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 煉獄の話を聞いても、やはり名前の内に眠る何かが目覚める兆しは無く、まるで一人の男の伝記を読み聞かせられている気分だった。
 そもそも自分の中にそういう「記憶」があるとも思えない。
 ただ、煉獄のひたむきさは十二分に彼女にも伝わり、煉獄杏寿郎という人物が大正時代にも存在し、彼はその生まれ変わりであるという点は曲がりなりにも本気だと分かった。だからこそ、名前はほとほと困り果てる。

「先生の言った事はなんとなく分かりました……なんとなく」
「難しい話になってしまってすまない」
「でも、先生を疑うわけじゃないんですけど……多分、私は先生の探している前世の奥さんじゃないと思います」

 名前は困った。
 そんなに深く愛し合っていた夫婦の片割れであれば生まれ変わっても煉獄を覚えているんじゃないか?

「先生が生まれ変わっても覚えているんですから、相手の人も先生を覚えているんじゃないですか」

 名前は不安になった。この世界のどこかには本当の煉獄の想い人がいて、その人は今も煉獄と巡り会うのを待っているんじゃないか?
 教師と生徒という関係は一旦置いておき、煉獄のこの愛情を向けられるべき人は自分じゃなくて、別にいるんじゃないか?
 誰かが手にするべき運命を自分が横取りしているんじゃないのか?

「世の中には似ている人が三人ぐらい居るって言いますし」

 前世という荒唐無稽な前提を受け入れてしまえば、名前には謎の自信がついていく。
 そうだ、煉獄先生の探す本当の奥さんはきっとどこかに居て、私じゃない。その人もきっと煉獄先生を探して、今も夫婦になりたいと願っているに違いない!早く先生の誤解を解かないと。

 打って変わって、煉獄は今にも叫び出しそうな激情を教師の立場で踏みとどめていた。
 彼女に似ている別の誰かなんて、今まで散々出会ってきた。
 容姿が似ている、声が似ている、人となりが似ている。けれど、誰もかれも違っていた。
 前世の記憶の有無など関係無く、俺には分かる。言葉で説明出来ない魂の奥底が、目の前の彼女こそあの日に失った彼女だと訴えている!
 だがそれを名前に無理強いする事は許されなかった。前世が何であれ、現在の煉獄は教師であり彼女は生徒である。それは決して軽々しく蔑ろにしていいものではない。
 そして、続く言葉が煉獄の心に氷柱を打ち込んだ。

「それに、先生は私を好きなんじゃなくって、奥さんの生まれ変わりの人が好きなんですよね」

 それは名前にとっては安心と身の保証を示すものであり、煉獄にとっては心臓に冷水を凍らせるものだった。


 煉獄先生が好きなのは私じゃなくて、前世の記憶のある生まれ変わった奥さん。なら、私は大丈夫。
 私は先生の求める人じゃないから、先生が私を好きなわけじゃないから、もうこの問題から解放されるんだ。
 だってここにいる私は、誰かの生まれ変わりなんかじゃない、ただ一人の私なんだから!


 俺はずっと彼女との再会を信じ、また愛し合えるのだと疑わずに生きていた。
 前世の記憶は俺と切っても切り離せない、今の俺が持つアイデンティティの一部と言ってもいいだろう。前世と現世は連続するものであり、その縦軸に一本、煉獄杏寿郎という男が存在している。
 だが目の前の彼女はどうだ。前世の交わりから断絶された彼女と俺との間には、もはや何の縁も結ばれていない。それでも、彼女を見ると俺の鼓動は喜びに踊りあの頃と変わらない愛情が血管を湧き立たせる。
 ……今はその感情が恐ろしい。
 俺はいったい「どの彼女」を愛しいと思っている?今はもう亡き妻か?妻の生まれ変わりの彼女か?それとも、彼女自身なのか?


 口の中がカラカラに渇き舌が上手く回らない煉獄の困惑を知らない名前は、一人で納得して握りしめていた両手の力を抜いた。この学校には前世を持つ人が居るようだけど、私には関係が無い、きっと人違いだから。

「もうこんな時間」

 煉獄が自身の感情の区別も付けられないまま時間だけが過ぎ、生徒指導室に下校のチャイムが鳴る。名前は話は終わったと鞄を肩に掛けて立ち上がった。なにか言わなければと唇を開き、しかしなにを言えばいいのか分からず煉獄はイスから立ち上がるだけで精いっぱいだった。

「先生、お話してくださってありがとうございます」
「いや、それは」
「先生の探してる人、早く見つかるように私も応援してます」

 それは君だと、一時間前の煉獄なら声に出していただろう。ただ、今の煉獄はなにも返すことが出来ず、茫然と生徒指導時から出て行く名前を見送るばかりだった。
 晴れやかな表情で帰っていく彼女の背が見えなくなり、ようやく言葉がこぼれる。

「俺は……いったい誰を愛しているんだ……?」

 パンドラの箱を開いたのは煉獄の方だった。




「煉獄さん、少しは眠らないと体に毒ですよ」
「分かってはいるんだがな、どうにも目を閉じても眠れんのだ」

 煉獄杏寿郎が妻に先立たれた。
 その事実はすぐ柱全員に伝えられた。
 簡易的な葬儀を済ませ、煉獄は喪に服す間もなく戦場へと戻ってきた。身内が亡くなったからといって鬼の数が減るわけでもなく、人を襲う頻度はむしろ増していくばかりである。鬼の頭目である鬼舞辻無惨の手がかりも掴めず、鬼殺隊は未だ目立った進展が出来ぬままだ。
 鬼の討伐中に怪我をしたという煉獄の腕に包帯を巻き、胡蝶しのぶは嘆息する。
奥方を亡くした直後でも、煉獄の強さは揺るがない。むしろその程度で挫けていては鬼殺隊の柱には到底成れないのだが、今はその強靭さが胡蝶には苦しかった。
 本来であればこの程度の傷は蝶屋敷に来るまでも無いが、煉獄の心中を慮る胡蝶が無理を言って屋敷に招いていた。奥方の亡くなる前に負った頭の怪我がようやく治った矢先の負傷。煉獄は悲しみを埋めるように根を詰めて鬼狩りに邁進している。

「姉の仇討ちを口にする私が言えたものではありませんけれど、自暴自棄にだけはならないでください。今煉獄さんが倒れれば、鬼殺隊自体が崩れかねません」
「……分かっている」

 鬼殺隊を支えているのは柱である。一般隊士の死亡率は年々上がっていき、後進の育成まで手が回りきらないこの状況で継子の居ない炎柱が倒れれば、大袈裟ではなく鬼殺隊の瓦解を招きかねない。
 もちろん煉獄もその一柱たる自覚を持ち日々行動しているのだが、名前の永遠の不在を感じないようにわざと困難を選んでいる、その自覚もあった。

 炎柱、煉獄杏寿郎は面倒見が良く裏表の無い性格から広く人望に厚い男である。その大きな声量に負けず劣らず懐も大きく深く、助けを求める多くの手を救い上げる実力も優しさも持ち合わせていた。煉獄の父母が惜しみない愛情を注ぎ、彼自身の本質を見事に育て上げた賜物である。
 強き者が弱き者を守る。
 母の言葉を体現してきた男が、一番に守ろうと誓った妻を己の手の届かぬ場所で失った絶望が如何ばかりか、筆舌に尽くしがたい。
 鬼に殺されたとあれば鬼を憎み、その鬼の頸を斬り落としただろう。病に侵され命を奪われたなら、自然の摂理だと受け入れたろう。だが、彼女は不運な事故に巻き込まれて死んだ。あまりにも唐突に、理不尽に、愛しい女の命は煉獄の手からあっさりとこぼれ落ちた。

「俺は夢を見るのが怖い」
「夢?」
「夢の中でもし彼女に会えたのなら、俺が目を覚ませば、二度彼女を失う」
「煉獄さん……」
「情けないが、二度目の喪失には耐えられそうにない」

 煉獄が素直に弱さを吐露したのを見て、胡蝶は二の句を継げなくなる。
 鬼殺隊に入れば、嫌でも多くの命を見送る側になる。
それは救えなかった誰かであり、元は人であった鬼そのものであり、時には肩を並べて鬼殺隊の仲間であった。同時に、いつかは自分自身が見送られる側になるのだという諦観を腹に据え、胡蝶達は戦っている。
 それは諦観でありながら、一種の希望でもあった。自分の命が潰えても、後を継ぐ者や愛する者が見送るのならば、未来に希望は残る。
 煉獄にとっては、名前こそ己を見送る人であった。

「……では、夢も見ないほど深く眠れるような薬を煎じます。それを床に就く前に湯で溶かして飲んでください」
「気を使わせてしまったな」
「皆さんの体調を管理するのも私の役目ですから」

 その晩、薬湯を飲んで眠りについた煉獄の夢枕に名前は姿を見せなかった。