さようならの浜辺

「死ぬのが怖けりゃ引っ込んでろ!」

背後からそんな怒りの声が聞こえた。
その後すぐにゴツ、と硬いものと硬いものがぶつかり合う音がして振り返る。
鉄の臭いが鼻をついた。
冬の夜はひどく寒く、ついさっき私に怒号を浴びせていた同輩の切り離された胴体から、血しぶきと一緒にほのかに湯気がのぼっていた。
生きていた人間のぬくもりが紅白の色彩をまき散らし、冷えた空に消えていく。
私は両手で握った刀を同輩「だったもの」越しにずぶりと鬼の喉に突き刺して横に引き、その頸を力づくで削いだ。
傾いだ頭が地面に落ちて鬼はすぐに塵になって消えていった。

「はあ、はあ」

息切れがする。
吐いた白い息はしめっていて温かい。

「無事か!」

鬼の消えた向こう側から炎を象ったような髪の男が隠を引き連れて走ってくる。特徴的な白い羽織と渦を巻く両目。鬼殺隊を支える九柱が一つ「炎柱」。名を煉獄杏寿郎。

「煉獄」

平隊士の私が許されない呼び名も煉獄は許した。
私と彼は生き残った二人きりの同期だったから。

「…煉獄は死ぬのがこわい?」

夜通し戦い抜いた疲労と寒さで限界を迎えた肉体から力が抜け、ついでに吐息の代わりにそんな疑問が口からこぼれ落ちる。
煉獄にその疑問が届いたのか分からないまま、私の意識は瞼と一緒にすとんと落ちた。


次に瞼を開いた時に目に映ったのは蝶屋敷の天井だった。
上体を持ち上げようと清潔なシーツの上に両手を突っ張るも、うまく動かずに肘が折れて再びやわらかな布団に沈んだ。
どれだけ弱ったのか確認したくて、両手を目の前に掲げて五指の開閉を繰り返す。左右どちらも不足なく動いた。次はぎゅっと空の拳を握る。まだ少し弱い。これだと刀が握れない。
困った、鬼殺隊の給金は歩合制なのに。家族への仕送りが滞ってしまう。

「目を覚ましたか、名前!」
「れん……炎柱様」
「煉獄でいい、胡蝶も今は別の隊士の診察でここにはいないからな」
「そう、ならいいけど」
「体調はどうだ?」
「胴体に四本の手足と頭がついてる。好調だよ」
「そうか!」

私の眠るベッドの脇まで大股に歩いてきた煉獄は側に置かれた椅子を手繰り寄せて座る。その手に握られた盆の上、二つの湯飲みから白い湯気がゆらめいて吐き気が込み上げた。死んだ隊士のひどい有様が思い浮かびせり上がる胃液に焼かれた喉がひりひり痛い。

「お、ぇ…」
「大丈夫じゃないじゃないか!」
「ごめん、それ…湯気…」
「ああ、これか。すまなかった」

煉獄はなにと言わなくても私の心境を察し見えない位置に盆を隠してくれる。
鬼に食い殺される人間を何年も見続けてきた。それでもあの惨い死に際を見慣れることはない。逆に年々恐ろしくなり、今のようにふとした瞬間に思い出しては体を震わせていた。
次の夜は私の番かもしれない。
次の朝日を見られないのは私かもしれない。

「そろそろ潮時ではないか」
「なにが」
「ここを辞めて故郷に帰れ」
「帰れないよ」

煉獄の言葉に間髪入れずに答える。
私の故郷は海に面した小さな村だ。交易の為の大きな港もなく、自分たちが生きる為だけに荒海に船を出して命からがら魚を獲る。そんな寒村の中でも我が家はいっとうひもじかった。働き手の父が病で臥せってしまい稼ぎの頼みとして矛先が向いたのは長女の私だった。

「まだ働ける」
「名前」
「私は死ぬのが怖い」
「ならば尚更」

煉獄は高貴な出自故に己の魂を燃やして鬼を斬る。自分の命より優先すべきものを見極めている。
何よりも死を恐れる私にそれが理解できないように、煉獄はきっと私の考えは分からない。
以前、私は煉獄に鬼殺隊は自分の天職だと話した。学歴も生まれも不問、鬼の頸さえ斬れればお金が貰える。こんなに素晴らしい仕事はない、と。
その時の煉獄の顔といったら面白かった。鳩が豆鉄砲を食ったような、生まれて初めて砂糖菓子を食べた子どものような。そんな考えを持つ人間がこの世にいたことに初めて気づかされた、そんな顔をしていた。
煉獄はたいそう驚いたが私の発言を諫めたり否定したりは決してしなかった。私は煉獄のそういう清廉さが結構好きだった。

「この仕事を失えばどのみち私も家族も飢えて死ぬしかない」

鬼殺隊の職務を「仕事」と呼ぶ人間は少ない。私は数少ないうちの一人だ。
ろくに字の読み書きも出来ない、学も教養もない私がまともな職に着けるはずがない。身を売ろうとも考えたが、貧相な体とたいして良くないこの見た目では二束三文で叩き売られるのがおちだ。それじゃあ家族を長く養ってはいけない。
そんな時に耳にしたのが鬼を殺して給金を得るこの「仕事」だった。呼吸という技法を会得すれば男女問わず入隊可能な命がけの仕事。私はすぐさま飛びついた。

「隊士として進むも地獄、実家に戻って職無しに戻るのも地獄」

乾いた唇からカラカラの笑い声がもれる。
そんな私を見下ろす煉獄の渦潮のような両目が、今は凪いでいた。彼はたまにこんな目で私を見て口を開き、そのままなにも喋らずに閉じる。
だが今日はいつもと違った。煉獄はあわれみに通じた目で私を真っすぐ見つめて、はっきりと言葉を発したのだ。

「俺も死ぬのは怖い」
「柱でもそう思うの?」
「柱だってひとりの人間だ」
「へえ」
「だが俺は自分が死ぬよりも、きみが死ぬのが恐ろしいのだ」

炎の呼吸を使うわりに冷えた彼の指先が私の青白い首筋をなぞる。
生まれて初めて自分の命を優先された私は息をのんだ。しかも、鬼狩りに名高い煉獄家の長男が自分の命よりも私の命を惜しいと言ったのだ。
背筋がすーっと冷えていく。愛の告白にもとれる言葉には決定的な決別の響きと覚悟があった。

「家とお金のことなら心配しなくていい、俺がなんとかする。きみの除籍についてもどうとでもなるさ」
「煉獄」
「鬼殺隊を辞めて鬼とは無縁の場所で平穏に暮らしてくれ、名前」

帰れというのか、あの家に。隙間風と共に波の音まで吹き込んでくるあの場所に。
たった二人の同期なのに。こんな呆気なく別れてしまうのか。

「きみが生きてさえくれれば、俺はそれだけでいい」

私はなにも良くないよ。という言葉は、生まれ故郷の浜辺で聞いた潮騒のような自分の耳鳴りにかき消されて音にならなかった。
煉獄の背に隠された湯飲みは、きっともう湯気はのぼっていないだろう。


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