やわらかな海に溺れゆく



 カーテンの隙間から柔らかな陽が差し、まだ薄暗い室内へと侵食している。私にしては珍しく、目覚まし時計が鳴り響くよりも先に目が覚めていた。――いや、目が覚めているというのには語弊がある。起きてはいるけれど瞼は重力に負けそうだし、毛布にくるまってぬくぬくとしていると言う方が正しいだろう。そしてまだ夢と現を行き来するような意識の中、こっそりと彼の横顔を緩む頬を隠しながら眺めていた。

「ねえ、いい加減起きなよ」
「あら、やっぱりバレてましたか」

 あと少しだけこの温もりに浸っていたい、そんな甘っちょろい考えは見透かされていたようで鋭い指摘がすぐに飛んできた。部屋にある簡易デスクに向かい万年筆をなめらかに動かす姿は、いつも通り真っ直ぐな背筋で美しい。しかしながら、いつもと違うこともある。少し跳ねた後ろ髪、眠たげに細められる瞳、そして、少し乱れたままの着流し。デスクライトの小さな光に照らされたその姿は、まだ彼も起きたばかりだという証拠だった。

「おはようございます、雲雀さん」
「へえ、今日は悪あがきしなくていいんだ」
「う、……そ、そんなに毎回あがいてないですよ」

 あ、今少しだけ笑った。わずかに上がった口角が見えて、つられて私もふにゃりと笑みが深まる。実は私の眠りに対する執着は結構強くて、今日はいつもよりずっとスムーズに起きられた。普段だったらあと二〇分は何かと理由をつけてぐだぐだと寝転がっているはず。今日の目覚めに理由なんて特にないけれど、雲雀さんが珍しそうな表情を浮かべる程度にはレアケースだ。
 そんな朝だからか、はたまた寝起きのまだ覚醒しきっていない頭だからか、いつもの私だったら思いつかない悪戯な考えがふと頭をよぎった。――雲雀さんって、急に私からキスをしたらどんな顔をしてくれるんだろう。未だに自分から距離を詰めることが苦手な私にとって、普段の私だったらきっとできないことだ。けれど、今日はいつもより少しだけ背伸びをしたくなって、頭まで毛布を被ったまま隙間からそろりと手を伸ばす。

「雲雀さん、こっち見て」

 気だるげに振り向いた端正な顔立ちに向けて、そっと触れるだけのキスを落とす。やっぱりちょっと恥ずかしいから、唇ではなく額に向けて。静かな朝に小さく鳴ったリップ音と、わずかな衣擦れだけが耳に響いてじわりと頬が染まっていく。すぐに気恥ずかしくなってしまい、はやる心臓を抑えながら勢いよく目を逸らしてその場から逃げるように廊下へつながる扉へと駆け出した。
 ――はずだったのだけれど。あの雲雀さんが、そんなことを許してくれるはずもはなかった。線の細い見た目からは想像できない強さでグッと引き寄せられると、その距離は再びゼロになる。がっしりと捕まえられたことで身動きも取れず、無言のままの背後が恐ろしくて振り返れない。

「え、っと、ひ、雲雀さ、……ッ」

 するり、骨張った指が太腿から腰へとゆっくりなぞる。ゆるゆると私の劣情を揺さぶるかのような、彼の熱がじわりと伝わってくるかのような動きがもどかしい。嫌でもその先≠ェ想像できて、やわい皮膚へと沈む指にびくりと肩が揺れた。背後から「……ねえ、どこへ行くの」なんて吐息混じりに問われたらもう、逃げられない。

「や、ひ、ひばりさん、」
「名前から誘うなんて、明日は雪が降るかもしれないね」
「さ、誘ってないですからぁ!」
「そう、なら勝手にそう思っておくよ」

 ゆっくりと焦らすように触れていく動きに、次第に脳は茹っていく。私はそんなつもりはなくて、ただ戯れにキスがしたかっただけなのに。そんな単純すぎる理由、基、言い訳は言葉にする前に唇へと飲み込まれた。きっと私は、こうなることを心のどこかで期待していたのだろう。
 最後に残ったわずかな理性で「やっぱり、こんな明朝からは……!」と小さく抗議をしてみたものの、勿論聞き入れてもらえるはずはない。手を引かれるがまま、再びシーツの波へと沈んでいった。

20221028
ワードパレットよりお題をお借りしました


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