悪あがき

「名前」

 後ろから時透に名前を呼ばれ、何か恨み言めいた湿っぽい言葉を投げられている。
 無視して歩き続けると「止まれ」「ばか」「聞こえないふりするな」というガキくさい罵りの後、急に間近に気配を感じて背筋が凍った。

「ねえってば」
「………なに」
「なんで僕のこと避けるわけ」
「別に、避けてない」

 嘘も甚だしい態度に背後の時透が苛立ちの空気を放ち、私の肩に手を置いた。
 もうこんなに近くに寄られていたなんて。
 気づかないうちに完全に間合いを詰められていた己の迂闊さに焦燥が込み上げ、これ以上会話をする意思は無いと振り向かずに足を踏み出した。

「どうしてそんな簡単に僕のこと諦めるの」
「どうしてって…」
「君にとって僕ってその程度だったってこと?あんなに僕の隣をうろうろしてたのに」

 私の肩を掴む時透の力強さが恐ろしい。可愛い成をしていたとして、時透無一郎は立派な男であり柱の名を冠する剣士なのだ。
 私よりも数段格上の、雲の上の存在。

「…勝手なこと言わないで」

 強引に肩を引いて振り向き対面した時透の目は澄んでいる。初対面の時からつい十日前に刀鍛冶の里へと別れる日まで、時透の目は霞んでいた。

 私はあなたが好きだった。
 合理的で現実主義のあなたは、私の火傷で爛れた頬だとか、そのせいで引き攣り歪んだ目だとか、そういうものよりも純粋な実力だけを見てくれた。
 私は何よりも、かつての濁ったあなたの両目が好きだった。目の前のものを見ているようで見ていないその目の前では、私は安心してこの醜い顔を曝け出せた。
 今はもう、その透き通るびいどろに見つめられるのは、ひたすらに怖い。

「私がどれだけ側にいても、あなたの目は開かなかったのに」

 時透の眠たげな瞼がぐんと持ち上がり、まん丸の瞳孔が私の滲んだ瞳を反射する。

「今さら諦めたんじゃない、ずっと諦めてた。私じゃ時透の閉じた心をどうにも出来ないって分かってたから、あなたの閉じた両目を好きでいたの」

 涙が頬の火傷を伝うと、化膿した皮膚につんとしみた気がした。もう傷口なんてとっくに塞がっているのに。

「時透の運命の人は私じゃない」

 時透よりもずっと子どもっぽい理屈で、私は彼を突っぱねた。
 刀鍛冶の里で、きっと時透は運命の人に出会ったのだ。彼の閉じた心の奥、霞で封じた記憶を晴らす太陽のような人に。ずっと近くにいたのに何も出来なかった私とは違う、本当の強さと優しさを持った人に。
 私と一緒にいても時透はなにも変わらなかったし、きっと今後どれだけ側にいようと彼にとって私は「いてもいなくてもいい誰か」にしかなれない。それがはっきりと分かってしまったから、私はもう嫉妬心に苛まれて耐えられなかった。

「なにそれ」

 時透の顔にはまった二つの透き通るびいどろに跳ね返った、心まで醜い濁った私の顔。
 彼は心底度し難い、そういう感情を面に映して開かれた目でこちらを見止めた。

「いいよ。君が運命のひとじゃなくたって、どうだっていい。僕は自分の運を天に任せたりしない」

 心臓が痛い。
 私には到底、一生持てやしない強さを当然の如く持て余す時透が怖い。
 その強さを露わに時透は赤子の手をひねる容易さで、私の葛藤も嫉妬も憧れも愛情も、全部その小さな腕で覆い隠した。

「君が僕を諦めたって無駄、だって僕が君を諦めないもの」

 どうして今になってそんなこと言うんだ、ばか。もうとっくに諦めていたと思ってたのに、かさぶたを剥がすみたい痛くする。

「好きだよ」

 どうして初めて見る表情でそんなこと言うんだ、ばか。