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 今日は12月24日。クリスマスイブに浮かれた街を通り抜ける仕事終わりの私。
 前方には疲れを癒してくれる彼氏ではなく、うっすらと雪の積もったコンクリートの道が伸びていた。
 イルミネーションひとつない自宅に続く薄暗い夜道。あいにく傘を忘れた私の頭上に積もっていくしけった雪の重みが鬱陶しい。

 寝過ごすことを許されていたはずの土曜日の朝。不測の事態だからと上司からの電話で叩き起こされ泣く泣く出社し、自分史上最悪なクリスマスイブを迎えた。食事もそこそこに各方面に電話をして、パソコンのキーボードを無心に叩き、なんとか今日中に緊急事態を乗り切って帰りの電車から降りたら、とっくに夜の九時を回っていた。

 つかれた。もう、とにかく、バカみたいにつかれた。

 どうせ、恋人の悟さんは仕事だからと二人で祝うつもりもなかったクリスマスイブだけど、まさかこんな重労働を課せられるなんて夢にも思わず。フライドチキンやショートケーキでささやかなクリスマス気分を味わおうとしていたのに、指一本動かすのも億劫な体じゃ家に真っすぐ帰る以外の選択肢は選べない。
 冷蔵庫になにか入ってたかな。昨日のコンソメスープが鍋ごと入っていたかもしれない。それを温めて食べたら、もう今日は寝てしまおう。
 寝る前に、顔が見れないならせめて悟さんの声だけでも聞きたかったけど、今の自分から絞り出されるゾンビみたいな声なんて絶対に聞かれたくないから、電話はかけられない。

「はあ……」

 疲労の蓄積したため息は冷たい空気にあてられて白くにごった。

 悟さんに会いたい。会いたいけれど、こんな自分は見られたくない。

 2つ年上の彼は子どもっぽいきらいがあるけれど、いつだって私を抱きしめてくれる大きな体と心は、年上の男性の包容力を感じて魅力にあふれている。
 長い5本の指を広げると私の背なかを半分覆ってしまう、あのごつごつした、けれど繊細な手つきで抱き寄せられた時の幸せは思い出すだけで頬が熱くなった。

 お疲れ様、よく頑張ったね。

 そういうありきたりな言葉で慰めて、抱きしめてほしいな。

「悟さん……」
「はーい、呼んだ?」

 私の今にも死にそうな声に、遠くの方から返事がとんできた。
 疲労のせいで自然と前のめりになっていた頭を気合で持ち上げたら、思ったよりも近くに焦がれていた悟さんが立っていた。

 黒いコートに黒いパンツ、黒い目隠しまでして、両手をポケットに突っ込む装いは不審者然としているのに、私には容赦なくふきつける雪が、何故か悟さんを避けてはらはらと地面に流れ落ちる様子が、彼の周りだけ時が止まっているようで綺麗だった。

「休日出勤お疲れサマンサ〜」

 疲れた脳みそが自分に見せる都合のいい幻覚かと思った五条悟さんは、神秘的な雰囲気をドブに捨てる勢いの常の調子で喋りだし、これは現実なのだと分かった。

 口を開くと中身の残念さがバレるから、お口はチャックの方が良いですよ。

 いつもならぽんと出てくるそんな軽口を叩く元気も、今日の私には残っていない。

「悟さん」

 聞かれたくなかったはずの声で名前を呼んだ。
 あまりにも弱々しいボリュームの音は、悟さんの耳に届く前に雪に吸い込まれて消えてしまいそう。

「うん、きみの悟さんだよ」

 にもかかわらず、悟さんは私の声を聞きもらさずそっと拾い上げて、瞬間、私の目の前にやって来た。
 一般人には到底理解が及ばないふしぎな力を持っている悟さん。
 そういう彼が、名前を呼んだだけで私のありきたりな望みをくみ取ってくれる。

「よく頑張ったね、えらいえらい」

 大きくて温かい骨ばった二つの手が私の背に回されて、優しく胸に抱き寄せられた。

 えらいね、がんばったね。

 小さな子どもを褒める単純な言葉も、悟さんの低くつややかな声で紡がれると、特別な言葉のように聞こえた。

「せっかくのクリスマスイブなのに、ご褒美のプレゼントがなかったらつまらないもんね」

 そう言って私の頭のてっぺんを慈しみをまじえて撫でる悟さんの目元が和らいだのは、目隠しされていても、ちゃんと分かった。