END

 冨岡が二十四歳になった年の春、二人は連れ合いになった。
 籍は入れていない。子を成してから正式な婚姻を結ぶ家も多く、遅い入籍はこの時代ではあまり珍しくないことではある。しかし、二人に関しては夫婦の枠を通り越して家族になった、という表現がしっくりくるのだった。
 流行りの神前式も挙げず、かといって名前の姉のように華やかに着飾って家で式を挙げるでもない。
 冨岡義勇と苗字名前のまま、二人はほんのわずかに心の合間を近づけた。
 そういうあいまいな二人の関係を、彼らの背景を知る炭次郎たちは祝福した。

「お二人とも、もう少し近づいて」
「そうですよ義勇さん、もっと苗字さんのそばに!」

 写真機のわきに立つ炭次郎はわたわたと片腕を動かして冨岡に名前に近づくよう促した。そのまた隣に立つ栗花落カナヲはにこにこ愛らしい笑顔で二人を眺めていた。
 写真機の背後に立つスーツ姿の男は炭次郎に便乗し、レンズを覗きながら二人を上手く画角に収めようと左右の腕を真横に開いて、それを胸の中心にぐっと寄せている。
 記念に写真を撮ったらどうかと提案したのはカナヲだった。
 鬼を倒し、柱や隠、刀鍛冶の里の者たちみんなを集めて撮った集合写真を大切に持ち歩いていたカナヲは、炭次郎と一緒に冨岡に持ち掛けて写真家を屋敷に呼んだ。
 可憐な見た目に反して意志の強いカナヲの押しに冨岡はたじたじとなり、しかし、彼女の「苗字さんに形に残るものを贈ってあげてほしい」という言葉にはっとした。

 痣者は二十五を待たずに死ぬ。
 名前はそんなことない、あなたはもっと長く生きると冨岡を励ましたが、肉体の限界は冨岡自身がよく分かっていた。名残惜しいが、自分はあと一年もたないと。
 想いを巡らせながら屋敷の縁側に名前と並んで腰かけていた冨岡は言われた通りに尻を左にずらし、彼女との距離を縮める。炭次郎の懸命な動作が面白くて、名前も冨岡の肩にそっと頭を寄せた。
 肩に感じた軽い重みにおのずと冨岡の頬もゆるむ。
 おだやかな時間の流れが、写真機の中のフィルムに焼き付けられていった。
 せめてこの幸せな光景が、永遠に彼女の手元に残るように。
 それから少し経って、再び屋敷を訪ねた写真家から現像した写真を受け取った。

「俺はこんな顔で笑うのか」
「はい。ひかえめな笑顔で、とってもきれい」
「男にきれいと言ってどうする」
「本当のことですもの」

 桜吹雪が舞う一枚の写真を手にとって冨岡は怪訝な表情になる。通りの桜並木は花びらが散って葉桜になっていた。

「はじめておまえに贈り物をする」
「いいえ。いちばんはじめに、いちばん素晴らしいものを頂戴しました」

 この素晴らしい庭を、畑を、暮らしを、私にくださった。
 なんのことだかさっぱり分からない冨岡が首をかしげ、名前は小さく笑った。
 写真の中と同じように縁側に腰かけた名前は枇杷の薄い皮をナイフで剥いて、やわらかな実を冨岡に差し出す。冨岡はみずみずしい枇杷を見て、えさを待つひな鳥のように口を開けた。
 一度心をゆるした相手にはとことん甘える性質だと知った名前は、呆れもせずに白い歯の並ぶ口の中に切り分けた枇杷を運んでやる。舌の上にのせられた旬の果物は味が濃く、果汁が口の中にあふれ、美味かった。
 煉獄千寿郎から頂いたと、蝶屋敷からわざわざ神崎アオイが届けてくれた立派な枇杷を受け取りがてら女二人で話したのはつい昨日の出来事だ。最近の彼女はカナヲと一緒に竈門家へ足しげく通っているらしく、兄妹や伊之助、善逸の近況を、なかなか屋敷を空けられない名前にたくさん話して聞かせた。
 名前は膝に敷いた手ぬぐいに並んだ橙の実をとって、皮を剥き、自分の口に入れて、次はまた冨岡の口に運んだ。体の影に隠した彼の左手がじょじょに握力を失っていることに、名前は気が付いていた。

 最後の桜の花びらが地面に落ちた頃、冨岡はよく体調を崩すようになっていた。
 子どもたちへ稽古をつける立ち姿がよろめいたり、名前の見えないところで咳き込んだり。
 じわじわと死の指先が冨岡の輪郭を撫でてゆき、生きる力を奪う。
 アオイが屋敷に来たのもただ枇杷を持ってきたわけでなく、冨岡の様子をうかがいに来たのだ。アオイは医者ではないが、胡蝶しのぶの下で多くの患者を看てきた確かな目がある。そんな彼女が冨岡を一目見て口を噤んだ。そういうことだった。
 やわらかな実に歯をたてて名前は畑を眺めた。この屋敷に仕えて四年とすこし、自分が一からはじめた菜園は多種多様な葉をしげらせ、実をつけていた。
 つるむらさきは栄養価が高いと教えられ植えた。ご飯と一緒に炊いて食べやすいからと育てた枝豆も冨岡は気に入って食べてくれた。毎年植えずとも自然と生えてくるようになったシソも古くは漢方に使われていたと知った名前が、頻繁に食卓に並べた。
 どれも美味しい。そう褒める冨岡の食は日に日に細くなる。

 私が冨岡様に尽くせるものなんて、ほんとうに僅かしかない。

 名前は自分の無力さに打ちのめされた。そして沈み込んだ気持ち以上に己を奮い立たせ、すべてを出し尽くす気概で冨岡を支えた。

「名前」
「はい」
「もう一口」

 名前を見下ろすぐらい大きな体で、冨岡は小さな子のように果物をねだった。
 枇杷は風邪や咳に効くと言ったアオイを思い出し、名前は笑って彼の口に橙色を運んだ。気休めでもいいから、自然の恵みがこの人を癒してくれればと祈って。



 しかして、彼女の祈りはむくわれなかった。
 本格的な夏に入ってからというもの、冨岡は床に臥せる時間が長くなっていった。炭治郎たちや不死川、宇髄、村田が彼を心配して交互に屋敷にやって来た。その都度、冨岡は重たい体を持ち上げて彼らを出迎えたが、誰の目から見ても元水柱が日ごとに衰弱しているのは明らかだった。
 子どもたちへの稽古も中断せざるを得なかった。それでも子どもたちは慕う師の容態を気遣って、野菜や米を持っては屋敷を訪れてくれるのが、二人には嬉しかった。
 名前は必死に冨岡の回復を願ったが、ついに吐血した日には青ざめた顔で医者を呼びに走り、寝ずに彼の元についた。以降は薬を飲みながらだましだまし、日々を過ごしていった。

 そんな夏の日のこと。
 冨岡は体調が良いからと宇髄を呼んで詰将棋をさしていた。宇髄は冨岡の次の手を読み、同時に彼の体も気遣いながら一手をさす。
 ぱちん、ぱちん。盤上で駒が鳴る音が冨岡の心を安らげる。
 相手の出方を待つ間にうちわで顔をあおいでいた冨岡に、宇髄は顎に指をやって口を開いた。

「そういや例の件、お館様に頼んで順調に進んでるぜ」
「そうか」
「むこうの家も産屋敷の名前を聞いて了承したんだとよ。さすがお館様だ」
「すまない」
「んで、本人には言ったのかよ」
「……まだだ」
「ド派手に将棋さしてる場合じゃねえだろうが!」
「すべて済んでから伝える」
「んな悠長なこと言いやがって」

 今すぐ苗字に伝えろ! 宇髄の声にまざって、がしゃん! とガラスの割れる音がした。二人同時に将棋盤から視線を上げて音の出所へと急いだ。
 居間を飛び出し廊下を進むと角を曲がってすぐの場所に名前が倒れているのが見えた。

「名前!」

 叫んだ冨岡は飛び散ったガラスコップの欠片をはらってうずくまる名前へと駆け寄った。こぼれた水に着物が濡れるのもかまわずに冨岡は廊下に膝をつき、両手で口をおさえる名前を覗き込む。

「名前、どうした」
「申し訳ありません、少し吐き気がして……すぐにおさまりますから……」

 青白い顔で説得力のない言葉をつぶやく名前。気を張っていた無理がたたったのかと冨岡は背をさすり、彼女の重荷になっている自身をうらんだ。
 宇髄もしゃがみ込み女中の血色の悪い頬を見下ろした。しかし、次いで痛みに腹をおさえた彼女の状態から、三人の妻と暮らす宇髄は一つの可能性を察した。

「おまえさん、妊娠してるんじゃないか」
「え……?」
「腹に、こいつの赤ん坊が」

 予想だにしなかった宇髄の発言に、冨岡は目を丸くして名前の腹を見た。名前も両手の下にあるお腹を見つめ、まさか自分が、と言葉を失っている。

「とにかくこのままじゃ埒が明かねえ、医者呼ぶぞ医者!」
「ああ」
「冨岡は屋敷で苗字と待ってろ、俺が呼んでくる」

 まだ呆然とする冨岡に指示を出して宇髄は医者を呼びに屋敷を出た。
 沈黙を破り冨岡は左手で名前の肩を支える。ここ最近で一番の力強さがあった。

「歩けるか」
「はい……」
「寝室まで歩けそうか」
「はい……」

 なにを聞いてもはい、と力なく答える名前の体をゆっくりと起こし、冨岡は彼女を寝室まで連れて行った。冨岡と名前は今年の春から自室とは別の部屋で一緒に寝ていた。
 寝室に入り自分で布団を敷こうとする名前を止め、冨岡が片手で乱雑に布団を押し入れから引っ張り出して敷いた。名前はずっと唇を噛んでいる。

「名前」
「はい……」

 冨岡にうながされ名前は慎重に布団に横たわる。そういえば着物が濡れているから、布団も濡れてしまうと頭の隅で思った。お腹を守るみたいに体をくの字に曲げて、ぼんやりと部屋の壁を見つめて。

「冨岡様」
「なんだ」
「お腹に、赤ちゃんがいたら」

 ぶわり、名前の両目から大粒の涙があふれた。重力にひかれてぼた、ぼた、と布団にしみを作るしずくはとめどなく名前の内側からわきあがり、止めるすべが分からない。

「うれしいのに、こわいんです。冨岡様とのあいだに子を授かったなんて、幸せなのに……だって、あなたは」


 もうじき私から、私たちから、永遠にはなれていってしまうのに。


 名前は大人になってからはじめて、大きな声をあげて人前で泣きじゃくった。
 愛する人の子を宿した喜び。新たな命の芽吹きが自分の中にある感動。
 けれども父となる冨岡の命はすでに先が短く、我が子の顔を見られるかも危うい。
 嬉しいのに怖い。幸せなのに同時に絶望が押し寄せる。

「ひとりにしないで」

 とうとう名前の口から、ずっと心の奥深くに押しとどめていた本当の望みがあふれだした。

「あなたが死んでしまうなんてたえられない」

 こわかった。
 名前は冨岡の死がなによりもこわかった。
 冨岡のいない暮らしは、三年経った今も想像ができない。
 大切な人を喪う悲しみを知りたくない。
 覚悟をしていたつもりでも、その心の砦はあっけなく、脆く、崩れ去ってしまった。

 泣いて震える名前を上から覆うように抱きしめて、冨岡は鱗滝の言葉に思いをはせる。
 生きて別れるか、死んで別れるか。おまえがあの娘に強いるのだぞ。
 師はそう自分を戒めた。俺が名前に厳しい道を強いるのだと、その覚悟はあるのかと。
 ぐっと握ったこぶしを開き、名前の長い髪に指をとおして、落ち着かせるように梳いた。胸にすがって泣く頭ごと包みこんで、あの夜、名前が俺にしてくれたようにあやすように背をさする。

「すまない、名前」

 己の命を燃やして戦ったことに後悔はない。そうしなければ今も鬼が夜をさまよい人々の平穏を命ごと食らっている。それは自分には許しがたい蛮行だ。
 戦いの日々は悔やまない。けれども、彼女をおいていく未来を悔やんだ。
 左腕しかないから、名前の体を抱きしめると冨岡は彼女の涙をぬぐうことが出来ない。冨岡は名前の目元に唇を寄せて、やさしく、何度も口づけた。

「俺はおまえの前から去ってしまうが、子のほかにもうすこし、残していく」

 冨岡は宇髄と産屋敷に頼んでいた件をゆっくり名前に話して聞かせた。

「籍を入れよう。遅くなってしまったが、苗字の家のゆるしは得た。おまえを嫁にと認めてもらった。子どものことは、驚いたが、炭治郎や宇髄を頼れ。夫として妻をほかの男に任せるのは不甲斐ないが、ゆるせ」
「え……? 苗字の、ゆるし?」
「写真を撮ってすぐ苗字の家に文を出した。名前を俺の嫁にと願うものだ。お館様……産屋敷家に取り次いでもらい、入籍の許可がおりた。正式に夫婦になれば少ないが貯めていた給金も」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 冨岡がつらつらと語った内容に名前の涙が引っ込んだ。
 入籍する? 夫婦になる? 実家からはゆるしをもらった?
 聞き覚えのない将来の展望に名前は開いた口がふさがらない。
 それと場違いではあるが、一息でこんなに長く喋る冨岡を初めて見て驚いてもいた。

「結婚するのですか、私と、冨岡様が」
「そうだ」
「聞いておりません!」
「当たり前だ、今伝えた」

 別な意味で目眩がしそうだった。だが、口数が少なく誤解を招きやすい冨岡らしいとも思う。
 名前にとって結婚はうな垂れて父のあとを歩く母であり、窮屈で息苦しい暮らしの象徴だった。そんなものは自分の幸せの感情には入らないとずっと思っていた。だから冨岡と夜を共にした時も、連れ合いとなり写真を撮った時も、籍を入れて夫婦になってほしいと少しも思わなかった。
 冨岡とこの屋敷で暮らす。それが名前にとっての幸福。

「名前が結婚にこだわらないのは知っている。だが、籍を入れることで俺がおまえに残してやれるものが増える」

 それはたとえば、冨岡が鬼殺隊を務めあげて手にした財であり、この屋敷の権利であり、これからの名前の生活を助ける現実的な資産だった。
 名前はそれらをきちんと理解できる大人だと信じて、冨岡は彼女の未来を守るために奔走した。

「名前」

 涙のひいたまぶたにもう一度口づける。左手で名前の薄い腹を撫でて、冨岡はまだ見ぬ我が子に彼女の右隣を託した。

「結婚して、俺との子を生んでほしい」


 おそれが消え去ったわけではない。
 冨岡に先立たれる悲しみとおそれはずっと名前について回るものだ。しかし冨岡がこんなにも深く真っすぐに自分を想い、未来まで守ろうとしてくれていたことが、彼女は純粋に嬉しかった。
 冨岡は名前を苦しめ傷つけることも覚悟のうえで、死んで別れる道を選びなおした。
 人はいずれ死ぬ。だからこそ最期の瞬間まで、おそれから逃げ出さずに愛する人のそばにいたい。
 冨岡の望みに名前は泣きはらした瞳でうなずく。
 彼女もようやく覚悟を決めた。
 悲しみだけに目を向けて泣いて暮らすのではなく、最期まで愛する人に寄り添って生きることを。足るを知る暮らしからあふれた幸福を、落としてしまわないように。




 冨岡が名前に余命を告げてからおよそ二年とすこし。
 長い時間をかけて、冨岡と名前は二人の未来を受け入れた。



 その年の秋のはじめ。冨岡義勇が二十四歳の秋晴れの日。
 名前や炭治郎たちに見守られて冨岡は眠るように息を引き取った。
 赤子はまだ、名前の大きなお腹の中でねむっていた。




「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、冨岡さん」

 冨岡が亡くなった秋からちょうど季節が一巡した。
 汽車を一つ見送り、若竹模様の着物をきた名前が少し遅く帰ったのは蝶屋敷だった。

「遠くまでお薬を持って行ってもらってすみません」
「いいえ、ちょうどいい息抜きになりました。息子は起きていますか?」
「きよ達と奥の部屋にいますよ」
「いつも面倒をみていただいてありがとうございます」

 しのぶの跡を継いで蝶屋敷を切り盛りするアオイに名前は頭を下げる。
 名前は炭治郎とカナヲのすすめもあり蝶屋敷で働いていた。
 薬の材料である薬草を自宅の畑で栽培する他にも、病院食を作ったり、薬を届けたり、様々な仕事を手伝っている。畑仕事も料理も、女中としての経験が幸いしてアオイが「このままずっと屋敷にいてくれ」と言うほどだった。
 働きたいのはやまやまだが、冨岡が亡くなってすぐ、名前の出産が迫っていた。
 葬儀や諸々の手続きを終えてひと段落した時、急な陣痛に見舞われ名前は冨岡の屋敷で子どもを生んだ。その後も体調が安定するまではきよ、すみ、なほの三人が名前の屋敷を順に訪れ、いろいろと世話を焼いてくれた。
 苗字の実家、特に名前の母親は子どもを連れて戻ってきなさいと娘を慮ったが、名前はどうしてもこの屋敷に残りたいと申し出を断った。だが子を持つ親になったのを機に二人の関係は若干だが軟化し、名前は時折息子を連れて実家に顔を出すようにしていた。
 炭治郎や禰豆子も時間を作ってはかつての仲間たちを連れて名前の下にやって来て、家事や育児を手伝ってくれていた。冨岡に託された、というのはもちろん、誰もが名前や赤ん坊のことを本気で思いやり、慈しみ、助けてくれる。

 みんなの優しさに生かされて、名前は幸せな日々を送っていた。

「遅くなりました」
「あう、うー」
「おかえりなさい、冨岡さん」

 名前は病室とは反対側の部屋に入り、中にいた三人娘に頭を下げた。
 冨岡が亡くなって一年、名前は子育てに、家事に、仕事にと追われ悲しみにひたる間もなかったせいか、帰りの駅舎でつい感傷に浸ってしまい息子を待たせてしまった。
 顔を上げた名前がきよの腕の中の赤ん坊に近づくと、母親を見つけた喜びに赤ん坊がぱっと笑った。

「義楓」

 赤ん坊の名前を呼ぶ。冨岡と名前の二人の子ども、冨岡義楓は呼びかけに応えて両手を母親にのばした。名前も自分の両腕を差し出して義楓を抱き上げる。

「いつもありがとうございます。この子、泣いたりしませんでしたか」
「いえいえ、とっても静かにお母さんを待っていましたよ」
「私たちにも人懐っこく笑ってくれて、癒されます」
「まあ、そうでしたか」

 名前の腕の中で義楓がにこにこ笑う。顔立ちは冨岡によく似ていたが、笑った顔は名前にそっくりだとみんな口をそろえて言った。

「きよさんたちにはずっとお世話になっていますから、きっとお母さんやお姉さんのように思っているのね」
「そうでしょうか。そうだったらとっても嬉しいです!」

 名前の言葉にきよ、すみ、なほが義楓を見守ってやさしく笑う。
 よかったわね、義楓。あなたを大切に思ってくれる人がこんなにたくさんいるのよ。

「そうだ、さっきさつまいもを煮たのでぜひおうちに持ち帰ってください」
「いいんですか。じゃあ、お言葉に甘えて」

 ぱたぱたと台所に向かった三人の背を見届けて、名前はふくふくした赤ん坊の頬に頬を寄せる。

「さつまいもをいただいたら帰りましょうか、義楓」


 私たちの家に。



 その夜、義楓を寝かしつけた名前は冨岡の私室の整理をしていた。
 最初からものの少ない部屋のため手間はかからない。そう言い訳して夫の存在が色濃く残る部屋を片付けるのを躊躇い、後回しにして結局一年が経ってしまった。
 意を決して名前は帰らぬ主人を待つ部屋を開ける。
 明けない夜に苦しみもがいていた夜も、初めて体温を分かち合った夜も、いろんな思い出のつまった場所。
 駅舎での気持ちがよみがえりそうになり、名前は首を振ってさみしい気持ちを散らした。今はまだ早い。義楓がもう少し大きくなるまで、悲しみは我慢しなければ。
 気を紛らわそうとまずは文机を片付けようとして一番上の引き出しを開けた。
 炭治郎や鱗滝に文を書く際に使っていた硯や筆、文鎮などががらんとした隙間のところどころたたずんでいる。
 名前はその端に寄せるように置かれた一冊の文庫本を本棚に戻そうと持ち上げた。
 すると、ページの間からひらひらと一枚の写真が畳の上に落ちてきた。
 何かしら、と名前が視線を下げた先には、縁側に並んでほほ笑む二人の姿。

「義勇さんったら、こんなところにはさんでいらして」

 それは名前が駅のホームで眺めていたものと同じ写真だった。
 冨岡と名前、それぞれ一枚ずつ持っていた写真。
 名前は肌身はなさず持ち歩いていたが、冨岡の分はどこに保管していたのか分からず迷子になっていたのだ。
 名前は屈んでその写真を拾い、何気なく裏に返す。
 筆を愛用していた冨岡には珍しく写真の裏、右下に万年筆で一行なにか書かれていた。
 インクのかすれかかったその文字を読んだ名前の動きがぴたりと止まる。

「………さいごまで言ってくださらないと思ったら、こんなところに隠していたのね」

 伏せた瞳から熱い涙がこぼれる。
 悲しみではなく、切なさと愛おしさから流れる涙が名前の頬をつたう。

「私たち、言葉にしないまま長く寄り添ってきましたから、恋や愛もすべてひとつの大切な気持ちにかわっていったけれど」

 今もまだ短く切りそろえられた爪でそっと文字に触れ、指先で弱くその筆跡をなぞる。
 冨岡がよく見守っていた時のように背を丸めて、名前は写真を胸に抱いた。

「私も、義勇さんをあいしています」






名前、あいしている