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 初めて訪れた師範の家にいた綺麗な女性を妻だと紹介され、私は飛び上がって驚いた。まさか師範が結婚していたとは知らず大慌てで頭を下げる私を、その方は笑って許してくださった。
 通された居間の座布団の上で恐縮しきって正座をする。師範の奥様に淹れていただいた熱いお茶で、緊張でカラカラに渇いた喉を潤した。

「お待ちしておりました。稽古の後でお疲れでしょう、よろしければおやつにシベリアも用意していますからお召し上がりくださいね」
「シベリア!」
「煉瓦街に行ったのか?」
「はい、父の事で少し用事が御座いまして」

 シベリアといえばカステラに羊羹を挟んだ流行りの菓子で、稽古でくたくたに疲れた私のお腹は名前を聞いただけでくぅ、と情けない音を鳴らしてしまう。はしたない女だと思われたかしら?
 不安になって赤い顔を伏せた。師範は「うむ、腹が減るのは健康な証拠だ!」とかなんとか、褒めてもらってるんだけれど、とっても恥ずかしい。
 その後、師範は弟さんと話があると部屋を出てしまい、私は初対面の奥様と二人きりになってしまった。どうしましょう、どうしましょう。そう思いながらもお盆に載せられた三角形の菓子に目が行ってしまう自分がますます情けなかった。

「甘露寺様はシベリアはお好きでしたか?」
「はっはい! 甘いものはとっても好きです!」
「良かった。煉瓦街のミルクホウルで買ってきたもので、美味しいと評判なんです。さっそくいただきましょう」
「ありがとうございます!」

 行儀良くしなければいけないのに目の前に置かれたシベリアの虜になってしまった私は手掴みで一口、美味しくて二口、三口と止まらない。
 卵の風味が濃いカステラと羊羹の上品な甘さが口の中に広がって、それはもうとても幸せな気持ちになる。師範の厳しい稽古を頑張って良かった! あっという間に出された二つのシベリアをぺろりと平らげ、緑茶を一口飲んで頬を抑えた。

「美味しい、とっても美味しくて幸せ……」
「お口に合ったようで何よりです」
「あの、ミルクホウルにはよく行かれるんですか?」
「前は煉瓦街に住んでいましたので、学校帰りにたまに」
「まあ、素敵! それじゃあパフェーは?」
「残念ながら一度も食べた事がないんです。ああ、でも前に一度だけ友人が食べているのを一口もらって。林檎を甘く煮た…コンポウト? がのっていて、とても美味しくて」
「聞いただけでほっぺたが落ちちゃいそう! ねえ、ほかにはどんなお洋食があるの?」

 ライスカレーは美味しいけれど少し辛くて。わかる! ちょっと大人の味だわ。オムレツライスはまだ食べたことがなくて。ミートクロケットは? クリームソーダのしゅわしゅわってどういう仕組みなのかしら? お店の白いエプロンってすごく可愛い!
 気が付けば私は年齢が近いことも相まって、師範の奥様とすっかり打ち解け合ってしまい、敬語も忘れて素の自分でお話していた。
 話題は次第に自分たちの生い立ちや昔話に発展し、奥様は煉瓦街に住んでいた事、お父様とお二人で藤の家紋を掲げていた事、女学校で花嫁修業をしていた事、そして、鬼殺隊を尊敬している事を知った。

「甘露寺様はわたくしとお年も変わらないのに立派に鬼殺隊を務めていらっしゃって、尊敬します」
「そんな、私なんて力持ちなことぐらいしか取り柄がないの。それにこんな変な髪の色をしているし、生まれつきじゃないのよ?桜餅をたくさん食べたらこんな色に……」
「そうしたら、杏寿郎様はさつまいもを食べすぎて御髪が黄色いのかしら。炎の色にも見えますけれど、だんだん焼き芋のようにも思えてきます」
「ぶふっ!」
「まあ甘露寺様、杏寿郎様には秘密にしてくださいね」
「大丈夫、絶対に師範には言わないわ」

 二人でからからと笑い合っていると、まるで前からずっとお友達だったみたい。きっと一緒にお買い物をして、甘味を食べて、もっとたくさんお話ができたら楽しいんだろうな。

「甘露寺様はとても可愛らしい方です」
「きゃー! 可愛らしいなんてそんな、お世辞でも嬉しい!」
「お世辞ではありませんよ。けれど、だから不思議なんです。どうして甘露寺様は鬼殺隊に入られたのですか?」
「笑わないでね?」
「もちろんです」
「……あのね、添い遂げる殿方を見つけるために入ったの」
「………結婚する殿方を探しに?」
「ええ」

 奥様が目を真ん丸にして私を見ている。ああ、どうしよう、あんなに尊敬している鬼殺隊に私みたいな不純な動機で入隊した隊士が…しかも旦那さんの継子なんて! 笑われるどころか軽蔑されてしまう! せっかく素敵な方と仲良くなれたのに!

「甘露寺様」
「ごめんね、あの、私」
「素晴らしいわ、甘露寺様!」
「え?」
「女性がいつまでも殿方を待つなんて後進的な考えは古くさいわ! 女性も立派なひとりの『人間』として認められて然るべき、自分の伴侶を自分で選ぶのも当たり前の権利だもの。デモクラシーが叫ばれるこの時世、恋愛も結婚も自由でなければおかしい…ああ、甘露寺様、わたくし甘露寺様のような方に出会えて幸せだわ!」

 感極まった奥様が卓を乗り越えて私を抱きしめる。デモクラシーとか、女性の権利とか、難しいことはよく分からないけれど、奥様が私の生きる目標を認めて、応援してくれることはよく分かって熱いものが込み上げてくる。
 お見合いの男性にこっぴどく縁談を断られてから、私はとっても変な子で仲間外れにされるんじゃないかって、ずっと怖かった。周りの女の子たちは次々結婚が決まり、入隊してからは偏見の目で見られるのも少なくなかった。そんな私をこんな風に抱きしめてくれる人に出会えるなんて。舞い上がる気持ちで抱きつぶしてしまいそうになるのを抑え、ぎゅっと彼女を抱きしめ返す。

「ううっありがとう、大好きぃ……!」
「わたくしも。烏滸がましいですけど、甘露寺様が大好きです」
「烏滸がましくなんかないわ、とっても嬉しい!」
「よもや、少し目を離した間にそんな仲になっていようとは」

 お部屋に戻ってきた師範が呆れるぐらい仲睦まじく、私と奥様はずーっと手を繋いで止まらない会話に花を咲かせていたのだった。


甘露寺様がお帰りになってから、杏寿郎様はどこか機嫌が悪い。いつも通りに夕餉を召し上がり、いつも通りに湯浴みをされて、いつも通りに二人一緒に杏寿郎様の室で布団を敷いた。なにかお気に召さない事をしてしまったのかと、このまま一日を終わらせるのが不安になり杏寿郎様の逞しい背中に声をかける。

「あの、杏寿郎様」
「うん、どうかしたか?」
「わたくしの思い違いであれば申し訳ありませんが、その……なにか怒ってらっしゃいますか?」
「…………」

振り向いたままなにも言葉が返ってこないということは、是、ということだろうか。抱いていた不安に追い打ちをかけられ、必死に今日一日の記憶の紐を手繰る。もしかして申し付けも無いまま煉瓦街に向かった事を怒っているのかもしれない。

「申し訳ございません杏寿郎様、煉瓦街に行ったのは銀行に用向きがあったのです」
「銀行?」
「はい。僅かばかりですが煉瓦街の銀行には父の残した貯えが御座いまして、その受け取りの為の手続きを行いに」
「なにか金に困ることがあったのか」
「いいえ。父の残した財は必要分以外、産屋敷様のお許しの元、鬼殺隊と藤の屋敷の方々の資金に変えていただく予定です。煉瓦街の土地も引き払いました」

 もしもの事態に備えしたためられていた父の遺書と産屋敷様のおかげで、相続の手続きは滞りなく執行された。焼け残った家屋から必要な物だけを引き取り、かろうじて残っていた物は売れるだけ売った。信用できる筋の人間に頼んで土地の権利書も譲渡し、本当の意味で、わたくしは『煉獄家の者』となった。

「名実ともにわたくしの帰る場所はこの家のみです。杏寿郎様にお伺いも立てずにいた事、深くお詫び致します」
「君の行いは藤の屋敷の者として立派すぎるものだ、詫びはいらない」
「不肖ながら、わたくしが鬼殺隊の皆さんに出来る事をしただけです」
「君は立派な人間だ」
「違います、杏寿郎様。わたくしには杏寿郎様達のような尊い使命も、それに殉ずる覚悟もありません。わたくしはただいつも、自分がそう望むことを、しているだけなのです」

 わたくしは鬼を滅ぼす力も覚悟も、産屋敷様や煉獄様のような強い信念も持てない、弱い凡百の人間の一人にすぎない。生きるだけで手いっぱいの中で、せめて最善の行動が出来るようもがくだけの小娘だ。けれど、只人ならば只人なりに信ずるものがある。
 空に瞬く星屑の欠片でもいい、愛するあなたの支えになれればそれだけで。

「この雀の涙がいつか巡り巡って、杏寿郎様の進む道を照らす星屑になるのならば、本望です」
「君のような女性を妻に迎えた俺は果報者だな」
「もう怒ってはいませんか?」
「む? 俺ははじめから怒ってなどいない!」
「え?」
「いやなんだ、君が甘露寺と親しくしていたのが妬けたのだ。それに君があまりにも自由恋愛や結婚について熱弁するものだから、俺との結婚に不満があるのかと」
「杏寿郎様!」

 杏寿郎様のお言葉に我知らず大きな声で名前を呼ぶ。

「過ぎた物言いですが、わたくしは杏寿郎様が嫁にと仰ってくださったあの日に、自分の意思であなた様の妻であると選んだのです。わたくしが、杏寿郎様を愛したいと、思ったから」

 泣いたら杏寿郎様を困らせてしまうのに、胸の丈を告げようとすると涙が止まらなくなってしまう。
 悲しくはない。
 この涙はわたくしのせいで杏寿郎様に要らぬ心配をさせてしまった己の不甲斐無さからだ。

 確かに、わたくしは小さい頃から自由に恋をして、自由に人を愛し、わたくしの想う方と添い遂げたいと夢見ていた。だからこそ、今その夢はかなえられている。婚姻が親同士の口約束だとしても、わたくしが杏寿郎様と出会い、愛し愛されるようになったのは、まぎれもなくわたくしと杏寿郎様の心の下に成ったのだ。
 幼子のように泣きじゃくるわたくしを、杏寿郎様は真剣な眼差しで抱きしめてくれる。

「ごめんなさい、ご無礼を。でも、わたくし、愛しているんです」
「もう十分わかっている。悪いのは片生い嫉妬をした俺自身だ」

 わたくしが悪いのに優しい杏寿郎様は背を撫であやし、広い胸の中にわたくしをしまいこむ。

「俺は本当に、この世でいっとうの果報者だ」