこれ以上ないぐらい目元をとろけさせて左手を俺の肩に乗せ、俺よりも流暢に右手を絡ませた。

「いのち短し、恋せよ、乙女」

 巷で聴くわかれのせつなさを歌う唄とは違い、耳なじみの薄い拍をとる歌を口ずさんで彼女が体を揺らす。俺も彼女に合わせて体を揺すり、時折回り、出鱈目な足つきで部屋の中を踊りまわった。
 耳を澄まし彼女の歌を拾うと、この唄も想い人同士の刹那の恋を謳う、哀調を帯びた抒情の歌だった。鬼と戦い、いつ果てるか分からぬ己と彼女のようだ。
 そんな歌に合わせて、満ち足りては溢れる幸福のままに踊る自分たちは、ひたむきに愛おしく、狂おしいほど切なかった。

「今日は、ふたたび、来ぬものを」

 歌い終えた唇を願いを込めてそっとふさぐ。

 願わくば、君と俺との明日が何度でも訪れるように。