6
最近、名前の様子がおかしい。
具体的に言うと、以前は仕事のない日にふらっと家を訪れてもため息一つで許して中に入れてくれていたのに、今は玄関で僕を入れるか逡巡するようになった。最後は家に上げてくれるけど、こちらを見上げる目が少し泳ぐのを見逃す僕ではない。
他にも、一緒に外を歩く時はなんだかよそよそしくする。僕が話しかけても上の空の返事をしたり、不自然なですます調で喋り出したり。どうかしたのかと聞いても「何でもない」の一点張りで、僕がそれ以上質問するのを拒んだ。
今日もひと月ぶりの休みがかぶって揃って出かけているのに、頼りない右手をお留守のままで先に進むから、隣の男をちゃんと意識しろと左腕を下げて小さな手を掴んだ。名前の指がもぞもぞ居心地悪そうに僕の手のひらをくすぐる。
背の高い悟さんと手をつなぐと肩がこる。前なら笑顔でそんな軽口を言い返してきた唇は、今日は開いただけで何も言葉を発さない。
これは会わない間に確実になにかあったな。
「なんか甘いもの食べたいなあ」
「具体的に言うと?」
「パフェ」
「女子高生みたいなんだから」
「現役の学生と関わってると心が若返るんだよ」
それは羨ましいな。そう言ってするりと逃げ出そうとした指先を僕は許さない。今度は手のひらの上、手首を掴まえて名前の行動を阻んだ。親指と人差し指を一周させても余裕のあるほっそい手首を痛くならない程度に締めたら、名前は目を大きく開いて僕を見上げる。かくれんぼして、鬼に見つかったみたいな顔だ。
「うーん、パフェの気分じゃなくなった」
「じゃあケーキにする?」
「いいねえ、ケーキにしよう」
おどけた雰囲気で彼女を煙に巻く。このまま手首を掴んでいると周りに面倒な誤解をされるから、指の腹で名前の手の甲をゆっくり撫ぜて互い違いに指を絡ませた。肌を滑り落ちる僕の指に震える肌が愛らしい。でも名前は顔を少し赤くした後に、またつれない表情で俯いた。
絶対に僕になにか隠している。そう確信して彼女の手を少し強めに引いて向かったのはケーキ屋でもカフェでもなく。
「悟さん、ここ」
「うん?」
「……ここ高いホテルだよ」
「でも美味しいケーキも食べられる」
「こんな格好で入れないよお」
僕の恋人は今日も最高に可愛いのになにを遠慮しているのか、急に縮こまって後ずさり始めた。もっと良い服着てる時じゃないとやだ、カジュアルなところでケーキを食べよう。などとだだをこねる名前を半分引っ張ってホテルに入り、フロントへ直行する。一歩ホテルに入ると名前は急に静かになった。
「どっか空いてる部屋ある」
「ジュニアスイートですと空きが御座います」
「んじゃそこでいいや」
「かしこまりました」
五条家でもよく利用しているおかげでスムーズに話が進む。すべてを承知したとばかりに頷いたフロントの男がベルマンを呼ぼうとしたので鍵だけでいいと断れば、優秀な男はなにも言わずにルームキーを差し出した。
名前を部屋まで気障っぽくエスコートする間、彼女はなにも喋らなかった。いや、唐突な展開や豪奢なホテルの内装に圧倒されて頭の処理が追い付かず呆然としていた、が正解。僕にとってみれば都合が良い。
「ひえ」
ぐんぐん昇っていくエレベーターの眺望に名前が小さな悲鳴をあげた。繋いだ手を揺すって怖いの? と茶化す。普段の調子を少し取り戻した彼女に睨まれて僕は笑った。
通された部屋に入る時も名前は感心するよりびくびくしていた。だんだん気の毒になってくる。
とりあえず窓際の椅子に座らせて僕も向かいに足を組んで座る。ようやく落ち着いてきた名前は握りこぶしを太ももの上にのせて、僕の顔を見ないまま緊張で震える唇を開いた。
「ケーキ食べるんじゃないの」
「食べるよ、名前が話してくれた後でね」
「話すことなんてない」
「名前」
かたく閉じた蕾のように僕を閉ざす彼女の名前を少し低めに呼んだ。このぐらいの声のトーンは生徒たちにもよく使うが、名前には効果てきめんだった。首を上げ向き合った顔の血の気の無さに良心の残りかすが痛む。加減はしたつもりだけど、一般人相手にはうまくいかない。
僕の挙動に明らかに怯える名前は開いた両手で口元を覆う。
「………分からない。自分の気持ちも、悟さんの気持ちも」
「それはどういう意味」
瞼を閉じた名前。僕は組んでいた足をほどき床につける。ガラス窓を透かす陽光が場違いに明るい。
名前の手が口から頬、そして目を辿り顔全体を僕から隠した。それはまるで僕という存在から隠れるようだった。今まで僕の前ですべてをあらわにしていた名前が初めて見せる拒絶の仕草に、脳が気持ち悪く揺れる。
だが表情は変えない。呼吸は正常。表情筋も思いのまま、凪いだ顔で彼女の言葉を待つ。
沈黙はそのまま名前の隠すものの比重だ。俺は躊躇いの長さを計り、彼女の心を量る。
「……………この前、悟さんを見た」
四分四十八秒。
絞り出す声の擦れ具合から見て、名前の体感時間はそれよりも長かったのだろう。依然手で顔を覆ったまま名前は降りはじめの雨のようにまだらに話し出した。
「日曜日、すごく綺麗な女の人と親しそうに歩いてた。それ見たらなんかもう、ダメになっちゃった」
降り出したらやむことなく雨量は増していく。名前の言葉もそうやってどんどん増えていく。俺は手放しでその雨に打たれた。
「私じゃ悟さんと並んでもあんな風にぴったりになれないとか。私って悟さんのこと全然知らないし、仕事とか私以外のプライベートとかも。そしたら急に悟さんの色んな事が分からなくなって、怖くなった」
「僕のなにが分からなくなったの」
「………言いたくない」
「どうして?」
「これ以上面倒な女って思われて、悟さんに嫌われたくない。悟さんに嫌われるのがこわい」
普段憎まれ口をたたいてけろっと笑うくせに、名前は僕がそんなことで自分を嫌うと思っている。
綺麗だ綺麗だと褒めそやす女はおそらく硝子だ。反転術式が必要になる案件が起こり珍しく硝子が高専を出て、その帰りに街中をぶらついたのを偶然名前に見られた。こんなところ。思い悩む原因が分かれば自ずと名前の抱いた不安は想像がつく。
おおかた、硝子と浮気したとかそう勘ぐった自分が嫌になったとか、そんなところだろう。硝子と僕が浮気……。硝子本人がこの話を聞いてたらゲロ吐く真似して暫く口を利かなくなる、絶対に。
とにかく、そうして不安を大きくした名前は僕や僕の気持ちが分からなくなったわけだ。
その不安は僕が自分の詳細を彼女に明かさなかったせいでもある。呪いのことも家のことも適当にはぐらかしてきたから、名前の中でいろいろな憶測が飛び交い、一人歩きした五条悟が生まれた。
「あーあ、ショックだなあ。名前は僕が簡単に君を嫌うと思ってるわけだ」
「でも、だって」
「分からない、こわい、言いたくないの名前に僕が特別にイイコト教えてあげる」
僕は立ち上がりローテーブルを回って座る名前の側に跪いた。
表情を隠す名前の手にそっと触れてやさしく剥がす。彼女は抗わず、泣きそうだけど泣いてない、くしゃくしゃの顔で僕を見た。
君が僕から隠れたがったのは拒む為じゃなくて、僕が好きで好きで、嫌われたくないからだって分かったから。特別に、本当のことを一つだけ教えてあげよう。
「僕もさっき、名前と同じぐらい怖かった」
「どうして?」
今日の名前は質問ばっかり。でもそれも僕の目にはかわいく、いたいけに映る。
色々考えすぎちゃってまともに眠れなかったのかな。うっすら浮かぶ目の下のくまを親指でなぞった。手のひらに触れるやわらかな頬が愛おしい。
「名前が自分の気持ちが分からないって言った時、俺のこと好きじゃなくなったのかと思ったから」
俺も名前と同じぐらい……いや、名前が思う以上に君に嫌われるのが怖い。だっさいけど、本当の気持ちだ。
「悟さんも私に嫌われたくない?」
「もちろん」
「悟さん」
「なーに?」
「わたしって悟さんの本命?」
「この期に及んでなにを言い出すのかと思えば……。当たり前だろー、がっ!」
「わあっ」
わきの下に手を入れて名前の体を抱き上げ、背中からベッドにダイブする。僕の上で小さくなる体を全身で包んで、赤くそまる耳元にささやいた。
「俺を不安にさせたり、こーんな風に乗っかったりできるのは世界中どこ探したって、名前しかいないよ」